東武8000系の歴史


第2章:東武8000系の誕生まで

1.高度経済成長期の幕開けと東武鉄道の変化

〜高度経済成長期へ突入〜


 前章で紹介した朝鮮戦争による朝鮮特需により日本の経済は成長の時を迎えようしていました。有名な物では昭和28年に三洋電機から噴流式の電気洗濯機が誕生したりパチンコの流行が始まったり、同年28年にはシャープから日本国産初のテレビが発売され、同年には戦前から研究が進められていた日本初の国内地上波放送が開始され、NHK(日本放送協会)でテレビジョン放送が開始されました。
 この様に昭和20年代後半には徐々に豊かさを取り戻しつつある日本でしたが、昭和29年(1954年)から昭和48年(1973年)までの19年間はそれまでの急激な伸びを更に上回る飛躍的な経済成長を遂げました。現在でも日本の高度経済成長期と呼ばれる時代の始まりでした。

 昭和29年4月5日に青森発上野行きの集団就職列車が初めて運行されました。地方の農家の次男坊以降の子が中学や高校を卒業してから3大都市圏(東京・大阪・名古屋)等の主要都市の工場等に就職する為に運行されたのが集団就職列車です。この集団就職列車に代表される様に余剰した農業労働力が都市圏では勤勉・良質で若く・安い労働力として新時代の新技術に適応してゆき、経済成長をより一層加速させました。また朝鮮特需時にアメリカから授けられた先進国的考えが日本の生産力に活かされたり、ケインズ経済学に代表される投資の増加が所得の増加量を決定するという理論を参考に、政府が公共投資等の設備投資を増大させそうする事で所得税を倍増させる計画を発表し、これらが相互に良い効果をもたらした事が要因とも言われています。

 前述した集団就職列車は都市圏へ多くの若者を移住させる要因になりましたが、昭和30年に石原慎太郎現東京都知事の短編小説「太陽の季節」が発表され、これが芥川賞を受賞し一般社会でも話題になりました。これは若者の新しい生き方を描いており、若者に大きな影響を与え、身なり、行動、言動が変わり、彼らは「太陽族」と呼ばれたそうです。これもまた戦後の象徴と言われる様になったそうな。(太陽の季節の内容自体、結構過激なものとなっており今だといろいろ言われてしまいそうな内容となってますね。まぁ今でも芥川賞とか貰う小説なんてこんな感じのものが多いようですが。)

 昭和31年の経済白書にて「もはや戦後ではない」と強調されたのも有名な話で、前述した電気洗濯機に加え、電気冷蔵庫、白黒テレビの3つは三種の神器と呼ばれました。白黒テレビについては、NHK放送開始時は866台の受信機が昭和30年には13万台、昭和33年には100万台を突破しています。(それでも全国民の数から言えばやはり高価な物だったというのが伺えます)

 他ではトヨタのトヨペット・クラウンの初代が1955年(昭和30年)1月に誕生し、昭和33年(1958年)には国民車思想の要綱をほぼ満たした富士重工の軽自動車スバル360が誕生し、自動車も徐々に増えつつはありました。しかし全国的に見ても道路の舗装率は低い為、これが原因で自動車の故障が目立ち、また自動車自体も現在よりも大衆的には高価な乗り物でありました。

 上の話を踏まえてになりますが、この頃になると三大都市圏は地方からの急激な人口流入によりみるみる人口を増やしていきます。東京圏に限定して見てみますと、戦前には700万人程を有した東京の人口も戦時中の空爆による被害や集団疎開の影響で戦後の時点で350万人までに減少しています。これが終戦から10年経った1955年(昭和30年)には800万人までに増えて戦前以上となっています。

 都の人口はその後も当然の如く増え続け、東武で言えば伊勢崎線と地下鉄日比谷線の相互直通が開始された昭和37年度には1000万人を突破しています。

 この急激に増えた人口は当然東京都内だけでは収まりきらず、次第に首都圏の近郊部に広がってゆきます。しかし住まいが東京都心から離れようとも、彼らの勤務地は東京の都心にあります。即ち近郊区間から鉄道を使って都心を目指す人が増え、都心に近づくに連れて列車の大混雑に繋がります。いわゆる今も続く通勤ラッシュに繋がる訳ですが、現在と違うのはこの時期には酷い区間で300%近くもの乗車率を記録する程で、まさに終戦後とは違った殺人的混雑が発生していたそうです。


〜当時の輸送改善策とは〜


 東武鉄道ではこの本格化する通勤ラッシュに対応すべく新通勤車車の増備を行いました。増備した車はやはり戦後の輸送混乱を救ってくれた6300型電車(7300型に改番)に習って20m4扉車となり、昭和28年から7330型(7800型)の増備を始め、本線・東上線へと投入して行きます。

 また車両の増加に連れて検修施設や車庫の増設が必要となります。昭和26年より西新井工場の検修能力向上の為に、先に西新井構内にあった車庫(西新井電車区)を竹ノ塚へ移設する工事が開始され、これが昭和27年11月1日(東武鉄道創立記念日)に完成しました。その後西新井工場の拡張工事が昭和29年頃まで行われました。

 更に人口の移動が近郊部に移動するに連れて、伊勢崎線、野田線、東上線の利用者が増加してゆきます。まず東上線については国鉄山手線の池袋駅から出ている点で東武本線よりも都心へ通勤しやすい利点がありました。更に昭和29年には営団地下鉄丸ノ内線の池袋〜御茶ノ水が開通し、その後昭和31年には東京まで開通した事で更に都心が近くなった事も影響して沿線人口の増加が進行しました。これを活かす手はなく、山手線と丸ノ内線に接続し便利な東上線をアピールする事で沿線人口の増加と開発を図りました。またこの頃から池袋西口に東武の百貨店を作ろうという計画も出たそうです。

 一方野田線は国鉄の主要駅である大宮・柏・船橋を結ぶ外郭環状線であり、こちらは高度経済成長に伴い急速に利用者を増やす東北線、常磐線、総武線の接続路線という事で沿線が注目され、利用者が増えてきた路線でした。しかし東武鉄道においてはローカル線に位置していた為に設備投資が思う様に進まず、複線化や自動閉塞化、車両の整備等様々な面で整備が遅れており輸送人員は本線や東上線には程遠いにも関わらず輸送力の低さから本線・東上線並に混雑していました。このままでは野田線の悪い輸送環境から沿線の開発が鈍ってしまう事が懸念された為、野田線の輸送力の増強と更なる沿線開発を進める事で国鉄線利用者を野田線沿線へと誘致する事で輸送人員の増加と沿線の発展を推進していく事となりました。

 そんな中、東武本線では東上線や野田線と同様の輸送力増強に加え、輸送の流れを根底から変える大きな行動に出ました。東武鉄道独自建設での北千住〜新橋の地下鉄新線建設を運輸省に申請するものでした。

2.東武本線都心乗り入れ構想

〜実現しなかった自社建設による都心乗り入れ〜


 昭和30年(1955年)12月24日に、東武鉄道は当時の運輸省(現在の国土交通省)に新線の計画を出願しました。内容は北千住〜新橋に東武鉄道による地下鉄道を新設するものでした。

 当時の東武本線の通勤客の移動を見ると、北千住から国鉄常磐線、浅草から営団地下鉄銀座線に乗り換えて都心へ向かうという二つのルートがありました。ところが前者は北千住の時点で凄まじい混雑であるにも関わらず東武からの乗り換え客が殺到し殺人的ラッシュとなっている事(しかも常磐線だと上野で再び乗り換えが必要になってしまいます)。一方の浅草から地下鉄を経由すると北千住から先の線形の悪さから所要時間が掛かってしまい、郊外からの利用には不便と言う点も問題となりました。これらが重なり新たな利用者の獲得からすれば一歩出遅れた感があり、これがそのまま東上線や国鉄・私鉄他社と比べて沿線開発が遅れていた事に直結していました。

 これを打開すべく計画された地下新線でありますが、路線の選定には以下の点が重視されました。

1.東武線を利用する乗客の一番便利とする場所を通らなくてはならない。
2.と同時に都内の交通機関の不便な場所、すなわち都内交通の盲点に足の便を与える場所。
3.他の鉄道との連絡を便利にする場所。
4.交通人口の多い場所。
5.技術的に乗り入れ可能な場所。
(交通東武 昭和31年2月10日号より)

 以上の考えから選定された路線は先ほど触れたように、北千住から新橋となっていますが途中の経路は次の様に計画されました。

 北千住を高架線で出発し、国鉄常磐線と京成電鉄の交差部の手前で地下に入り、地下鉄で墨田川を潜り、三の輪、浅草公園(仮称で浅草となっていましたが、現在のTX浅草とほぼ同じ位置)、田原町(営団銀座線連絡)、浅草橋(国鉄総武線連絡)、人形町、茅場町、築地の経路を経て終点新橋で国鉄線・営団線に接続するというものとなっています。この時策定されたルートの一部は浅草の様にその後TXが通る事となります。

 この様に北千住から新橋までの総延長が10.9kmとなっており、従来の浅草経由で銀座線使用で新橋までは15.1km、北千住から国鉄線経由だと12.9kmとなっており、ただ都心へ直通するだけでなく距離短縮による所要時間の短縮も狙った計画でした。しかし建設許可の申請を行ったものの結局認可は下りませんでした。(建設費は85億円でしたが、当時大卒の初任給がおよそ10000円だった時代です。まぁ仮に大卒初任給の20倍を掛けて1700億にしても現代では全然建設不可能な金額ですけど・・・)

 当時は東武鉄道に限らず、その他の東京私鉄各線が都心直通への申請を行っていたのですが、やはり認可は下りませんでした。その他の申請状況については下記に簡単にまとめます。

出願年月日社名区間
昭和22年6月24日東京急行電鉄中目黒〜東京・目黒〜広尾
昭和23年8月31日小田急電鉄南新宿〜東京
昭和25年1月26日京浜急行電鉄品川〜東京
昭和25年5月16日東京急行電鉄渋谷〜新宿・五反田〜品川
昭和25年8月1日京成電鉄押上〜有楽町
昭和29年8月10日京王帝都電鉄
(現京王電鉄)
富士見が丘〜新宿
昭和30年11月18日京王帝都電鉄角筈2丁目〜両国
昭和30年12月24日東武鉄道北千住〜新橋
昭和30年12月27日京王帝都電鉄神楽坂〜上野
昭和31年2月17日京浜急行電鉄品川〜八重洲通(京成電鉄と連絡)
昭和31年2月23日小田急電鉄参宮橋〜八重洲口(東武鉄道と連絡)
昭和31年4月1日東武鉄道浅草橋〜東京八重洲(前回申請の区間変更)

 何故これだけ多くの民鉄が念願であった都心への地下鉄道建設を申請したにも関わらず許可されなかったのかでしょうか。関西だと梅田(大阪)、難波大阪の中心に地下鉄だけでなく多くの私鉄が乗り入れています。この疑問に答えるには東京の地下鉄の歴史にについて触れないといけません。昭和16年3月に制定された帝都高速度交通営団法に基づき、法人である帝都高速度交通営団(以下営団地下鉄。現在の東京地下鉄?)が東京都に於ける地下高速度交通事業の建設から運営まで一元に管理するという体制になりました。この営団地下鉄の初代総裁には当時の東武鉄道の取締役会長も務めていた原邦造が就任していたりします。

 ちなみにこの頃の東武鉄道は激動の連続で、当時の取締役社長の初代根津嘉一郎が昭和15年に亡くなってから就任した2代目社長・吉野傳治が就任後わずか1ヶ月で急逝してしまい、当時の取締役だった原邦造が急遽取締役会長に就くという大慌ての状況にも関わらず、その新体制が1年半になろうかという直前で原が営団地下鉄初代総裁に就任が決定となりまたもや取締役の異動が発生してしまいました。
 こうして2代目根津嘉一郎(当時根津藤太郎)が取締役社長に就任したという流れが発生したのです。

 ところで、初代根津嘉一郎は昭和2年に開業した東洋初の地下鉄、東京地下鉄道(浅草~新橋/現・東京メトロ銀座線)の開通の援助を行っており後に東京地下鉄道の社長にも就任しています。これは当時浅草開業と同時に上野、東京への都心乗り入れを狙っていた東武鉄道の計画の線上に東京地下鉄道の計画があった為に東武の路線建設の認可が下りなかった為で、当時の東京最大の繁華街浅草・上野を繋ぐ路線の建設は東武鉄道にとっても重要という狙いがあったのからと言われています。
 東武鉄道にとっては念願とも言えた都心の乗り入れは東京の地下鉄の発展と共に歩んできたと言えます。
3.昭和30年初期の輸送力増強策と78型の増備について

〜野田線輸送力増強10ヵ年計画策定〜

 昭和30年代に入り、昭和31年7月に第1回野田線増強委員会が開催されました。大分上の方で述べましたが野田線は国鉄の主要駅である大宮、柏、船橋を結ぶ路線でありそれは逆を言うと国鉄東北線・常磐線・総武線を利用し都内へ行く人が郊外に住むに連れて野田線沿線にも住まいを構えるという事で野田線の輸送人員の伸びが期待される一方で、放って置けばたちまち混雑率が上昇してしまうといった状況でした。

 しかし当時の野田線はさながら今で言う地方ローカル線であり、総延長が62.9kmにも関わらず所属車両がたった36両という状況(しかもいた車両と言えば17m級の32型やら低出力の旧型車14型等といった有様です)。
 運転間隔もラッシュ時には岩槻〜大宮の10分間隔が最高であり、柏口・船橋口では驚きの30分に1本という状態でした。

 こんな状態ではどうにもならないと今後10ヶ年に渡る車両増備や施設改良によって10年後には総勢110両まで車両を増備し複線化改良、変電所増強、軌道改良といった設備改良によって大宮口の5分ヘッド運転、柏・船橋口の10分ヘッド運転を目標にする事となりました。
 野田線がその後目覚ましい発展を遂げたというのがこの過去の記録からも読み取れますね。

〜主要路線のスピードアップと貨物列車の電化促進、蒸気の衰退〜


 東武のドル箱・東上線側では輸送人員の順調な伸びに合わせて車両の増備、施設の改良を行い成果を上げていました。しかし一方で蒸気機関車メインで運転されている貨物列車では年間で4000万近い赤字を出している状態であり、この為東上線側は本線と切り離して考え、電気機関車による運転を行うべきとの報告が出されてました。既に根津社長が昭和30年に入る前に貨物列車の電機化を推進する話を出していましたが、東上線側はこれを至急行う必要性が高いという報告結果でした。

 これを踏まえて当時貨物用側線が44km以上も非電化だったのでこれを電化する事、電気機関車を6両新造する事、川越機関区を廃止し川越電車区を拡張し来るべく輸送力増強に備える事、一部変電所の増強といった計画が発表されました。

 本線側で昭和31年12月1日にダイヤ改正が行われました。このダイヤ改正での狙いは、以下の4点にありました。

1:ラッシュ時輸送力の増強
2:輸送形態の合理化によるサービス向上
3:観光地向け輸送能率の向上
4:貨物輸送の合理化

 1と2については順次進められている項目ですので余り詳しくは書きませんが、通勤輸送において、当時では78型の増備が本線・東上線と順調に進められておりました。

その他で特筆されるのが既存の車両を改良したり運用を改善する事でスピードアップを図る動きがありました。これが3ですね。詳細を書きますと、まずは通勤輸送で活躍する73型・78型の弱め界磁制御対応です。

 弱め界磁って何ぞやって思う方は前章でも触れていますが、調べてみて下さい(私も詳しい原理は分かりませんので)。詳しくは書けませんが結論からすると弱め界磁制御が可能になる事で運転最高速度がアップします。界磁を弱めずに全界磁のまま走り続けるとある一定の所から速度が上がらなくなります。73・78型が全界磁で何km/hまで出せるかは分かりませんが、全界磁だと60〜70km/hぐらいしか出せなかった…?

 野田線では当時32型(97KW)が主力で低出力(75KW)の14型電車も在籍したりとスピードアップをする上での邪魔者になっていました。そこで32型電車を1M2Tの組成を基本とし、14型は2Mを基本とする事で14型のスピードアップを図りました。まぁこれでも今の感覚で見ると大分遅そうですが…(それでも大宮〜船橋で5分程度の時間短縮にはなったそうです。)

 日光線・宇都宮線・小泉線では32型電車のスピードを上げたそうです。この頃は戦前から活躍するデッカータイプが主力だったのが伺えますね。

 以上の項目が大体?にあてはまると思いますが、3の観光地向け輸送能率の向上という事で、この改正ではこの項目に最も力を入れた様にも感じられます。というものの、当時は既に国鉄東北線の宇都宮までの電化運転開始が控えており、将来的には日光輸送のライバル日光線の電化運行も計画されていました。更に国鉄では昭和30年に新型気動車を新造し線路改良等を経て準急日光の運転を開始。この列車はそれまでの国電上野〜日光の輸送時間を蒸気機関車牽引に比べ何と50分も短縮するという気合の入りようでした。

 と言う訳で東武鉄道は日光線型統の輸送改善を図る事になった訳です。具体的に行われたのは、日光線型統準急(速達タイプ)の設定(昭和33年4月より杉戸まで通過運転の準急と区別の為に準快速に種別変更)と日光・宇都宮線の分離運転(宇都宮線列車との併結を解消)で、使用列車はやはりデッカー32型電車だったのですが、この日光直通の準急の停車駅は浅草・北千住・春日部・杉戸・栃木・新栃木以北各駅停車という飛ばしっぷりでした。(その後新大平下に一部の列車限定で停車駅に追加されています)
 反面、宇都宮線列車を32型の1M2T組成を基本とした為に若干の速度が遅くなる所もありましたが、日光線直通列車で新栃木まで移動して乗り換えると時間の短縮になったそうです。当面は78型の増備をメインで考えていた事と78型は利用者の多い区間の運行に優先的に使いたかったので、既存の車両を活かした輸送改善をするしかなかったそうですが、この新しい準急によってそれまでより10分短縮されました。
 それでも浅草〜日光が2時間34分です。将来誕生する東武動物公園以北各駅停車となる区間快速が約2時間40分(途中通過待ちや連結・解結作業時間含む)ですから、余り俊足と言える存在ではなかったのかなと感じます。

 他にも小泉線のスピードアップやら、野田線の昼間の運行本数増等が行われました。この頃は大宮〜岩槻は昼間30分に1本です。今では想像も付きませんね(汗)なお野田線のダイヤ改正は12月1日ではなく12月23日に行われたそうです。またこれより先の12月15日には上毛電鉄への急行列車の直通運転が開始され新大間々(現赤城)から乗り入れ中央前橋まで急行と快速(後の通勤快速)がそれぞれ1往復設定されたそうです。

〜78型の本格増備と7850系の誕生〜


 再度になりますが、この頃の新車は日光線型統の特急車や急行車ではなく通勤用の78型の製造がメインとなっています。78型は昭和28年に7300型(元国鉄63型)を基にした東武オリジナルバージョンの20m4扉車で、前面に貫通扉を付けて併結運転が可能なのが大きな変更点でした。当初は7330系で落成していましたが、昭和28年末にはすぐに7800系に改番され初期の7800系は昭和29年までに2両固定19編成38両が製造されました。
 なお昭和31年から車内の白熱灯を蛍光灯に取り替える工事が行われ、同年に完了しています。また先に述べた様に弱め界磁制御対応工事が行われました。
 また昭和31年に登場した78型からは7850系と番号が変更され仕様が見直されています。

 7800型では車内の内張りが73型同様に木製だったのを7850型からは鋼製に変更、前照灯を埋込タイプにし、屋根上のベンチレーターがガーランド式(十文字形)から押込式(四角形)に変更(なお7300型はグローブ式(丸形)です)、貫通扉の幅は7800型の700mmから100mm拡大されて800mmとなっています。他にも細かい点での変更がなされています。また7850型からは当初から弱め界磁制御対応となっています。更には遠距離利用客に配慮し、クハ850形に東武の4扉車として初めてトイレが設置された点も特筆されます。

 この7850系ですが、当たり前の様ですが最初に出てきた編成は7851+851でした。しかしその後7850系に分類された車両達は7890系に改番されています。

 流れを説明しますと、元7330系を含む7800系は昭和27年から昭和29年までに19編成38両が製造されました。だったら7850系を7820系として製造すれば良かったのに…とも思ってしまうのですが、後の祭りで7850系が4編成製造された後に、7850系のトイレ無しVerとしてより通勤輸送に特化した7820系に番台区分を変えて量産が開始されました。その結果、モハ7821+クハ821からあっさりモハ7851+クハ851まで到達してしまった為に、78型シリーズで唯一トイレ付きで竣工し異端的な存在となった旧7850系が一番後ろの7890系として改番されたという流れです。

4.地下鉄2号線の規格決定へ

〜初物づくしだった地下鉄2号線の規格設定〜


 ここで日比谷線の規格の決定までの東武・東急との協議を交えた営団の苦労の裏話を書かせて頂きます。

 第3項で地下鉄決定までの話やら東京の地下鉄の歴史の話を長々と書きましたが、昭和32年(1957年)9月24日に営団と東武・東急の間で第2号線相互直通運転に関する覚書の交換が行われました。この翌年の昭和33年3月1日には第2号線の恵比寿〜中目黒及び、南千住〜北千住の地方鉄道敷設免許を受けたのを初めとし、昭和34年5月1日より中目黒〜北千住の土木工事に着手しています。

 さて、相互直通運転運転というのは身近な路線で戦前から行われていました。それは現在銀座線である東京地下鉄道と東京高速鉄道の例です。これも元から相互直通を念頭に入れていたので先に開業した東京地下鉄道と同じ規格で東京高速鉄道が建設された為です。(いろいろゴタゴタはありましたが)と言う訳で営団・東武・東急の3社が相互直通するにはそれぞれの規格を合わせて、線路さえ繋げれば物理的には乗り入れが可能になるという事でした。

東武鉄道の車両東京急行電鉄の車両
形式車体長車体幅形式車体長車体幅
7800型2000028505000型185002740
7300型2000028406000型180002744
3200型1685227143000型列16m〜18m?

 当時の両社の車両を適当に抜粋(特に東急側)して見てみると、各社ともバラバラですがやはり東武が20m4扉の車両を新造していたのに対して、東急は18m級3扉車を製造していたのが目に付きます。それ以上に車体の幅の違いが目立ち、東武では7300型や7800型で2800mm以上の幅の車両を増備しているのに対し、東急は2800mm以下とかなり幅が狭い車両が目立ちます。

 なお営団は第2号線建設前に既に第4号線・丸ノ内線を建設していましたが、丸ノ内線の規格を決める際にもそれなりに指針は打ち出されていました。
 これは昭和16年6月に鉄道省(当時の運輸省と国鉄の前身)にて地下鉄道技術調査委員会が設置され、規格に関する審議が行われました。これは海外の事例や関門トンネルでの経験も踏まえて協議されましたが、以下の点が骨子として打ち出されました。

 ?車両については従来(銀座線の全長1631mm、全幅2593mm、最大高3495mm)の規格にとらわれず、高さ・幅・長さについて大型化する。車体長については20m車両となる事も考慮する。
 ?建築限界および隧道余裕については、パンタグラフ車両となる事も一応考慮する。
 ?電気方式は、直流750Vとする。
 ?構築はなるべく深くし、一般部は平行した単線円形隧道を標準とし、駅部はなるべく中2階を取り、歩行者の道路横断にも使用出来る様にする。

 となっています。昭和16年の話なので?は防空壕の話も絡んでいるので少し話は逸れますが、意外にも戦前から20m級の車両や架空電線方式での建設を考慮するという文面があったみたいです。

 しかし丸ノ内線はご存知の通り第三軌条方式で建設されています。車体長は18m、車体幅は2800mmと車体自体は拡大されている訳ですが、この結果銀座線を含め、丸ノ内線も郊外私鉄との相互直通運転は出来ない路線として今も残っています。あと直流750Vでの建設も行われていませんね。大阪市営地下鉄の方では750Vの第三軌条の路線が見れるそうです。

 これは何故かと言われれば、勿論建設費の圧縮の為です。架空電線方式を従来通り採用すれば丸ノ内線では3800mmとなったトンネル断面の最大高さが5500mmと1700mmもトンネル断面を大きく取らなければならず営団にとっては簡単にハイ、そうですか。と言えない事情がありました。とは言っても郊外私鉄側からしても第三軌条方式と架空電線方式の併用を簡単に認める訳にはいきませんでした。

 そこで昭和32年初旬頃より既に相互直通運転先として選ばれていた東武・東急・京急・京成の4社では乗り入れに関する技術交換会が開催されており、乗り入れに対してどの方法が最善かを検討されており、その都度乗り入れ先の営団・東京都、そして運輸省との協議を行ってきました。そして運輸省が設置した地下鉄1・2号線の規格に関する委員会にて昭和32年6月13日、ついに建築限界・集電方式・隧道限界の規格が決定されました。

〜東京の地下鉄初の架空電線方式による建設決定と車両規格の決定〜


 この委員会では営団・東京都・運輸省に加え、新幹線開発で有名な国鉄の島技師長等が委員として指名されて2回に渡り議論されています。

 集電方式を?地上を従来通りの架空電線方式とし、地下を第三軌条方式とする?全て架空電線方式とする。の二者択一となりましたが、圧倒的に?の架空電線方式を採用すべきという事で決まっています。これによって従来よりも建築限界、隧道限界が大きくなる事となりました。

 なお従来の架空電線方式の場合、最大で5500mmもの高さでトンネルを建設せざるを得なかった為に、建築限界を抑える為にまずパンタグラフの最小作用高さの検討が行われてきました。その結果高さ4400mmで良い事が判明しており。この寸法に電車線分として必要な高さと余裕を見て、最終的には4850mmとなり当初より650mm縮める事が出来ました。これを実現する為に営団では新たな電車線設備の開発が必要となりました。これが営団日比谷線が初の採用となった剛体架線が導入された経緯です。(先に着工した都営1号線は従来通りの架空電線方式で建設されています。)更に営団では上を縮めたら今度は下を縮めようとトンネル躯体と道床を一体化しようと、直結道床工法を開発した事でトンネル掘削深さを100mm縮小し工期短縮と建設費縮小を図っています。

 この剛体架線の採用によって、パンタグラフの作用高さが2段階(地上5200mm、地下4400mm)となったのでそれに対応した新しいパンタグラフを搭載する事になりますが、これは東武・東急の了解を得て採用に至っています。剛体架線の開発に1年の時間を掛け、その後丸ノ内線での試験を行い、実用化が可能な事を確認しています。

 この様な経緯で架空電線方式化による難問をクリアした営団ですが、車体の方では丸ノ内線とほぼ同じ18m級片側3扉(両開きドア)に落ち着きました。細かい違いでは車両の床高さが65mm高くなったのでホームの高さを従来より50mm高くしレール面上1050mmとした点が挙げられます。そして今まで丸ノ内線までの車両では、単車での運転を可能と出来る様に両側に運転台が付けられた車両が当たり前だったのですが、流石に昭和30年代に入り、輸送人員が大幅に増えてきた事を考慮すると分割併合の必要性が低くなってきました。その為、日比谷線では営団では初めて編成の前後の先頭車にしか運転席を配置しない編成形態を取りました。これで今までよりも客席床面積が広がり、各車輌間の連結部も広く取る事が出来ました。

 最近では20m4扉車が当たり前になっており、実際営団でも日比谷線以降に建設する路線は20m4扉車に対応した路線となっています。この為18m3扉車の日比谷線は東武と東急に相互直通運転をしているが為に逆に車両規格に対する風当たりが厳しい路線となっている気がします。しかし当時の営団ではとにかく初物づくしが続いた路線なだけに、車体長まで20mにする余裕は無かったのではないかと思われます。何せ営団は当時丸ノ内線の荻窪方面の建設も同時進行で行っており、それに加え今までの地下鉄建設よりも費用が掛かるのが明らかだった日比谷線は総延長が約20kmにも及び、前者の地下鉄と平行して建設する事自体が営団にとって大変な苦労となる事は明らかでした。ならば建設コストが安く建設が可能な18m車体対応で建設したのは止むを得なかったと言うしかないのかなと思います。何より当時の東武沿線の未発展ぶりは、営団からしても余り期待が持てる状態では無かったようで、将来的に見ても18m車の最長6両編成で十分という考えがあったほどで、実際に北千住〜東銀座は6両編成分でホームを建設したそうです。

 営団も銀座線に始まり、日比谷線までを輸送力過少で建設してしまったと認めています。その為、丸ノ内線と銀座線の輸送力カバーの為に有楽町線と半蔵門線が建設される事になりました。この両線が現代になって東武鉄道と相互直通運転をしている所に妙な縁を感じます。

 ちなみに日比谷線より後新たに建設される営団地下鉄線は20m4扉で建設されているのはご存知の通りです。しかしこれは輸送力の向上という理由以上に営団に資金援助をする立場だった国鉄が乗り入れの対象となっており、この国鉄の意向が最優先されてあっさり決まったものと言えるでしょう。私鉄の中ではまだまだ20m車の輸送力向上よりも20m車導入による建築限界を初めとした既存施設の改良による影響の方が優先された時代でした。今では当たり前な20m4扉車も当時では考えが違ったと言うしかないと思います。

 営団の擁護ばっかりしてますけど、やっぱり日比谷線が20m10両ぐらいで運行出来ていたら東武伊勢崎線沿線の人口は間違いなく増えたでしょうね。だからこそ惜しいと感じる所は当然ありますが、今になって新たな都心へのルートとして半蔵門線直通電車を利用する人が増えてきているのですから、今更過去を悔やんでも仕方ないという所でしょうか。

 こういった感じに地下鉄2号線日比谷線の規格が決定されました。


5.昭和33年以降の輸送改善と73型の更新工事について

〜78型の増備と試験塗装車の登場〜


 昭和33年3月16日に東上線側でダイヤ改正が行われました。東上線側は池袋で国鉄山手線・営団丸ノ内線と接続しており都心へのアクセスも良好な事から沿線の開発も進み輸送人員は順調に伸びています。これは度々書いてきたので今更な感もありますが、特に志木から川越市が複線化されて以降は遠方からの旅客も増えてきていました。

 しかし急激な設備の改良や車両増備がままならない事から現有施設・車両を最大源に活かし、列車の混雑の均等化を念頭にダイヤが組まれたのが今回の改正です。その為に変電所の負荷を均一化する事で特に列車本数が増大する朝ラッシュ時では負荷を減らす為に遠距離列車の速度を落とす等も行った為に一部ではスピードダウンとなり不評もありました。

 これをカバーする為に、昼間と夕方の輸送力を大きく改善したのが今回改正の特徴であり、昼間では池袋〜成増が5分ヘッド、成増〜志木が10分ヘッド、志木〜川越市が20分ヘッドとパターンダイヤ化されました。この中で川越市で折り返す列車は池袋〜成増の各駅は通過とし、寄居まで運転される列車(1時間1本)は池袋〜志木の各駅を通過としたそうです。詳しくは分かりませんが、どちらとも準急列車扱いだったのでしょうか。

 夕方では遠距離電車を20%と大幅に増発したのが特筆されます。池袋〜坂戸町が20分ヘッド、坂戸町〜小川町が20分〜40分ヘッド、寄居までの急行と川越市までの急行がそれぞれ1個ずつ運転されたそうです。急行の停車駅がどうだったのかは分かりません。当時の時刻表は探しているのですが、なかなか見つかりません。見つかればまた詳しくご説明出来ればと思います。

 東上線ではこの頃、東武会館(後の東武百貨店池袋店)の建設による池袋駅構内大改良や川越電車区の工事(昭和33年12月26日完成)、貨物の電機化が平行して進められており来るべく大量輸送時代に向けての進化を着々と遂げていました。なお貨物列車の完全電機化は昭和33年4月1日より行われ、東上線の蒸気機関車運転は旧東上鉄道誕生以来45年の歴史に幕を閉じました。

 増備され続ける78型ですが、昭和33年に増備された20編成のうち12編成はナニワ工機製の7820系でしたが、残り8編成は日立製作所で製造されこれらは7860系と呼ばれました。この7860系はそれまでの7820系と比較して大きく変わったのがそれまでの7820系では屋根が木製でその上からキャンパスを貼り止水処理をしただけの簡素な作りだったそうですが、7860系では屋根が鋼製となり表面にガラス繊維を含んだポリエステルコーチングがされている点が特筆されます。なお7800型列は全車両が車内の床が木製板張りなので、結局は7860系も半鋼製電車の域からは脱していません。あとは前面のワイパーの取り付け位置が従来と違う位置に付けられていました。更にこの7860系では8編成がそれぞれ2編成ずつ4色の試験塗装に塗られて登場した点も特筆されます。

 この試験塗装はおそらく近い将来予定されている地下鉄2号線との相互直通の列車用の色の検討の意味合いも含まれていたのではと思いますが、当時の東武と言えば特急以外はブドウや茶色一色に塗られている地味な車両達ばかりであった事もあり、当時は大変注目されたと思われます。

試験塗装1オレンジ地に黄色帯(本採用される)
試験塗装2緑地に白帯
試験塗装3ベージュ地に朱帯
試験塗装4グレー地にオレンジ帯

 こんな感じで2編成ずつ4色で塗り分けられていました。この中の試験塗装1が本格的に採用され、昭和35年10月〜昭和36年末に掛けて78型全車がこの色に塗られています。

 この頃は試験的な塗装が多く見られた時期でもあったそうです。後述する7300型の更新工事が始まったのも昭和34年9月からで最初に更新工事を終えた車と昭和35年1月に落成した7820系4両が窓回りを黄色にその他をオレンジに塗り分けて登場したそうです。これらも後に前述した色に統一されたそうです。

 またその後54型や32型の一部編成がオレンジ1色に塗られるといった事もあったそうです。ここら辺の統一の無さは自由きままな時代ゆえだったのか分かりませんが、ファンの方からすると面白い時代だったと思います。

〜78型、野田線へ投入される〜


昭和34年2月に本線では戦後12回目のダイヤ改正が行われ、昭和34年6月28日には野田線専用のダイヤ改正が行われました。本線側では鬼怒川線の速度向上(低出力の16型の淘汰。32型へ置き換え)を行い、野田線にはようやく大型車の78型が投入されたようです。
 野田線の輸送力改善の状況を見てみますと、
1:朝ラッシュ時の野田市〜柏間の15分間隔運転
2:柏駅発着の貨物の時刻をラッシュ時間帯以外とする
3:大宮口、船橋口で昼間一部区間で15分間隔運転を行う
4:夕方ラッシュ時に岩槻〜南桜井間の列車を増やす

 とあります。何にしても今の状態からは想像も出来ない状態である事には変わりありません。この頃特に開発が進んでいたのが江戸川台団地のある江戸川台駅で、現在も利用者の多い駅として知られていますが昭和34年頃から開発が始まっていたようです。

 この頃野田線に78型の配置とあるのですが、昭和35年11月の配置表によれば7820系(7826〜7832)の配置があったという記録が残っており、ようやく野田線にも前後誕生した車両が配置される様になってきました。なお交通東武によれば野田線の輸送力増強の為に7860系を4編成8両増備という書き方がされています。ですがこれは7860系で7820系を押し出したのではないかと思われます。野田線には78型が新製配置された事は無かったのではないかと思われます。

〜東北線電化による日光線・宇都宮線の利用者減〜


 さて突然ですが、ここで昭和33年頃の東武線主要駅の利用者数の見てみましょう。

昭和32〜33年度主要駅の乗車人員(一日平均)
東武本線
駅名昭和33年度昭和32年度
浅草11,306,672 (30,978)10,930,929  (29,948)
曳舟3,455,423 (9,457)3,396,626 (9,306)
亀戸4,686,040 (12,838)4,628,908 (12,682)
北千住10,520,651 (28,824)9,793,738 (26,832)
館林2,198,370 (6,023)2,115,252 (5,795)
足利市2,291,441 (6,278)2,176,831 (5,964)
太田2,268,174 (6,214)2,219,759 (6,082)
東武日光1,097,065 (3,006)1,054,572 (2,889)
東武宇都宮2,046,595 (5,607)2,054,277 (5,628)
赤城250,555 (686)230,387 (631)
東武野田線
駅名昭和33年度昭和32年度
大宮3,935,136 (10,781)3,742,304 (10,293)
野田市997,195 (2,732)919,892 (2,520)
2,456,522 (6,730)2,192,390 (6,007)
船橋2,705,304 (7,412)2,294,191 (6,285)
東武東上線
駅名昭和33年度昭和32年度
池袋36,201,584 (99,182)33,180,081 (90,904)
大山6,714,204 (18,395)6,205,327 (17,000)
ときわ台6,567,197 (17,992)6,115,482 (16,755)
上板橋6,426,188 (17,606)5,917,870 (16,213)
成増4,294,326 (11,765)3,822,131 10,472)
川越市2,707,280 (7,417)2,537,339 (6,952)
参考:交通東武昭和34年6月10日号より

 この頃はとにかく池袋駅と池袋〜成増の人員の多さが目立ちます。川越市を見ると分かりますが、東上線は当時成増以北と以南で大きく分かれていたと言える程都内に利用者が集中しており、現在も残る準急は地下鉄への対抗の種別と思われていますが、本来は池袋から成増の各駅を使う人とそれ以外の人を分ける為に誕生した種別と言っても過言ではありません。

 昭和33年3月改正で川越市行きは成増までノンストップ、寄居行きは志木までノンストップとありましたが、これだけ利用者の数が違えば当然の処置とも言えそうです。

 本線側はこの当時はまだ浅草の方が北千住よりも利用者が多かったというのが伺えます。これも数年先の地下鉄乗り入れ開始で大きく変わる事になります。野田線は見ての通りの状態でまだまだ発展途上だったのが数字から読み取れますね。

 さて、この表の中で一駅だけ前年度よりも利用者が減っている駅があります。お分かりでしょうか?東武宇都宮駅です。これは昭和34年4月16日より国鉄東北本線の上野〜宇都宮の電化工事が完了した為で、日光線自体の利用者も若干減ったのですが、とにかく宇都宮線の減少が激しく電化前に比べ浅草〜宇都宮の利用者が定期・定期外とも24%も減ってしまったのです。

 更には日光線の方もウカウカしていられない状態になりました。それは国鉄日光線も電化完成を控えていたからです。国鉄ではこの電化開業と同時に準急日光に何と当時の花形特急つばめの151型と同クラスの157型を新たに製造して投入してきたのです。前章でも紹介した様に鉄道省時代にも準急に最高級の車両を入れて東武に嫌がらせ・・・じゃなく対抗してきたのと同じ事を再びやってきた訳です。(この157型、皇室用の貴賓車1両も製造されている程の優秀車で、日光投入以降は正式に特急車として製造されています。)

 という訳で利用者が順調に伸びて良いなと思いつつ、日光線・宇都宮線型統は不安を抱えながらの状態となっていました。宇都宮線の方はこれ以降も国鉄にはかなわずに行ってしまいますが、日光線側は東武としても重量な路線である為に何とかしなければいけない状態になっています。これが1720型DRC(デラックスロマンスカー)誕生の大きな引き金となった訳です。これについてはまた後述します。

〜73型電車更新開始〜


 相変わらず輸送状況が緊迫している東上線は着膨れが激しくなる季節の昭和34年12月8日にダイヤ改正を行いました。この改正の為に7編成14両の7820系(この番台の最終ロット)を投入しています。(前述した様にオレンジとイエローの試験塗装車含む)

 前回は既存の設備を限界に利用した為に朝ラッシュ時の輸送力増強を思う様に図れませんでしたが、今回は78型を増備した事で朝ラッシュ時の輸送力増強に力を入れています。当初計画では、前年度に78型20編成40両を投入したら、次は地下鉄2号線用の新車を製造するという計画だったのですが、何分3社での協議が多い為に規格の決定やデザイン決定を待っている内に東上線側の輸送状態が悪化してしまった為に急遽78型の投入となったそうです。

 なお前述していますが、こうして急遽7820系が増備される事になりつに番号は7851まで到達してしまいました。これによって初代7850型は7890型に改番されるという結果となってしまいました。(すぐにマイナーチェンジにより7860系や7870系に移行した為に、7850台は7852〜7859までは欠番という…)

 この様に順調に増備され続けた7800型列ですが、これの基となった7300型の方では昭和34年より大規模な改修工事が行われる様になりました。
 最初の1編成(7329+329)のみは日本車両にて施工を行い、それ以降は西新井工場にて御馴染み津覇車両の施工にて更新が行われました。

 わざわざ戦時設計の粗悪な車両を手間隙掛けて大改修する訳ですが、やはり導入から10数年を経て、台枠の亀裂や外板の腐食等が目立つ様になり走行中に空中分解してしまう前に(?)、毎年2編成4両を目安に全29編成58両の車体乗換えを主とした大規模な更新工事を行う事となった訳です。古い車両とは言っても東武にとっては貴重な20m4扉車ですので、まだまだ使う必要があったという訳です。

この様な大規模な改修工事は今まではメーカーに送っていた訳ですが(前述の通り最初の1編成はメーカー送り)、7300型の2編成目の改修からは東武鉄道の施設内で行われる様になりました。これがこの後32型・54型・53型・58型・78型・8000系・9000型・10000型へと続く東武の大規模改修工事の始まりとなりました。新しい車体には当時増備されていた7820系と同じ鋼体を採用し前面に貫通扉付きとなりました。それ以外の床下機器についてはほとんどが従来の物を再利用しています。

 また最初の更新車は試験塗装としてオレンジとイエローのツートンカラーで出場しています(これは試験塗装の所で前述した通りです)。

 これほど粗悪な車両を改修となると(6300型から7300型になった際も改修されてはいますが)、相当な金額が掛かったそうです。(期日も2ヶ月に及んだとか)しかし当時の車両部長は「思い切って実施した。」という事だったそうな…。新製よりは多少は安く済んだと思えば致し方なし?(本当に走行中に空中分解されると不味いですし・・・)

モハ7329の保存車です。今どうなっているのだろうか。
↑東武動物公園で今も残るモハ7329(大規模改修後)の姿です。と言っても今どうなってるんでしょう。解体されちゃった?
(平成21年9月29日 東武動物公園内で撮影)

6.地下鉄2号線工事開始とデラックスロマンスカーの誕生

〜地下鉄2号線建設開始と新型特急列車の製造開始〜


 営団地下鉄は昭和34年5月より三ノ輪と金沢工区から日比谷線の第1期工事区間の土木工事に着手しました。当初は全線同時に建設したかったそうですが、如何せん丸ノ内線の荻窪方面延伸工事を同時に進めていた為に工区を3つに分ける事にしました。(北千住〜人形町・人形町〜虎ノ門・虎ノ門〜中目黒の3工区)

 しかし銀座駅を設置する場所で東京都の地下道路建設と競合が生じてしまった為に調整に手間取り、北千住〜東銀座、霞ヶ関〜中目黒、東銀座〜霞ヶ関の3段階に分けられる事となりました。

 一方日光線関係では昭和34年末から昭和35年6月、東武の花形特急車である白帯1700系が冷房改造されました。これが東武鉄道初の冷房車です。屋根上に5個の分散ユニットクーラー(東芝製)を搭載し、サービスの向上に努めました。冷房化に伴い発電機を容量の大きい物に交換しています。

 こういったサービスの裏にあるのは電化された国鉄日光線と新型特急車両157型の存在です。157型と言えば皇室用のクロ157が製造されている様に優秀な車両で、しかもこの特急用車両を準急列車として使用しているのですから、まぁ…やり過ぎとしか言い様がありませんでした。こうして昭和34年度には東武日光駅の利用者が14%も減少してしまい、完全に国鉄日光線にやられた格好となりました。1700系も登場当時は素晴らしい設備ではありましたが、国鉄の1等車両と比較するとどうしても見劣りしてしまい、東武鉄道はこれに対抗すべく新たな特急車両の計画を進めてる事となりました。1700系の冷房化はそれまでの繋ぎとして行ったとも思えます。

こうして昭和35年2月に新特急の設計が完了し、認可申請を出しました。新たに誕生する事になる新型特急ですが大きく変わったのが編成形態で、それまでの特急(特急に限らず通勤型も含むですが)とは違い2両固定3編成で組んでいた6両編成を6両固定編成とし運転室は全室構造の非貫通タイプになっています。

 室内も大きく改善されています。シートピッチは1,100mmまで拡大されたリクライニング式でトイレは和式・洋式の両タイプを2両おきに1箇所ずつ配置し、その他の3両は浅草から2両目と5両目にビュッフェを配置し、浅草から3両目はサロンルーム(いわゆるサロンカー)とし、ジュークボックス(多数のレコードを内蔵し硬貨を投入することで任意の音楽を演奏し聞く事が出来るもの)を配置するという豪華極まりない仕様となっています。この新型特急の誕生は昭和35年9月となっています。

 一方で地下鉄の工事も着々と進んでいる訳ですが、地下鉄2号線の乗り入れ駅となる北千住では構内の大幅な改良工事が行われていました。しかしそれによる支障移転によってそれまで北千住にあった貨物線退避線路を旧中千住信号所付近に移設する工事が行われる事となりました。更にこれによって当時谷塚・西新井・中千住・鐘ヶ淵で行っていた緩行列車の高速列車退避に支障が出る様になってしまいました。それに伴う暫定的なダイヤ改正が昭和35年7月17日に行われています。

 このダイヤ改正は杉戸以南をメインに行われ、先ほど述べた様に中千住の待避線の使用停止に伴い、季節臨時列車の不定期化と普通列車のスピードアップが行われ、極力特急・急行等の高速列車に影響を与えない様な改正となっているのが大きなポイントです。

 普通列車のスピードアップが実現した要因としては、軌道の改良(50kg軌道への更新)、越谷・西新井変電所の出力増強、杉戸変電所の新設し、普通列車は浅草〜杉戸で4分のスピードアップを実現しました。これらの変電所設備の増強は来るべくデラックスロマンスカーの就役後を見据えてのものでしたが、既存の列車運行の改善にも活用される事となりました。

 また東上線側では既に貨物の完全電機化が完了していますが、本線側も順調にED5000型(ED5060型)の増備を進めており、今回の改正で初めて大型電機の速度が設定され、こちらもスピードアップと退避回数の削減を行っています。これに伴い杉戸電機乗務区が誕生しています。

 先に記述した様に、東武は新型特急列車の製造を行っている所でしたが、それに合わせて東武日光駅の大改良を行う事となりました。

 それまでは特急も下今市で分割して運転していたのが、今度の新型特急では6両固定編成長123mという長大編成となる為に既存の設備では列車扱いが出来なくなってしまう為です。この改良によって何が変わったと言えば、現在の様な東武日光駅の形態になりました。特に中央の3番と4番線の間の大きなスペースはこの時に出来た様なもので(元々3番線と4番線はあの様な形状でしたが、今回の工事で更に幅が広がりました)新たに作られた4番線が6両固定に対応したホームとなっています。なお現在の5・6番線についてはまだ留置線のみとなっておりこの時点でホームはありません。

〜デラックスロマンスカー誕生〜


東武博物館に展示されているDRC(ボディカットされちゃってますが…)
↑東武博物館に行けば今でも見られるDRCの保存体です。(カットされてますが)

 昭和35年9月23日の戦後第15次ダイヤ改正で1720型デラックスロマンスカー(DRC)が1編成就役しました。電空併用制動を備えた6両全電動車の組成はそれまでの1700系と同じですが、性能は格段に上がり急勾配でも常時90km/hで走れる性能を持ち、更に台車は1700系と同じアルストム台車ですが、枕ばねをコイルバネから空気バネに変更し乗り心地を大きく改善しています。DRCの就役によって国鉄日光線と157型に対抗する準備が整ったと言えます。

 また一般車両の方は、準快速の鬼怒川線乗り入れの開始と一部78型への置き換えが行われています。他ではラッシュ時の混雑列車の78型への置き換え、更に置き換えられた54型電車を館林方面へ転属させ、これらを桐生線・小泉線の列車に充てたり伊勢崎方面の列車増結に使用したそうです。

 また同年10月2日には野田線のダイヤ改正が行われています。これは運河〜初石の複線化完成と自動運転化に伴い行われたもので、スピードアップを行ったものです。大宮〜船橋では最大16分も短縮されています。更にこの改正で78型を2編成4両投入(後述する7870系の本線投入に伴う7820系を転用)し輸送力も増強しています。

 こうして運転が開始されたDRCですが、当初は1編成に付き1日2往復(金曜日除く)の限定的な運転に留まりましたが、導入した東武鉄道は勿論の事、沿線のこの新型特急車両への期待は相当なものでした。

 デラックス・ロマンスカーの完成記念レセプションは七日名士役300名を招待して、日光往復試乗会を行い、日光公会堂で地元関係者も合流して盛大な披露宴を催した。花火が打ち上げられ、日光小学校児童の鼓笛隊(こてきたい)の吹奏、小旗を打ち振る人波小雨に煙る日光は新ロマンスカーの誕生を祝って沸き立った。(交通東武昭和35年10月10号表紙より)

 7日というとおそらく9月7日に行われたと思われる試乗会ですが、日光ではこの様に大盛況だったようです。こうして東武が世界に誇る特急として誕生させたデラックスロマンスカーは30年以上に及ぶ活躍を始めます。

 内装に関しては上記に記載してる通りのデラックスな内容となっています。その他では従来の1700系同様のオール電動車による6両で組成され、主電動機の出力も1700系同様の1両に付き75KW×4個で駆動方式は中空軸平行カルダンとなっています。しかし1700系では初めて本格的に発電制動を導入したばかりで回路や機構が複雑な面があったのを1720型ではより簡素化しコンパクトにまとめたそうです。

 またDRCは新造時からクーラーを搭載していた為、補助電源は大容量(60KVA)のMG(電動発電機)を編成で3基搭載し、直流1500Vから交流220Vに変換し更に電圧を変えて、各電源に充てられています。トイレは1710型同様和式と洋式を通路を挟んで配置していますが、隣に配置したパッケージルームの洗面台では温水器の採用により常時温水が供給される様になりました。また予定通り浅草方より3両目にサロンルームが設置されましたが、この車両には電話室が設けられました。これも国鉄の1等特急・こだまを意識した設備となっていますが、配置されたのみで実用化されずに後々撤去されたそうです。そしてDRCではマジックドアシステム(客室とデッキを仕切る扉の自動ドア化)が採用されましたが、これは日本の鉄道車両では初めての事でした。

 さて走りの方は基本的にはそれまでの1700系と大幅には変わっていないのですが、性能自体は大きく変わりました。特に構想時から想定された平坦部での150〜160km/h走行を可能としており、急勾配部でも常時95km/h近くで走行出来る様になっています。これを実現する為に、DRCの主電動機(東洋電機製造製)では弱め界磁率を25%まで引き下げ、歯車比(主電動機側歯車Aと駆動大型歯車Bの比率(B/A))が1700系の5.27から3.75まで低くとり、より高速域の加速に特化した仕様となっています。主制御器は一回転カム軸接触器付、高速度遮断器付の抵抗制御(直並列・弱め界磁制御)で直列10段・並列8段・弱め界磁5段となっています。これらによって160km/hでの運転を可能としています。

 また速度を上げるにあたってはブレーキの性能も向上させる必要があり、1720型では1700系と比較して電磁自動ブレーキから電磁直通ブレーキを採用しておりより応答性の良いブレーキとなっています。また電空併用という点では同じでもDRCでは発電制動をメインとしたブレーキ機構としており、原則発電制動を使い、それに空気制動を付加した様な考え方となっているのが大きな違いです。また急勾配用として速度を一定に抑える、抑速ブレーキ機能を搭載しています。この抑速ブレーキは発電制動によって行われます(手ブレーキは省略)。

 簡単な説明になりましたが、内装・走りの方ともこれだけ凄い車両なんだからブルーリボン賞ぐらい取れるのかなと思ったら、がっかりはつかり事故ばっかりの国鉄キハ81形に票の差で負けてしまいました。日本初の気動車の一等特急車であり日本の花形特急である以上仕方ないのですが、やっぱり就役後の故障多発のこの車両が選ばれたのはがっかりな気分です。まぁ国鉄と東武じゃ・・・認知度の差でしょうか。それでもそれなりに票が入ったのですから、当時の鉄道ファンからも高いの評価が与えられていたのもこの車両の優秀さを表していると言えます。

〜78型最終増備版・7870系登場〜


 今回の改正では以上の1720型DRC6両の他に78型が10編成20両が増備されました。この増備した車両は再びマイナーチェンジが図られた事から7870系として7871から番号が付けられました。

 7870系が7820系から変わった大きな点は車両間の貫通扉を無くし、その幅を1100mmと広く取った事です。この方式はそのままその後登場する新通勤車にも受け継がれますが、貫通扉を無くし幅を広くする事で混雑時には乗客が空いている車両側へ移動しやすくするといったのが狙いで、他の私鉄でも東急・小田急・京急といった混雑の激しい鉄道会社でも採用されていました。

 7870系からは車体のカラーが7860系の試験塗装のうち、オレンジ地に黄色の帯を巻いたカラーが採用され、これが今後の一般車の塗装になるだろうと紹介されていました。なお7860系の鋼板屋根は採用されずにそれまでの木製屋根で竣工しています。

この7870系は翌昭和36年度にも10編成20両が増備され、主に東上線に投入されました(9編成18両)。最終増備車ではパンタグラフを連結部寄りに取り付けられています(それまではいわゆる前パンだったようです)最後に増備された車両は7889の次を7890とはせずに7870の番号が振られているのが特徴です。こうして7800型は82編成164両の大所帯となり、これにて製造が打ち切られる事になりました。

〜東京都と京成電鉄が一足先に相互乗り入れ開始〜


 昭和35年12月4日、東武伊勢崎線と共に都心乗り入れを目論んでいた京成電鉄が先に都営1号線との相互直通運転を開始しました。京成は押上駅をそれまでの地上駅から地下駅にするという東武北千住以上の大規模な改良を行う事になりましたが、将来の8両運転にも対応した広大な地下駅を作り都心への乗り入れへの第一歩と沿線の開発への期待が持てる出来事となりました。惜しいのは都営側が浅草橋までの暫定開業となってしまった事でしたが、途中駅には東武の終着駅浅草も含んでいます。ちなみにこの時は開業予定日から遅れて開業するという不手際が発生しています。記録によれば完成検査に通らなかったそうです・・・。都営地下鉄はいきなりつまづく事となってしまいました。

 話を戻し、京成に負けじと東武側も北千住の改良工事を進めていますが、徐々に改築の構想が見えてきました。地下鉄2号線乗り入れに伴い、浅草方面と地下鉄2号線方面への列車と杉戸方面と地下鉄2号線から東武線方面への列車それぞれが同一ホームで乗り換えらる様に配線し、更に中千住の退避設備消滅に伴い副ホームが浅草方に2号線の線路を挟む様に2面2線設置される事となりました。当時の直通後の運行構想としては、退避設備の他に北千住からは地下鉄直通車の分だけ列車の本数が減ってしまう為に北千住⇔浅草の折り返し列車を設定するという狙いから設置しようと考えたものです。これにより中千住の信号所を廃止する事になります。

 他では中央部に橋上本屋が作られ、それまで国鉄と改札を通らずに繋がっていたのを別々の改札を設ける様にしました。国鉄への乗り換え客が今後地下鉄方面へ行くと考えられた為に国鉄への乗り換えこ線橋は東西の出口を結ぶ自由通路として利用される計画だったそうです。

 北千住以外の各地でも地下鉄乗り入れを見越した工事が行われました。まず東武本線の検修の拠点である西新井電車区の拡張工事です。地下鉄乗り入れ後は車両数が飛躍的に増える事が想定された為に、4両編成が2編成同時に検修が可能で更に6両固定でも分割せずに検査出来る設備として改良されました。こちらは昭和36年3月完成予定で、その後は西新井工場の拡張も計画されました。

 こうして地下鉄乗り入れと本線側も輸送力の向上を見越した設備投資を順調に進めていきます。78型の増備も完了し、いよいよ地下鉄用の新型車両の登場となります。

7.地下鉄2号線直通用2000系電車誕生

>〜東武一般車初の高性能電車の誕生〜
 昭和36年7月に地下鉄2号線(営団地下鉄日比谷線)直通用の新型車両として2000系電車2編成8両が落成しました。(第一編成ナニワ工機製、第二編成日本車両東京支店製)
 既に翌昭和37年5月に東武と営団との直通運転開始が予定されており、それに伴う新型車両の登場となりました。営団初の他社地上線との相互直通運転となる為、関係する東武鉄道と東急電鉄と規格については綿密な打ち合わせ、調整が行われました。
 その結果として以下の規格が定められ、3社ともこれに対応した車両を製造する事となりました。

地下鉄2号線 車両規格
車両寸法長*幅*高 18,000*2,800*4,000
編成2両編成単位の全電動車(先頭車は前後のみ)
構造全金属製(運輸省A-A様式による)
主電動機出力75kwを標準
ブレーキ方式HSC-D方式(電磁直通ブレーキ・発電制動付)・停車時非常初込装置付
側面出入口片側3箇所、両開き1,300mm 中心ピッチ6,000mm標準
設備換気装置、自動列車制御装置(ATC)、誘導無線装置
加減速性能加速度3.0km/h/s以上、減速度4.0km/h/s以上

 おおまかな方針としてはこんな感じになっています。車両寸法については、営団としては丸ノ内線を基本としていますが、高さのみが集電方法が第三軌条から架空電線になった事で従来より高くなりました。

 営団としては必要最低限の規格にて建設し、それに合わせた車両を投入しますので問題はありませんが、東武と東急を見てみますと、東武は車体長は当然の事、車体幅も従来車(78型)よりも40mm〜50mm狭くなっており全く問題がありませんでした。しかし東急では車体幅2,800mmが従来車よりも大きめだった為に直通専用車両の入線が一部出来ないと路線があったそうです。

 日比谷線では営団として初めて編成前後のみに先頭車を設ける事が決められた路線です。それまでは戦前から誕生する銀座線で編成は単行運転が可能な様に車両ごとに両側に運転台を付ける方針が取られて一部丸ノ内線車両にも引き継がれていましたが、最早東京の輸送状況を見れば単行運転は現実的ではなく、それならば無駄な運転台を潰して客室にして座席を増やした方が良いという事で先頭車は前後のみとされています。

 編成は全電動車で主電動機出力を75Kw程度と定めています。高加速度の実現も当然ですが、高密度運転を実現する為に高い粘着力とブレーキを強化する意味で全電動車方式を優先したと思われます。また地下鉄の車両は異常があって停止した車両を押し出すといった事態も想定されますので、無動力の別編成を押す事が可能な事と、1ユニットが故障した場合でも急勾配部で問題無く起動出来る事が求められているので、オールMだったり、M車の比率が極端に多くなってしまいます。

 加速度は3.0km/h/s以上、減速度は4.0km/h/sを基準としています。営団や東急はともかく東武としては今まで有り得なかった高性能を要求される事となります。側面の扉・窓配置は丸ノ内線と同じで片側3扉で両開き開口1,300mmの扉が採用されています。東武にとっては初の試みとなります。

 そして設備としては、保安装置にATC(自動列車制御装置)が採用されたのが画期的でした。これは日本の鉄道では初の試みでした。それまでの銀座線、丸ノ内線では打子式自動列車停止装置(ATS)を採用していましたが、日比谷線ではより保安度を高める為にATCを採用しました。これはトランジスタ等の電子機器が開発実用化された事で実現したものだそうです。ただし日本初となった日比谷線のATCは車内信号式ではなく、地上信号式となっている為、見た目では従来通り信号機が設置されていました。流れとしては地上の信号設備の現示と連動して高周波電流を変調したものを送受信する地上装置があり、各車両の車上装置が軌道回路に流されたATC信号を受信して、自らの速度の情報を得て速度を管理するものです。速度が許容を超えていれば全制動が掛かりますが、制限速度内になると自動的にブレーキが緩解されるのが特徴です。

 また地下鉄では誘導無線とそれ様のアンテナの取付も義務付けられています。誘導無線は地下鉄等のトンネル内での列車無線として有効な為に採用されているものです。この為に車両側にアンテナを取付ける必要がありますが、これは車体の側面に取付けられ、途中区間や駅に設置された誘導架線を結合して無線通信を行えるものです。東武では当時ATSすら採用されていなかったので一気に日本で最新の保安設備を有した車両が必要になったという事です。

〜東武2000系と他の会社の地下鉄直通車について〜


 規格説明と横道にそれて長くなってしまいましたが、ようやく2000系の紹介に入ります。

 中空軸平行カルダンの全電動車・75kwモーター、電磁直通発電ブレーキ(HSC-D)(※DRCに付いてた抑速ブレーキは無し)、空気バネ付きアルストム台車、座席のコロラドオレンジ色のシート、室内羽目板にはサーバスアイボリーのデコラ板を使用する等、先に登場していたDRCと同様のものをそのまま採用したものとなっています。これだけでも地下鉄車に対する気合の入れようが伺えます。

 DRCと異なる点と言えば、地下鉄用として加速度3.0km/h/s以上を実現する為にDRCと比較すると3.75から6.31と歯車比を大きく取り低速域の加速優先としています。実際には加速度3.5km/h/sを実現しています。また地下鉄規格にもある換気装置を設置するという事で天井裏をダクト構造とし、ファンデリアが設けられました。この換気装置が各車に9個から10個設置され、雨天時に窓を閉め切った際に車内の換気が行える様にファンデリアの半数を逆転させる事で室内と外部の換気が行えるのが特徴です。当時でも貴重な設備だった扇風機では換気自体が行う事が出来ないので地下鉄車ではファンデリアの設置が取り入れられました。

 車体は通勤車で初の全金属製の車両となりましたが、より軽量化された車体に仕上がり、戸袋窓が廃止されているのが特徴です。開口部を設けると軽くなるのでは?と思う方もいるかもしれませんが、それは逆でその分開口部補強が必要になるので自重が増えてしまうのです。

 昔、子供の頃にミニ四駆で遊んでいましたが、速く走らせる為に軽量化させようとボディを削ったりした方もいるのではないでしょうか。当然軽くなれば動きは速くなりますが、何も処置をしなければいたずらに車体の強度を下げるだけですので、走らせてすぐにボディが破損して結局駄目だったなぁというのを思い出します(汗)子供の遊びでは壊れただけで済んでしまいますが、現実の鉄道輸送はそうは行きません。ちょっと話が逸れましたが、そんな意味合いで2000系では戸袋窓を廃止しました。今でこそ当たり前と言えますが、当時では珍しい試みと言えます。地下鉄用の誘導無線アンテナは先頭車の前面運転席側に取り付けられたので写真を見ると目立ちます。

 また外板の塗装が新たな物が採用されました。それまでは7860系での試験塗装を踏まえて、オレンジ下地に細い黄色帯が巻かれる塗装が主流となりつつありましたが、地下鉄車ではインターナショナルオレンジとロイヤルベージュの2色のツートンカラーで登場しています。2000系では期待の地下鉄直通車両という事で7種類の塗装塗り訳が考案され、社内で検討が重ねられた結果選ばれたのが今回の塗装となっています。なおインターナショナルオレンジとロイヤルベージュ以外にメジアムイエローという色も塗装案に組み込まれ、これら3色を織り交ぜて7種類の塗装案が考案されました。3色全てを同時に使った案は出ておらず、メジアムイエローはインターナショナルオレンジとの組み合わせで名前が出ています

 以上が簡単な東武2000系の紹介になりますが、東武初の通勤車初の高性能電車であり、塗装も一新され、まさに今後の沿線の成長への期待が込められた車両に仕上がっています。

 ちなみに地下鉄2号線では相互直通を行う営団と今後営団との直通が予定されている東急でも専用の新車を製造しています。3社の車両を見比べてみましょう。

地下鉄2号線 各社車両比較

項目\会社東武鉄道営団地下鉄東京急行電鉄
形式2000系3000形7000系
車体全金属(鋼製)
外板塗装仕上
スキンステンレス
外板:ステンレス
その他強度部材:鋼製
オールステンレス(日本初)
加速度3.5km/h/s4.0km/h/s4.0km/h/s
減速度4.0km/h/s4.0km/h/s4.0km/h/s
制御方式電動カム軸式抵抗制御
(直並列・弱め界磁制御付)
電動カム軸式抵抗制御
(超多段バーニア制御・弱め界磁制御付)
電動カム軸式抵抗制御
(弱め界磁制御付)
主電動機
駆動装置
直流直巻電動機75kw
中空軸平行カルダン駆動
直流直巻電動機75kw
WN平行カルダン駆動
直流複巻電動機60kw
中空軸平行カルダン駆動
ブレーキ方式電磁直通ブレーキ・発電制動付(HSC-D)
自動空気ブレーキ付(非常時)
電磁直通ブレーキ・発電制動付(HSC-D)
自動空気ブレーキ付(非常時)
電磁直通ブレーキ・電力回生制動付(HSC-R)
自動空気ブレーキ付(非常時)
台車空気バネ付きアルストム台車空気バネ付きアルストム台車パイオニア?型台車

 直通規格を満たした以外は3社でそれぞれの特徴を持った車両が誕生しています。日本初のATC路線という事ですが、東急は日本初のオールステンレス車である7000型を直通用に投入しています。ただしこれらは先に地上で運用されていたので完全なる日比谷線用という印象は薄い様にも思えます。(地上用と地下用で性能も違いますし)

 こうして見ると違いがあって面白いものですが、東急7000型がいろんな意味で異彩を放っていますね。オールステンレスは勿論の事、メンテナンスが複雑な複巻電動機を採用し電力回生ブレーキを行っている点も見逃せません。営団3000型では乗り心地の改善の為なのか、全電動車にも関わらずバーニア制御を採用しています。これによって乗り心地は抜群に良かったのではと思われます。東武2000系だけ加速性能がやや劣っているのが意外な感じですが、規定では3.0km/h/s以上となっているので問題はありません。

 こんな感じで非常に優秀な車両達が日比谷線用の電車として誕生しました。東武2000系の第一陣は昭和36年8月に登場しましたが、この時点ではATC装置は搭載しておらず最初は地上用として使用され、浅草口で活躍し、遠方では羽生といった表示を出しながら運用されたそうです。ところがそれまでの吊り掛け駆動の車両達と比較して加速度が2倍も違う高加減速車だった為に、"当初は乗客が乗りなれず、車内でヨロヨロしてしまい、いやがって2000系が来ると敬遠するというエピソードがあった"(私鉄の車両24復刻版東武鉄道P57より)らしいです。というか3.5km/h/sなんて今の新車より凄いんですよね。(最近は各社軒並み3.3km/h/s)

8.地下鉄直通開始までの様々な動き

〜駅、工場、電車区と各地で設備改良工事始まる〜


 地下鉄用の新車も出来上がり、北千住の乗り入れに向けた構内改良工事も順調に進みつつある東武本線ですが、地下鉄直通開始に向けて途中駅も大幅に改良される事となりました。
 この中で特に竹ノ塚・北越谷の2駅が大きく改良されたのが特筆されます。北越谷は地下鉄乗り入れの最北端に位置する駅としてそれまで中線に貨物退避用の線路があっただけの2面2線、構内踏み切り付きの普通の中間駅でしたが、改良後は2面3線化、地下鉄車引き込み線を2線増設し、構内踏み切りを廃止し橋上駅舎化されるなど見違える程大幅に改良される事となりました。
 西新井電車区のある竹ノ塚駅はホーム自体はそれまでの1面2線は変わりませんが、ホームは新設し、特急・急行等が通過扱いとなる事から通過線を別に新設する事となりました。
 西新井電車区の入出庫駅となる為に、電車区側から直接ホームに入れる渡り線の設置や谷塚方に回送・折り返し列車の引き込み線を新設し、ダイヤを乱さない様な配慮が加えられています。この時点で将来の2分30秒運転を意識し、何度も検討が加えられ駅構内の設備が決定されたそうです。

 車両の検査を行う西新井工場の方では車庫設備が竹ノ塚に移転した事から土地に余裕が出来た為、昭和35年頃から開始された拡張工事がが引き続き行われていました。特にDRCの誕生により長編成が一度に検修出来たり、重量物を機械運搬出来る様にするといった近代化工事が行われる事となりました。完成は昭和37年下期を予定しています。
 この拡張工事では西新井工場内に本格的な更新職場が建設される事となりました。既に昭和34年頃から7300型の更新工事を開始していますが、後々昭和39年頃からデッカー車(32型等)の更新修繕が行われる事となりますが、この時点で旧型車の更新工事を計画していたのかもしれません。
 また西新井電車区側でも車両増備に対応する為の留置線増設工事が行われました。新たに9線の留置線増設に加え、自動車両洗浄装置の新設も計画されており、この様に検修設備・車庫の近代化工事が一気に加速してきました。
 加えて西新井変電区の出力増強工事も行われ、地下鉄車のオールM編成の運転にも耐えうる体制が整いつつありました。

〜東武本線上でATSより先にATCの運転が行われる〜


 上の方で2000系電車の紹介を行いましたが、先に落成した2編成8両はまだATC装置を搭載していない状態で竣工しています。何故ならATC装置が完成していなかった為です。営団地下鉄では三菱電機と京三製作所合同で装置の製作が行われ、東武鉄道用は日立製作所と日本信号合同で装置の製作が行われる事となりました。そして2000系の落成後すぐにATCの試作機も誕生し、試験が行われ、昭和36年8月21日より車庫内にて地上装置と車上受信器走行試験や各種静的試験が行われました。

 そして12月にはATC装置の記念すべき第一セットが完成し、昭和36年12月19日に2000系にATC装置を搭載して営業線上にて試運転が行われました。東武線上ではATSより先にATCの運転が行われていたという訳です。
 本来ならATC装置を使う営団線内で試験を行うのが一番良かったのですが、北千住の改良工事が終わらず線路が繋がっていない為に、西新井電車区のある竹ノ塚からお隣の谷塚の下り本線のみにATC用地上装置設備を設けて試運転が行われました。
 仮設信号が3つ設置され、7種類の運行パターンを用意して試験が行われ、各信号にR1:15km/h(第一停止信号/速度超過で非常停止),YY:25km/h(警戒信号),Y40km/h(注意信号:営団線用の制限速度で東武鉄道では注意信号は45km/h制限)、G:進行での速度制限超過に伴うATC制動動作確認試験を行い、力行→制限速度超過に伴う制動(ATC作動試験)→制限速度以下に達し自動的に制動緩解(ATC動作試験)→再び力行→以下同じ動作の繰り返しといったいわゆるノコギリ運転の状態で試験が行われました。
 皆さんご存知の様にATC運転では原則制限速度以下での運転が行われますが、この時は装置の試験の為に何度も速度超過を行い、その都度確実に制動が掛かるかを試験したという事です。

 これら試験は順調に行われ好成績にて終わりました。翌年の地下鉄直通開始に向けてより一層期待が高まる結果となりました。これらの試験結果を踏まえてATC装置はより完成度の高い物に仕上げられ、今後の増備車両は装置を搭載しての落成となります。

〜北千住の構内改良工事完了〜


 北千住の改良工事は何回もの線路切り替え工事を行い、昭和37年3月30日に竣工式を迎えられました。既に2000系は10編成40両を入荷を終えて、営団線内での試運転も行われる様になり、昭和37年5月31日の記念すべき地下鉄直通開始へ向けての準備は最終段階に入りました。
 形態的には現在の東上線和光市駅同様の方向別乗換えホームとなったと言えば分かり易いと思いますが、北千住駅では更に浅草方に副ホームが2面2線設置された点が特筆されます。これは特急列車等の退避が行える様になった他、地下鉄直通開始後は北千住〜浅草の運転本数が減ってしまう事が懸念され、この区間用の折り返し列車を設定出来る様に設けられたものというのは大分上の方で一度書かせて頂きましたが、浅草方から来た電車が上下両方の副ホームに入線出来る様に渡り線が設けられています。
 まるっきり別の場所にホームが設置されたので混雑の緩和にも役に立ったものと思われます(地下鉄に乗り換える人からすると余計な距離を歩かされる事になりますが…)

 昭和36年11月1日、東武鉄道の創立記念に合わせてDRCが6両1編成増備されました。前年に登場しデラックスな設備を有し、快適な日光・鬼怒川への旅をサポートするDRCの評価は高く増備が臨まれており、更に1編成増備される事となった訳ですが、増備車(1731F)では車内の機密性を高めたり、腰掛のバネを改良して座り心地の改良が図られたりとより一層快適な車両へと改良されています。

〜運転士、乗客を守るべく前面補強工事開始〜


 地下鉄と本線の話ばかりで盛り上がった所でちょっと話題が変わります。これは本線の車両にも関係するのですが、昭和36年後半頃から電車の運転室が補強される工事が開始されました。
 これは貨物自動車による資材輸送が増加し、全国的に踏み切り事故が多発した事が発端となっています。更に自動車が大型化がされ、特に大型ダンプが踏み切りに進入し列車と衝突し大事故に繋がるといった事例が増えていました。当時は踏み切りに遮断機どころか警報機すら付いていない第3種、第4種の踏み切りが多かったのも要因ですが、発展途上だった当時の日本では交通ルールの遵守の意識自体が薄かった事も関係していました。
 そこで踏切事故防止対策委員会が組織され、踏切の事故に対する防止策をあらゆる面から検討される事となりました。勿論いかに第1種、第2種の踏切を増やすかというのも重要ですが、車両側の防護も当然重要になります。運転席の次は客席です。お客様を守るといった意味合いも込められています。こうして当面の方策としては運転室前面の補強を行う事となりました。項目としては以下の点が挙げられ、対策工事は西新井工場にて行われています。
1:運転室前面の隅柱、貫通柱を鋼板にて補強する。
2:運転室前面の外板(腰帯下)を6mm鋼板張りで補強し、350mm〜300mm間隔で補強板を入れる。
3:台枠前面には300mm間隔で補強板を入れる。
4:前面櫛桁及び梁をアングル材で補強する。
5:正面ガラスを安全ガラス(強化ガラス)とする。

 これらの対応工事は主力の78型から行われました。第一陣は7870系のクハ880号(モハ7880のペア)だったそうです。年度末までに13編成26両の実施を計画されましたが、この踏切事故による運転士防護の考えは次世代の8000系ではより強化される事となります。

〜昭和30年代の登場線行楽列車〜


 ところかわり東上線側は本線の様に地下鉄直通といった大きな話題がないにしても相変わらず輸送人員は増え続け、現有設備では次第に限界が見えてくる状態となっていました。昭和36年10月には成増以北の大和町(現・和光市)、朝霞、志木、鶴瀬、上福岡、新河岸、川越、川越市でホームの延伸工事が行われています。
 さて話がちょっとそれますが、この頃東上線では春・秋の行楽シーズンには臨時特急・急行を多数運転していました。

昭和36年頃の東上線行楽シーズン臨時列車

下り列車上り列車
列車名池袋発・行き先列車名始発駅・時間(全車池袋行)
急行グリーン号6:00 東松山急行ながとろ号長瀞15:25発
急行さだみね号6:55 小川町急行かまきた号越生16:02発
急行第二さだみね号7:50 小川町急行さだみね号小川町16:22発
急行くろやま号8:20 越生急行第二かまきた号越生16:51発
特急フライング東上号8:35 寄居特急フライング東上号寄居16:51発
急行ながとろ号8:50 長瀞(秩父鉄道線)急行くろやま号越生17:27発
急行かまきた号9:20 越生急行第二さだみね号小川町17:47発
急行第二かまきた号9:40 越生凡例:毎休日運転(当時土曜日は休日では無かったと思われます。)
※臨時ゆめじ号は毎土曜日に運転
臨時準急ゆめじ号13:40 寄居
立派な円形のHMが採用されていました。
当時使われていたと思われるHM達です。立派な円形のHMが付けられていました
※東武博物館でのHM展にて撮影(2005年夏頃に撮影)

 悔しい事にこの時は8000系に関係しないHMは撮影する気ゼロだった為にたまたま写っていた写真のみしか添付出来ません(滝汗)まさかこんな立派なHMがあったとは今更ながら気付いたという・・・。グリーン号のHMはこれしか写ってませんでした。
 フライング東上号は当初から特急だったのですが、何故かHMは急行のままでした。池袋発寄居行きの特急が廃止された時に掲出されたフライング東上号をイメージしたHMでは特急の文字で復元されていましたね。

 こんな多彩な列車が次々と発車して行く休日があると面白いものですが、今ではこれだけの臨時列車が一気に出発して行く事も有り得なくなってしまいました。

〜一般車にも扇風機の取り付け始まる〜


 先ほど前面補強板取り付けの話が出ましたが、その他ではこの頃車両に扇風機を取り付ける工事が行われています。
 今でこそ冷房が当たり前な世の中になっていますが昭和30年当時は国鉄だと一般車では扇風機すら取り付けられておらず、新性能電車としてうたわれた101型電車から本格的に採用された程度でした。これは東武鉄道でも同様であり、78型ですら扇風機がありませんでした。
 しかし徐々に技術が進歩し、扇風機が当たり前になってくるとコスト的に問題なく、乗客に好評な設備の取り付けが可能になってきた事から一般車への扇風機取付対応工事が行われました。一般車といいつつ、実は急行型である57型ですら扇風機に対応していなかったのには驚かされます。
 既にDRCの様な冷房・温水まで完備されている豪華な車両が誕生している一方で元花形特急車でこの時は伊勢崎方面のロマンスカーに使用されている車両である57型が扇風機すら付いていなかったとは…。まぁとにかく57型や53型の急行・快速車、78型といった通勤車に扇風機が取り付けられ通勤・行楽が以前よりも快適になったのは間違いありません。しかし温暖化が進んでいる今の世の中とは違うとは言え、扇風機だけでは夏場はキツかったんじゃないでしょうか。


9.東武伊勢崎線と営団地下鉄日比谷線相互直通運転開始

〜営団地下鉄日比谷線の先行開業〜


 営団日比谷線が開業したのは1961年3月28日で最初に開業した区間は日比谷線の車庫がある南千住から銀座線との接続駅である上野を経て隣の仲御徒町までのわずか3.7kmでした。既に開業してから50年以上が経過しています。そして東武伊勢崎線との相互直通運転の開始と仲御徒町〜人形町への延伸が1962年5月31日でした。すなわち2012年5月31日で東武伊勢崎線と東京メトロ日比谷線の相互直通開始50周年という事になります。これを執筆している時点(2012年2月)では、東京メトロ・東武鉄道から何の発表もありませんが、何か記念HMやらイベントやらが開催されれば面白いなと思います。2004年に全通40周年を迎えた日比谷線で03型電車にHMが掲出されて運転されていたのを思い出します。

 丸ノ内線は全体的に地上区間を多く経過する事で建設費を極力抑えましたが、日比谷線では東武との接続駅である北千住から南千住付近までが地上区間となりました。そして先行で開業した南千住に車庫・変電所を設けています。車庫の土地は国鉄より譲り受け、南千住の駅も国鉄の駅に近い位置に作られています。ところが南千住は日比谷線の開業を経ても、その地のイメージからか開発がなかなか進まなかった感があります。特にイメージが変わったのは2005年に開業したTXの開通とそれに伴って旧貨物の土地を再開発し、ショッピングセンターや高層マンションが建ってからだと感じています。2011年に南千住で仕事をしていましたが、学生時代とは全く雰囲気も変わり、人が増えたなと実感しています。(昔ながらの風景も残ってはいますが…)

 ちょっと話がそれましたが、南千住がなかなか開発されなかったのは地盤の貧弱さも影響していたそうで、日比谷線の高架橋を建設するにあたっては固い地盤がある深さ30mまで支持杭を打つ必要があったそうでその数南千住付近だけでも約2,000本も打設したそうです。
 南千住を出てから昭和通り(国道4号)下まで一気に潜る事になりますが、現場の条件の影響もあって、最終的には急カーブ・急勾配を経て地下へ潜るルートとなっています。
 私は最初日比谷線が18m車に限定しているのはこの区間の急カーブと急勾配があるからかと思う程見た目がキツそうな線形となっていますが、この区間では後に20m車が試運転で入っているので関係はないようです。
 地下に潜ったら潜ったで今度は上野付近で苦労が待ち構えています。入谷付近から始まる首都高速1号線の建設競合と上野での銀座線との交差です。首都高速1号線はちょうど日比谷線の直上に建設される事になりますが、たまたま建設時期が重なったので道路公団より営団に委託され、道路用の地中梁の建設が地下鉄建設と同時に行われたそうです。
 そして銀座線との交差ですが、浅草通りと昭和通りの交差点真下になりますが、この位置は悪い事に銀座線の上野検車区へ繋がる線路があり、3線部となっている場所でした。その為仮受けの為の十分な補強を行う必要性がありました。なお営団地下鉄・現東京メトロの現本社ビルはちょうど日比谷線上野駅の真上に位置します。

 さて、何故部分的に南千住〜仲御徒町という微妙な区間で開業したかと言えば当初は全線で一気に着工して開業という考えがあったのですが当時は丸ノ内線の新宿〜荻窪方面の建設も行っていた為に3工区(北千住〜人形町・人形町〜虎ノ門・虎ノ門〜中目黒)に分けて建設を進める事にしました。
 しかし様々な調整があった結果、最終的に日比谷線は虎ノ門を経由せずに建設する事になったり、秋葉原付近の国鉄線直下での工事、銀座付近での東京都の地下道路建設工事が重なったりと幾多の苦労がありました。
 また北千住側は上の方でも述べましたが、国鉄や東武の線路切り替え、設備移設を何回にも分けて行う程の状態であり建設に時間が掛かった為に南千住〜仲御徒町の先行開業となったという流れです。
 それでも南千住〜仲御徒町自体も難工事が多数あった訳ですから、地下鉄の建設というのは如何に大変かというのが分かるかと思います。

 昭和36年3月28日の部分開業時点では在籍車両は全車2両固定のわずか8編成16両で、運行間隔は比較的多く混雑時は4分、昼間でも6分間隔で運行されています。短い区間で日比谷線単独だった為に、利用者もそれほど多くはありませんでしたが、日本初のATCでの運転をするという意味でも短い区間での先行開業は正解だったのかもしれません。

復元・保存されている3000型電車
↑現在東京メトロの綾瀬検車区にて保存されている3000型電車の第一編成です。
 現在綾瀬で保存されている3000型は先頭車のみの2両となっていますが、これは開業当初を思い出させる姿と言えます。しかし当時と比較するとその姿は随分と変わっています。まず最初に落成した1次車は前面にスカートが付けられていました。しかしこれは2次車ですぐに撤去され、在来車も撤去されています。保守が面倒だったからだそうです。更に側扉の窓もかなり小型ですが、当初は開口が大きいものが採用されていました。これも2次車の時点で若干小さくなり、最終的にはこの大きさまで小さくなっています。なお2両編成だと先頭車のそれぞれに搭載されているパンタグラフが連結面で迎え合わせで設置されているので違和感がありますが、これは開業当時もそうでした。

 ところで日比谷線より先に開通していた都営1号線ですが、浅草橋まで早期に開通してからは延伸に手間取っています。軟弱地盤が影響していたという話もありますが、結局全線開通までには相当な時間が掛かり、やはり免許譲渡前から散々懸念されていた地下鉄建設の技術不足が露呈したかの様に思えます。実際後から開通していった日比谷線は都営1号線が小刻みに延伸するのを尻目に突貫工事で延伸し、東京オリンピック前には全通しています。結局都営1号線はオリンピックまでに全通が間に合わず期間中は工事休止となってしまいました。東京でやるオリンピックの為に整備を急いだ地下鉄にも関わらず肝心の東京都が期日を守れなかったんですから、一体何のために東京都にも地下鉄建設を任せたのかよく分からない状況となってしまいました。無論、都営1号線の工事には多大な苦労と費用が掛けられたのは想像に難くありませんが、やはり結果が全てです。営団を解体すべきとまで言った東京都はこれ以降も地下鉄事業により多大な赤字を計上してゆく事となってしまい、現在に至るまで東京メトロと都営地下鉄の合併を躊躇させる要因となっています。

〜昭和37(1962)年5月31日本線ダイヤ改正〜
<都心直通への夢果たす。東武伊勢崎線⇔営団地下鉄日比谷線直通運転開始>


 話が少し逸れましたが、このように様々な苦労を経て、昭和37年(1962年)5月31日に北千住〜南千住・仲御徒町〜人形町が同時開通し、北越谷〜人形町までの営団日比谷線と東武伊勢崎線の相互直通運転が開始されました。
 人形町が終点ってどうなんだろうって思われるかもですが、人形町まで行けると極端な話三越前や日本橋まで徒歩10分圏内で東京・大手町まででも徒歩15分程度で行ける距離まで移動出来る場所まで近付ける事となったのです。
 ダイヤ改正直前の5月30日13:40より北千住駅構内にて営団地下鉄と合同で式典が行われました。この時、北千住地下鉄用ホームには豪華に装飾された東武2000系と営団3000型の祝賀列車が並んだ光景については雑誌の写真等で見られた方も多いと思います。昔は記念式典では花飾りを付けた電車を見るのはよくある光景でした。今では新線が開業してもよくてHMぐらいしか取り付けられなくなってしまったのと比べると、時代の違いを感じさせられますね。
 5月30日の乗り入れ式に先駆け、地下鉄車の始発駅である北越谷駅では12:30より修祓式(しゅうばつしき)が行われ、根津社長他重役が参列し、式典の後は装飾された2000系電車に乗り込みそのまま市民に見送られながら13:00頃に北千住へ向けて動き出し、13:20頃に北千住5番線(上り・営団A線)ホームに到着しました。その後、営団3000型も南千住方より営団総裁等関係者を乗せて4番線(下り・営団B線)ホームに到着し、関係者は一同5番線ホームに集められ式典が始まりました。

 13時45分、総裁、社長が定位置につくと警視庁音楽隊により"君が代"が吹奏され、営団、東武の女子社員が進み出て、東武は総裁に、営団は社長に花束を贈った。
 つづいて、一同拍手のうちに総裁、社長がかたく握手をかわされ、めでたく乗り入れのテープが切られた。
 (中略)やがて係員が招待者を乗り入れ試走車に案内し、警視庁音楽隊の吹奏する"汽車マーチ"の中を五色のテープになごりをおしまれつつ、ゆっくりと人形町に向った。(交通東武 昭和37年6月10日第347号表紙より)


 当時の交通東武には、根津社長、牛島営団総裁の挨拶の全文が掲載され、他には常務取締役、直通第一列車の運転士(西新井電車区所属)、越谷市長、利用者の声が紹介され、東武社内は当然の事東武沿線民の地下鉄直通による将来の発展へ向けての期待が数多く綴られていました。

 さて式典で盛り上がった話はここまでにしておいて、ダイヤ改正で変わった点を挙げてみます。
1.現存の浅草行き列車の本数をそのままに、竹ノ塚・北越谷までの地下鉄直通列車が設定され大幅な増発となりました。
2.地下鉄乗り入れに伴い、列車番号の扱いが変わりました。
3.DRC増備に伴う特急列車の増発。

 設備投資の大きさの割には改正内容は正直規模が大きいものではないと思えます。浅草〜北千住・北越谷以北の地下鉄直通に関係の無い線区では特急増発等による普通列車の退避関係の変更による小規模な改定のみに落ち着き、列車本数は据え置きとなっています。
 直通列車については、混雑時の営団線4分間隔運転時は東武線内が12分間隔で北越谷または竹ノ塚始発で運転され、通常時の営団線内5分間隔運転時は東武線内が15分間隔で竹ノ塚または北越谷始発で運転されています。つまり地下鉄直通車は営団線内で3本に1本の割合で運転され、3分の2は北千住折り返しで運転されています。
 2.については、今でいう御馴染みの列車番号が付けられました。末尾に東武車はT(Tobu)、営団車はS(Subway)が付けられ、4桁の列車番号のうち下2桁が運用番号、上2桁が始発時の時刻で表現されています。一方地上車の方は路線別に分けられました。

日光線列車:000
鬼怒川線列車:100
伊勢崎線列車:300
佐野線列車:600
太田〜西小泉間列車:900

 これは例えば日光線けごん号がそれまで101レだったのが、1レに変更されたといった変更が発生しています。

 東武線全体での大改正にはなりませんが、しかし考えてみれば日比谷線直通による今後の旅客流動調査も考慮する必要はあるという事で地下鉄直通に特化した改正になったと言えます。しかし北千住〜竹ノ塚では一気に1日76本もの列車が増発されたのですからラッシュ時の北千住口の混雑緩和に大きな威力を発揮したと思われます。

 こうして都心への直通運転が実現した東武伊勢崎線ですが、国鉄山手線に接続しない唯一の郊外大手私鉄として開発が遅れていました。この歴史的な直通運転開始により浅草方面への旅客が減り一時的な減収とならざるを得ませんでしたが、一方で都心が近づき沿線開発が一気に進行していく事で瞬く間に利用者が増大し、収益向上に繋がっていきます。この後も様々な相互直通運転開始されますが、その開始までには多大な苦労と関係者の努力があったというのを知って頂ければ幸いです。また東京に地下鉄を持ち込んだ早川徳次とその早川を支援し続け、東武鉄道の都心直通への道を探ってきた初代根津嘉一郎の両氏にとって、まことに喜ばしい直通運転開始だったと言えるのではないでしょうか。

11.東武8000系登場までの東武鉄道の動き

〜変わった旅客流動と伊勢崎線沿線開発が一気に加速し、松原団地駅が開業〜


 東武本線はついに都心直通が始まり、沿線はみるみる内に開発されていきました。元々沿線は開発が遅れ気味で土地を持て余していた程で、地下鉄への直通により都心が近くなったんですから開発をする側としてはこれほどおいしい路線はありませんでした。ほどなくして、草加市に住宅公団によって草加松原団地という総戸数5900に入居人口約2万人を見込んだ当時では東洋最大と言われた公団住宅が建設される事が決定し、東武鉄道と公団は入居に合わせて新駅を開業させる打ち合わせが行われていました。

 そして昭和37年12月1日に松原団地駅の開業を迎える事となります。松原団地駅は元々中間駅として予定されていたのですが、将来の大幅な利用客増を見込んで折り返し設備が作れる様に広い土地が確保されていました。折り返し設備自体は実現しませんでしたが、これが後々の高架複々線化の際に役立ったのですから東武鉄道としては設備投資としても大きな意味を持った新駅だったかもしれません。
 そういえば、松原団地駅は獨協大学前駅に改名してはどうかという話もチラホラ出ています。確かに松原団地という名前も当時で言えば宣伝にはうってつけの名前だったかもしれませんが、今で言えばむしろ獨協大学前という名前の方がよっぽど東武伊勢崎線の沿線イメージアップには良いんじゃないかなと思います。ちょうど2012年3月17日の改正でサイン関係の大幅な入れ替えがあるだけにこの機会に一緒にやれば良かったのに…と思ってしまいますね。(※その後正式に獨協大学前駅に改名されています)

〜沿線開発と共に野田線の輸送力改善を図る〜


 一方、ローカル線としてくすぶっていた野田線ですが、こちらは国鉄線の発展と共にターミナルである大宮・柏・船橋付近で利用客が増えつつあります。特に船橋口では塚田付近が開発や京葉工業地帯に位置し、工場が建設された事で利用者が急激に増えている状況でした。そこで昭和37年8月9日に船橋〜六実の単線自動閉塞化工事が完了し、タブレット閉塞が廃止され運転能率の向上が図られました。更に船橋駅の改良工事も経て同年12月1日にダイヤ改正が実施されています。

1:六実〜船橋のラッシュ時10分間隔運転(改正前は15分間隔)
2:六実〜船橋の平常時の15分間隔運転(改正前は30分間隔)
3:大宮〜岩槻の平常時の15分間隔運転(改正前は30分間隔)
4:柏口の朝ラッシュ時に一部列車で増結を行い混雑緩和
5:これらの増発に伴い、78型を6両配置

 という内容になっています。現在の状態を見ればまだまだローカル線の域を脱していない感じがしますが、昭和30年当時に比べればかなり改善されたのは間違いありません。しかし東武の輸送力改善策をあざ笑うかの様に野田線は沿線の開発と利用客増の勢いは増すばかりです。東武は高度経済成長によって東武本線・東上本線だけでなく、野田線の輸送力改善にも頭を悩ませる事となっていきます。

〜東武百貨店池袋店開業と池袋駅大改良果たす〜


 昭和37年5月31日の本線の地下鉄直通開始という大ニュースがありましたが、東武鉄道で言えばそれに匹敵する大きな出来事が昭和37年5月29日にもありました。それは東武百貨店池袋店が開業した事です。

 東武鉄道は昭和6年5月25日に浅草雷門駅が開業した際に日本最大の述床面積を持つターミナルデパートを建設しましたが、経営は老舗の松屋に譲り、松屋浅草として営業を開始しています。しかし戦後になって、池袋東口側でデパート戦争と称された駅前デパート進出合戦が始まりました。まず昭和24年に東口に西武デパート(後の西武百貨店)が、更に昭和25年に西口に東横百貨店が営業を開始しています。更には昭和32年に三越、丸物百貨店も誕生し、池袋はデパート進出ラッシュとなりました。

 東武鉄道も流通業、特に百貨店の出店を計画しており、既に昭和35年には東武百貨店宇都宮店を開店していましたが、池袋の西口に百貨店を建設しようという動きが加速していました。これは東口側に比べ西口側の発展が遅れていた事や、営団丸ノ内線の開業、東上線の発展が重なり、東武鉄道としては創立60周年の節目を迎えた事が影響していたそうです。しかし百貨店の建設にはいろいろと法律が絡んでいました。これは百貨店進出により周辺の中小小売店への影響の大きさを懸念し、売上面積の抑制等が盛り込まれたもので、東武が計画してい百貨店計画もそれに抵触していました。更には建設そのものに対して地元からの反発も大きく、計画自体が難航していました。そこで建設する趣旨を百貨店ではなく、一種のアミューズメントビルを建設するという方針に変更し、名称も東武会館として建設する事で了承を得ました。

 建設が決定したのは昭和32年1月でしたが、そこから設計に時間を掛け、着工は昭和34年1月17日となりました。しかし営業している駅の真上や真下で工事を行う事、地下鉄の乗り換えも含めた総合的な駅構内の通路計画、駅周辺の地元商店街との調整等が重なり、30回以上もの設計変更を繰り返し、着工から1年後に設計内容が全面的に変わるという事態にもなりました(この中に当初のアミューズメントビルから百貨店への計画変更も盛り込まれています)。それまで類を無い難工事を少しずつ進めていき、こうして完成までに3年5ヶ月という長い時間が掛かりました。なおこの難工事の施工を請け負ったのは、業平橋で東京スカイツリーの施工を行った大手ゼネコンの大林組でした。

 東武百貨店がオープンし、今後の発展が期待される東上線池袋口ですが、この大工事を経てようやく国鉄と東武で改札が分かれ、初めて東武鉄道単独の改札が6箇所設けられました。これによって不正乗車の防止も同時に図られています。東武一の大ターミナルとしてはこの時まで改札を通らずに直接乗り換えが可能だったというのには驚きました。この様に北千住や池袋、他には久喜等の国鉄線と並んで駅が設けられた駅では当初は国鉄線に改札を通らずに乗り換える事が可能となっており不正乗車が後を絶たなかったと言います。まぁ北千住は現代に至るまでTX以外は改札を通らずに乗り換えが可能となっていますが…。

〜8000系登場直前の東上線の輸送力増強について〜
昭和37年12月9日改正 池袋口2分30秒ヘッド運転開始
昭和38年2月26日 東武初の大型車両による通勤車の6両運転開始

 こうして念願の鉄道会社によるターミナルビル建設を達成した東武鉄道でしたが、本業である鉄道でも輸送力向上を図っています。東武百貨店池袋店と繋がる東上線で昭和37年12月9日に昭和33年3月改正以来の大規模なダイヤ改正が行われました。これは当時東上線川越電車区に在籍した160両の在籍車両をフルに活用して、輸送力を11%増強し朝ラッシュ時に2分30秒間隔で運転をするというものでした。概要を以下となっています。

1:朝ラッシュ時に以下の列車を増発し、池袋口は7時〜9時まで2分半ヘッド運転となる。
成増発2本、志木発1本、上福岡発1本、坂戸町発1本、小川町発1本それぞれ増発。
7時〜9時の区間列車の運行本数は以下となっていたようです。
・北池袋〜上板橋:51本(6本増) 上板橋始発8本
・東武練馬〜成増:43本(7本増) 成増始発14本
・大和町〜志木:29本(5本増) 志木始発6本
・鶴瀬〜上福岡:23本(4本増) 上福岡始発2本
・新河岸〜川越市:21本(3本増) 川越市始発10本
・霞ヶ関〜坂戸町:11本(2本増) 坂戸町始発(あるいは越生線からの直通?)3本
・高坂〜東松山:8本(1本増) 東松山始発2本
・武蔵嵐山〜小川町:6本(1本増)

2:夕方ラッシュ時、団地対策として上福岡折り返しを4本増発しました。
3:昼間 準急を増加し、志木〜川越市 20分間隔→15分間隔、川越市〜坂戸町 60分間隔→30分間隔
4:昼間川越市〜坂戸町の増発に伴い、増発列車を坂戸町から越生線に入る列車とし、池袋〜越生の直通運転を開始。
5:その他、終電の区間延長など一部小改正がありました。

 8000系投入を後に控えての段階で既に東上線の朝ラッシュ輸送は限界に来ていました。
 この改正の特徴としては、朝ラッシュ時の2分半ヘッド運転が挙げられますがこれを実現するにあたっては車両増備等は行わずに実施しており、運用の合理化が図られています。
 当時の東武池袋駅は現在同様の3面5線でしたが、山手線で言う目白方に2本の引き込み線がありました。改正まではその引き込み線を使用していたのを、改正後は引き込み線には入れずにそのまま着発を行うものに変更した事で次から次へと列車が到着しては発車するというダイヤに変更した事で車両数を増やさずに列車本数を増やしたというのが特筆されます。

 こうして現有設備では限界となる2分30秒ヘッド運転を開始した東上線池袋口ですが、すなわち今後は本数増は見込めずこれら運用のままで編成両数を増やしたりという対応しか輸送力増強が出来ない事を意味していました。
 その為東上線では20m大型車による6両編成運転の検討が行われていました(当時東上線では大型車で4両が最長でした)。

 そして昭和38年2月26日より、東上線平日20個列車でラッシュ時の6両運転が開始されました。
 この措置はほとんどが朝ラッシュ時ですが、特に混雑の酷い列車については夕方にも増結を行っていたそうです。使用車両はいずれも73・78型の大型車で、こちらも上のダイヤ改正同様現有車両数の中での一部車両を増結という事で逆に下り列車の一部列車で車両数を減らしそれを上りへ回すといったやりくりの上実現しています。

 ちなみにこれ以降列車の編成を増やすたびにピックアップされた駅がありました。大山駅です。大山駅は既に町として成熟していた都内にある駅でしたが、駅の両端が踏切に囲まれており、ホームの延伸工事には苦労し長さ自体も車両長とほぼギリギリという状況でありました。しかも駅はカーブ部にある為に、車掌用に確認用のテレビが設置されました。当時では珍しい設備だったと言えます。この後も、8両化・10両化と東上線が車両数を延ばしていく上で常に大山駅が悩みの種として立ちはだかっていきます。これが将来の大山対策車といった特殊な扱いの登場にも影響していきます。

 こうして通勤輸送では初めて20m車・6両という長編成の運転が開始された東上線でしたが、このやり方もすぐに限界が来るのは目に見えていました。これ以上の輸送力向上を図るには、既に設計が始まっていたと思われる新型通勤電車の登場を待たなくてはならなくなりました。なお当時本線側では小型車による7両運転等が見られたそうです。詳しい組成等は不明ですが…

〜昭和38(1963)年2月23日 本線ダイヤ改正〜
<日比谷線人形町〜東銀座直通区間延伸、急行ロマンスカー増発等を実施>


 東武8000系が誕生する昭和38年に突入です。
 昭和38年に入ってからの最初の変化として本線で2月23日にダイヤ改正が実施されました。
 まず2月23日に行われたダイヤ改正です。これは日比谷線が2月28日に人形町〜東銀座が延伸される事に伴う延長運転とそれまで朝ラッシュ時は12分ヘッドだった東武からの日比谷線直通列車の運転間隔を8分ヘッドに増発し、北千住口の輸送力を7%増強しました。
 すなわちこれまで東武直通の後の2本は北千住始発だったのを東武直通、北千住始発、東武直通という感じに増発したという感じです。
 日比谷線直通はこの東銀座直通と沿線開発の完了を契機に利用者が激増し出した為に早速増発が行われる事となりました。

 人形町開業時は概ね日本橋や兜町付近が近くなりましたが、この延伸によって茅場町から大手町、八丁堀から東京、東銀座から銀座、有楽町、日比谷まで行ける様になったのです。
 これにより既に沿線の利用者数は前述した松原団地駅の開業も含め、みるみる内に輸送量が上昇したという感じですね。
 更には将来すぐに日比谷線自体が全線開通する事も予定されており、沿線開発をより促進させていったと思われます。

 この改正では地下鉄直通以外では急行ロマンスカー(57型等使用)の増発、運転区間の延長が行われました。増発は伊勢崎線側の急行となり、こちらはビジネス輸送の需要もあり順調に利用者を増やしていたのですが、日光方面よりも扱いが悪く本数も少ないという欠点がありました。また沿線からも急行の増発を叫ばれていたようで、今回の改正により急行ロマンスカーを増発する事となりました。
 それまで1日たったの3往復だったのを、浅草〜赤城間で1往復増発し、伊勢崎線の伊勢崎〜太田に1往復新設されました。更に館林から分岐する佐野線にも急行が新設され、下りで浅草〜葛生が1本、上りで館林〜葛生が1本設定されました。
 またこの改正から上り列車限定で北千住駅に急行列車の停車が開始された事と、上毛電鉄乗入れ運転が廃止され赤城止まりとなりました。これら変更点を一覧にすると下記の様になります。

 これによって、上りの急行りょうもう号は赤城始発の列車が太田で伊勢崎からの列車を増結し、館林で葛生からの列車を増結し6両編成で浅草まで運転される列車が誕生しました。この様に当時は身軽な2両固定編成の列車で運転されていた事もあり、各所で増解結するといった柔軟な運用方法が取られていました。
 日光線方面もDRC誕生までは分割併合が当たり前だったのが固定化されてしまった事で輸送力自体は向上したものの、効率の面で扱いが難しくなってしまった感があります。この様な増発を経て、伊勢崎線急行ロマンスカーは輸送力が50%アップしました。伊勢崎線太田〜伊勢崎と佐野線に新設された急行の停車駅ですが、これは現在の特急りょうもう号に至るまで変更がありません。ただ本数自体は現代に至るまで1往復ずつしか設定されていないのは寂しい限りです。

 一方、日光線方面では急行ロマンスカーの全車が鬼怒川温泉から鬼怒川公園まで延長運転される事となりました。これは鬼怒川公園駅が新装された事に伴う延長運転開始のようです。また特急については浅草〜日光を106分(1時間46分)で結ぶ運転が全列車にて行われる様になりました。DRCと1700系による110km/h運転が実施された為と思われます。

 また、伊勢崎線浅草口では一般列車にも変化が起こっています。地下鉄日比谷線直通開始により浅草方面への旅客流動が減ったかと言うと実はそうでもなくて、日比谷線直通開始によって減少が顕著だったのは国鉄乗り換えの方でした。これは常磐線の終着が上野という事で日比谷線でそのまま上野まで行ける為にこうなったと思われます。
 一方で浅草方面については当然北千住でほとんどが日比谷線方面に流れはしたのですがそれ以上に沿線利用者の増加もあって浅草口はむしろ利用者が微増となってました。
 そんな中で日比谷線の輸送力増強の為に直通列車の本数を1.5倍とした訳ですがそれは浅草に直通する列車の本数が減る事を意味します。
 これによって浅草方面の輸送力がやや不足気味になってしまうのでその対策として輸送力の均等化を図るべく北千住から先の停車駅が曳舟・業平橋・浅草だった準急列車を朝ラッシュ時限定で北千住〜浅草の各駅停車運転が開始されました。
 これは日中時間帯だったら浅草⇔北千住の区間運転を行えば良いのですが、朝ラッシュ時だと本数を増やすのが難しい為の処置でした。結局これが後々朝限定じゃなく全準急列車に拡大し北千住⇔浅草が各駅停車となるのは現代のファンが知る所ですね。

〜昭和38(1963)年9月21日 本線ダイヤ改正実施〜
<DRC3本体制と新栃木電車区の改良工事完了>



▲更に増備が進むDRC
※マンスリー東武表紙より
 昭和38年は2月23日に大きな改正が行われましたが、秋の行楽シーズンを迎える9月21日にも本線ダイヤ改正が行われました。行楽シーズンに対応すべく好評なDRCを1編成6両増備し日光線一部区間で複線化(復元)、特急の新しい料金制度の開始等が行われました。

 今回増備されたDRCはサロンカーでいくつか改良・試験が行われました。まず照明にグレーベーン(ガラスの色を灰色にし、光線をやわらかく落ち着いたものにする)を採用し、サロンルームの座席を若干大きくし、ジュークボックスは最新式の物を採用しています。

 また8時〜9時に3連続でDRCが発車する事になった為、東武日光駅は大改良が施される事となりました。それまで4番線のみにしか123m分のホームが無かったのを、留置線として使っていた5・6番線にも6両固定が発着出来る様にホームが新設されました。これでほぼ現在の東武日光駅の形態になりました。
 昭和38年9月には日光線の複線復元工事が一部完成し、板荷〜明神6.4kmが昭和20年6月21日の単線化以来18年ぶりに元通りの複線区間になりました。これは戦前に熊谷線新設に伴うレール材等の確保の為に日光線の合戦場から東武日光までの44.5kmが単線にされてしまったのを復元する為の工事であり、単線化については前章を読んで頂くと分かると思います。復元は終点の東武日光側から順次行われておりその為新栃木の隣の合戦場から先は単線区間となり途中の新鹿沼駅も単線区間のままでした。

 この複線復元によって当然の事ながら優等列車のスピードアップが図れました。また今回の複線化区間では50kgレールを使用し重軌道化する事で将来のスピードアップや乗り心地の改善も図られています。これによってDRCと準快速のスピードアップが計画されたそうです。

 これでDRCは6両固定3編成となり、日光・鬼怒川方面への観光輸送はますます強化される事となりました。一日日光・鬼怒川を4往復していたのを6往復に増発し、最も利用客が集中する浅草8時〜9時台に20分間隔でDRCを発車させる事が可能になりました。

 そして今回の改正より、優等列車の料金制度が改められました。これまではDRCも17型白帯も同じ特急列車料金となっていたので17型利用者に不公平感がありました。そこで特急料金200円にDRCは更に特別座席料として100円を追加し300円となりました。1700系白帯車はそのまま200円となっており、急行ロマンスカーは100円となっています。


 またダイヤ改正後の10月1日より新栃木電車区の改良工事が完了しています。これにおよって総勢130両もの車両が留置出来る様になり、今後の日光・宇都宮線の輸
送力向上をスムーズに行え、車両の検修関係においても抜かりの無い体制が出来上がったと言えます。


〜東武8000系誕生へ〜

 非常ーーーーに長かったですが、8000系が誕生する昭和38年10月までの主な動きを挙げてみました。途中横道に逸れたり素人の余計な説明を突っ込んでしまった為に1章でも長かったのが2章では更に長くなってしまいました。8000系が一度も出てきていないのにという…(汗)

 さて、次の章からはいよいよ東武8000系登場後の歴史をご紹介していけると思います。最後にも書きましたが、既に東上線・伊勢崎線・野田線は輸送力が限界に達してきており、東上線では車両を増やす前に現有戦力を有効に活用する事で輸送力を限界まで引き上げました。しかしこれもすぐに限界に達するという事は新たな車両の誕生を待つ以外ありませんでした。

 東武8000系は試作車が製造されず、いきなり今までの東武では考えられない程の大量増備によりその歴史に幕をあげる訳ですがこれだけ輸送状況が逼迫していればそれも当然の様に思えますね。そういった東武鉄道の苦労をご紹介していこうと思いますのでお付き合い願いたいと思います。

 

最後に、文章ばかりで申し訳ありませんでしたm(_ _)m



2012年2月11日編集
2012年5月3日改変(やっぱり文章が意味不明な箇所が多かったですね。)
2013年07月07日改変(改行増やしました)
2021年10月23日改変(多々修正) (今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献
●鉄道ピクトリアル(株式会社電気車研究会)
1972年3月臨時増刊号 通巻263号
・東武鉄道特急列車変遷(花上嘉成氏 東武鉄道運転車両部工場課)
・私鉄車両めぐり〔91〕東武鉄道(青木栄一氏 都留文科大学助教授・理博、花上嘉成氏)
1961年4月号 通巻117号
・私鉄車両めぐり〔44〕東武鉄道の電車その3(青木栄一氏 東京教育大学大学院生、花上嘉成氏 東武鉄道西新井工場勤務)
1961年5月号 通巻118号
・私鉄車両めぐり〔44〕東武鉄道の電車その4
1999年1月号 通巻664号
・戦後の私鉄ダイヤと現在までの変遷(永井信弘氏 早大鉄研OB/鉄道友の会会員)
●鉄道ファン(株式会社交友社)
1974年9月号 通巻161号
・クリーム色になった東武電車/思い出の試験塗装電車 (花上嘉成氏)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武(東武鉄道株式会社)
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)
●営団地下鉄50年史(帝都高速度交通営団)
※文中の写真は全て筆者が撮影したものです。(ほとんどないですが)



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