東武8000系の歴史

6.バブル期の8000系(1)<現行塗装色誕生と修繕工事の開始へ>

〜バブル時代突入と昭和も終わりへ〜

浅草駅ネオンサインもバブル時代に出来ました
↑かつての浅草駅を彩ったシンボルネオンも昭和62(1987)年4月15日に点灯式を迎えました。
これもバブル期の華やかさを示すエピソードの一つと言えます。

 昭和50年代も終わり、昭和はついに60年代へ。
 今回はどういう区切りにしようかなという事で昭和50年代は丸々セイジクリームの時代だったという事でそういう分け方が良いなと思いましたが、出来れば次は1990年代とかそういう訳方にしたいものです。しかし90年代というとそれも区切り方として微妙に感じます。
 となると今回はバブル時代というのが一つのキーワードになるなぁと感じたものです。

 私が生まれたのは昭和59年であり、昭和61年に千葉県野田市の梅郷駅から徒歩30分以上、車(バス)でも10分は掛かる場所に両親は新居を構えました。
 今東京都内に住んでいる事を思うと僻地とも言える場所ですが、こういった場所ですら当時の新興分譲住宅は数倍にも及ぶ倍率の抽選となり、数千万のお買い物だったそうです。
 しかし今思うのは1986年だからバブル時代に既に突入していた頃であり割とこれが普通な世の中でした。むしろあと1、2年遅れていたら我が家もとんでもない事になっていたのでは?と感じる程です。

 昭和48年のオイルショックにより戦後初のマイナス成長を経験し、高度経済成長期が終わってしまった日本でしたが、省エネルギー政策を積極的に推し進め世界でもこの不況からいち早く脱却した事でまた順調に成長し続ける事となりました。
 東武としてもオイルショックの影響を受けた直後は設備投資を一部凍結した事もありましたがその後すぐに復活し更に以前よりも勢いが増した印象があります。セイジクリームゆえに地味な時代でしたが調べてみると以前より成長してないか?と感じる所があります。あくまで印象ですが。

 結局日本は円安によって海外への輸出による貿易黒字が拡大し世界2位の経済大国とまでなったのですが、逆にアメリカの貿易赤字が拡大し続けた為に日本を含めた先進5か国によるプラザ合意によってドル安(円高)へと傾く事となりました。
 それ以前も1ドル360円の時代から円高ドル安になると輸出産業の経営が悪化する事もあり(今のトヨタとかそうですもんね)、それが1ドル300円ぐらいだったり200円ぐらいだったりでいろいろと変化がありました。プラザ合意前が1ドル約240円だったのが、その後一気に1ドル約150円ぐらいまで急激な円高ドル安となり輸出産業は壊滅的な被害を受ける事となりました。
 その結果、輸出産業は安価な海外に工場を構える事となり特に発展途上国の成長に寄与した事、国内では内需を刺激するしかないと公共事業拡大や金融緩和政策が推し進められました。

 で、ここから要約すると内需拡大って事で設備投資にお金を一杯使ってくれ、通貨の流通を促そうって事を推し進めたのですが、設備投資するより当時日本の成長に併せて価格が上がり続けていた土地の取引きに大金をつぎ込んで価格が上がったら転売すると本業より儲かるじゃないかって感じな流れが加速したそうです。
 不動産投資に対して銀行の融資が加速してそれをみんなが続けてどんどん土地の価格が高騰し、みんながみんな利益を得まくっていました。
 また株式市場においても1987年10月にブラックマンデーという世界同時株安が発生したのですが、日本は折からの好景気によりその影響をいち早く脱出した結果日本株の信用が世界的に上がった事から取引が更に活性化し株価もどんどんと上がっていくみたいな動きが起こりました。

 という感じで、土地は高騰しまくって日本全土の土地価格でアメリカ国土の倍以上の価格になるわ、日経平均株価は40000円近くまで上がるわととんでもない事になりました。
 しかしこれらは冷静に考えると説明不可能な程の高値となってしまったので、実体経済とは大きくかけ離れた危険な状態となりました。超絶要約していますが、このどんどん膨れていくけどちょっと外力を加えたらすぐにはじける泡のような不安定な状態という事でバブル経済と言われたそうです。
 で、おかしいぞ?となった頃に政府が引き締めの政策を次々導入したら一気に世の中は現実世界に引き戻された。というだけなら良かったのですが、それで留まらずに株価は一気に半分にまで下がり高騰し過ぎた土地は価格が下がったりという事でバブル期は終わりを告げた(バブル崩壊)という動きとなったのですが、これが1986年〜1989年のわずか数年で起きた出来事だった訳です。
 実質的にバブル崩壊後にも景気の良いニュースが次々飛び込んで来ていたので、それらを含めてバブル時代なのかもしれません。なのでそこら辺を含めて1992年ぐらいまでが今回該当する範囲とします。

 しかし何が一番怖いかというのは後から振り返ればこんなん当たり前だろって思う事がその当時はほとんどの人が気付けないという点ですよね。
 実はバブル時代も一般人は始まってから2、3年後に影響を実感し崩壊してから2、3年後にその影響を実感したという事です。
 今の時代もそうですが先を行く人が新しい事をやると、真意を理解出来ない識者や何も知らない一般人はそれを叩くが2、3年後にはそれが一般化し、一般化した頃には成功者は次の事をやっている。という流れと同じじゃないでしょうか。

 長くなりすぎた(汗)
 という事で未曽有の好景気を迎えた日本でしたが、そんなこんなで溢れたお金は隅々まで流通しみんながお金に余裕が出来る訳ですが、土地の売買は高騰し過ぎるもんですから手が出せずに高級車や海外旅行(円高もプラス)、ブランド品、高級ディスコにお金を使うという動きが同時に加速したのです。これがバブル期は人々の羽振りが良かったと言われる所以ですね。

 東武鉄道もこの好景気な時代本当にいろいろな事がありました。本当にいろんな変化が起こりました。
 車両の塗装色変更、車両デザインの変更、新型通勤車両の登場(地上・地下用両方で世代交代の実施)、バブリー特急スペーシアの登場と続けてりょうもう号も新型車両登場による特急・急行車両の世代交代、営団有楽町線相互直通運転開始、東武博物館の誕生、池袋東武百貨店の増床、野岩鉄道・会津鉄道への直通運転といった新時代への移行が起こる一方で、6000系、5700系、DRCの引退による世代交代も立て続けに発生しました。
 こんなに動きが激しかったのは歴史上初めてじゃないかなって感じます。そこら辺の動きを載せていきつつバブル期(1985年〜1992年)の8000系達の動きを振り返ります。


〜昭和60(1985)年突入 一気に冷房車84両増備(新車28両、改造56両)〜
<10000系新造、78型更新に加え6000系の更新へ>


 まだまだ非冷房の車両が残る東武鉄道でしたが、2000系と3000系列が全て非冷房に加え、わずかに残る78型もそうでしたが何より日光線快速の重責を担う6000系も非冷房でした。
 10000系は昭和60年度には8両固定3編成(11803F,11804F,11805F)と2両固定2編成(11203F,11204F)の合計28両が新造されます。8両固定編成3本は東上線へ2両固定編成2本は本線配置となります。
 78型更新車は6両固定6編成36両(5178F〜5183F)となり、これらが完成すると78型の更新工事も完了となります。
 そして6000系ですが、東武鉄道と相互直通が予定されていた新規開業路線の野岩鉄道・会津鬼怒川線(新藤原〜当時国鉄会津線・会津滝ノ原)への直通に際して、快速車両である6000系の全面的なリニューアルという事で車体を完全新造の物に載せ替えを行い冷房化も同時に行うという更新工事が行われる事となりました。6000系22編成44両も冷房化される事が確定したのです。

 8000系の増備が終わり、10000系新造車も増えつつある中で、東武の旧型車両の消滅、6000系の更新工事と一気に雰囲気が変わりつつある時代でした。
 この時代は新型車両の増備が特段多かったという印象は無いのですが、とにかく78型の更新と6000系の更新がハイペースで行われたって印象です。


〜昭和60(1985)年9月1日 本線ダイヤ改正実施〜
<急行りょうもう号第二次スピードアップ実施と本線通勤車の4両運用解消>

 この時代も毎年ダイヤ改正が実施されていた時代でした。常に利用客は増え続ける為に混雑緩和、そして終電延長等による利便性向上がたゆまなく行われていました。

<変更点>
1.10000系増備により平日に残った4両運用の解消へ。
→6000系使用の普通、準急、快速を除きほとんど6両編成以上で運転されていた浅草・北千住口でしたが、最混雑時間帯への車両集中により平日は未だに準急を含め4両運用が残っていました。
 今回10000系2両固定2本増備に伴い平日に残っていた13運用が4両から6両化されました。これによって編成が統一化される事となり混雑緩和につながっています。

2.午後ラッシュ時間帯の準急増発と準急運転時間の拡大。
→もはや恒例となっていた午後ラッシュ時の普通の準急格上げ化ですが、今回も混雑時間帯で3運用が実施されました。
 またそれまで浅草22:20発準急館林行きが最終準急だったのですが、同22:40発(普通の格上げで対応)、同23:00発(新設)のいずれも準急幸手行きが2本誕生し下り準急の運転時間が40分も拡大しています。これも恒例ですが普通の準急化に伴い日比谷線直通普通の行先延長等で準急通過駅の輸送についてカバーしています。

3.伊勢崎線久喜口の準急増発。
→久喜〜館林間の輸送量増に伴い今回も朝下り1本、夜上り1本の準急が設定される事となりました。いずれも改正前は館林以北で運用されていた区間列車でしたがこの運用をそれぞれ浅草発着の準急に延長運転して対応しています。

4.小泉線、佐野線の学生輸送列車増発。(1運用ずつ)

5.浅草18:05発きぬ135号を18:00発に変更。
→発車時間も分かりやすいのですが、新栃木の到着時間が従来より10分早くなった結果それまで新栃木での接続が通勤快速・東武宇都宮行き(+東武日光行き)だったのが1本前の栃木始発の東武宇都宮行きとなり宇都宮線沿線に帰る利用客にとっては利便性が上がったと言えます。
 そもそもそれまでは東武宇都宮まで帰るなら15分早い通勤快速に乗れば事足りるという。快適性は段違いなんでしょうけど。

6.本線終電延長
 草加行きだったり竹ノ塚行きの最終電車を行先延長運転を行う事で、最終電車時刻が繰り下げとなりました。主な駅ですと、北越谷+10分、北春日部+38分、東武動物公園+15分、幸手+43分と終電が延長されています。
 ここ数年間で幸手の利便性がどんどん上がっていきます。これは新駅開業待った無しですね…。

7.第二次急行りょうもうスピードアップ実施

 今回改正の一番の目玉かもしれませんが、昨年改正に続きりょうもうのスピードアップが実施され、予定通り浅草〜館林間最高速度105km/h化と館林〜太田の最高速度100km/h化が達成されました。
 前回改正で東武動物公園〜館林が最高速度10km/h向上し今回更に5km/h向上した事に加え、館林以北も10km/h向上し浅草〜赤城間は2年前に比べて15分近く短縮される事となりました。
 また休日ダイヤにおいてりょうもうが1運用増発される事となりました。(浅草18:10発赤城行き)

 という感じな改正内容となっています。伊勢崎線のスピードアップが大きな話題ですが一方で浅草口でわずかに残っていた平日の4両運用が解消される事となりました。
 細かい所の問題が解決した所で、次に待ち構えるのはいよいよ本線初の10両編成運転開始となります。幸手の利便性向上はこの地区の成長を見据えての事だったんだなと今更ながら感じます。

〜電車のカラー一新へ〜
<ジャスミンホワイト基調にラインカラーの入った配色へ>

3代目塗装誕生へ
↑セイジクリーム1色からジャスミンホワイト基調で幕部ロイヤルブルー、窓下部にリフレッシュブルーと
ロイヤルブルーのラインを入れるというそれまでと全く異なった良い意味での明るさを印象付ける塗装が採用されました。

 翌年に控えた野岩鉄道への乗り入れに向けて6000系を車体更新工事により冷房化改造やデザインを一新する事になりましたが、東武がお世話になっているアルナ・東急・富士重工の3社によりハイペースで実施されていました。その更新スピードは1編成2両と短いと言えど約1か月程度で工事を完了というとんでもないペースです。
 そんな折、東武鉄道より電車のデザイン・カラーを一新という発表がされ、6000系は更新され全く新しい車体に載せ替えた新車同様の見た目となり、8000系を筆頭に5000系列、3000系列の塗装がセイジクリーム1色の地味な塗装から塗り替えられる事となりました。
 この第一陣が館林検修区所属の8543Fとなり昭和60(1985)年9月26日が試運転日となり、10月より営業が開始される事となりました。(実際は出場日からして9月末頃から走り始めたと思われます。)
 また6000系の更新第一陣は6103Fとなりこちらは10月下旬に出場予定で11月から運転開始予定とされました。

 上の画像も、何でこれを選んだのか微妙な感じもありますが、まず純粋な原型8000系の画像を持ち合わせていないからとしか言えません(汗)
 毎度恒例となった当時との違いですが、
1.新塗装になった時点では正面の番号はペイントされず側面の切り抜き文字は撤去され、記号・社名無しの番号表示のみとなりました。
2.正面の上部灯はまだ撤去されず残されていました。(使用していたかどうかは不明です。)
3.正面がLEDに改造されてますが当時は当然幕式のままでございます…
4.東上線用の車両だったので正面サボ受けが撤去されていますが当時はまだありました。

 この新塗装はまず昭和58年8月改正で荷電運用が消滅した際にモニ1473にセイジクリーム地の所にブルーの帯を1本窓下に入れる所からスタートしました。この段階で青を採用したいって考えがあったようです。
 その後日本カラーデザイン研究所とイメージスケール法による車両色の検討を行い、一般的に好まれている鉄道にはクールソフトイメージの車両が多いという結論からこの色が採用されたそうです。
 西新井工場では8543Fの塗装に先んじて、車籍無しの入れ替え専用車(旧上毛デハ161号)をこの新塗装に塗り替え、確認の上8000系他の塗装変更が開始されました。
 しかし塗装設備の関係からか、西新井工場では2両固定編成しか新塗装での塗装を行わず4両固定以上については引き続きセイジクリームに塗装という事になってしまいました。なのでこの時にセイジクリームで出場している編成が後々最後の方まで旧塗装で残る事となってます。
 一方で元々短い編成の相手をしていた杉戸工場では4両固定編成も新塗装での出場となっています。また日比谷線直通用の2000系電車については地上車と見分けを付けたいという理由でセイジクリームのまま塗装されるという事となっています。

 またこの頃更新工事を終えた6000系更新車は勿論の事、5070系更新車も新塗装で車両メーカーから出場しています。

 こんな感じで3代目塗装が誕生し塗り替えがスタートしました。良い色ですよね。私の世代的には8000系はこの色に更新顔ですね(汗)

〜昭和60(1985)年10月22日 東上線ダイヤ改正〜
<長編成化推進と池袋口朝ラッシュ時優等輸送力強化+国鉄埼京・川越線対策の増発>


 まず本題とそれますが、東上線ではこの前年にダイヤ修正が行われていました。昭和59年8月に高坂駅から分岐していた日本セメント関係の貨物列車運転が廃止される為の修正でしたが、この頃になると国鉄の分割民営化は規定路線となっており特に地方の輸送や貨物輸送に対しての削減、効率化の動きが加速していて東武鉄道の貨物輸送も国鉄に併せて大幅に削減される情勢となっていました。
 昭和59年の貨物輸送一部廃止については石炭の発掘量が減って来た事でトラック輸送で事足りるという為の廃止になったそうですが、貨物輸送が削減されればその分ダイヤに余裕が出来るので一般車両の運用にプラスに働きます。

 1年後のダイヤ改正は国鉄分割民営化前最後の改正に併せて貨物輸送が大幅に変更される事から東上線の貨物全面廃止や本線側でも大幅に貨物輸送が削減される改正となるので、有楽町線直通開始前最後の通勤輸送改善のダイヤ改正が今回の内容となっています。

<変更点>

1:朝ラッシュ時準急列車の増発(普通の格上げ)
 前回(昭和58年8月)ダイヤ改正で池袋口朝ラッシュ時の平行ダイヤが廃止され準急の追い越し運転が開始され所要時間短縮が図られました。
 この事から準急に乗客が集中するという事から準急をそれまでの10分間隔程度から8分間隔程度に増発したのですが、乗客の集中は予想以上に激しかったので同時間帯の普通2本を準急に格上げする事となりました。これにより準急は約6分間隔となり同時間帯で準急の輸送力が30%程度強化されています。

2:国鉄川越線電化開業への対策として志木以遠の輸送力増強。
 1985年9月30日に国鉄埼京線が開業し、沿線に埼京線車両の車庫が建設される事から川越線も同時に電化開業が行われ、非電化ローカル線だった国鉄川越線が東上線の競合路線として台頭する事となりました。この頃になると川越から池袋の輸送は国鉄・東武・西武の三つ巴と言われる様に盛り上がりを見せていましたが、東上線からしたら有楽町線延伸による成増付近の対策もある時に川越付近の輸送力転移の対策を迫られる事となりました。

 という訳で上福岡始発2本を川越市始発と森林公園始発にそれぞれ延長し、志木始発1本を川越市始発に延長としラッシュ時間帯で川越市始発を合計3本増発し待たないで乗れる東上線とアピールする事となりました。まぁ全部各駅停車なんですけどね。(川越線はご存じラッシュ時1時間辺り4本の通勤快速が運転されていました。)
 また志木始発1本を上福岡始発に、成増始発を1本志木始発に延長も同時実施し各所で増発が行われました。

3:列車の長編成化の推進(池袋着7:00〜9:00の間でようやく6両編成の電車が消える)
 ラッシュ時間帯に未だに6両編成電車が2本残っていましたがこれが8両化され、8両編成電車についても混雑が激しくなっていたので10本の列車が8両編成から10両編成に増強される事となりました。
 これによってラッシュ時間帯の池袋口輸送力は10%増強、志木口では本数増と合わせて20%の増強となり混雑緩和を図っています。

4:夕ラッシュ時下りの長編成化と急行の運転時間拡大
 池袋19:00〜20:30発の川越市止まりの列車2本を森林公園行きに延長し同時間帯の川越市以北の運転時間を17〜19分間隔から10〜14分間隔に短縮した他、この時間帯の下り急行および準急8本を8両編成から10両編成にして輸送改善を実施。

5:越生線輸送力増強(朝ラッシュ時1本増し1時間4本から5本に増発)

6:早朝の志木〜川越市間においても列車増発を実施。

 以上が改正内容となっており、これに伴い10000系8両編成3本を増備しましたが、24両増備に伴いダイヤ改正に必要分は18両となっているので8000系6両固定編成1本(8166F)を春日部区に転属し車両数の調整を行っています。

編成番号転属時期転属先転属理由
8166FS60(1985)/10/17森林公園→春日部10月22日ダイヤ改正に伴い10000系24両増備に対し必要数18両の為の調整分。また直後に控える野田線ダイヤ改正の増発分。(野田線へは5070系更新車を配置)

 有楽町線直通運転開始前の最後の改正はこの様な動きとなりました。準急を増発したもののこれでもまだ足りない印象もあったしそもそも東上線の強みは優等運転にあったのは明らかだったと思います。なので有楽町線直通運転開始時には完全に優等1:普通1の割合の運転に改められますね。ここら辺はまた後程。

〜6000系更新車6050系誕生〜


あまりにも便利な存在だったので東武一の人気者として君臨してきた6050系。
↑6000系を車体更新し誕生した6050系。余りにも便利過ぎる存在だったので東武一の人気車両と言えます。
この更新工事によってイメージは劇的に変わり冷房化も達成され非の打ちどころの無い存在になりました。

 昭和60年10月24日に6000系最初の更新編成(旧6103F)となった6151Fが改造を終えてアルナ工機を出場しました。更新車は6050系として番台も区別され6000系とは一線を画す存在となりました。
 床下機器は一部が流用されていますが車体は完全新造で冷房化が行われ、正面スタイルはその後の東武の標準顔となる程に整ったスタイルとなり、まさに大変身を遂げました。本当にかっこいいですね。
 6151Fは10月28日、29日に業平橋で社内展示が行われ11月15日から運用を開始する事となりました。6050系は6000系とも連結出来る様に対応しており一時期はこの混結編成が見られる事となりました。

 毎度恒例となった登場当初との違いですが、
1.新塗装になった時点では正面の番号はペイントされず側面は記号・社名無しの番号表示のみとなりました。
2.10000系同様に当時は電気連結器は装備されず、密着自連+ジャンパー栓のスタイルで6000系との連結にも対応していました。
要は…スカートや連結器付近が8000系更新顔みたいなイメージですね(汗)

 本当は長々と解説したい車両ですが時間があれば別の機会でやりたいと思うので割愛します。こうして6000系から6050系への更新工事は急ピッチで実施される事となっていきます。編成によっては最速で2週間程度で更新工事終わったみたいです…速過ぎる。。。
 また車両メーカー3社により急ピッチで更新工事を行う関係で野岩鉄道用の6050系100番台1編成2両(61101F)を先行新造(昭和60年12月4日竣工のアルナ工機製)して車両不足を補う事となりました。
 この61101Fは6000系更新工事が終わるまでは東武鉄道が所有し、工事完了後に野岩鉄道に譲渡すると位置付けとなっており、この編成のみは完全新造の6050系となっていました。

昭和60(1985)年11月19日 野田線ダイヤ改正+本線小改正
<オール6両編成化達成と車両の大型化推進へ>


 前回改正で8000系が転出し再度釣り掛け電車王国に逆戻りとなった野田線に動きが起こります。
 大宮、柏、船橋という国鉄でも有数の首都圏の大都市駅をそれぞれ結ぶ野田線は郊外へ住む人口が増え続けるに連れてますます利用者は増加し、昼間時間帯においても利用効率の高い路線となっていました。
 また東武に限定しても本線伊勢崎線と接続する春日部駅も途中にある事から本線沿線からの乗り換え客も増え続け、新柏ニュータウンの誕生と新柏駅が開業してから柏口(新柏方)の利用者も増加していました。
 この為、主要口の改善を優先し輸送力増強が遅れていた春日部口と柏口(新柏方)の輸送改善も実施されています。
 そしてラッシュ時大宮口にわずかに残っていた4両編成列車を今回改正を機に6両編成に置き換えた事から全ての編成の6両運転が開始される事になり、輸送力増強面、運用面でも大きな意味を持つ改正となりました。

<野田線変更点>


1.午前ラッシュ時の大宮口、柏口(豊四季方)の輸送力増強(4両編成の6両編成化)
 それまで野田線ラッシュ時において複線化がされ輸送本数の多い大宮口では2本、柏口(豊四季方)では1本が4両編成で運転されており混雑が激しい列車となっていましたがこれを今回改正を機に5070系更新冷房車2編成12両を投入し車両増備を行う事によって日中時間帯も含め全ての編成が6両編成で運転される事となりました。

 この改正のタイミングかちょっと前かは分かりませんがこれを機に4両編成でしか走る事が出来ない3070系(3174F,3175F)は新栃木区へ転属しました。
 またオール6両編成化により4両固定、2両固定の5050系を本線や東上線へ転属し6両固定の5070系を野田線に集中投入する流れとなっており大型車両化が劇的に進んだ訳でもない状態となっています。

2.春日部口の増発
 本線との接続を考慮した上で大宮への利用客が増えていた為、昼間時と午後混雑時間帯において数本程度ですが列車増発を行いました。(終日だと平日で8本、休日が20本と休日の増加が目立ちます。)

3.柏口(新柏方)の輸送力増強と増尾〜逆井の複線化完成
 既に開発が進んでいた豊四季方に比べ、新柏駅開業と平行してニュータウン建設等の大規模宅地開発が進み利用客が一気に増えたのですが列車頻度が少ないままだったので混雑率が野田線で最も悪化していました。
 その為、列車本数増の為に増尾〜逆井の複線化を行いラッシュ時の増発と車両の大型化を行い混雑率緩和を図りました。
 また昼間時間帯も3本/hを4本/hに増発、夜ラッシュ時(17時〜20時)は3or4本/hが一気に6本/hに増発され、終日で見ると平日40本、休日23本の大幅な輸送力増強となっています。


ピーク時1時間の考え方が大宮口のみ7:30〜8:30でその他が7:00〜8:00となっています。
なので柏口(豊四季方)は輸送力自体は増強されていますが、ピーク時は変更無しという表現になっています。

<本線線変更点>


 ダイヤ改正したばかりの本線で何が変わったかというと、草加付近の高架複々線化工事が進み草加バイパス〜松原団地の下り線高架線切り替えに伴い退避(追い抜き)が可能だった谷塚駅の停留場格下げに伴い代替えとして草加駅に上り退避線(上り副1番線)を新設し、谷塚で行っていた上り列車の退避を草加駅に移行し、それまで上下列車の退避を行っていた草加駅中線を下り列車の退避扱い専用となる為の改正を行っています。

 またこの配線替えに伴い、草加駅上りホームが1面2線の島式ホームとなったので朝ラッシュ時(7:11〜8:11間の28本列車に適用)に本線を準急専用(13本)、退避線を普通専用(15本)の両面発着扱い化する事で列車遅延発生時の赤信号による機外停車待ちによる遅延解消効果に繋がる有効活用を開始しました。

 昭和49(1974)年の竹ノ塚までの複々線化完成から10年以上が既に経過していましたが、草加までの高架複々線化開業がようやくもう少しの所までやってきました。

 本線の小改正含め以上の改善が行われました。野田線もついに全列車の6両編成化が達成され今後は大型車両化を推進していく事となり長年野田線の主力として輸送力増強に大きく貢献し続けてきた3000系の置き換えが視野に入ってきました。

〜昭和61(1986)年突入 8000系修繕工事開始〜


8000系修繕工事開始
↑登場から20年以上が経過した8000系電車をリフレッシュする事となりました。
良い画像が無く、くたびれた8130Fなのでリフレッシュ感が無いのですが(修繕から20年近く経ってますし)、参考までに。

 1963年11月から就役し東武鉄道の通勤輸送において主役となっていた8000系も登場から20年以上が経過し、新塗装が採用されてもその下地となる外板、その他屋根だったり車内を見ても各種内装仕上げにおいて陳腐化が見られる様になったので、車体関係を中心とした修繕工事を実施する事となりました。

 それまで3000系列や5000系列に代表される走り装置は利用出来るものは再利用して車体を最新の物を新製し載せ替える工事を更新工事と呼び実施してきましたが、今回は車体も床下も再利用しつつ可能な限り新品への取り換えと補修を実施し、併せてその時代の新車の技術を取り込んで行く事内容となっており趣が異なる為に新たに修繕工事という呼び方となりました。

 これは8000系が2両編成から10両編成で走れる事や当時10両編成で運用が出来なかった10000系と比較しても一般輸送の主役としての地位は揺るぎないという状況もあったので10000系を増備しつつ8000系も主力クラスとして活躍し続ける事が求められたと言えますね。

 変更内容については東武8000系修繕工事研究室のコーナーがあるのでこちらをどうぞ。


 修繕工事当初の違いですが、何度も書いてますが先頭車正面の番号ペイントは1987年からなので当時も正面番号表示はありません。

 という訳で78型の更新といった更新工事が完了した西新井津覇への新たな仕事は8000系の修繕工事となりこれ以降約20年に渡り津覇車両で696両もの8000系が修繕工事される事となります。
 500両と600両到達時は記念HMが掲出されていたので700両到達しなかったのが残念だなと思いつつ、この工事開始によって8000系は更にバリエーション豊かな車両へと変身していく事となります。そこら辺の歴史も少しずつ再確認していきたいなと思います。
 修繕工事は春日部区の8104Fからスタートし同時に新塗装化もされ1986年7月7日から本線で運用を開始しています。

〜昭和61(1986)年8月26日・本線ダイヤ改正実施〜
<本線準急10両編成運転開始と日光線に杉戸高野台・南栗橋駅が開業>

南栗橋誕生
↑今から約35年前の1986年8月26日、ついに現代の東武鉄道電車の主要拠点となる南栗橋が誕生しました。
これと同時に本線初の10両編成運転が8000系にて開始されました。写真は南栗橋駅での増結風景です。
当時は引き上げ線2本と留置線わずか5本の小さな基地であり車両留置が限界に達した春日部検修区の補助的位置付けでした。
※右下の連結状況画像だけ画像が無かったので新栃木で撮影したのを添付してます。

 本線北千住口は複々線を有効活用し1時間辺り最大40本運転の実施とラッシュ時間帯主要列車の8両編成化を行い増え続ける輸送量に対応し続けていましたが、ついに限界に達し次なる対応方法は10両編成運転の開始となりました。東上線が昭和51(1976)年11月から10両編成運転を開始しているので10年遅れで本線側も長編成運転を行う事となりました。

 しかし10両編成運転を開始するにもホーム延伸工事が必要な事と何より春日部検修区の留置能力が限界に達し車両を増備しても置き場が無い事からそもそも新たな車両留置場所が必要という所から話がスタートしました。
 将来の車両増備を見据え車両基地を構えるには広大な土地が必要であり、その場所として日光線の東武動物公園以北は栗橋までの13.9kmの間に幸手駅のみしかないという所が着目されました。(ちなみに浅草から竹ノ塚までで13.4km)

 当時でも伊勢崎線は館林(あるいは羽生)まで日光線は幸手まで輸送量が大きい区間でありましたが館林が浅草から74.6kmもあるのに対し幸手は46.8kmと浅草からの距離もそこまで遠く無いという事で、結果発展著しい幸手地区の先に土地を取得し南栗橋駅(浅草から約51km)と南栗橋に留置線を建設する事となりました。1985年5月の航空写真を見た時点ででほぼ影も形も無かったので結構ハイペースで建設した印象です。

 また同地区の発展を目指す上で同時に駅間距離の長かった東武動物公園〜幸手間に新駅・杉戸高野台駅も建設する事となりました。昭和56年に杉戸駅が東武動物公園駅に改称してから一旦消えた杉戸の名前が復活する事となりました。しかもこの駅は宮代町に位置した杉戸駅とは違い、正真正銘杉戸町内に位置する駅として誕生しています。
 なんで宮代町役場駅前にあるのが杉戸駅なんだ?って経緯については、杉戸の方が街の規模も大きく、杉戸町が誕生したのが杉戸駅誕生前であり同地域の主要街だったからです。一方宮代町は杉戸駅開業後しばらく経ってから複数の村が合併して誕生した町だったからですね。

 例によって10両運転開始と言っても、全ての駅が10両編成対応という訳ではなく準急が停車する駅限定と上りホームのみ限定という事で工事が行われました。
 新駅にも違いが見られ、南栗橋は全てのホームが延長210mで建設されましたが、杉戸高野台は当初上りホームのみ210mで下りホームは170mで建設されています。その他準急停車駅も上りのみ10両対応で建設されています。また10両編成電車の運転は曳舟駅までとなります。

<ダイヤ改正変更点>


1.朝ラッシュ時日光線から直通の上り4本の準急で10両編成運転の開始

 今回改正よりついに本線でも10両編成運転が開始されますが昭和53年改正時に幸手始発による8両編成運転が開始された時同様に日光線側の列車から長編成運転を開始する事となりました。
 4本のうち3本はそれまで幸手か春日部始発だった列車を新設の南栗橋駅始発に延長運転とし、1本は新栃木始発で途中南栗橋で後ろに4両編成を増結し10両運転を行う形となります。これら10両編成の列車は全て準急曳舟行きとして運転し、曳舟到着後は回送となり業平橋の貨物線で折り返しし、下りホームが10両未対応の為回送運転となり南栗橋留置線に入庫するという動きとなります。

 これに伴う車両増備分は10000系14両を新造して対応となりますが、10000系は所属車両数がまだ少なく10両編成で運転する事が出来ないので全て8000系による運転となります。また昭和61年新造は11806Fと11605Fとなりますが東上線側に8両固定編成を投入した分、調整として本線への8両の8000系転属が発生しています。

編成番号転属時期転属先転属理由
8192FS61(1986)/08/19森林公園→春日部東上線10000系増備に伴い本線側へ8000系を転属し調整。(本線10両運転開始用)
8580FS61(1986)/08/19森林公園→春日部

2.早朝に春日部始発準急浅草行きを新設(春日部6:16→北千住6:47→浅草7:02)

3.午後ラッシュ時普通の準急格上げ化実施(3本)
 今回も夜ラッシュ時の普通3本を準急化する事となりました。普通の準急化に伴う不足分は日比谷線直通列車の折り返し駅変更を行っての延長運転や準急・普通の緩急接続が容易となる様にダイヤを調整。

4.日光線新駅開業(南栗橋と杉戸高野台)と幸手折り返しの廃止
 今回改正で日光線に2駅が新規開業しいずれも2面4線により上下退避可能となっています。一方で両駅開業により幸手駅は停留場に格下げとなり2面2線の中間駅となります。それまで幸手発着だった列車は全て南栗橋発着に変更される事となりました。
 南栗橋駅は春日部検修区の車両留置箇所が限界を迎えたので新たに車両留置線が5本新設され、更に終着駅として引き上げ線も2線も新設されました。
 南栗橋は10両編成運転列車の入出庫を行う拠点駅となり、留置線で前日夜に6両から10両編成に組成され、朝ラッシュ時終了後は10両編成が回送でそのまま入庫し、留置線で10両編成から6両編成への組成づくりが行われる様な動きが取られました。


↑開業当初の南栗橋の配線概略です。留置線もキレイに並んでの5本ではないのでこの時点で将来の配線が計画されていたと感じます。
国土地理院で当時の航空写真から配線状況が伺えるので興味ある方は御覧頂ければと。駅周辺は本当に何も無いです(汗)

5.北千住駅停車位置変更
 それまで北千住駅では浅草方面と中目黒方面の先頭車が同じ位置に停車していましたが、10両運転開始に伴い浅草方に40mホームを延伸する事となり10両編成電車は40m上り方へズレて停車する事となります。これに併せて8両編成・6両編成・4両編成についても20m(1両分)だけ上り方に停止位置を移動する事となりました。

 以上が改正内容となります。今後輸送量が増えるにつれて本線側も10両編成運転を増やして対応していく事となります。現代の東武電車の拠点となる南栗橋の歴史もここからスタートです。
 そして本線側ではこの約2か月後にもダイヤ改正が控えていました。

8000系電車配置表(S61/1986年9月現在)
所属箇所8両固定編成6両固定編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
配置なし (修繕車)
8104F

(未修繕車)
8101F,8102F,8103F,8157F,8158F
8159F,8160F,8166F,8167F,8168F
8169F,8170F,8171F,8172F,8192F
81110F,81113F,81114F,81117F
6両固定20編成120両
4両固定18編成72両
2両固定34編成68両
合計260両
4両固定編成2両固定編成
(未修繕車)
8116F,8117F,8127F,8130F,8131F
8132F,8133F,8137F,8141F,8144F
8145F,8146F,8147F,8153F,8191F
81107F,81108F,81109F
(未修繕車)
8503F,8507F,8508F,8509F,8515F
8516F,8517F,8518F,8519F,8520F
8521F,8522F,8523F,8524F,8528F
8538F,8539F,8542F,8544F,8558F
8566F,8567F,8568F,8569F,8570F
8571F,8572F,8573F,8575F,8576F
8577F,8578F,8579F,8580F

東武本線
館林検修区
(館林)
4両固定編成2両固定編成合計
(未修繕車)
8118F,8125F,8126F,8128F,8129F
8139F,8140F
(未修繕車)
8527F,8529F,8540F,8543F,8546F
8547F,8550F,8553F,8555F
4両固定7編成28両
2両固定9編成18両
合計46両
東武本線
新栃木検修区
(新栃木)
4両固定編成2両固定編成合計
配置無し (未修繕車)
8545F,8552F,8554F,8556F,8557F
8559F,8560F
2両固定7編成14両
合計14両
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
8両固定編成6両固定編成合計
(未修繕車)
8173F,8175F,8177F,8179F,8181F
8183F,8185F,8187F,8189F,8193F
8195F,8197F,8199F,81101F,81103F
81105F,81115F
(修繕車)
8108F

(未修繕車)
8105F,8106F,8107F,8109F,8110F
8111F,8112F,8113F,8114F,8156F
8161F,8162F,8163F,8164F,8165F
8両固定17編成136両
6両固定16編成96両
4両固定25編成100両
2両固定30編成60両
合計392両
4両固定編成2両固定編成
(未修繕車)
8115F,8119F,8120F,8121F,8122F
8123F,8124F,8134F,8135F,8136F
8138F,8142F,8143F,8148F,8149F
8150F,8151F,8152F,8154F,8155F
81111F,81112F,81118F,81119F,81120F
(未修繕車)
8501F,8502F,8504F,8505F,8506F
8510F,8511F,8512F,8513F,8514F
8525F,8526F,8530F,8531F,8532F
8533F,8534F,8535F,8536F,8537F
8541F,8548F,8549F,8551F,8561F
8562F,8563F,8564F,8565F,8574F

〜昭和61(1986)年10月9日 本線ダイヤ改正〜
<野岩鉄道開業・会津鬼怒川線と相互直通運転開始と全車6050系化による6000系の引退>



↑35年前のあの日お祭り騒ぎを迎えた新藤原駅です。今は…
あの華やかさはバブルが生んだものかと思う程ですが、
そもそもこの鉄道が完成出来た事自体も未曽有の好景気の産物だったのではとすら思います。

 今から約35年前の昭和61(1986)年10月9日に第三セクター鉄道初の電化開業路線である野岩鉄道会津鬼怒川線が開業し、これまた初となる第3セクターと民間鉄道会社線の相互直通運転が開始されました。
 当該路線は当初は非電化・ディーゼルカーによる運転を想定し国鉄野岩線だった頃は国鉄日光線今市に接続する予定だったものが、建設距離の短縮も考慮され東武鉄道との相互直通運転へ変更に伴い第三セクター初の電化開業路線と決定したのが昭和59年でありこの決定からわずか2年で電化開業の運びとなりました。

 路線の特徴について余りここで詳しくは触れません。開業当初の様子について振り返ってみます。
 まず運転本数ですが、浅草発着の直通快速列車は下り8本、上り6本のみとなっていました。
 この内訳も終点となる会津高原発着以外に途中の中三依駅(現・中三依温泉駅)発着が下り3本、上り2本が含まれていたので浅草⇔会津高原の快速は1日わずか下り5本、上り4本だけでした。
 会津高原駅も島式ホームながら当時は国鉄会津線ホーム(非電化)と会津鬼怒川線ホーム(電化)と区別されていたので実質1面1線となっていました。
 これら直通快速を補足する形で下今市発着の普通列車も設定されていました。下今市発着は下り6本、上りが5本です。また野岩線内のみの運用の列車もあり全てが相互直通とはなっていません。
 また東武線内側でもこのダイヤ改正に併せて鬼怒川公園始発となっていた朝方の特急列車上り3本が新藤原始発に延長し野岩鉄道線からの接続を図る事となりました。

 この開業に向けて6000系22編成の更新を急ピッチで進めましたが、最後の6000系となった6116Fによる6000系さよなら運転が9月21日に行われました。10月9日に開業というのに開業2週間前で更新の終わってない6000系がいるという状況でした。という訳でこの最後の6000系・6116Fが上の写真に写っているいる22編成目の6050系・6172Fとして復帰するのは野岩鉄道開業後となりました。
 また6050系の完全新造車として61101Fと61102Fの2編成が製造されましたが、61102Fが先に野岩鉄道に譲渡され(昭和61年8月10日)、野岩鉄道線内の試運転に使用されました。61101Fは遅れて昭和61年9月1日に野岩鉄道に譲渡されています。
 ただ本当の直通1番列車は6時5分に下今市を発車した3570系2両編成の普通であり、新規開業路線なのにいきなり旧型電車!?と度肝を抜かれた人もいたそうな…。
 というか冬場の3570系って運行的にアリだったのかと心配になる程です。まぁ東武日光の長い坂道上ったり下ったりするのと大差はないんでしょうけど当初は車両の不足もあったので3070系の手助けも必要な状態だったのです。

<開業当初のお祭り騒ぎっぷりを振り返る>

 バブル期に突入した頃の新規開業路線というのもあり、今と違ってリゾート地の開発といった観光地の活性化が最高に激しい時代だったので地方鉄道と言えど、将来を危ぶむ声等微塵もなく開業時の沿線はお祭り騒ぎとなりました。
 日本という国には成長しか有り得ないと思える時代…そういう時代を生きてみたかったですね。(いや実際生きてはいるんですがお子様につき実感ゼロ。。。)

1.浅草駅
 直通1番列車(9時10分発会津高原行き)に合わせて出発式が行われました。
 8時30分頃から大江戸助六太鼓による演奏が駅前で行われ、9時になるとこの太鼓を駅構内5番線ホームへ移動し再び太鼓演奏を開始し気分を盛り上げていきます。
 当然こんな程度では済まず、華やかな舞台衣装の松竹歌劇団(SKD)員約20名もスタンバイ。うーんバブリーですね。
 そうこうしてたら9時3分に1番列車が浅草駅に入線してきます。当然1番列車を待ち構える鉄道ファンも居れば多くの乗客も待ち構え、その数約1200人。当然の如く1番列車はあっという間に超満員となったそうです。
 1日駅長、浅草駅長、乗務員にSKD団員より花束が贈られ、取締役、1日駅長、地元有力者によるテープカットが行われ、同時にくす玉が割られると盛大な拍手と同時に太鼓演奏とSKD団員のラインダンスが繰り広げられるという有様です。あの狭い浅草駅構内で…(苦笑)
 発車後も終日祝賀ムードで様々なイベントが行われたそうです。ヤバい。

2.新藤原駅
 こちらは既に朝一から始発列車が走っていましたが式典は9時40分より開始されこちらは野岩鉄道と藤原町の共催によって行われました。
 鉄建公団方式で建設されたので当時の建設省、鉄建公団、地元関係者に加え東武鉄道からは根津社長他幹部が出席しています。
 式典開始後の9時46分に日章旗を掲げ、HMを付けた6050系2両編成の普通が満員の乗客を乗せて新藤原駅に到着し詰めかけた地元住民約1200人から一斉に拍手と歓声が沸き起こりました。この時に新藤原駅長、乗務員、乗客代表ら5名に花束が贈呈されました。
 そして根津社長他8名によるテープカットが行われこちらでもくす玉が割られ大歓声と拍手により祝賀ムードを盛り上げています。

 その後野岩線沿線の川治温泉にてしゅん功開業式と祝賀会が行われ、国会議員も含めた各社関係者が集まったそうな。

3.会津高原駅
 野岩鉄道と地元田島町の共催により出発式が開催されました。
 式典は9時25分から行われ、9時28分になると9時35分発の浅草行きの直通快速1番列車が新藤原駅の車両と同様に祝61・10・9のHMを掲げた6050系が到着しこちらも大歓声と拍手に迎えられました。
 またこの日より会津滝ノ原駅から会津高原駅に駅名が改称されたので駅名改称式も兼ねていたので新駅名表示板の除幕が午前8時より行われていました。
 1番列車到着と同時に県警音楽隊と地元小学生の鼓笛隊によるファンファーレに包まれ会津高原駅長、乗務員、乗客代表5名らに花束贈呈とここでも当然の如くテープカットにくす玉が割られ万歳三唱と拍手喝采。もうお祭り騒ぎです。

 会津高原駅も田島町の外れにあったので駅前自体は寂しいものでしたが、当時は露店が多数並び祭りの雰囲気を盛り上げていたそうです。こういうのを見ると結局その後直通を町の中心地である会津田島まで伸ばしたいと思うのも必然だったのかなと思います。

 という訳でもう全然8000系関係ないですが、あの頃の雰囲気を文字に起こしてみました。
 ただし野岩線開業当初は6050系も1編成が改造中だったり、3070系の定期運用があった様に車両が足りていないのが現状でした。
 そこに開業フィーバーによる輸送対策が必要とされ、臨時快速として4扉ロングシート車の8000系の乗り入れも実施されました。浅草から3時間以上をロングシートはいかがなものかと今でも言われる話ですがあの当時の凄まじい混雑を考えるとこれも致し方なしな気はします。定期快速も一部が中三依止まりを設定せざるを得なかったですし。

 当時の時刻表を眺めても、臨時快速の時刻が掲載されていないので実際の運行状況は不明となっていますが鬼怒川公園辺りまでは6両編成で運転され、そこから2両切り離して4両編成で会津高原まで運転されていたそうです。
 編成も8191Fや81107F等春日部区の4両固定編成のうち後期車が乗り入れ用として指定されて運用されていたようで、ここも非常に興味深い所です。他では会津高原の幕が用意されていなかったので正面サボによる行先表示となっていたそうです。

 野岩線開業時のフィーバーぶりを表す数字として、開業日9日(木)、10日(金祝)・11日(土)・12日(日)の4日間で約45000人もの利用客が会津鬼怒川線を訪れました。
 現代では年間で約95万人程度な野岩鉄道なのでこの数字がいかにとんでもなかったか理解出来ると思います。と言ってもしばらくは更に野岩鉄道は利用客が増え続ける事になり東武鉄道ではこれによって日光に行く観光客が減る事を懸念していましたが逆に相乗効果により利用客が増える事となったとの事です。日本が最も元気だった時代頃の明るい話題と言えますね。

〜昭和61(1986)年11月1日 貨物ダイヤ改正〜
<国鉄民営化前最後のダイヤ改正に伴う貨物輸送の整理>


 華やかな時代な一方で消えるものもありました。それが貨物輸送です。
 1984年の国鉄ダイヤ改正によりヤード方式が廃止され、縮小が一気に進んだ国鉄貨物輸送でしたが分割民営化前最後となるこの改正により更に整理が進み物資別の専用貨物列車による効率的な輸送体系の実現が図られる事となりました。
 これによって車扱直行貨物列車等が更に廃止され運輸・貨物営業廃止等貨物営業体制見直しにより東武では特に車扱貨物が多数廃止される事となりました。
 今回改正によりついに東武に限らず私鉄の一大貨物ヤードだった葛生駅の貨物取扱が廃止され上白石〜大叶、上白石〜第三会沢が廃止され一つの時代が終わりを告げました。葛生駅は構内約20線あったのがわずか4線にまで縮小されてしまっています。
 そして東上線の貨物輸送(下板橋〜寄居)が全廃となり東上線は旅客輸送のみとなりました。この廃止に先立ち、10月25日(土)、26日(日)の2日間で坂戸機関区構内にて東武鉄道初の電機の展示会が開催されています。

〜昭和62(1987)年突入 いよいよ東上線も地下鉄直通へ〜

 長くなったので一旦ここで切ります。昭和62年に入ると東上線と有楽町線の相互直通運転が開始されたり、8000系はついに前面更新車の登場、そして通勤電車達は細かい変化が出たりと面白い内容が出てきます。これも長くなりそうなのでここで終わりにしようという感じです。

ご覧いただきありがとうございました。
間違いとかあればご指摘いただけると非常に有難いです。  



2020年11月23日編集

(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
→東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション27 東武鉄道 1970〜1980
●鉄道ピクトリアル No:915 2016年3月号 特集東武8000系
→東武8000系のプロフィールは特に参考にさせて頂いております。
●鉄道ダイヤ情報2013年10月号 東武鉄道8000系電車あれこれ(花上嘉成氏著)
●ヤマケイ私鉄ハンドブック3 東武
●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)




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