東武8000系の歴史

6.バブル期の8000系(2)<前面更新車の誕生と様々な変化の発生>

 1987年に入り修繕工事が始まり更にバリエーションが増えつつある東武8000系でしたが、この頃になると細かい変化がありました。
 これも一種のイメージアップも兼ねての変化と言えるのでしょうか。
 しかし興味本位で調べてみると非常に奥深い動きだったと分かります。修繕工事開始による前面更新とセイジクリーム車が同じ時代を走っていたというのも本当に面白いですよね…。
〜昭和62(1987)年突入 通勤電車に新たな変化が〜

東武電車に更なる変化が
1985年より始まった新塗装に加え、1986年からは上部灯が撤去され、1987年5月からは正面に番号が表示されるようになりました。
この頃は車体塗装、上部灯の有無、正面番号の有無で様々な組み合わせの存在が確認されています。余りに多彩で全容は不明…?

 本線側で大きな変化があった昭和61年でしたが昭和62年は東上線側が大きく変化する年となります。
 いよいよ東上線側でも念願の地下鉄相互直通運転が目前に迫っていました。これに伴い有楽町線直通用の9000系が一気に10両固定6編成60両増備される事となりました。
 増備第一陣となる9102Fが尼崎・アルナ工機から甲種輸送され関東に到着したのが1987年5月27日となりました。
 寄居に到着した10両編成の9000系電車ですが前年のダイヤ改正で電機が引退してしまった為に3分割(4+2+4)の上3日間に掛けて5000系列4両編成に牽引されて森林公園区へ回送されるという方法が取られました。

 ところでこの9102Fより現代の東武電車では当たり前となる通勤電車の正面に車番表示がスタートしました。9102Fが落成してくる頃より(1987年4月か5月?)に在来車でも正面の番号表示が始まったと推測されます。
 これをやるのが何時決まったのかは不透明ですが、この直後に登場する8000系前面更新顔車にもしも前面の正面番号表示が無かったらどうにも締まらないない顔つきになるのでこれの計画に合わせて考案されたのではないか?と個人的には思ってたりします。
 実は1986年に増備されていた11806Fと11605Fより側面エッチング板を付けず扉横に番号がペイントされるという方式が採用されたみたいです。これもちょうど8000系修繕工事開始時期と重なっているので外板に余分な固定物を設置するのは止めようという方針が出たのがこの頃だったのかなと感じます。

かつて9101Fと10000系で採用された側面番号表示のステンレスエッチング板です。
その後全車撤去されてこうして販売会で見る事が出来ました。(11003F化前の11803F時代のもの)

 このステンレスエッチング板の採用を取りやめた頃に8000系を筆頭とした通勤車達に設置されていた上部灯の撤去も開始されました。
 1986年度の8000系修繕工事開始より屋根上の漏水対策という観点より屋根の前面張替えが実施され、同時に上部灯の撤去と表面の平滑仕上げが開始されたのが始まりです。
 これはこの上部灯の取付部より内部に漏水し腐食を進行させてしまうという問題があったからだそうで、確かに上部灯は平プレートを4本のボルトで固定され恐らく周囲はシール等で止水をするだけの対策となっていたと思われます。ただシールは恒久的な物では無い為に切れて漏水するという事があったんでしょう。
 その為、未修繕車達においても上部灯の撤去が開始されました。どちらかと言えばこれは上部灯が不要になったのと上部灯付近の漏水対策として止水処理を施すという意味合いが強かったと思われます。
 修繕車と違い、あくまで取り外しとシール処理のやり替えが主とされ表面仕上げについては修繕工事時に行うという取り決めにしたようです。

 また森林公園区の車両に関しては1987年8月25日のダイヤ改正以降は正面サボによる種別表示を取り止めて幕を使っての表示を徹底する事となったので正面サボ受けの撤去を開始しました。これも漏水対策なのかどうか。
 この流れで面白いのが未修繕の編成らは全てサボ受けを撤去したのですが、修繕したばかりの8108F、8111F、8112Fの3編成はサボ受けをそのまま残した事です。まぁ、せっかく化粧直しした車体をまた傷つけるのは逆効果という判断だったのだろうとは思いますが…(汗)

 そして1985年9月末より開始された新塗装化もこの頃になるとほとんどの車両に浸透し、セイジクリームの車両も地上車両との区別の為に新塗装化をしないと決めていた2000系を除き残りわずかとなっていました。

 こういった動きが重なった結果、見た目が様々な編成達が誕生しました。まとめると…
 といった感じの変化が重なったのがこの1987年となります。
 その結果、この年の8000系は凄いバリエーションが豊富な状態になりました。一覧にまとめると…
 この移行期のカオスっぷりは8000系の歴史の中でも特筆されるものだと感じます。何が言いたいかと言うと1987年の編成の見た目の多彩さですね…ここに行先幕や種別幕の新旧も重なると更に顔つきの種類は複雑になってきます。
 当時森林公園区の6・8両固定についても西新井工場で検査をしていた関係で塗装乾燥設備の完成まではクリーム塗装のまま出場していました。この為、これらの編成が新塗装化が最も遅くなりました。

 こうやって表にまとめましたけど集められるだけ集めてみたがこれでも間違いがあるんじゃないかと思える程に変化が細かさ過ぎて幾多の東武ファン諸兄をしても全容が不明な時代と言えてしまいます(なんせ8000系以外の動きも激しすぎましたからね、この時代は…)
 思えばセイジクリームの原型8000系と前面更新の1987年度修繕車が同居していたってのも不思議な感じですよね。全く同じ形式と思えないですから…

 そしてこの年の修繕車より前面更新化がスタートしました。現代っ子の東武8000系と言えばこのスタイルですね。

6050系のスタイルが好評を博したという事で8000系も前面を6050系スタイルに更新される事となりました(カッコイイ)
更には翌年から10000系もこのスタイルで登場する事となりまさに次代の東武顔と言える程に流行しました。
添付画像が当年度の修繕第一陣となった8107Fで修繕を終えると同時に長年在籍した東上線から本線へ転属しました。

 6050系と違い車体完全新造ではなくあくまで旧車体を再利用した修繕工事なので、8000系の場合前面を更新するにあたり、前面外板のうち床面から790mm以上を切断撤去し新形状の前面外板を溶接固定する事で対応しています。
 その他としては、
1.運転室・車掌室の正面窓を従来より大きく取り上部と下部は黒塗りとしてアクセントを付けた。
6050系と違い黒の部分を控えめにしたのは腰帯塗装の青ラインを優先し軽快なイメージを損なわない様にしたもの。
2.運転室・車掌室窓の上部にそれぞれ電動式の自動行先表示器・自動種別表示器を設置。
3.前照灯と尾灯を上下に配置から一体枠の角型の物に変更し内側に前照灯、外側に尾灯の配置とする。
 また腰帯塗装と一体感を持たせる為に位置を腰帯塗装内に納めた。
4.正面台枠の下部にスカート(排障器)を設置し安全性を向上。(10030系に設置しなかった理由が知りたいですね)
5.前面更新に伴い運転室、車掌室の各種機器を更新しています。
・運転台をデスクタイプに更新。
・仕業表灯等は白熱灯からLEDに変更。
・計器類の照明を白熱電球からEL板照明に変更。
・押スイッチをタンブラスイッチに変更。

 といった感じに10000系や6050系、9000系で実績のあるものが採用され信頼性を向上しています。
 通勤電車の世代交代、変化が激しい時代だったなと改めて感じます。


〜1987(S62)年7月21日 本線ダイヤ改正実施〜
<草加複々線化完成前最後の改正・通勤快速の廃止他細々と>
 8月に実施される有楽町線相互直通開始に伴う東上線大規模改正の前に本線側でダイヤ改正が実施されました。
 本線でも次の年に草加までの複々線化完成に伴う大規模な白紙ダイヤ改正が待ち構えていましたが、相も変わらず輸送量の増加は歯止めが効かず絶え間ない輸送改善が必要とされていました。
 という訳でこの年は大規模な改正というよりはラッシュ時以外も含め細かい弱点を一つずつ潰していく改正となっています。

<ダイヤ改正変更点>
1.北千住口朝ラッシュ時の準急の8両運転列車を2本増加+日光線通勤快速の廃止
 既にラッシュ時最混雑時間帯の全準急の8・10両化を終えていましたが、北千住8時30分着以降の列車の混雑緩和の為に6両から8両への増結が実施されています。
 この北千住8時30分着はそれまで東武日光と東武宇都宮始発の通勤快速となっていましたが今回改正で準急に改められ、南栗橋で2両連結し8両編成運転に増強される事となりました。これによって増結による輸送力アップだけでなく通勤快速通過駅では運転間隔の不均等化も解消され混雑緩和に貢献する事となります。
 こうして伊勢崎線系統の通勤快速廃止に続き、日光線系統の通勤快速の歴史も終わりとなりました。

2.朝ラッシュ時の日比谷線直通列車改正
 竹ノ塚始発電車を北春日部始発に一部延長運転する事で運転間隔の均等化を図っています。
 また営団側でもダイヤ改正が実施され東武線から直通の霞ヶ関行き3本が六本木行きまたは中目黒行きに行先変更となり運転区間延長となっています。

3.午後ラッシュ時改善
 朝同様に浅草17:46発の東武日光・東武宇都宮行きはそれまでの通勤快速から準急に格下げとなりました。
 その他、一部日比谷線直通列車の延長運転を北越谷から先で実施し東武動物公園まで延長運転する列車が設定されたそうです。

4.日光線輸送改善各種実施(増発、延長運転、終電延長、朝の快速増発)
 杉戸高野台、南栗橋の新駅が開業し益々勢いに乗る日光線ですが更に攻勢は続き様々な面でサービス向上策が図られています。
 1:朝ラッシュ時に2本の南栗橋始発準急を新栃木始発とする事で新栃木〜東武動物公園を15分間隔で運転する。
 2:日中時間帯の南栗橋折り返しの普通の一部で行先延長を実施する。9時台から13時台までの5往復を藤岡まで、14時台から16時台までの3往復が新栃木まで延長運転とする。
 3:夕ラッシュ時に3本の準急を南栗橋行きから新栃木行きに行先変更と行う。
 4:終電車の繰り下げを実施する。特に浅草発の新栃木行き最終はそれまでに比べ一気に52分も繰り下げを実施。
 5:観光シーズンのA期間限定で浅草6:20発の快速東武日光・会津高原行き(2+2の4両編成)を追加設定。
 6:鬼怒川・野岩方面への接続改善として浅草8:20〜9:20発まで20分間隔で設定されている4本のけごん号の東武日光までのノンストップ運転を取り止め下今市停車とする。

 以上の様に日光線の改正ネタが多数となっていますが、通勤快速消滅だけでなくついに特急の浅草から東武日光行きノンストップ運転が完全に無くなる事となりました。

5.急行りょうもう号の列車番号変更(1819F増備後に対応させる為の変更)+館林地区小改正
 今回改正に間に合わなかったのですが1800系の増備が1本計画されており(1819F)、午前午後の有効時間帯で30分間隔運転を実施する為の1編成増備となります。
 この急行りょうもう増発はこの年の12月に予定されていてそれに対応したダイヤ設定となっており列車番号が変更されています。
 また館林6:00発のりょうもう2号に接続する普通と浅草7:50発のりょうもう3号の太田から伊勢崎方面への接続改善として普通の時刻変更が行われ、また小泉線では西小泉始発の館林行が1本増発となっています。

 以上が改正内容となりこれに伴い8000系の転属が発生しています。
 これは東上線に9000系10両固定6編成60両が増備されましたがダイヤ改正に必要な車両増は48両となっているので差し引き12両が余るので本線のダイヤ改正増発分に充てられるという流れです。
 ただこの頃ついに野田線の3000系の廃車が開始されていたので5000系列を七光台区へ玉突き転属するという意味合いもあったかもしれませんね。

編成番号転属時期転属先転属理由
8107FS62(1987)/07/02森林公園→春日部8107Fは修繕工事を期に転属となっています。東上線ダイヤ改正に伴う車両増数48両に対し60両増備となったので差し引き12両を本線へ転属。
8138FS62(1987)/07/16森林公園→春日部
8575FS62(1987)/07/16森林公園→春日部

 次はいよいよ東上線の大規模改正となります。


〜1987(S62)年8月25日 東上線ダイヤ改正実施〜
<営団有楽町線との相互直通運転開始と和光市⇔志木複々線完成>
<通勤急行新設・急行増発・越生線増発等全線に渡る輸送改善の実施>



1987(S62)年8月25日より東武東上線と営団有楽町線の相互直通運転が開始されました。
東上線と地下鉄6号線の直通計画が上がったのが昭和40年ぐらいと思うと20年越しの夢がかなった瞬間です。
また和光市〜志木の複々線化完成も成り、改正前日の8月24日には和光市駅と志木駅で祝賀式典が行われました。

なお9105Fが森林公園のイベントで御覧の通りにHMを付けてくれたのですが、
和光市で歴史的な並びを飾ったのは9106Fで志木で複々線HM掲出したのは9107Fでした。

 1987年8月25日よりついに東上線と有楽町線の相互直通運転が開始され、同時に和光市〜志木の複々線も使用開始となりました。
 改正前日の8月24日は志木駅と和光市駅でそれぞれ式典が行われ、両方に根津社長が同席する事で先に志木で複々線工事の竣工式と複々線区間発車式が催され複々線記念HMを掲出した9107Fに乗車し和光市まで試乗となりました。
 志木駅の式典では和光・朝霞・新座・朝霞の各市長と各市議の計8名の参列となりテープカット、くす玉割りが行われ、立教大学のブラスバンド演奏が実施され式典は盛り上がりを見せました。
 良いですよね。ホーム上で記念式典をやるってのが。隣では東上線の一般営業電車が運転する中でこれらが行われているのですから今では考えられませんよね。

 和光市に到着した根津社長らは立て続けに次の式典に合流となります。有楽町線直通運転記念HMを掲出した9106Fと9107Fは和光市駅で並んだんでしょうか?
 和光市駅上りホーム(3・4番線)では既に当時の橋本運輸大臣(後の内閣総理大臣)、中村営団総裁他関係者らにより営団成増〜和光市の工事竣工式を終え、志木からの祝賀列車を待ち受けていました。そこに祝賀列車に乗った根津社長ら関係者が合流し相互直通乗り入れ式が行われました。
 上下ホーム間の営団A・B線には当時の終着駅である新富町行を表示した9106Fと川越市行きを表示した営団7000系(7127F)が記念HMを取付て待機していました。
 和光市立第二中学校生によるブラスバンドマーチが奏でられる中、運輸大臣、営団総裁、東武社長の3氏によってテープカットが行われ11時47分に9106F試乗電車は和光市を出発し新時代の幕開けとなりました。

<ダイヤ改正変更点>

1.営団有楽町線との相互直通運転の開始
 平日朝夕ラッシュ時は1時間5本(最混雑時間帯10分間隔)程度の設定となり、日中時間帯は1時間4本で川越市行きと志木行きがそれぞれ30分間隔で直通となります。
 直通乗り入れ区間は和光市〜川越市となりますが、森林公園区より入出庫を行う朝夜の東武車のみ森林公園まで運転します。(朝上り5本、朝下り1本、夜下り4本)

2.朝ラッシュ時輸送改善<通勤急行の新設と優等列車本数増>

▲新たに通勤急行が新設されました(上り限定)停車駅は志木までの各駅と和光市・成増・池袋です。
ちなみに画像と誕生当初の幕の表示は違います。

▲誕生当初の表記は白地に茶色文字英語字幕も無いシンプルな表示でした。当時大半を占めた未修繕車はご覧の通り古めかしいフォントでした。

 上り朝ラッシュ時限定で通勤急行7本が新設されました。
 この列車は従来朝ラッシュ時は成増以北各駅停車の準急しかなかった所に複々線区間となった志木〜和光市間も通過運転を行う種別となり所要時間が約3分短縮されます。
 また朝ラッシュ時の優等列車を従来準急13本だったのを通勤急行7本、準急8本の合計15本とし増強し池袋着7:30〜8:30着の最混雑時間帯の普通列車と優等列車の比率が1:1となり旅客が集中しやすい優等列車の混雑緩和を行うのと同時に速達性が向上し、各駅停車しかない有楽町線への旅客転移対策となります。

3.急行の和光市停車と昼間時の急行増発に伴う全線の運行本数増
 営団有楽町線との接続駅として地位が一気に向上した和光市駅に新たに急行を停車させる事としました。
 更に従来日中時間帯は急行20分間隔、準急20分間隔として1時間辺り6本運転されていましたが今回改正より準急1本を急行に格上げし池袋発00・15・30・45が急行、22分、52分が準急として変更されました。
 池袋発の優等列車の間隔は不均等になってしまいましたが、特に川越市以北は従来の3本/hが4本/hと増加となり小川町までが30分間隔となった事で小川町〜寄居の接続列車も40分間隔から30分間隔に短縮され全線に渡っての大幅な輸送改善となりました。

4.急行増発に伴い越生線も増発を実施
 急行が従来の20分間隔から15分間隔に増発された事で坂戸で接続する越生線も同様に日中時間帯20分間隔から15分間隔に増発される事となりました。

5.越生線朝ラッシュ時増発
 川角駅は1面1線として運用され上下交換を川角信号所にて行っていましたが今回2面2線化の停車場化が実施され、更に武州長瀬〜東毛呂間1kmが複線化された事で朝ラッシュ時の本数を従来の5本/hから6本/hに増設される事となりました。

6.志木以遠の輸送力増強
 有楽町線開業により旅客転移の懸念は出ましたが一方で輸送力が大幅に増強された事により志木以北の沿線開発が更に進む事が期待されていました。
 当時既に人口の増加並びに沿線各地への高校、大学、文化施設等の誘致が盛んとなっていた為に志木以北の輸送力増強として、最混雑時間帯で志木口は18本/hから20本/hに、川越口は13本/hから15本/hに、森林公園口は3本/hから4本/hに、小川町口では2本/hから4本/hとそれぞれ増発されています。
 更に下りの学生輸送改善として8両編成で混雑率が200%を超えていた列車の10両編成化が実施されています。

7.池袋口輸送力見直し
 営団有楽町線の成増延伸により池袋口では相当数の旅客転移が発生しましたが今回直通運転開始により有楽町線へ更に転移する事が見込まれる事から適正な輸送力とする為に、池袋〜成増の普通3本削減し、池袋着7:00〜9:00までの時間帯の運行本数を従来の47本から44本に削減する。

8.夜ラッシュ時の改善
 夜下りラッシュ時に普通1本を急行に変更し運転間隔を17分間隔から15分間隔に短縮する他、19時以降についても急行を従来の毎時2本から3本か4本に増強する。
 また下り急行の最終を従来の池袋21:30発から22:00発に繰り下げる。
 朝ラッシュ時同様に池袋〜成増間については普通を3本削減する。

9.最終電車の繰り下げと22:00以降の混雑緩和
 池袋発最終電車の繰り下げが実施され、従来の川越市行き、森林公園行きの最終普通をそれぞれ準急に格上げする事で約7分程度池袋発車時間を遅らせるられるという手法が取られています。
 池袋22:00以降に発車する列車の混雑緩和として成増行きを2本志木行きに、志木行き1本を川越市まで延長運転する事で中距離利用客の利便性向上と混雑緩和をはかっています。

 といった感じで全線に渡り輸送改善が行われました。こうして有楽町線直通運転の歴史がスタートします。実に今から30年以上も前の話です。
 有楽町線直通開始や通勤急行誕生の話題も大きいですが、特に急行の増発によって小川町以北、越生線と全線に渡って運転本数も増加した点が特筆されます。

 一つ不便になったのが営団車の乗り入れにより東上線に非冷房車が復活してしまった事ですかね。
 これも当然理由があってですが、地下鉄は地上の鉄道と違い密閉された空間にホームもコンコースもあります。なのでまず車両の冷房化よりホームやトンネルの冷房化を行なわなければなりませんでした。
 コンコース、ホームの冷房化が進まないまま車両の冷房化を行ってしまうと車両のエアコンから排出される熱で更に温度が上がり危険な状況となってしまう為です。将来の冷房化を見据え1970年頃から営団地下鉄はコンコース、トンネルの冷房化を進めていきました。
 東上線との相互直通開始時には車両冷房化は間に合わず営団7000系も初期車は非冷房車、その後の増備車は冷房準備車で登場していますがこの1年後の1988年(S63)より駅・トンネル冷房の設備が整った結果、ついに営団地下鉄も冷房車両の導入・使用開始となっていきました。
 有楽町線直通運転に関して言えばまさにギリギリ冷房化が間に合わなかった。という所ですね。この営団地下鉄の冷房化に併せて東武側も本線の非冷房車・2000系電車の置き換えに着手していく事となります。

〜1987(S62)年12月1日 野田線ダイヤ改正〜


 本線、東上線と改正され野田線も12月に改正を行う事となりました。基本的には輸送力増強の改正となります。
 基本的に野田線は輸送状況の悪化が酷い箇所から輸送力を増強していきます。何せ本線・東上線の輸送力増強に手一杯な所に野田線への対応もしないといけないという厳しい状況だからです。
 今回改正は最大の輸送量を誇る大宮口は据え置きとなり、混雑率が大宮口よりも悪化している柏口と船橋口の増強をメインに対策する様になります。

<ダイヤ改正変更点>
1.午前ラッシュ時輸送増強(柏口・船橋口)
 特に混雑率悪化が酷い柏口(豊四季方)は2本の列車増発を行われる事となりました。
 船橋口と柏口(新柏方)について本数は据え置きながら車両の大型化により一部混雑緩和が図られる事となりました。

2.春日部口大宮行き列車増発
 春日部における本線と野田線の乗り換え客は年々増加しており特に商業圏である大宮方面への利用客が多い為に有効時間帯の列車頻度の見直しが行われました。
 昼間時では9時〜11時で列車を増発し、午後混雑時間帯でも増発が行われています。(およそ1時間辺り1本増発)

3.車両増備に2000系改造車投入
 今回のダイヤ改正に必要な車両数は6両となるがこれについては日比谷線直通用の2000系電車の一部編成が近く代替新造車(新乗り入れ対応車)に置き換えられる事となり、転用される事となりました。
 まぁ伝説の2080系ですね。既に大型化(+冷房化)が進み3000系の廃車が進んでいた頃に18m車を増備するのか…という印象ですが、よくよく考えると大型化が恒例となっていた野田線に18m車、ましてや非冷房車を投入というのは最初から短命なのが確定していたと言えますね。
 好景気な時代とは言え一方で旧型車両の再利用というのはまだまだ時代の考え的には当たり前だった頃でした。

 あと不思議なのは結局20000系の就役が次の年の3月後半になるんで車両の用意が全然間に合ってないんです。
 結局この3か月間は3000系をそのまま活かしてカバーしたのか5000系列を送り込んだのかは不明です。


〜1987(S62)年12月17日 りょうもう号増発・1819F就役〜



▲1987年12月17日より1819Fが就役しりょうもう号が一部増発されました。
(画像は伊勢崎線100周年記念ミステリートレイン時のものですが…)

 8000系の話題からそれますが近年まで東武ファンに楽しみを与えてくれた存在であった1819Fも引退しそれを振り返る意味で記載しようと思います。
 7月のダイヤ改正でりょうもう号増発に対応したダイヤになりましたが増備車両がようやく完成し試運転を経て1987年12月17日より運行開始され、りょうもう号増発となりました。

 この新型車両を筆頭に今後の東武の特急・急行に電話機が搭載される事となりました。今や各地で撤去が進み死語になりつつあるテレホンカード専用電話機ですね。
 東武鉄道線は鬼怒川線の一部区間でサービス区間外となる場所があるもののトンネルが極めて少ない為に地形的に電波状態が安定しているという好環境も手伝いサービス開始となっています。
 りょうもう号は5号車デッキ付近を改造し、DRCの場合は4号車のサロン室に電話室が新設される事となりました。

 S48(1973)年に4両固定2編成が増備されて以来14年ぶりの増備となるので従来編成より様々な面で改良がされ9000・10000系や6050系に採用された新機軸や機器類、類似品が採用されています。(台車、冷房装置、従来小容量のMGだったが大容量のBLMGの採用、ライトケースの変更等数々)

 こうしてりょうもう号もDRC同様の9編成体制となり更には当時では重宝された電話機の搭載により益々ビジネス輸送に活躍していく事となります。

 様々な話題動きがあった1987(S62)年の話題はおおよそ以上となります。
 この年は何と言っても国鉄がJRに分割民営化された事も特筆されますね。

〜昭和63(1988)年突入 本線複々線延伸の年〜

 昭和64年は昭和天皇が年明けすぐに崩御され元号が変わる事から、実質昭和最後と言われる昭和63年に突入となります。
 8000系の話題的に言えば1987年が濃すぎたのでこの年は落ち着きを見せるという印象ですが、東武鉄道的に大きなイベントとして本線の高架複々線区間が草加まで延び大規模ダイヤ改正が実施される年となります。
 またこの年は8000系以外の通勤車両に新しい動きが出る事となります。

〜1988(S63)年1月 日比谷線直通用新車20000系誕生 2月には新10000系誕生〜



▲この年は更に東武の通勤電車が新しくなる事になります。
日比谷線直通用の新型20000系の誕生と、6050系+10000系+20000系のミックスとなる新10000系の誕生です。
11031Fはまだ先の登場ですが、連結器周りが登場当初を色濃く残してくれているので掲載。
20000系は…何故こんな有り得ない程汚い画像にしたかは旧幕の画像がまともに残っていなかったからです(涙)記録は大事ですね。

 1988年になると今度は本線側の動きが激しくなります。
 1987年はまず年初に10000系6両固定4編成(11606F〜11609F)が本線に入り5000系列を野田線に押し出し3000系の廃車となりました。1987年度に入ってからは春から夏に掛けて有楽町線直通運転開始用として9000系60両の投入となっています。そして年末から年始に掛けて20000系21801F、21802Fの2編成が落成となりました。

 この20000系より純粋な軽量ステンレス車体の導入が開始され、腰板部のコルゲート板を廃したスッキリとした車体になっています。それぞれが東急車輛とアルナ工機の製造となり、いよいよアルナ工機も軽量ステンレスの製造が可能になったんだなと思ったんですが、これも裏があったようです。
 有名な話でしょうが、国鉄が201系の後継である205系新通勤車を導入する際に東急車輛に圧力を掛けて苦労して開発した軽量ステンレス車両技術のノウハウ全てを何と無償で他社に公開を迫るという強引な手法が取られたのです。(信じられない話ですが、まぁ当時の国鉄のひっ迫ぶりを考えればなりふり構わず強引になるのも分からなくもないというか何というか。)
 基本的に国鉄の車両を受注していたのは、東急・日立・近畿・日車・川重の5社となるのでアルナ、富士重工といったメーカーは205系の製造に直接携わった訳ではないですがこの技術無償公開により技術力向上に影響したのは言うまでもないでしょう。

 アルナが初の軽量ステンレス車両20000系を製造している間、富士重工では新10000系の製造が行われていました。
 新10000系もまた軽量ステンレス車体を採用した新型車両でした。9000系や10000系の時は東急の技術を借りつつアルナや富士重工の事情により純粋な軽量ステンレス車体を製造は出来ませんでしたがステンレス製造の経験を積んだ事で満を持しての製造となったのです。
 また新10000系は車体もコルゲートを廃止、ビードライン+ダルフィニッシュ仕上げというよく聞く名称の外板となりスッキリした一方で前面スタイルも6050系がカッコイイからと8000系の修繕車に採用されたマスクを取り入れ、まさに8000系更新顔のステンレス版といった形の車両に仕上がりました。
 また20000系と新10000系では台車はボルスタレス台車となり補助電源装置がSIV(静止型インバータ装置)が採用されより一層の近代化が図られたグループと言えます。

 こうして1988年に入り新10000系が誕生し、10000系初の4両固定編成が登場し11431Fとなりました。10030系と呼ばれる車両の誕生です。
 新10000系もイメージ画像だと当初から8000系更新顔同様のフロントマスク、第二世代軽量ステンレス車体がイメージされていましたが台車がボルスタ付きだったり、番号は11651と表現されており当初は10050系から附番する予定だったのかもしれません。後々10050の番台(10030系50番台)は登場するのですが最初からマイナーチェンジのタイミングに来たら50番台にしようって考えがあったのかもしれませんね。

 ちょっと余計な話が過ぎましたが、10030系は11431Fと11432Fが新造され、更に3月には10030系のVVVFインバータ制御試作編成となる10080系11480Fも誕生しました。
 やっと東武にもVVVFインバータ制御という言葉が出てきました。20000系では9000系に続きAFE主回路チョッパ制御が採用され、10030系では10000系同様にバーニア電動カム軸他励界磁チョッパ制御方式のままとなっているのでわずか1編成4両という事ですがこれも近代化を伺わせる第一歩と言えます。
 現代では4in1インバータ装置なんて開発されたり小さいな箱一つで4個モーターを個別制御が出来てしまう程に小型化されましたが、当時の10080系では大容量のGTOサイリスタ素子の制御装置を採用してもなお1つのインバータ制御装置で4個モーターの制御までが限界となっていた為、12480と13480の8個モーターを制御する為には1C4M制御のインバータ装置を丸々2個床下に配置しないといけない状況でした。今ではもう見れませんが12480号の床下のほぼ半分がVVVFインバータ装置だけで埋まったという印象です。(海・山側両方です)

 また余計な話で長々としてしまいましたが…
 こうして4両固定が3編成投入された事で持て余し気味に亀戸・大師線等でも運用されていた10000系2両固定編成との6両編成が組める様になったのですが果たして運用はどうだったんでしょうね?
 20000系は営団日比谷線側での習熟度運転も行いながら1988年3月25日から運用入りしましたが、10030系の運用開始が何時だったのか不明です。そして10030系導入により野田線への5000系玉突きが行われたのかどうか。10080系は誘導障害試験も行ったでしょうが、現代みたいに全線に入って行ったのかどうか?

 最後に余談ですがこの年の1988年6月8日に有楽町線の新富町〜新木場間が延伸開業したので有楽町線直通も新富町行きから新木場行きに変更されました。新富町行きってわずかだったんですね。
 また同時に増備された営団7000系5編成50両は念願の冷房付きで誕生し、先に登場した20000系同様地下鉄車両の冷房化が推進されていく事となります。
 あ、あと20000系就役で2000系中間車を改造した2080系が6月から野田線で運行開始していますね。

〜1988(S63)年8月9日 本線ダイヤ改正実施〜
<ラッシュ時輸送増強と竹ノ塚〜草加複々線化に伴う輸送改善>

 昭和49(1974)年7月より北千住〜竹ノ塚の複々線化が完成していから14年、ついに本線の複々線は竹ノ塚〜草加まで延びる事となりました。4.1kmを高架複々線化するのに14年です。草加〜北越谷の10kmの高架複々線化が引き続き進む事になりますが、これ以降の高架複々線化がほぼ同じ14年程度で完成したのも考えたら凄い話ですよね。(既にこの時点で草加から先綾瀬川を跨ぐ前の新田駅までは高架化がほぼ進みつつはありました)

 竹ノ塚〜草加までのわずか4.1kmですからラッシュ時の輸送状況が劇的に改善するとは言えませんが全線に渡っての輸送改善が行われる事となりました。


<ダイヤ改正変更点>
1.午前ラッシュ時輸送力増強(8両編成準急の10両編成化)
  南栗橋6:49発準急曳舟行き(北千住7:48着)
  新栃木6:17発準急曳舟行き(北千住7:56着)
  新栃木6:30発準急曳舟行き(北千住8:11着)※改正前浅草行き
 東武日光5:57発準急曳舟行き(北千住8:36着)※改正前浅草行き
東武宇都宮6:17発準急曳舟行き(新栃木で上記準急と連結)
  ※新栃木経由の列車は南栗橋で後ろに4両増結。

2.竹ノ塚始発普通を草加始発に延長運転
 ラッシュ時最混雑時間帯となる竹ノ塚7:34・7:44・7:54・8:07発の浅草行き4本を草加始発に延長運転とし草加・谷塚の混雑緩和に対応するものとする。
 また営団日比谷線においては北千住駅における混雑時間帯に始発2本の増発を行う。

3.昼間時間帯の準急の増発。(1時間4本体制から1時間6本体制へ変更)

▲この改正まで夕方下りラッシュ時以降しか運転されなかった準急南栗橋行きが日中も運転される事となりました。

 2006年に廃止される事になる地上車の準急列車ですがおなじみの1時間辺り準急6本体制となったのがこの改正からとなります。

 それまでは浅草発の日中準急は東武宇都宮(まれに新栃木止まり)・羽生・伊勢崎・太田行きの順番により約15分間隔で運転されていましたが、今回改正より東武宇都宮(一部新栃木止まり)・南栗橋・館林・新栃木・伊勢崎(A準急)・太田の順番でそれぞれ運転される事となりその結果浅草〜東武動物公園間は約10分間隔で運転される事となりました。

 これは従来普通で運転されていた南栗橋行きと藤岡行きが準急化され、藤岡止まりが新栃木に延長運転されたものです。
 浅草発藤岡行きは前年のダイヤ改正で設定されたばかりですが速攻で消滅となりました。(一応藤岡行き自体は宇都宮線側からはまだ残っていましたが)
 また伊勢崎線側でも羽生行きの大半が館林行きに延長運転となり羽生行きが逆にわずか(下りで朝と夜に1本ずつの2本だけ)となりました。(まだ利根川橋梁が単線のままの時代です)

4.準急増発により普通停車駅のカバーとして日比谷線直通列車の本数増(平日上下各14本延長)
 準急が少なく地上普通が多かった頃と比べ準急が増えて地上普通が減った分は日比谷線直通でカバーする事になりますので、地下鉄直通運用が増える事となりました。
 それまでの日中時間帯は北千住を約15分間隔の1時間辺り4本が直通運転となり、更に内1本は竹ノ塚止まりとなっていました。
 今回改正より1時間辺り6本の直通体制となり、竹ノ塚止まりが2本、東武動物公園行きが4本という形態に変更されています。竹ノ塚止まりが2本になる分は浅草始発の普通が設定されていますが北春日部行きと東武動物公園行きがそれぞれ交互に30分おきに走る為、姫宮だけは1時間に5本しか来ないという変則的なダイヤとなっていました。

 3.4.の変化をまとめた表が以下になります。ちょっと見づらいかもですがとにかく本数が増えたってのはよく分かるかと思います。


5.午後ラッシュ時輸送改善
 北千住口の夜ラッシュ時の準急混雑緩和の為に今回も準急の増発を実施しています。
 また終電延長の流れが加速していた時代ですが、日比谷線直通の北千住0:01発最終北春日部行きの混雑が悪化していた為に同列車に近接して列車増発を実施。(まだまだ非冷房2000系の多い時代だったからこういうのは助かるんでしょうね)

6.日光線快速列車の6両化(6050系増備車の登場)
 日光線の通勤通学観光輸送に貢献していた日光線の快速列車ですが、野岩線開業効果による最盛期を迎える時代であっても当時はまだ4両編成運転が残っていました。

 これに対応すべく東武と野岩は6050系の増備を計画し、この年の5月〜7月に掛けてアルナ・東急・富士重工の3社で6050系増備車8編成16両が製造されました。(6173F〜6179F、61103F)
 特に先に落成した車両を使用して6月20日より一部列車では増結を開始していましたが、今回改正より残りの4両編成も全て日光線内6両編成運転となり結果下今市で分割後の日光・鬼怒川・野岩線内も2両編成だった列車が一部4両編成で走れる様になり輸送状況が大きく改善される事となりました。

7.宇都宮線直通快速急行しもつけの新設
 つい先日終焉を迎えたしもつけ号でございますが、この改正より運転が開始されました。
 運行開始当初より朝の上りと夜下りの1往復のみの設定ではありますが運行開始となりました。
 快速急行なので6050系での運転となります。

8.鬼怒川線快速急行列車の増発
 浅草〜鬼怒川公園間に快速急行が平日含め上下2往復増設される事となりました。
 かつて悲惨な乗車率で観光シーズンを除いて運行を廃止した快速急行を今更増やす?という感じですがこれには理由があって1988年10月に野岩線の下野上三依駅(現・上三依塩原温泉口駅)の行き違い設備完成後は野岩線に直通運転するというのを見越して設定されたものです。
 ちなみにこの行き違い設備の設置理由は、国道400号の新設により同駅から塩原温泉へのアクセス向上が図られる事から観光客誘致の為という流れも関係していました。
 現在では上三依塩原温泉口駅ですが、この時に下野上三依駅から上三依塩原駅に改名しています。最初から温泉の名前付ければ良かったのにと思うのはここだけの話。

 逆にやっと野岩線直通の快速急行が誕生するという訳ですね。それでも混雑が酷い時期限定じゃないのかなって感じはありますが…

 ※10月19日よりおじか号の直通運転は開始となり、停車駅は川治温泉、湯西川温泉、上三依塩原・会津高原となっており会津鬼怒川線内も通過運転を実施しています。

9.佐野線、小泉線列車増発
 土曜日午後の通学輸送の混雑緩和の為に館林〜葛生の上り1本増発。(長期休み中除く)
 小泉線においては午前午後有効時間帯に館林〜西小泉で上下1本ずつ増発を行う。

 という感じです。私みたいな若輩者には馴染み深い準急の1時間6本運転が開始されたダイヤ改正がこの時という訳ですね。
 このダイヤ改正に際して本線に10030系を一気に26両投入しています(11433F,11434F,11631F〜11633F)。増備用の車両数が14両となっているので余剰分12両は5000系列(5050系と思われる)を野田線七光台区に転属させ3000系列の廃車を行ったとの事です。

〜1988(S63)年11月21日浅草迂回乗車スタート〜


 本線側では草加までの複々線化が完成し10両編成電車も増やし増え続ける乗客に対し順調に対応して…いませんでした。
 増え続ける東武の利用者、複々線化以降増え続ける常磐線の利用者によって北千住駅は大変な状況に陥っていました。

 その時の惨状を知らない人間として何が問題かと言えばやはり乗換客が多すぎる事じゃないでしょうか。
 東武伊勢崎線の弱点と言えばメインターミナルが北千住である以上目的地はまだ先にある人が大半となってしまいます。
 そして日比谷線、千代田線といった営団の主要地下鉄が2線通っているのでこれらに乗り換える客が非常に多いという特徴があります。勿論メインは日比谷線なんでしょうが。

 しかし千代田線も凄まじい混雑を見せています。私も一時千代田線使って通勤してた時ありますが本当北千住はヤバいんですよね。ホームが微妙に狭いのも辛い所。

 ちょっと話が逸れましたが、北千住の乗り換えや特に日比谷線では始発電車があるというのが癌です。これがあるおかげでホームの混雑は非常に危険な状態だったと思います。今では3階ホームに移動したからマシですがそれにしたってあの広々とした3階ホームですらラッシュ時は始発待ちの列が凄いんです。
 あの列が普通に1階ホームに降りて来るのを想像しただけでこれはダメだろってなるのが容易に想像出来ます。
 一時余りのホーム混雑の酷さから始発電車を無くして全て東武直通にするという案すら出される程だったそうですがこれは運行等の問題から実現しませんでした。

 東武伊勢崎線は今後も利用客が増え続け10両編成化が進みます。確かに北千住までは輸送力を増やせば対応は可能なんですが、そうなれば益々北千住の乗り換えが酷い事になっていくのです。なので8月の改正時に営団も日比谷線の始発を増やす等対応しましたが全く追いつかない状態です。
 一方千代田線側も冬場を迎える前に6000系を2編成20両増備してラッシュ時最混雑時間帯に綾瀬始発を5本増やしそれまでの2分25秒ヘッドから複線では危険領域となる2分15秒ヘッド化を行い北千住の殺人的混雑に対応しているという状況でした。そう東上線も有楽町線開通前は2分15秒ヘッドで運転していましたがそれぐらいヤバいって状況なのです。

 前置きが非常に長くなりましたが、何か追加の策を考えねばならないって事で営団と東武が助けを求めたのが輸送量が大幅にダウンする伊勢崎線都内区間だったのです。

 この迂回乗車は小菅駅以遠から営団日比谷線上野経由で銀座線各駅までの通勤・通学定期を持つ方に対し浅草駅経由で銀座線に乗車出来る迂回乗車特例扱いというものです。
 うーん…これ改めて中身見るとこれだったら最初から銀座線経由の方が賢い気しかしませんが、やっぱり通学なり通勤なり最短ルート以外絶対認めないって感じだったんでしょうか。
 浅草を経由すると何が良いって浅草は始発なので座って乗車が出来てしまうんじゃないかってぐらい高い金払ってもこっちが良いと思うんですけどね…。

 とにかくこの迂回ルート使えば日比谷線ルートより10分は所要時間が長くはなってしまうが日比谷線ルートより圧倒的に快適に移動が出来る所が特筆されます。残念ながら平日7時〜10時の間で上りしか迂回特例を認めていないとの事ですが。

 上野の日比谷線と銀座線の乗り換えも地味に距離あるんで歩くの面倒なんですよね。
 これでどれほど効果が出るかは不透明ですが当時で言えばこの微妙な策でも掟破りの秘策だったんでしょうけど…こんな感じで北千住の輸送対策は今後益々頭を悩ませる事となっていきます。

〜昭和終了 8000系の配置はどうだった?〜


 昭和63年まで終わりとなります。年明け昭和64年は10日程度で終わってしまいそのまま平成に突入となります。
 ここで昭和から平成に変わる時の8000系の配置状況と直前の転属状況を確認してみます。と言っても10000系投入による5000系列の玉突きぐらいで8000系の転属はほとんど見られなかった模様です。
編成番号転属時期転属先転属理由
81111FS62(1987)/08/20森林公園→春日部転属理由がイマイチ不明です。東上線ダイヤ改正直前なので車両数調整の可能性が一番高いですが…
昭和末期 8000系電車配置表(S63/1988年12月末現在)
所属箇所8両固定編成6両固定編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
配置なし (修繕車)
8101F,8102F,8103F,8104F,8107F

(未修繕車)
8157F,8158F,8159F,8160F,8166F
8167F,8168F,8169F,8170F,8171F
8172F,8192F,81110F,81113F,81114F
81117F
6両固定21編成126両
4両固定20編成80両
2両固定34編成68両
合計274両
4両固定編成2両固定編成
(修繕車)
8127F,8130F,8131F

(未修繕車)
8116F,8117F,8132F,8133F,8137F
8138F,8141F,8144F,8145F,8146F
8147F,8153F,8191F,81107F,81108F
81109F,81111F
(修繕車)
8509F,8516F,8519F

(未修繕車)
8503F,8507F,8508F,8515F,8517F
8518F,8520F,8521F,8522F,8523F
8524F,8528F,8538F,8539F,8542F
8544F,8558F,8566F,8567F,8568F
8569F,8570F,8571F,8572F,8573F
8575F,8576F,8577F,8578F,8579F
8580F

東武本線
館林検修区
(館林)
4両固定編成2両固定編成合計
(未修繕車)
8118F,8125F,8126F,8128F,8129F
8139F,8140F
(未修繕車)
8527F,8529F,8540F,8543F,8546F
8547F,8550F,8553F,8555F
4両固定7編成28両
2両固定9編成18両
合計46両
東武本線
新栃木検修区
(新栃木)
4両固定編成2両固定編成合計
配置無し (未修繕車)
8545F,8552F,8554F,8556F,8557F
8559F,8560F
2両固定7編成14両
合計14両
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
8両固定編成6両固定編成合計
(未修繕車)
8173F,8175F,8177F,8179F,8181F
8183F,8185F,8187F,8189F,8193F
8195F,8197F,8199F,81101F,81103F
81105F,81115F
(修繕車)
8105F,8106F,8108F,8109F,8110F
8111F,8112F,8114F

(未修繕車)
8113F,8156F,8161F,8162F,8163F
8164F,8165F
8両固定17編成136両
6両固定15編成90両
4両固定23編成92両
2両固定30編成60両
合計378両
4両固定編成2両固定編成
(未修繕車)
8115F,8119F,8120F,8121F,8122F
8123F,8124F,8134F,8135F,8136F
8142F,8143F,8148F,8149F,8150F
8151F,8152F,8154F,8155F,81112F
81118F,81119F,81120F
(未修繕車)
8501F,8502F,8504F,8505F,8506F
8510F,8511F,8512F,8513F,8514F
8525F,8526F,8530F,8531F,8532F
8533F,8534F,8535F,8536F,8537F
8541F,8548F,8549F,8551F,8561F
8562F,8563F,8564F,8565F,8574F

 まだまだ修繕車はわずかですね。ほとんど初期の6両固定ばかりですし…
 東上線は未修繕車ばかりでどこを見渡しても原型顔の8000系、8000系、8000系。。。羨ましい…と思うのは現代人だからであって当時そこにいたら絶対に嫌気さしてたでしょうね…

ご覧いただきありがとうございました。
間違いとかあればご指摘いただけると非常に有難いです。  



2020年12月28日編集

(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
→東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション27 東武鉄道 1970〜1980
●鉄道ピクトリアル No:915 2016年3月号 特集東武8000系
→東武8000系のプロフィール(粂川零一氏)は特に参考にさせて頂いております。
●鉄道ダイヤ情報2013年10月号 東武鉄道8000系電車あれこれ(花上嘉成氏著)
●ヤマケイ私鉄ハンドブック3 東武
●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)
●東武時刻表各号(東武鉄道)




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