東武8000系の歴史




第1章 戦後から復興する東武鉄道
※東武の歴史ですね…(8000系情報は無し)


 まず本題に入る前に、東武8000系の歴史を語る上でどの時代から語ろうか悩んだ所ですが、ここは区切りが良いって事で第二次世界大戦後、通称戦後の時代を皮切りに紹介する事とします。戦後と言っても1945年8月に終戦し、8000系が登場するまで20年近くの歳月があります。ですのでいきなり1963年10月に8000系が登場しましたー。では逆に説明がしずらい所もありますし、戦後の復興を目指す東京の大手私鉄・東武鉄道の復興の歩み等も一緒に紹介出来たらなと思います。

では、早速本題へ。(文章ばっかりなのでご注意下さい^^;)


1.第二次世界大戦(太平洋戦争)終結

 1945年(昭和20年)8月15日。全世界で6000万人もの人名が失われたと言われる第二次世界対戦が終戦を迎えました。この8月15日というのはあくまで昭和天皇が終戦を国民に向けてラジオ放送した日であり実際にはその後も戦地では戦いが続いてはいましたが終戦記念日はこの8月15日と言われています。現代では100人が亡くなっても世界的なニュースになるだから桁が違い過ぎますね。本当に地球でそんな事が起きたのだろうかと疑いたくなる程の事でしたが、その悪夢の世界大戦が終了し、現在に至るまで本当の意味での平和が訪れた日本でした。しかし一夜にして10万人の命が失われた東京大空襲等を経て、関東の鉄道会社は軒並み壊滅的な被害を受けていました。

 東武鉄道も当然の様に壊滅的な被害を受け、東京スカイツリーの最寄駅として今注目を浴びている業平橋駅(2012年:とうきょうスカイツリー駅に改名)とその構内(浅草工場)も空襲によって大半が焼失し、蒸気機関車や電動車、貨車等大多数の車両が全半焼する被害を受け、その他にも伊勢崎線太田や東上線等の主要施設も被害を受けたと言われます。

 東武鉄道100年史によれば終戦後の昭和21年3月の時点では、保有車両は蒸気機関車が59両、電機機関車は4両(現在東武博物館で保存されているED101と総武鉄道(現・野田線)から引き継いだ電機3両)と客車が8両(最盛期は134両もの客車がいたが、大半が電車の付随車として改造されています)、貨車は1597両いました。そして電車は229両であったが、その半数が使用に耐えれないという悲惨な状況だったようです。

 当時はまだ蒸気機関車が残っていた東武鉄道ではありますが、大半は貨物列車牽引用として使われ、少数だけ存在した電機機関車も当然貨車牽引がメインであり、それ以外の旅客輸送については電車が主流でありました。


2.戦前から活躍する東武電車

 さてここで当時のすなわち戦前から活躍する東武電車にスポットをあててみますが、東武鉄道最初の電車は大正13年に浅草(現・業平橋)〜西新井までが初めて電化された際に誕生したダブルルーフのロングシート木造車のデハ1形の8両に始まります。
 この8両のうちデハ5においては他の7両が廃車されたり地方鉄道へ譲渡された中、唯一営業線引退後も西新井工場の入れ替え車として使われる等幸運な人生を送った後に原型に復元された上で東武動物公園に保存され、その後は現在に至るまで東武博物館にて保存・展示されています。一番初期の電車が美しい姿で保存されており、その後の引退車両とは違った意味で優遇されている印象を受けます。
東武鉄道最初の電車、デハ1形デハ5東武鉄道最初の電車、デハ1形デハ5 車内
↑これが東武初の電車・デハ1形デハ5号の外観と内装です。東武博物館で来館者を出迎えてくれます。

 この浅草(現・業平橋)〜西新井の電車運転を開始した後も積極的に電化工事を進め、わずか5年余りで東武本線、東上線など主要路線全線の電化を達成する事となりますが、これと平行して電車の増備も急ピッチで進められました。
 翌14年に製造された8両(デハ2形に分類される9〜10号と初の制御車となるクハ1〜6:通称クハ1形)からは車体がデハ1形の木造・ダブルルーフを改め、半鋼製車輌、シングルルーフ屋根となりました。当時の東武鉄道は基本的に車種ごとに製造ごとに連番で番号を振っていき、仕様が変わると形式を変更したそうです。
 例えばデハ8号車はデハ1形なのですが、デハ9号車はデハ2形という分類となり後々更に細分化されてもそのままのやり方を貫いた為に、余計に分かりにくくなる要因となります。
 このクハ1形の6両は先に登場したデハ1形と共に初めての2両編成となるMc+Tc編成が組まれ活躍しました。
 なおこの大正14年グループの中に近年まで姿を見る事が出来たモニ1471号も含まれていたりします。
 そして大正15年になると、10両が製造され半鋼製車のデハ8両(デハ3形・デハ11〜16、19・20)に加え、当時だと非常に珍しい存在だった全鋼製車であるクハ7・8(クハ2形)が製造されました。
 なおこのデハ3形とクハ2形は当初電化工事進行中に伴い客車ホハ11・12形として竣工し、電化が進んだ所で予定通り電車として改造した車両です(電車化改造は昭和2年になります)。この大正15年製の車両達からは主電動機の出力強化が行われ、更に制御器にはデッカー方式の電動カム軸式が採用され、正面窓はデハ1形の5枚窓から3枚窓に貫通扉が設けられました。

 なお当時の車号表記については、当初平仮名が用いられていましたが、大正4年には片仮名に改められています。
電動車:デ制御車:ク付随車:サいずれにも属さない
ボギー車:ホ
2等車:ロ3等車:ハ緩急車(※):フ郵便車:ユ
荷物車:ニ例:制御車で3等車(普通車)だとクハになる。昭和24年5月まで採用された。
※緩急車とは車掌室を有し、手ブレーキと車掌弁がある車両のことです。今と違って貫通ブレーキが装備されていなかった為に運転士のブレーキ操作ひとつで列車全体にブレーキを掛けることができなかった為に存在した車両です。貨物列車で言えばコキフとかヲキフって言うとどういう車両か想像しやすいのではないでしょうか。コキフなんてすっかり見かけなくなってしまいましたが…


 先に紹介した大正15年製造の車両までの変化を経てこれがその後の車両の基本となり、昭和2年〜4年のわずか3年で114両もの車両が製造されました。
 これは伊勢崎・佐野線・日光線・東上線と主力路線が相次いで電化され、昭和4年12月に全線電化を迎えた為でこのデハ5形に分類される車両達が戦前の東武鉄道の電車輸送の大半を担いました。

 これらの分類については、wikipediaにも詳しく記載されているので気になる方はご参照下さい。
<wikipedia 東武鉄道デハ5形電車>

 これらの車両に共通していた点は車体寸法や主電動機、制御機であるが最大長16,852mm(約17m)、車体幅2714mmでデッカー車と言われる車両達です。
 この頃の車両から当初のロングシート車から長距離客にも配慮したクロスシートやトイレが装備されました。デハ5形と総称されてはいるんですが、中身を更に分けると当然デハ5形の前に来るべきデハ4形に分類される車両もおり、その他にも普通車だけでなく、都市と地方を結ぶ長距離路線として荷物車や郵便車といった機能も持ち合わせる客荷車や客郵車といった車両も作られています。
 この様に、実に多彩な種類を有するデハ5形ですが、分類すると大別して以下になります。

前期普通車:デハ4形、クハ3形、(デハニ4形)、(デハユ2形)、(デハ8形)
前期合造車:クハニ1形、クハユ1形、(デハニ1形)
後期普通車:デハ5形、デハ6形、クハニ2形、(デハ7形)、(デニ1形)
後期合造車:クハニ4形、クハユ2形、(クハニ3形)、(デハユ1形)

 かなり複雑ですが、()で書かれている車両は()の無い車両を種車とし改造され新たに誕生した形式です。何でデハ5形と総称されるのかと言えば、デハ5形が114両の中で一番多く製造されているからです(44両。それでも114両中の44両と比率は高くないので如何に当時の車両の形式のつけ方が複雑だったかが伺えます)。
 ちなみにデハ5形はその後全車がデハ7形に改造されていますのでむしろデハ7形の方がしっくりくるのではと思います。まぁこれはそこまで細かく気にする様な事項ではありませんね。そもそも訳が分かりませんし(汗)

 以上の様に、東武生え抜きの電車は合計140両いました。
 おや、じゃあ229両のうち残りの89両はどうなってるの?と言われますと、明治32年開業の蒸気鉄道時代から活躍していた木造ボギー客車を昭和3年から昭和9年までに配線工事等を施工し、サハ50両として再生させています。
 残り39両は総武鉄道(現野田線)より10両、下野電気鉄道(現鬼怒川線)より3両を引き継いだものと、成田鉄道(現JR成田線)からの転入した木造ボギー車4両が同様にサハに改造され下野電気鉄道時代(東武へ買収されたのは昭和18年)から鬼怒川への乗り入れ特急に使用された特急専用車両戦前の名車・デハ10形16両(3回に渡って増備されたが、やはり増備に伴いデハ10形、デハ11形、デハ12形と呼び名が変わっている)と後年にデハ10形と同じ寸法で8両の普通車が登場したのを加えると、総勢91両となります。
 ・・・91両だと89両より2両多いのでは?と思ったので調べてみたのですが、結論を言うとよく分からないのです(汗)

戦前に誕生した車両
↑この車両は近年までJR小山駅構内に留置されていたモニ1471号です。新製時はクハ1形4号として落成しています。
※クハ1形は6両全車が電装化されており、クハ4号は電装化の際にデハ101形102号として改番しています。
 その後昭和24年5月の車号大改番にてモハ1400形1400号になり昭和39年に荷物化されモニ1471号となっています。
 すなわちモニ1471号は大正14年製の車両であり、デッカー車両と呼ばれた昭和2〜4年組みとは若干異なる存在です。
しかし車体の塗装や趣こそ違えど当時の面影を多く残す貴重な車両でありました。
解体されてしまったのは残念ではありますが、最後その姿を見せて貰えただけでも有難い事でした。

17m級車のイメージです
↑デッカー車と同じ17m級クラスの車両で近年まで保存されていた旧国鉄のモハ12形12054号です。
あくまで当時の17m車のイメージとして見て下さい(^^;)※佐久間レールパークにて撮影

 以上簡単ではありますが、戦前の東武鉄道の車両を紹介させて頂きました。こんな感じに17m級の2扉と3扉の車両を連結し1両〜5両(6両?)程度で走っていたと推測されます。
 他では貨物輸送も盛んではありました。むしろ東武鉄道と言えば貨物輸送がメインの鉄道会社だったとも言えます。そのほぼ全てが蒸気機関車による牽引であり、戦前では唯一の電機機関車は昭和5年に1両のみ投入されたED101形でした。
 これは貨物の電化を睨んで試作で製造したと言われます。他にも譲渡車ですが総武鉄道(現野田線)より編入されたデキ1形3両(東武鉄道編入後ED3000形3001〜3003に改番)がおり、合計4両の電機がいました。
 しかし当時の貨物専用路線や電化されていた本線の待避用の側線のほとんどが非電化のままだった為に運用が限定され貨物仕業よりもバラスト運搬等の工臨として活躍していた姿の方が多かったそうな。(古い記録で例えば複線化工事の際のバラスト運搬とかに活躍しているED101形の姿を見る事が出来ます)。結局本格的に電機が増備されるのは昭和30年代まで待つ事になります。

3.戦後の東武鉄道の苦悩

 脱線しましたが、戦後の東武鉄道の状況を振り返ります。が、戦後の日本の状況を簡単にまとめてみます。私も余り詳しくはないので、諸文献を眺めながら第二次世界大戦(日本で言うと太平洋戦争(大東亜戦争)、日中戦争等)が何をもたらしたかをまとめてみますと、

●多くの働き盛りの国民(19歳〜45歳までが徴兵?)が戦闘員として派遣され(約800万人。これは当時の日本の人口の約10%となります。)、そして多くの人が亡くなった事。(軍人で約170万人)
●日本国内全体が戦争に勝つ為の国となってしまった事。
(国民に対し"欲しがりません勝つまでは"、"贅沢は敵だ"等の有名な標語に代表される様に、軍事需要をメインとした生産にシフトし、更にこれらの為に輸入の抑制、国民に対して軍事以外の需要の禁止、ガソリンや電気の抑制に加え、食料までも抑制されました。)
●戦争が進むに連れて、相手国が日本の軍事生産を減らす事を目的とした、人口の多い都市や軍事工場の多い街へ空襲や爆弾投下を行い始めた事で、多くの極民が犠牲になり(数十万人)、家屋、生産拠点、移動手段である鉄道や自動車が多大な被害を受けた事。
●更に戦争末期になると、東南アジア等の当時の日本の植民地からの物資輸送として使われていた南方の制海権を敵国に握られてしまい、国内の肥料等の原料の減少による農産物の生産の低下、原油などの燃料、食料等の需要に対する供給が極端に減ってしまった事。

 長く書いてしまいましたが、上記をまとめると終戦時の日本国の国民総生産は約半減となり、生産性は約20%、実質賃金は約30%と軍事以外では戦前と比較すると貧しい国となってしまい、そこへ戦争へ派遣された多くの国民が帰ってきた事に。更には過度の食料不足、物資の不足といった4重、5重の悩みが一気に降りかかる状態となってしまいました。

 特に深刻だったのが人が生きる為の食料の不足でした。当時は国が各家庭への配給制度により主食の米等が支給されていましたが、絶対量の不足、配給の遅れや欠配が当たり前な上に支給される量もわずかであった為に人々は生きる為にわずかに手元に残った衣服や雑貨など家財を東京近郊の農家と交換する事で食料を手に入れようとしました。現在では想像も付かない過酷な状況だったのが伺えます。

 ここで東京近郊の農家へ物々交換で食料を得る為に人々を乗せた列車が後に買出し列車と呼ばれました。

“伊勢崎線や東上線の沿線には関東有数の穀倉地帯が広がっている。その関係で、当社の列車は沿線住民の買出しの足として重要な役割を果たすことになった”(東武鉄道100年史P520より)

 この買出し列車は、現在では想像も付かないような殺人的混雑の列車となりました。鉄道ファン通巻415号のP83〜85に当時の買出し列車の写真が掲載されています。興味の有る方は見られては如何でしょうか。ここでは言葉だけでの説明となりますが、最近で言えばインドや東南アジア等の発展途上国の殺人ラッシュをインターネット上の動画で見られた方もいると思いますが、まさにこれと同じ状態です。
 側窓や側扉は開いたまま走行し、開いた窓や扉から人があふれ出んばかりという非常に危険な状態で走行していました。どっかの国では架空電線方式で無い為に屋根上まで人が乗っていた国もありますが、架空電線方式の東武鉄道では流石に屋根上に乗る人はいないでしょう…。と思ったのですが、どうやら混雑が酷すぎる為に屋根にまで人が乗っていたそうです。非常に危険な状態です(汗)

買出し列車の写真が載っている文献:(順不同)
●東武鉄道100年史 P524・525
●鉄道ピクトリアル1997年12月臨時増刊 P68・69
※こちらは上記に書いた鉄道ファン通巻415号のP83〜85の筆者と同じ方が撮影された画像で、内容もほぼ同じ物が掲載されています。

 先に述べましたが、戦災で多くの車両が被害を受けた為に半数以上が修理・修復をしないと運行出来ない状態となってしまいました。その上、業平橋構内にあった浅草工場が車両修理の拠点となっていたのですが、こちらが空襲で焼失し使えなくなってしまった為に急遽杉戸駅(現:東武動物公園駅)構内に杉戸工場が建設され、貨物の主力を担っていた蒸気機関車の修理部門を移し修理に当たりました。
 なお浅草・杉戸以外では既に大正13年10月に西新井に西新井電車庫が建設されており、他には鐘ヶ淵に浅草工場鐘ヶ淵派出所が存在し、貨物の貨車の検査・修繕も行われていたそうです。

 杉戸工場、西新井工場の稼動で車両修理の勢いを付けたい所でしたが、これら両工場の修繕能力は浅草工場の6割〜8割程度だったそうです。更に深刻なのが、復興用の資材不足と人員不足が重なってしまった事です。この為、日々増加する輸送量に対応し切れなくなっていったと言われています。
   
“日を追うごとに買出し客や通勤客が増え、復興資材の輸送量も増加してくる。窓や座席がなくとも、使える車両はすべて投入して何とかやり繰りをしながら対応したが、車両不足はいかんともしがたかった。”(東武鉄道100年史P530より)

 東武鉄道の戦後初のダイヤ改正は昭和23年7月1日に行われたそうで、これに至るまで常に車両不足と輸送力不足による殺人的混雑に利用者も現場の関係者も悩まされたそうです。

 話はちょっと変わりますが、戦後の復旧に苦労する東武鉄道でしたが、その中でも一番復旧が遅れたのが本線とは別系統にある東上線でした。その理由としては、東上線沿線には進駐軍(GHQ:連合国軍最高司令官総司令部)の基地が多かった事もあり乗降客の増び率が高かった事が挙げられます。
 なお進駐軍の第一騎兵団の司令部がある朝霞基地や米軍専用の住宅が上板橋付近に建設されたりと、東上線が重要な路線であった事が伺えます。
 ただその影響で進駐軍専用列車の運行を輸送ダイヤに一切配慮せずに押し付けられたりと苦労もあったそうですがそのおかげで車両や施設の充実などの復興のスピードが上がったとも言われています。
 それにも関わらず東上線は輸送力の改善の勢いを利用客の増加が上回った為に、輸送状況は改善されるどころか悪化する一方でした。
 ついには進駐軍より東上線乗車禁止の英文が貼り出される様にまでなってしまい、東武鉄道は大変な辛酸を舐めさせられる事となりました。

 東武鉄道は後々に他社以上に質よりも輸送力を優先に考える様になったと感じていますが、私はこの一件も多いに関係しているのではないかと思います。

4.救世主・6300系通勤車両就役

リニア・鉄道館に展示される国鉄63形復元車
↑名古屋のリニア・鉄道館に展示される国鉄63形の復元車です。
全長20m・片側4扉を日本で初めて本格採用した画期的な車両です。
※なお20m3扉車までは既に存在しており、戦時中には17m4扉車といった車両も登場したそうです。

 深刻な車両不足に悩まされる東武鉄道東上線に昭和21年7月に待望の援軍が登場しました。東武鉄道では初となる4扉20mの通勤車、6300系車両です。この6300系車両は戦争末期に製造が開始された運輸通信省(後の運輸省鉄道局、日本国有鉄道)の63形電車が東武鉄道に譲渡されたものです。
 63形電車は上記でも触れていますが、全長20m・片側4扉を日本で初めて本格採用した輸送力に特化した電車と言われています。
 戦争末期に運輸通信省の車両として登場しておりいわゆる戦時設計(戦争中の数年もてば良い一切の無駄を省いたといった思想にて設計されたもの)です。
 車内では内張りの省略、天井の骨組みの露出、座席は板張り(初期車では座席すら配置されなかったようです)といった感じに接客ではなくあくまで戦争の為に一人でも多く詰め込めれば良いと設計され製造された車両である事が伺えます。
 上記でも触れていますが、戦争末期時代にやはり戦時輸送用に鶴見臨海鉄道(現JR鶴見線)で17mロングシート4扉車が登場しておりこれが日本最初の4扉車のようです。他でも63系本格製造前に20m車のロングシート4扉改造が各地で行われており、この時期は新たに誕生した63形電車だけが20m4扉だった訳ではないというのを付け加えておきます。

 この63形ですが戦争末期に製造が開始された為に、終戦までに製造されたのがたったの30両程度でした。しかしその簡易な設計から戦後の資材不足に悩まされていた時でも大量製造する事が可能となり、各地で輸送力の増強に貢献するという結果をもたらしており、その後の20m4扉車の時代を切り開いたのがこの形式の最大の功績です。
 そして戦後の混乱期に運輸省(運輸通信省の組織分離により誕生)では全国の主要メーカーを総動員して63形電車の製造を急いでいましたが、その一部が輸送混乱を引き起こしていた東武鉄道や東京急行電鉄小田原線(現・小田急電鉄)を始めとした私鉄各社に割り当て、割り当てられた私鉄各社が在庫している小型車両を地方の中小私鉄に供出させるという施策が行われました。
 従来車と比較して1両で40%もの輸送力増強となる63形の投入の効果は絶大だったと言われます。

 この私鉄への63形電車の譲渡の第一弾として、昭和21年に特に混雑が酷かった東武鉄道東上線と東京急行電鉄小田原線に4両ずつ配置されたのが63形譲渡の始まりでした。
 その後昭和23年までに述べ120両もの63形が私鉄各社へ割り当てられました。なお63形自体は運輸省・国鉄の分まで含めれば700両近くが製造されています。
 その中で東武鉄道は20編成40両もの大量の63形が割り当てられ、6300系として運用され始めました。これは他社の倍近い数であり、如何に東武鉄道の輸送状況が酷かったかが伺えます。
 昭和24年には更に14両の6300系が増えました。これは大型車の運用に苦労していた名古屋鉄道から63形(名鉄形式:初代3700系)が譲渡されたものです。この様に大型車の運行が初めてだった私鉄では混雑緩和よりも運行する事自体に対する苦労もあったようです。東武鉄道も例外ではなく、本線・浅草駅構内の急カーブが曲がれなかった為に改良が終わるまでは業平橋止まりで運用されたそうです。
 他には東武生え抜きの電車とステップの高さが違う為に駅によっては段差が大きすぎて利用者に大変な不便を与えてしまった様です。なんにせよ他の私鉄と比べて東武はかなり早い段階で20mの投入が進められたのは幸運だったと言えます。

 6300系投入の効果は大きく、東武鉄道ではついに6300系の自社発注車まで投入させるほどになりました。この頃の6300系はまだ国鉄番号で走っていたのですが、この自社発注した2両は東武オリジナルの番号として7800と7801で登場しています。後々7800系が登場する事を思うと、偶然にしては不思議な縁だなぁと感じます(笑)
 しかし良い事ばかりという訳にはいきません。6300系は車両限界以外の問題も発生していました。戦時設計もそうですが、資材が不足していた時代の粗悪車両なだけあって溶接不良による台枠破損等トラブルが頻繁に起こったようです。
 東武鉄道では国鉄桜木町事故クラスの大事故は発生しませんでしたが、この事故の影響により窓枠や貫通路の改良を受け7300系に形式変更をし更に経年が経ってからは更新修繕され昭和末期まで東武鉄道の主力通勤電車として活躍していきます。

5.鉄道の復旧とロマンスカーの運転開始

 東武鉄道は昭和2年〜5年に掛けて本線・東上線の主要路線を相次いで電化させ、その後戦争中に電化完成した小泉線や合併前から電化されていた総武鉄道・北総鉄道などを加えました。しかし越生線と野田線の柏〜船橋に付いては非電化のままとなっていました。
 そこでこれらを昭和22年に野田線、昭和25年に越生線が相次いで電化しました。これによって旅客路線で非電化として残るのは矢板線と熊谷線のみとなりましたが、両線については結局電化される事なく廃止されています。

 電化が進められていた頃の昭和23年(1948年)8月6日に関東の私鉄において戦後初となる特急列車が復活しました。(関西では近畿日本鉄道が大阪上本町(難波)〜名古屋を結ぶ特急を昭和22年4月に復活していました。)浅草〜東武日光を結んだ華厳(けごん)号、浅草〜鬼怒川温泉を結んだ鬼怒(きぬ)号です。今現在もスペーシアの車両で走る特急が復活したのです。

 ここで日光・鬼怒川への特急の歴史を振り返ると、東武日光線の建設は東武鉄道が昭和2年頃から進めた電化工事と平行して行われ、昭和2年6月からわずか2年4ヶ月後の昭和4年10月1日に杉戸〜東武日光の延べ94.5kmを全線複線で電化開業させるという快挙を成し遂げました(ちなみに当時の東上線は池袋から全線単線です)。
 その10日後の昭和4年10月10日より当時新造して間もないデハ5形電車を充て初めて特急列車の運行が開始されました。
 専用車両が無かった為に当初は特急料金不要だったようですが、都心から日光への距離が国鉄に比べ約11kmも短縮された上に所要時間は最大で30分近くも上回った為に東武日光駅は当時東武鉄道の中でも5本の指に入る売上を上げる程になったそうです。
 更に特急列車の運転が開始されて間もなく、トク1形500号と呼ばれる1両の定員わずか20名の木造車が誕生しています。この車両は来賓車と呼ばれ運賃以外に座席料金が掛かった豪華な車両だったようで、一般車に連結され走ったそうです。
 当初は全列車が不定期で運転されていた日光線特急でしたが、昭和6年5月25日に(浅草〔当時既に業平橋に改名〕〜浅草雷門〔現浅草〕)が開通し浅草雷門駅が開業しました。ついに東武電車が当時の日本一の繁華街・浅草へ乗り入れ、当時で言う都心乗り入れを果たした日でした。
 既に浅草には東洋初の地下鉄(現・東京メトロ銀座線)が開通しており大いに賑わったと言われます。特急列車もこれ以降毎日運転したそうで土日になれば前述のトク500を連結し運転される日もあったそうです。

 その後昭和10年にそれまで一般車を使っていた特急車に専用車両が登場しました。
 デハ10形と呼ばれる2扉18m車は、両運転台のモハと片運転台のクハが製造され、モハに一部サイドシートがあった以外は全部クロスシートで竣工しています。室内灯は八角のシャンデリアとかなりリッチな雰囲気を醸し出し、トイレも完備、クハには売店まで設けられていました。
 他には車体の番号はクロムメッキの特殊の切り抜き文字で表示されていました。この特殊字体、たしか東武博物館でも見れた気がしましたが、文献では〔復刻版〕私鉄の車両24・東武鉄道(ネコパブリッシング)のp124に掲載されています。とても不思議な字体です。
 当時の車内の写真を見てみると、車内は前述した八角のシャンデリアがとてもオシャレで、室内と乗務員室の仕切り壁の上部の櫛形の路線図が設けられていました。写真を見る限り雰囲気は東武博物館に展示されているモハ5701と似ている感じがします。
 更に肝心の走りの方も主電動機の出力アップによりスピードアップも果たし、とにもかくにも特急に相応しい豪華な仕様として登場しています。
 一方でデハ10形の登場により前述の来賓車・トク500の使用機会が激減してしまったそうです。来賓車の使用を減らすほどデハ10形が遜色ない豪華さを兼ね備えていたのが伺えます。
 一方で東武日光線と特急運転開始に国鉄の前身である鉄道省が対抗し出したのはこの頃が始まりです。戦後も同じ様な話が出るのですが、当時も季節準急と称し(後に定期に昇格)、当時の花形特急つばめ号(東京〜大阪)の平均速度すら上回る速度で走る急行料金を取らない列車を運転し更には鉄道省の遠距離運賃が格安になる制度も利用し東武鉄道に徹底抗戦しました。
 ただし鉄道省は蒸気機関車での運転であった為、到達時間で優位に立ち、また設定本数も東武の半数程度に落ち着いた事で東武は壊滅的な被害を受けるまでには至りませんでした。結局の所、後から日光に進出したのは東武鉄道であり鉄道省は東武鉄道に脅威を感じ日光への列車を増発・便利なものとしました。
 この両鉄道の切磋琢磨により日光はやがて国際的な観光地へと成長していくのですから、やはり独占よりも競争が良い効果を生む一つの例ではないでしょうか。
 その後デハ10形は下野電気鉄道(現鬼怒川線)に乗り入れます。この為、下野電気鉄道は電圧550Vから1500Vに昇圧、軌道幅も762mm(特殊狭軌・ナローゲージ)から狭軌(1,067mm)へと改軌され、東武特急による鬼怒川温泉〜浅草雷門の運転が開始されました。

 しかし日光線特急は戦争(第二次世界大戦)の影響があって運転を中止される事になります。戦争による特需として貨物輸送の繁栄など業績で言えば良い事もあったのですが、戦争が激化するに連れて東武鉄道は様々な苦労を追う事になりました。
 重要軍事施設があった東上線の国有化の動きや太田・小泉町(現大泉町)に軍需工場の新設・拡張が行われていた事により、鉄道省・熊谷駅から小泉町を直接繋ぐ鉄道の建設が開始された事(後に廃止された熊谷線)、その熊谷線の建設の為に日光線合戦場〜東武日光のレール等が転用され単線化されてしまった事、飛行場建設による東上線の一部区間線路移設など様々な苦労が重なりました。
 熊谷線の建設は建設時に採算性が見込めないと皮肉交じった文章を残す程でしたが、結局完成より先に終戦が訪れてしまい熊谷線は利根川を渡らない不便な非電化路線として昭和後期まで残る事となります。結局、これらが東武にもたらしたのは何だったのかは分かりませんが戦争により多大な被害を受け、不採算路線を作らされその影響で主要路線を単線化させられてしまった東武鉄道の当時の苦悩は計り知れません。

 さて話が反れましたが、日光線特急は戦争が開始された昭和13年頃に戦前の特急本数のピークを迎えてからは減少に転じ、昭和18年1月29日〜昭和20年6月21日の日光線単線化工事が進行するに連れて特急列車の運転が中止され、デハ10形は車内のクロスシートや売店が撤去され、ロングシート化改造され一般車両へ格下げされる事となってしまいました。

 戦争の影響により一度は廃止されてしまった日光線特急ですが、転機は昭和23年に訪れます。進駐軍(GHQ)の特別輸送です。
 当時、東上線で進駐軍専用の列車が無理やり設定されたりした話は先に書かせて頂きましたが、昭和23年6月より毎週の金曜日、土・日の3日間に浅草〜東武日光で連合軍専用車として日光への行楽列車が運転されました。
 ここでデハ10形2両(デハ1107とデハ1103)を日本車両東京支店にて特急仕様に復活させ、更にその中間に運輸省から借り入れた2等客車(オロ23156・オロ2345)を一部改装して組み込んだ4両編成の連合軍専用編成が誕生したのです。
これの誕生により一転して東武鉄道では特急列車の復活をと、特急料金の申請を行いました。なお連合軍専用列車運転に際しての苦労は以下の様に述べられています。

“西新井工場のある場所で清掃していたが、特にオロは外板をデッキブラシで毎日洗い、車内も床などはていねいにゾーキン掛けをするなど、その管理は大変なものであった。”(鉄道ピクトリアル1972年3月臨時増刊号/東武鉄道特急列車変遷P61より)
“この列車には通訳を兼ねた列車ボーイの添乗が義務付けられたほか、定時運転を厳命されるなど、当社の負担は大きかった。”(東武鉄道100年史P535より)


 なおこの頃は浅草から日光への直通列車は連合軍専用列車以外はまだ復活しておらず、また連合軍専用列車含め特急列車自体も戦前には無かった単線区間が出来てしまった事も相まってはるかにスピードダウンし所用時間が延びてしまいました。戦前が最速137分に対してこの頃は180分と3時間も掛かっていたのです。
 戦前とは趣を変えてしまった東武特急ではありますが、特急料金申請の認可も降り、昭和23年8月6日より週末3日に限定しついに復活しました。その後同年12月には西新井工場内で眠っていたトク1形500号が復活し、団体客専用車両として就役しました。かつては展望車でデッキや料理室等がありましたがそれらは撤去され、代わりにスタンドバーや当時では珍しい扇風機が設置されたそうです。そして特急車の最後尾に連結され日光、鬼怒川へと貸切運転を行っていました。
 ところでこのトク500は最後尾に連結されるのが当たり前になりましたが、その為に終点到着後の扱いには苦労されたようです。
 幸い当時蒸気機関車全盛期だった為に下今市に転車台があり、そこで方向転換する事は可能でしたがそこからまた日光へ戻るという二度手間を掛けており(日光に戻る際はトク500が先頭の推進運転^^;)、現場には厄介な存在として扱われたようです。
 ちなみに進駐軍の列車にトク500形は連結されていません。木造車は危険だからと一蹴されてしまったからだそうです。

 様々な苦労を経て日光・鬼怒川の特急はこうして復活しましたが、この先5700系の登場や1700系、1720系、スペーシア100系と歴史は繋がっていきます。2011年度にはいよいよ100系のリニューアルが始まり、これからの東武鉄道と沿線の未来を乗せていくべく素晴らしいリニューアルを期待するばかりです。他の特急列車については後ほど触れる予定です。

6.戦後の大改番について

 ところで、前項にてデハ10形と書いた車両ですが、これは戦前に割り当てられた番号です。しかし上の方で戦前の東武電車の番号は大変複雑と述べましたがそれらを解消すべく東武鉄道の車両は昭和24年5月より大改番が行われています。

 それまではデハ1形からデハ10形に至るまでの番号や、運輸省から割り当てられた63形もこの改番までは運輸省番号(自社発注車は専用番号が当てられました)のままで運用されていましたが、以下の法則に従って改番されています。

千の位:主電動機1台の出力により分類 → 1:59.9、75kw 3:97kw 5:110kw 7(当初は6):128、142kw
百の位:制御器(マスターコントローラー:マスコン)の種類により分類→ 1:ウェスチングハウス・エレクトリック社・HL方式 2:イングリッシュ・エレクトリック社・デッカー方式 3:CS-5 4:MC・PR 6:ES156(TDK) 7・8:MMC
十の位:用途により分類→ 0〜6:客車 7・8:荷物車 9:郵便車 但しサハはこの基準から除外
一の位:号車
デハはモハに改名。モハは4桁、クハは3桁、サハは2桁となっています。※当時のサハは客車から改造された車両ぐらいでした。
でもクハの3桁って、実体を見ないと重なる番号が結構多発したのでは?とも感じます。

 ここでちょうど今出てきたデハ10形を例に上げてみます。連合軍専用列車として復活したのはデハ1107(実はこれデハ10形ではなくデハ12形みたいです。本当複雑ですね^^;)ですが、これを上記の法則により改番しますと、
千の位:主電動機の出力110kw → 5
百の位:主幹制御器MC → 4
となり、十の位には4が与えられ、モハ5440形となりました(後に54系と呼ばれる車両達です)。デハ1107はモハ5445として生まれ変わりました。なおその後特急車として改造された為にすぐにモハ5310形に改番されています。ここら辺の動きがよく分かりませんが、改造された際に主幹制御器が63形と同じCS-5に交換されたみたいです。

 他にはかつてのモニ1471号でいえば、クハ1形4号として誕生してから電装化されデハ101形102号として改番され、今回の大改番により、
千の位:主電動機75kw → 1
百の位:MCH200B型 → 4 ※かつて旧デハ2形の仲間でしたが、制御器の違いから組成は出来ません。
十と一の位には00が与えられ、モハ1400形1400号車となりました。その後荷物車となった為に、モニ1471号となっています。この様に改造が多い為に複雑になっている車両もいました。

 西新井工場に2003年まで在籍したモニ1473号車を振り返ると、最初はデハ5形(クハニ2形)のクハニ29号として誕生しており、その後電装化によりデハ105形デハ106号に変わっています。製造当初はデッカーグループにいたのに何故32形ではないのか?
千の位は:主電動機75kw(電装化の際にはデッカーグループと違い低出力の電動機を搭載していた為) → 1
百の位:DK形ではなく、デハ101形同様MC形 → 4
十の位と0の位には03が入り、モハ1400形1403号として生まれ変わりました。
その後荷物電車化された為に、モニ1473号となっています。うーん…複雑。

 なお63形はモハ6300形、クハ300形として改番されましたが、桜木町事故後に改良された際にモハ7300系、クハ300系に変わった為に当初は6という表現になっています。
 最近の事例で言えば、福知山線の事故以降207系のカラーが変更されたのと似た様な変化な気もします…。国鉄も63形から72形に形式を変えています。

 その他では、昭和2年〜4年に大量製造されたデッカー方式の車両達は、97kwの出力の3にデッカーの2によりモハ3200形(32系)グループとして生まれ変わっています。しかしこのグループでも電装化された際に110KW級の電動機が吊られた為に32系とは別形式扱いされている車両もいたそうです。複雑過ぎるので興味ある人は調べてみると面白そうですね。


7.東上線で行楽特急・フライングトージョー号が運転開始

フライングトージョーとブルーバードのHM
↑東上線でかつて活躍した行楽列車・フライングトージョーとブルーバードのHM

 本線系統の話で盛り上がった所で、東上線の方に話を移します(汗)
 本線の特急の復活した後の昭和24年(1949年)の秋より東上線でハイキング特急・フライング東上号(FLYING TOJO)が誕生しました。東上線では現在でも玉淀や寄居から接続している秩父線沿線の長瀞などがハイキングの行楽客等を運んでいますが当時から既にこの行楽ブームが起こっており、近郊の山々にハイキングに出かけるのが流行っていたそうです。
 この為、長瀞まで直通出来る様に秩父鉄道へ乗り入れる事は出来ないのか検討されました。当時、東武鉄道の架線電圧が1,500Vだったのに対し、秩父鉄道はまだ1,200Vと若干電圧の面で不安がありましたが、技術的には直通が可能と分かり昭和24年4月より日曜日や団体客が入った場合に限定して直通運転が開始されたそうです。しかし問題無いと言いながらやはり電圧降下等の不具合は生じていたようです。その後秩父鉄道が昇圧されるのは昭和27年(1952年)2月1日まで待つ事になります。

 この様な経緯を経てフライング東上号は誕生しました。この名前はイギリスの特急列車「フライング・スコッツマン号」にあやかって名付けられたようです。フライング東上とは別の行楽列車にはブルーバード(青い鳥)号と名付けたり、東上線側では英語の列車名を付ける傾向が強かったみたいです。これは戦後の進駐軍の影響が大きかったからでしょうか。真相は不明です(^^;)
 フライング東上には上記写真の専用のHMが取り付けられ(当時のまま)、そのHMの表示から当時はよくフライングトージョーと書かれて紹介されていました。フライング東上号には誕生当初からフライングカーと呼ばれた専用の編成が充当され、車体は他のブドウ1色の車両とは一線を画す為に鮮やかな塗装が施されており、まさに専用の特急列車として活躍していました。

 フライングカーには当初は専用車両がいなかった関係でデッカー・32系電車が使用されていましたが、後に元デハ10形の53系が充てられました。後で紹介しますが、78系や8000系が誕生した後はこれらの編成もフライング東上号に充当されています。

フライング東上号編成の変遷(運転開始〜昭和27年以降)
←寄居 池袋→
年度編成と塗装
昭和24年
(運転開始後)
・デハ52+サハ103+クハニ10
・デハ52+サハ103+クハニ10+モハ3212
昭和25年・モハ5454+サハ99+クハ404+モハ3212(深紅色に黄帯)
・モハ5454+サハ99+クハ404+モハ5451(深紅色に黄帯)
昭和26年・モハ5454+サハ73+クハ404+モハ5451(青色に黄帯)
昭和27年・モハ5314+クハ353+クハ354+モハ5313(青色に黄帯)
(鉄道ピクトリアル1961年4月 私鉄車両めぐり44・東武鉄道の電車その3より)

 昭和24年当時は大改番が始まったばかりで、この様に改番する前の車両と改番した車両が組み合わされていました。
 また当初は32型(デハ52、クハニ10はデッカーグループの一員)や客車改造のサハを使用していましたが、翌年からは54型も加わり、塗装も鮮やかなものに塗り替えられ、26年から青色に黄帯の御馴染みの姿で活躍し、更には昭和27年からはモハ5310形+クハ350形が使用されています。

 32型電車では放送設備が付けられませんでしたが、54型電車になってからは車内放送も開始され、当時では珍しいレコードプレーヤーを接続して音楽も流していたそうです。他には車内販売も行われ、果物等が販売されたそうです。

 フライング東上の活躍は東上線や秩父線だけに限らず、本線系統にまで及んでいます。
 昭和26年8月14日・16日の2日間で川越から国鉄川越線を経由して大宮へ行きそこから野田線を走って東武鉄道最東端の船橋まで運転されています。これは海水浴を目的とした行楽列車だったようで、国鉄線内は蒸気機関車に牽引されて移動しています。当時運転されている車両が茶色・ブドウ一色だった野田線内をあの鮮やかなフライングカーが走ったのを想像するとさしずめ今で言うJR253系1000番台みたいな反応をされたのではないでしょうか(笑)
 更にフライングカーは同年10月2日には東武日光まで脚を運んでいます。当時の記録によれば武蔵嵐山を20:04に出発したそうなので夜行列車だったと思われます。こちらも川越から国鉄川越線を蒸気機関車に牽引され大宮から野田線で春日部まで行きそこから伊勢崎線・日光線を走り東武日光まで運転されました。
 この様に川越線が度々本線と東上線の架け橋となった訳ですが、今でも川越線が東武鉄道の路線であり、複線化されて野田線の一部になっていたらどれだけ有難い事か…と思って止みません。(あくまで個人的にはです。^^;)なお本線⇔東上線の移動は次第に川越線経由から秩父鉄道線経由へ移行してゆきます。

8.次第に復興を果たしていく東武鉄道

 徐々に車両事情も落ち着いてきた東武鉄道では、昭和24年9月15日に戦後2回目のダイヤ改正を行いました。詳しい内容は不明ですが、本線側で日中では浅草〜草加の15分間隔運転が開始されるなど旅客サービス向上が盛り込まれた改正だったようで、それまでの殺人的混雑が落ち着いてきたのが伺えます。

 この時期、東武鉄道に限らず日本全体の経済復興に影響したのが、1950年(昭和25年)6月25日に勃発した朝鮮戦争でした。
 アメリカと旧ソ連軍による冷戦の緒戦とも言われている朝鮮戦争では、ソ連と中国が支援した北朝鮮とアメリカを初めとした連合国が支援した朝鮮による代理戦争の様相を呈しました。
 なお隣の日本では終戦から当時まで武器関係の所有や生産が認められませんでしたが、しかしGHQは絶好の場所に位置する日本を利用し朝鮮戦争による後方支援策として日本での兵器や砲弾の生産を一時的に許可しました。
 この為繊維・鋼材、トラック、食料やサービス分野において戦争の特需により日本の輸出額の25%を占めるまでに至りました。
 朝鮮戦争自体は1953年7月に終戦しており、日本での軍事特需自体は3年に留まりましたが、それまでの日本の国内工場生産において品質管理という考えが余り盛り込まれておらず(戦時設計が蔓延した影響もあったのかもしれません)、とにかく質よりも数を優先すれば良いという風潮があったため不良品がそのまま出荷されるということは珍しくありませんでした。
 そこでアメリカから直接日本の各工場へ技術者が出向いて品質管理や工程管理の指導を行ったことにより効率的な量産が行われるようになりました。これが実に大きな事で、朝鮮特需後右肩上がりで成長してゆく日本の高度経済成長の礎となったも言われています。

 東武鉄道に限定して言えば貨物輸送部門で大きな増収を計上し、昭和25年度と26年度では前年度比40%増の収入増となりました。また貨物以外の旅客輸送も貨物ほど伸びはしませんでした順調に伸びて行ったそうです。

“朝鮮戦争による特需がどの程度の割合を占めていたのかは、いまとなっては判然としないが、27年度までは前年度比で20〜40%の伸び率を示しているのに対して、28年度以降は1桁の伸びにとどまっている。この時期が、特需が収束傾向を示した時期と一致していることから見て、伸び率の大半は特需による輸送量の増加によるものであったと推測される。”(東武鉄道100年史P563より)

9.戦後初の自社設計車両・5700系特急電車誕生

戦後初の自社設計の新型特急
↑東武博物館で展示されている"ネコひげ"とも呼ばれた5700系特急列車(復元車)

 1951年(昭和26年)5月20日に戦後3回目のダイヤ改正が行われました。先に記述した24年9月15に行われた改正同様旅客サービス面での向上を図った改正でした。更に同時期には戦後初の自社設計の新型車両の開発を進めていましたが、ついに昭和26年9月に新たな特急車両・5700系が誕生しました。

 誕生したのは上記写真の流線型をしたA編成と呼ばれた5700系(モハ5700+クハ700+モハ5701+クハ701)と半流貫通式のB編成と呼ばれた5710系(モハ5710+クハ710)の計3編成で、 全て肘掛が付いた転換クロスシートを配置し、テーブルを付けて更に照明には当時の鉄道車両では珍しい蛍光灯が採用されました。これらは同年9月12日に試運転を行い、9月22日より就役しています。

 東武鉄道100年史では、5700系特急電車を戦後復興の象徴としています。戦後初の自社設計の車両であり、終戦直後の貧しく苦しい時代が終わった事を実感する事が出来たと記述されています。

 5700系は既に特急で活躍していた5310系と共に日光・鬼怒川を結ぶ特急として活躍を始めました。新型特急ながら5310系と同じスジで走っており、特急料金も旧型と同じだったそうでお得感がある一方で旧型に当たった乗客は不満だったそうです。
 この5700系ですが、A編成とB編成が就役していますが、使い方としてはA編成2両とB編成2両が単独で走る場合とA編成の間に貫通式のB編成が挟まれて運行される場合があったようです。今と違い昔の特急列車は分割・併合タイプの車両が使われていたので下今市で日光・鬼怒川方面へ分かれて運行されていました。
 ちなみに、これら新型特急の登場により運用に余裕が出来た為に、一部の5310系電車が前述したフライング東上号に使用する為に27年3月に東上線へ転属しています。

 5700系登場後に特急列車のHMの表示が華厳・鬼怒からけごん・きぬの平仮名表記に変わり、その他では さち や おじか 等の名称が付けられる様になりました。一時期は列車ごとに呼び名が変わるなどをした為、多数の特急列車の愛称が誕生してゆきます。(確か最盛期は夜行快速まで含めると20〜30種類はあったような…)

 さて翌1952年(昭和27年)、この頃から東武鉄道では日光・鬼怒川への観光輸送においては戦前よりも大幅に遅れていた到達時間の改善を図るべく、53型電車を使用したスピードアップが目的の公式試運転を27年7月8日と7月9日の2日間、陸運局立会いの下で行いました。区間は浅草〜伊勢崎・東武宇都宮で行われ、それぞれ15分・18分の時間短縮した上で架線電圧や線路の不備が確認される等一定の効果を上げました。

 この結果も受けてか利用者が増える特急車両の増備を計画し新たな車両の製造を行っていましたが昭和27年度は5編成10両の製造が予定され、うち特急列車用に3編成6両、戦後初の自社設計の一般車両2編成4両が計画されました。
 この中で特急車両3編成中の2編成に当時ではまだ国内の私鉄において営業運転車両に採用されていなかった新しい駆動方式・カルダン駆動が採用される事となりました。(私鉄では小田急等で1951年頃からカルダン駆動方式のテストが行われており、1952年に国鉄では電気式の気動車に試験的に採用しています。気動車が一番最初というのも意外な感じです。)

 このカルダン駆動方式とはそれまで一般的に採用されていた吊り掛け駆動方式に代わる、新しい電車の動力伝達方式です。今や全国では貴重となった吊り掛け駆動方式に比べ、カルダン駆動方式の電車は至る場所で見られます。というか今の新車でもほぼ全てがカルダン駆動方式です。(一方で貨物列車の機関車は吊掛駆動で製造されています)
 カルダン駆動方式というのは総称で、様々な種類が開発されています。

 カルダン駆動方式は、それまで主力だった吊り掛け駆動方式は主電動機を車軸に持たせて一体に連動させて車両を動かす方式で構造が簡単でコストも安く、スペースに制限がある車両でも採用が出来る等の利点はありますが電動機の重量の半分が車軸に直接掛かり、ばね下質量が重くなる事で、軌道への衝撃が大きく軌道破壊を起こす程度が大きくなります。
 また線路からの衝撃が台車から電動機や車体へ伝わりやすく軌道の状態によっては高速運転時に乗り心地が悪くなる事もあります。更には力行等の負荷が掛かる時に大きな駆動音が出る事等のデメリットも挙げられます。
 なおばね下質量は重量の2乗から4乗が軌道破壊量に比例すると言われ、すなわちこれを軽くする事が高速化の為には重要な事となり、前述した吊り掛け電車を使った試運転でもおそらく高速運転による軌道への影響が大きいという試験結果が出たのではないかと推測されます。
 そういった意味ではカルダン駆動方式は吊り掛け駆動方式に比べ電動機の小型化が可能となる事でばね下質量が軽減され、高速運転に適し乗り心地が改善され、消耗も少なくメンテナンスサイクルも吊り掛け駆動方式に比べ数倍も違う素晴らしい動力伝達方式でありました。
 ただデメリットとしてはその分製造コスト自体は吊り掛けに比べれた高くなりました。当時はカルダン駆動方式が実用化されていなかった事でそのデメリットは今以上に大きかったと推測されます。

吊り掛け電車の車内点検蓋より見る電動機モーター
↑従来の吊り掛け電車の主電動機の状況。これは車内から給脂する為の点検蓋です。

 カルダン駆動方式は後にどの鉄道会社でも当たり前の様に採用されていきますが採用する理由の一番の要因はやはりばね下質量の軽減が狙いです。そこで主電動機を台車枠(ばね上)に固定し、直接ではなく何らかの方法で車軸に動力を伝達する方式が必要となりました。
 そんな中鉄道とは別の自動車産業において自在継ぎ手による動力伝達が可能になった事で、鉄道にもそれまでのばね下からばね上に電動機を固定し自在継ぎ手を介して動力を伝達する方式が開発される事になりました。この自在継ぎ手をカルダンジョイントと呼ばれた事や考え出した人の名前からカルダン駆動という名前が付いたそうです。
 その後電車用としては、大きく分けて直角カルダン方式、WN駆動方式、中空軸平行カルダン方式の3つが誕生しています。
 今回東武に誕生する新型特急には直角カルダン方式が採用される事となりました。

 直角カルダン方式はその名の通り、主電動機軸を車軸と直角(レールと平行)に台車枠に取付そこから自在継ぎ手等を介して車軸へ動力を伝達するものです。国鉄の試作電気気動車においても直角カルダン方式が採用されています。
 直角カルダン駆動方式が採用された理由としては、スペースの関係上狭軌鉄道において110KW級の大型の主電動が取付られる唯一の方式であり、当時はM車とT車の比率が1:1あるいはT車の比率の方が大きかった国内においてはこの方式を採用せざるを得ませんでした。
 カルダン駆動方式では他にWN駆動と中空軸平行カルダン方式がありますが、これらは直角カルダン方式と比べ主電動機が車軸と直角ではなく平行に取付られるのが大きな違いです。
 機械的な事は詳しくないのですが、直角よりも平行に配置した方が自在継ぎ手等による動力伝達が簡素化され信頼性が高いという利点がありました。しかしこの場合ですと軌道の広さによって枕木方向のスペースが限られてしまう為、当初は主に標準軌等軌道の幅が広い鉄道車両でWN駆動や中空軸平行カルダンが採用されるに留まりました。
 東武や国鉄の様な狭軌ですと大出力の電動機が取付られなかった為に直角カルダン方式を採用せざるを得なかったのが実情です。

 こうして1951年からカルダン駆動の試験を行っていた東芝が製造したTT-3形台車が日本での鉄道営業車への実用化第一号として東武の新型特急車両に採用される事となりました。

 さて1953年(昭和28年)3月についに新型の特急車両が登場しました。3編成6両のうち、2編成4両は前述した直角カルダン方式で登場しC編成5720系(モハ5720+クハ720、モハ5721+クハ721)、残る1編成は吊り掛け駆動方式のB編成(モハ5711+クハ711)が新たに就役する事となります。前面形状は共に半流線形の貫通タイプです。
 当時の記録では28年2月24日にしゅん功し、26日には試運転を行ったそうです。これがB編成とC編成同時に行ったものかは不明ですが、6両組成とあるのでB編成とC編成が同時に運転されたとみて間違いなさそうです。その後監督官庁立会いで3月5日西新井⇔東武日光で試運転を行いました。これはC編成のモハ5721+クハ721の2両で運転されています。その後C編成は3月12日業平橋での社内展示と業平橋⇔東武日光を試験走行し、轟音を上げていた吊り掛け電車とは一線を画す意味で無音電車として紹介されたそうです。
 その後28年4月のダイヤ改正より営業運転を開始しています。なおこの改正ではそれまで特急で活躍していた5310系を急行列車専用に格下げし、急行列車の速度向上を図りました。
 なお当時はC編成もダイヤ改正より使用する予定でしたが、故障が頻発してしまった為に当初は5310系を1編成特急用として残しその場を凌いだそうです。5310系はこれをもって看板特急から退く事となります。(当時の急行は後の快速に位置してたそうです)

 当時の記録ですと試験では順調であると強がった直角カルダンのC編成でしたが、実際には故障に悩まされていたそうです。
 直角カルダン方式は前述した様に枕木方向のスペースの問題から採用された方式ではありましたが、回転軸と車軸の角度が90度異なってしまう為に特殊な傘形の歯車(スパイラルベベルギア・ハイポイドギア)が使用されたのですが、これが曲者で製造した東芝において後にノウハウが確立されるまでは実用化出来るものが製造出来なかったのが実情だったそうです。
 反面この傘歯車という複雑な部材が無い中空軸平行カルダンやWN駆動においては、同年に標準軌の京阪電鉄で両方を採用したカルダン駆動の新型車両が誕生しており、こちらは不具合もなく運用され、“営業用として日本初のカルダン駆動方式の成功例”として紹介されています。

 そんな不具合が目立った直角カルダン方式でしたが、C編成以外でも採用される編成が現れました。
 これは昭和26年8月に浅草工場が全焼し、犠牲となった電車の代替えとして製造されたクハ550系6両のうち、4両がクハとして使われる事なく昭和27年にモハ5320形として電装化し、その後残った2両も遅れて昭和28年9月に電装改造されたのですが、この2両は改造時期の違いから制御器がCS-5型ではなく発電制動付きのMMC型が採用され、更にC編成に続いての直角カルダン方式が採用された為です。
 不具合が続いた為に特急車ではなく被害の少ない一般車でも試験をしようと思ったのか、採用の真意は不明です。なおMMC型を使用した車両では車号の百の位が7か8となりますが、既に7は5700系で採用されていた為にモハ5800系の5800・5801として呼ばれる事になりました。
 なお直角カルダンはC編成の東芝製ではなく、汽車会社製の物を採用しました。なお5これらも5310形同様、本線の急行運用に充当されています。しかし5800形の直角カルダンでも不具合が多発し、度々改造されていたようです。なおさり気なく東武初の発電制動車となってる訳ですが、ほとんど使用しなかったそうで、その後空気制動のみに改造されたそうです。

 こんな感じで東武鉄道が採用した直角カルダン駆動車は失敗続きだったと言えます。
 しかしこういった失敗が後に活きる訳で、翌年からは直角カルダン方式も問題無くを本格採用されています。それが東急初代5000系です。実用化がうまくいった要因は製造側の技術力の向上が一番影響していると言われています。
 だから東武鉄道も悲観せずにカルダン車を製造する…と思いきや東武鉄道はこれ以降164両も製造する事になる一般タイプ車両にはカルダン駆動方式は採用せずに全て旧来の吊り掛け駆動方式で製造しています。
 これは失敗のトラウマなのかは不明ですが、私の考えとしては一般車は輸送力優先で速度を極端に上げる必要が無いから簡素で安く、不具合の出にくい吊り掛けにしたのではと思います。
 何せ97KW級の32型も大量にいれば、75KW級の14型・16型すらいた時代でゆったりと走っていたのが昔の東武電車だったのです。

 あとはコスト的な問題もあったと思います。昭和28年から37年までの年の間に164両もの20m車を製造するのですからこれら全てをまだまだ高価なカルダン駆動方式で製造するには製造コストを見ても決断しにくかったのではないでしょうか。

 カルダン駆動車の大量製造が遅かった東武鉄道でありますが、現在でも貨物用の電機機関車では吊り掛け駆動方式が採用されています。だから何でもかんでも吊り掛けだから駄目なのではなくコストや信頼性等を考えた上で鉄道会社はその時に最善の方式を採用しているのだと、そう思いたいです。

 次に特急とは別の新車両について触れて見ます。上の方でも既に書きましたがこちらはカルダン駆動方式ではなく従来と同じ吊り掛け駆動式で登場しています。
 輸送力の向上の為に、7300系電車と同じ20m片側4扉の車体のスタイルで登場しており、東武鉄道独自設計の7330系として登場しました。7300系同様の輸送力に特化したスタイルや142KWの大出力(従来車比較)の電動機を搭載して登場しています。7300系との大きな違いは前面非貫通だったのを貫通タイプにした所です。
 7300系を基に作られた7330系ですが、何故か制御器は日立のMMCを採用してるにも関わらず73の番号が振られています。どうやら7330系が登場した後に制御器がMMCの車両の番号の付け方が変わったそうです。7330系は昭和29年には7800系に改番されています。
 なお7330系(7800系)の初期の4両は富士重工宇都宮車両工場、日本車両東京支店、汽車会社東京製作所と3社で製造されました。その後は編成単位での発注となって行き、東急車輛、ナニワ工機、日立製作所も製造に加わった6社で製造されてゆきます。そういえば東武8000系は大量製造されたにも関わらず、日立製作所では製造されていません。

10.スピードアップ化と戦後の復興

 東武鉄道では1953年(昭和28年)8月1日より第四次(戦後から数えて?)スピードアップと称した本線のダイヤ改正を行いました。
 この背景には東武電車はよく遅れるという悪い評判に加え、当時日本国有鉄道(昭和24年6月より運輸省より分離し誕生しています。以下国鉄)の高崎線と東北線において電化工事が行われていた事があり、それらが完成した後の乗客減少の不安もあり、サービス向上で対抗しようというのが関係していました。

 特に力を入れたのが北千住〜杉戸の速度向上で、この為に越谷変電区を新設するなど万全を期しました。旅客だけでなく貨物においてもスピードアップを達成し、最も速いもので業平橋〜新伊勢崎をそれまでより29分も短縮したそうです。

 車両面では前述した通り、特急は全て5700系列が担当し、それまでの主力53系は急行運用に格下げされ、車両には判別用にライトブルー帯が塗装されました。
 そんな中、格下げされた53系を使用した伊勢崎線の急行列車が昭和28年11月1日より浅草〜新桐生で運転が開始されました。これは当時上野から両毛線方面を走っていた準急列車・大利根号と比較しても40分以上も早く到着し(途中の足利だと54分も違いました)、かねてから伊勢崎線に快速列車の設定を沿線自治体からも歓迎され、東武の伊勢崎線急行列車が誕生しました。これが今も走る特急・りょうもう号の始まりです。
  伊勢崎線に沿線の工業地帯と都心を結ぶビジネス急行が誕生しましたが、観光主体の日光線特急と違いシーズンによる旅客数の変動が少なく、乗車効率が高く次第に設定列車が増やされる事になります。

“地元の強い願いと東武の努力とが一体となつて生まれたこの優秀列車を、早いばかりでなく、悠つたりとした旅行が楽しめるようにわれわれは利用者の心となつて、温かい手で守り育ててゆきたいと思う。”(交通東武 昭和28年11月5日発行通巻78号より)

 この一文を読むと今も元気にビジネス特急として走り続けるりょうもう号が頼もしく見えてきますね。

 一方、日光線特急で言えばこの時間短縮により浅草〜東武日光の所要時間が最速で136分となり、ようやく戦前の最速到達時間に並ぶにまで復活しました。

 しかし戦前の最速では満足しない東武鉄道では、翌1954年(昭和29年)8月3日・4日の2日間で日光線にて高速試運転を行っています。
 この試運転にはカルダン駆動の5720系が使用され、浅草〜下今市を1時間50分30秒で走破し日光への2時間以内での運転に含みを持たせた試運転となりました。
 今後のスピードアップの為には、当然カルダン駆動の車両を使わなくては成し得ない訳ですが当時東武にいたカルダン車は度々の改良を得ても頻繁に故障を起こしており、新たなカルダン車両の製造が必要と考えられました。

 その後1956年(昭和31年)2月に登場予定の日光線の新型特急車両の製造と平行して昭和30年から昭和31年3月末まで日光線のスピードアップ工事が行われました。大きな内容としては、明神〜東武日光の複線を復活させる事です。
 他には杉戸〜新栃木、新栃木〜家中、明神〜東武日光を自動閉塞信号に改良して保安度の向上とタブレット閉塞解消による時間短縮、構内改良や高速度分岐器への交換等が行われました。

 そして昭和31年2月、14日・19日・23日・29日と4日間に分けて新型特急車両1700系4編成8両が西新井工場に到着しました。

 1700系特急列車は、機能面と接客面どちらにおいても完璧とも言える姿で登場しています。
 まず車体がそれまでの張殻構造から準張殻構造(それまで台枠のみで全荷重を負担していた為に車体の強度を高くする必要があり重量増となっていたのを、荷重をうまく分散し台枠だけでなく側溝が負担する様にした構造)に改められ、車体の軽量化を果たしました。(5720系カルダン駆動車と比較しても5t近くの軽量化を果たしています)
 駆動方式は5720系同様のカルダン駆動方式を採用しましたが、1700系では故障続きだった直角カルダン方式ではなく中空軸平行カルダン方式を採用しています。中空軸平行カルダンやWN駆動方式は前述した様に5720系が登場した同年に京阪1800系にて採用されておりこちらは不具合もなく実用化されてます。直角カルダンに比べると早い段階から信頼出来る方式だったのが伺えます。
 しかしこれも上の方で述べましたが、京阪みたいに標準軌の場合は枕木方向のスペースが広い為、大出力の電動機においても問題なく配置する事が出来ましたが、当時の狭軌ではスペースの問題から直角カルダン以外の採用が難しい点がありました。
 これらの問題を解決する為に考え出されたのが、電動機の出力を抑えて狭いスペースでも電動機と継ぎ手を配置するようにしようというものでした。しかし出力を抑えると性能が確保出来ない事からこの時期には全電動車方式を取るケースが多々見受けられました。
 東武1700系もその例に漏れず、従来の主電動機出力110KWよりも弱い75KWの主電動機を搭載しながら、東武初の全電動車方式の2両2Mで登場しています。
 しかし全電動車方式は当然製造コストが上がってしまうので後々各社において問題視されていきます。
 もっともこの頃になると技術も進み、直角カルダン方式を採用した東急5000系(初代)は5720系登場の翌年から量産され100両以上が製造されており、直角カルダン採用のおかげで狭軌鉄道ながら110KWの大型主電動機の搭載を実現しMT比1:1を確保し、性能面・経済性を両立した車両として評価されています。また中空軸平行カルダンにおいても既に狭軌鉄道において110KWの大出力電動機を搭載しMT比1:1とした電車(富山地方鉄道14770形)も登場しています。ですので当時では直角カルダン以外でも大出力の主電動機を使うという選択肢もあったと推測されますが、何故1700系は全電動車方式が採用されたのでしょうか。
 それは急勾配の続く日光線での高速性能や加減速向上の為に全電動車で製造するのが得策と判断されたと想定されます。
 また1700系では東武鉄道では初めて本格的に発電制動を採用した点も見逃せません。運転最高速度を上げる事は即ちブレーキの性能を高める事も絡んできます。ですのでブレーキの性能を高める事はスピードアップにおいて非常に重要な事です。では何故発電制動が有効なのでしょうか。

 余り電気工学に詳しくないのでいろんな所で読ませて頂いた文献を参考に書きますので稚拙な表現はお許し頂きたいと思います。
 電車が動く際はモーターに大きな始動電流が流れ、界磁コイルから磁界が発生すると、電機子(回転子)が回転し、車軸が回転してゆきます。これがフレミング左手の法則の状態であり、徐々に電機子の回転数が上がります。しかしこの時、同時にフレミング右手の法則が発動し、モーターが電動機と同時に発電機と同じ状態になり、逆方向の電力を発生させていきます。
 これを逆起電力と言うそうで、すなわちモーターが加速しつつも逆の力も加わる状態となり、これをそのまま放っておくと駆動電力と逆起電力の力が同じになってしまいそれ以上加速が出来なくなってしまいます。
 そこで、より高速で走る為に逆起電力を発生させる磁界の力を弱める事で逆起電力を抑えてより高速で走れる様にする"弱め界磁制御"というのが使われています。これは界磁コイルへ流れる電気のみ回路を分ける事で界磁の力を弱め、逆起電力の力を弱めます。しかし電機子にはそのまま電気が流れ続ける為により回転速度を上げる事を可能としています。弱め界磁を採用せずに全界磁だけで走るとある一定の速度で頭打ちとなってしまうのです。
 抵抗制御において直列○○段、並列○○段、弱め界磁○○段と紹介されているのはそんなイメージなんだなと…。(直並列制御については割愛させて下さい)

 さてここで強引に発電制動の話に戻します。発電制動は加速時に邪魔をしていた逆起電力を利用して制動力を得ようというものです。加速が完了し惰性走行時は完全に電機子の回転のみでモーターが働いている状態ですが、ブレーキ時に回路を切り替えて電動機を電源から切り離し発電機のみの状態とします。
 すると先に説明した弱め界磁制御の考えとは逆の逆起電力のみを発生させて運動エネルギーを徐々に減らす、これが発電制動の流れです。(素人表現なのでこれでも相当簡略化して説明しています。ですので専門分野の方から見れば表現に間違いがあると思われるでしょう。そこら辺はお許しを…)
 ブレーキに利用した逆起電力は抵抗器で熱エネルギーに変換して外部へ放出します。また発電制動は力行時同様抵抗を短絡しながら抵抗値を変えてブレーキの制御しています。その為に抵抗制御同様に発電制動も○○段と段数で表現するようです。
 発電制動ではそれまでのシリンダー圧で制輪子等を車輪に直接当てて速度を落とす空気制動(摩擦ブレーキ)と違って雨・雪・下り勾配においても強力で安定したブレーキ力が得られます。しかも制輪子(ブレーキシュー)やブレーキローターを使用しないという事はそれらの使用サイクルを伸ばす事が可能となる利点もあります。また単純に車輪の磨耗も軽減されます。
 以上の機能が特に長い下り勾配や急勾配の多い路線で重要だと言うのはお分かり頂けると思います。この機能が無い場合は安全が確保出来ない為に下り勾配時は逆に速度が出せなくなってしまうのです。(当然下るだけなのでスピード自体は出せますが、安全に止まれないという危険な状態となり事故のリスクが格段に高まってしまうのです)
 しかし発電制動の性能は力行時と違い、高速域での高い電圧を抵抗器で引き受ける事となるので必然的に主抵抗器の倍以上の容量の抵抗器が必要になり、抵抗器の数が増え重量増となってしまいます。
 更には電気を抵抗器で熱にして外部に放出するので夏場発電制動車に当たると駅に停車する度に床下から凄まじい熱気が上がり嫌な思いをするといったデメリットもありました。また当然空気制動だけに比べると構成する回路も複雑になるそうで、すなわちメンテナンスが大変と言う事です。
 更に、発電制動はモーターが必要なので付随車では使えません。つまり付随車が増える程性能が下がります。そういった意味で東武1700系の全電動車方式は急勾配が続く日光山岳区間を走行するにはうってつけの仕様と言えるのではないでしょうか。
 また発電制動は逆起電力を利用するのでモーターの回転力が高い程効果が大きいのですが、速度が下がってくる=回転エネルギーが小さくなって来ると発電制動の効力もどんどん落ちてきます。そして発電制動では列車を完全に停車させる事が出来ません。その為、電空併用ブレーキとして、電気ブレーキが失効してしまう低速域では従来通り空気ブレーキで停止させるといった流れを取らなくていけません。
 ※最近のVVVF車でよく聞かれる純電気ブレーキや全電気ブレーキとはVVVFインバーター制御のおかげで停止直前まで電力回生制動(発電制動とは違ってブレーキに使う電気を熱としてでなく架線に戻し再利用する方式)が使える様になり、回生制動が効かなくなる停止寸前の速度時にモーターに微量の電気を与え逆の回転力を発生させて停止させるというのが主流になっています。ここでも停止後に即座に空気ブレーキで制輪子やディスクブレーキで完全停止状態となります。だから最新の車両でも摩擦制動を完全に排除する事は出来ない状態となっています。まぁ当然と言えば当然でしょうか。すいません、ちょっと話が逸れましたね(汗)

 素人らしい怪しげな説明文で、多分に間違いが含まれているという自信はあるのですが、理解に乏しい為にこういうのはちゃんとした文献でお勉強される事をおススメします。

 何にしても、1700系はそれまでのカルダン駆動車の5720系や5800系の様に頻繁に故障する事がなくなったのも大きな進歩と言えます。そしてこの1700系が誕生する過程で5720系による高速試運転が行われ、その試験結果が反映されているのを事を忘れてはいけません。

 車内で言えば、画期的なのがリクライニングシートの採用です。他私鉄や国鉄でも特急列車に徐々に採用されていきますが、1700系は日本最初とまではいかずともかなり早い段階での採用となっております。これによって快適性が格段に増したのは間違いないでしょう。
 室内灯は蛍光灯が採用されていますがグローブ付きとなっており、2両組成のうち、浅草方には売店、日光・鬼怒川方には洗面室とトイレが設けられ車両間の扉には扉大のガラスがはめ込まれ豪華な雰囲気を醸し出しています。1700系は急行用に青帯を巻いていた5700系に対して白帯を巻いて登場しております。

 1700系はその後、業平橋での社内展示、3月6・7・8日の3日間でレセプション(招待会)が開催され、大きな期待を持って迎え入れられています。そして昭和31年4月1日のダイヤ改正より就役し、スピードアップ工事と新型車による高性能な走り(最高速度95km/h→105km/hにアップ)が実を結び、ついに浅草〜東武日光を2時間を切り119分で結ぶ様になりました。
 なお1700系4編成8両の就役によりそれまでの特急の主役だった5700系・5710系の8両は急行用(日光線急行・伊勢崎線急行)に格下げされました。ちなみに残った4両はカルダン駆動の5720系で、こちらは格下げされずに特急用として他の5700系とは違い白帯を巻いて1700系と併結して運用されています。最高速度や出力の違いから(1700系の方が低出力ですが…)、併結時には1700系は5720系の性能に合わせ走行し、5720系も駆動装置もそれに合わせて度々改造、改良が行われたそうですがそれでも故障が頻繁したようです。既に直角カルダン自体の技術も進んでいたにも関わらず結局うまくいかなったのは何ででしょうか?様々な不具合があったものと想定されますが、こんな状態では以降東武鉄道が直角カルダン方式を放棄したのも仕方の無い事かもしれません。

 そんなこんなで1700系は翌年にも2編成4両(マイナーチェンジの1710系)が増備され、ついに悩みの種であった5720系を特急から撤退させ、急行用(青帯車)に格下げしました。増備された1710系は外国人観光客を考慮し洋式便所を備えて登場しています。和式便所も備えており、これは後々の特急車にも受け継がれてゆきます。他ではトイレを増備した事でスペースの関係から一部の非常扉が廃止され、扉の数自体が減っているのも1710系の特徴です。

 本線側の話ばかりで盛り上がっていますが、東上線側でもスピードアップ、輸送力増強の工事が行われました。昭和28年2月より志木〜川越市の複線化工事が開始され、翌29年9月29日に完成しました。同時に自動閉塞化も行われ輸送力の向上とスピードアップにより沿線は瞬く間に開発され輸送量が増えて行きます。
 またこの複線化が完成し、池袋〜川越を30分、池袋〜寄居を90分でそれぞれ通勤特急で結ぶという目標が掲げられました。川越を都心に近くする事で発展させ、秩父鉄道沿線の利用者を熊谷から国鉄を利用するのを東上線経由にする事で利用者増を狙ったものです。結果的に通勤時のこの計画は達成出来ませんでしたが、その後池袋と川越は30分で結ばれこの区間における東武鉄道の優位性を不動の物としています。その後東上線は高度経済成長の昭和30年代以降川越市から更に北へ複線区間を延ばして行きますがそれは後々触れて行きたいと思います。


 以上の様にスピードアップの為に莫大な設備投資を行ってきた訳ですが、東武鉄道100年史によれば昭和29年度・30年度の両年度に渡り総額30億円に上る輸送力増強計画を行いました。
 上記で説明した以外では本線・東上線の混雑緩和の為に78型の製造を進め、熊谷線のディーゼル化に伴いキハ2000形を3両新造、西新井工場の拡張、変電所の増設、野田線の輸送力増強策(大宮〜岩槻の単線自動化、その後北大宮〜大宮公園間の複線化、大宮駅をはじめとした駅の改良など)が行われています。

 戦後の貧困に苦しんだ事情を考えると嘘の様に投資も拡大してゆき、ようやく終戦から戦前の状態に戻りました。それどころかそれをはるかに上回る状態にまで復興したと言えます。

 一部は昭和30年代に入って紹介させて頂きましたが、終戦から復興までの東武鉄道の動きを紹介させて頂きました。東武8000系の歴史の紹介の割には脱線し過ぎではないか?と思われるかもしれませんが、この後東武8000系を紹介する際に関係してくる項目もあります。少なくとも文章を編集していた私はそう感じました。私自身、参考文献片手に調べるのみですので、一部説明が足りていない場所や間違いを書いている場所等があると思いますが、もしお気付きな点があればご指摘頂けると幸いです。私も間違ったまま覚えていたくはありませんので宜しくお願い致します。

 第2章ではいよいよ東武8000系が登場する昭和30年代以降を紹介していきます。8000系が誕生する昭和38年までには営団地下鉄日比谷線との相互直通運転の開始やデラックスロマンスカーの登場、7800系の大量増備などまたまた横道に逸れてしまう内容だらけになってしまうと思いますが、歴史を振り返る意味で読んで頂けると幸いです。

2011年10月30日編集
2011年12月3日編集(意味不明な文章があったので改訂)
2012年1月23日編集(一部改変。結構意味不明な文章が多いですね…)
(今後改変する場合があります。ご了承を)

参考文献
●鉄道ピクトリアル(株式会社電気車研究会)
1972年3月臨時増刊号 通巻263号
・東武鉄道特急列車変遷(花上嘉成氏 東武鉄道運転車両部工場課)
・私鉄車両めぐり〔91〕東武鉄道(青木栄一氏 都留文科大学助教授・理博、花上嘉成氏)
1961年4月号 通巻117号
・私鉄車両めぐり〔44〕東武鉄道の電車その3(青木栄一氏 東京教育大学大学院生、花上嘉成氏 東武鉄道西新井工場勤務)
2003年1月号 通巻726号
・私鉄高性能電車は何をもたらしたか(曽根悟氏 工学院大学電気工学科教授)
・私鉄高性能電車における技術の変遷(真鍋祐司氏 京都大学鉄道研究会OB)
1997年12月臨時増刊号 通巻647号
・浦原利穂コレクション 終戦直後の東武鉄道(浦原利穂氏)
●鉄道ファン(株式会社交友社)
1995年11月号 通巻415号
・戦火をくぐり抜けた電車たちの記録?東京の私鉄電車(浦原利穂氏)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武(東武鉄道株式会社)
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)

※文中の写真は全て筆者が撮影したものです。



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