東武8000系の歴史


第3章:東武8000系登場 その4

4.東武鉄道新型通勤車8000系製造までの経緯と検討、採用内容について(続)

4-7:故障に強い電動発電機、電動空気圧縮の採用

 電車を動かす為に必要なのは、直流1500Vの電気であるのは言うまでもありませんが、それだけでは成り立たず、高圧電源以外に扇風機や照明等を動かす為に必要な低圧電源と、そして何よりも大切なのが電車を停車させる為に必要なブレーキやドア開閉に使用する圧縮空気の二つを忘れてはいけません。前者は直流1500V電気を低圧電源に変換するMG(電動発電機Motor Generator)で後者はCM(電動空気圧縮機Compressor Motor※一般にはCPと略されますが、電動機なんでMotorが正しいんですよね。でも以降はCPと表記します。)で作られています。

 8000系は1編成4両ですが、78系と比較すると半分となる1台のMGとCPで編成4両分を賄う様になります。これが故障をしてしまえば即機能不全となってしまう為にこれらの装置は故障しにくく、尚且つ1台に集約されているので高い能力も要求されます。

(右上に続く)
 8000系のMG、CPはそれぞれの回転数が1800rpm,1200rpmとなっています。同世代の車両で言えば国鉄の103系が3600rpm,2100rpmとなっていますので低回転の機器を採用しているのが伺えると思います。(MGは発電能力が違うので単純比較は出来ませんが、CPはほぼ同じ能力です。)

 難しくなるので簡単に説明すると、回転数が同じであり尚且つ同じ能力を発揮する為には発電機が大型になり重くなってしまいます。じゃあメリットは何かと言えばずばり高速回転すると発電機に掛かる負担が大きくなります。つまり低回転の物だと故障しにくくなる事が最大のメリットと言えます。

 ただ低粘着を懸念してわざわざバーニア制御を採用する程ですから、重量増は好都合だったかもしれませんね。(勿論車体の重量バランスが最優先されたとは思いますが)


●MGとCPの役割について

 せっかくなので、ここでMGとCPの役割について触れてみます。まずはMG関連で、架線から直流1500Vを取り込みますが、パンタグラフの付いている車両にはMGは無いので、BS(母線断路器)、BF(母線ヒューズ:異常な高電圧が流れた場合は避雷器が吸収しますが、それでも回路へ異常電圧が流れた場合ヒューズが焼け溶け、先の機器への電気の流れを遮断し故障を防ぎます。ただしヒューズを復旧するまで当然電車は動けなくなります。断路器は原則手動で入切をしますが、高圧電気が流れて非常に危ないのでジスコンと呼ばれる棒を使って操作します。)を介し、引き通しを通ってMGへ流れ、更に編成全体へと流れていきます。

 MGはこの時代非冷房だったので現代と比較して小容量のHG-533IrBを4両編成中に1個搭載し、直流1500V・8.7A・13KWから2相3線式交流220V(60Hz)・20.5A・9KVAを作り出していました。MGは自動電圧調整器(AVR:Auto Voltage Regulator)付きとなっており、電圧調整器とは、電圧と周波数が変化すると供給する電気が不安定となってしまうのでそれを防ぐ役割を果たします。

 最近のMGやSIVだと三相交流の電気を作るものが大半ですが、当時は2相交流となっていました。そこから補助変圧装置で2相交流220Vを2相交流100Vに電圧変換し、更にそこから整流装置(ARf)を使い直流100Vも作り出しています。
※ここでの略称は国鉄・JRで使われているものなので東武では異なると思います。

 この直流100V回路が電車を運転する上で重要になってきます。(後述)


(右上に続く)
 この様な複雑な変換をやる理由としては、交流は電圧の変換が比較的簡単な装置で済みますが、直流の電圧変換は交流よりも複雑で高価な装置が必要になり下手すれば電車の床下に機器が収まらなかったり重量が増えてしまったりという問題がある為、直流から交流を作りだし電圧を落としてやる方法が一般的となっています。

 直流やら交流の電源の話が出ましたが、何を何に使うかざっと書き記しますと、交流電源では扇風機(220V)や室内灯(蛍光灯)、前照灯(シールドビーム)等、直流電源(低圧は100Vがメイン)ではMGやCPの起動、パンタグラフの上げ下げ、運転台機器、制御装置(運転台からの指令を伝える回路の電気)や戸閉装置(ドア開閉)、HSCの電磁弁の操作、100V蓄電池の充電、車内放送装置、室内予備灯等に使用されています。異常時だと直流1500V電源は勿論、MGが元となる交流電気も供給されなくなり、蓄電池に蓄えていた直流電源のみとなるので照明は基本交流電気で動作しますが、予備灯等は直流で点灯する様に考えられています。

 架線から取り込んだ直流1500Vを変換せずにそのまま使用するのは、前ページでも触れた腰掛下の暖房装置、主電動機・主抵抗器、そしてMG,CP等です。

 いろいろ書いてはいますが資料やら何やらを元に想定で書いている場所がありますので実際には違う所もあると思います。あと単純に間違いを書いている可能性もあるので参考程度に読んで下さい(汗)

●8000系電車の生命線である圧縮空気と3本の配管(MR管・SAP管・ブレーキ管)について

8000系CP関連写真
8000系のCP関連の画像です。CPやら元空気ダメやら掲載しています。
8000系にとって圧縮空気は非常に大事ですので運転台の計測器も圧縮空気圧関連の物がメインとなっています。
※就役当初は保安ブレーキ機構は備わっていませんでした。(保安ブレーキ系統は手ブレーキのみ)

 電気についてざっと書きました。次は圧縮空気です。8000系は電気ブレーキを持たないので、いくら軽量化したと言えど数十トン、編成で120tもの電車を止めるのは圧縮空気の力のみが頼りです。また昭和の殺人ラッシュの時代でドアに掛かる物凄い圧にも負けない力でドアを開ける力、小さいものではパンタグラフを上げる程度の力だったりと大小様々な機器を動かすのに使うので非常に重要となります。

 圧縮空気とは出口が無い器に入った空気をピストン(棒)で押し込むと空気が入っている部分の容積が小さくなるので空気はピストンを押し返そうとします。この押し返す力が圧縮空気です。CPによって圧縮空気が作られ、圧縮空気を入れる器となるのが、元空気ダメというタンクになります。

 さて8000系の場合、CPの隣にこの元空気ダメが3個配置されています。元空気ダメの圧力は640(?)〜780kPaに保たれています。圧縮空気を様々な機器に使用し、640kPa(?)を下回るとすぐにCPが作動し元空気ダメの圧力を回復します。なお上がりすぎてもタンク破裂という危険が伴うので780kPa以上にならない様に圧力を調整している調圧器が存在します。

 そして元空気ダメ3本に圧縮空気が溜め込まれていますが、空気ブレーキを掛けたり、ドアを閉めたりと圧縮空気は各車両にて使われます。ですので、各車両には供給空気ダメと制御空気ダメが1つずつ配置されています。


(右上に続く)
 この時元空気ダメから供給空気ダメ、制御空気ダメ等に圧縮空気を送る為の配管を元空気ダメ管(MR管)と言い、これが編成全体に引き通されています。供給空気ダメは元空気ダメと同じ圧力に保たれ、ブレーキ等に使用され、そして制御空気ダメは圧力調整弁によって490kPa(制御空気ダメの数値は想定です)に圧力を下げてられています。これは何故かと言うとドア等を開閉する様にブレーキ程の圧力の圧縮空気が必要無い場合、元空気ダメの圧力でそのままドアを開け閉めするとドアの開閉スピードが速くなり過ぎてしまう等の弊害が出るからです。だから別に制御空気ダメが設けられています。

 今MR管の話が出ましたが、東武8000系では他にSAP管(直通管)とブレーキ管(490kPa)が引き通されています。前者が直通ブレーキ用のもので、後者が自動ブレーキ用のものです。これらにも当然圧縮空気が使用されています。

 8000系の運転台には4つのアナログ計があり、速度計、圧力計が2つ、低圧電圧計(直流100V回路用)となっていますが、このうち圧力計二つの内、左側にブレーキシリンダー圧(赤針)と直通管(SAP)圧(黒針)が表示され、右側が元空気ダメ管(MR)圧(赤針)とブレーキ管圧(黒針)が表示されています。興味のある方はこれらの動きを見てみるのも面白いかもしれません。ちなみにブレーキシリンダーと直通管の圧力はほぼ連動して動きますが、ブレーキ管圧はほとんど使用されないので動きません。動きがあるとすれば終点で非常ブレーキを掛けた際にブレーキ管から圧縮空気が勢いよく噴出した音がする時ぐらいじゃないでしょうか。

 ざっとCPについても書いてみましたが、かなり端折っています。詳しく書くとまた長くなりそうなので別の機会に・・・

5.8000系新型通勤車大量増備へ

昭和38年10月7日 8000系1号編成・8106編成誕生
↑1963年10月7日、日本車輌製造・東京支店(蕨工場)にて4両編成の東武鉄道の新型車両が竣工しました。
8000系の記念すべき1号編成、06編成です。その後6両編成化され最後は野田線で活躍していました。

 8000系車両についての特徴を前項にてそれなりに細かく書いてみました。まぁ視点がいろいろ違うので書ききれていないのはわかっていますが、鉄道車両は奥が深すぎるのでとりあえず現時点ではこの辺りで止めておきます(汗)

 さて、検討に検討を重ねられて設計された8000系電車が昭和38年の秋頃から相次いで完成し東武線上へ姿を現しました。何といっても初年度に20m大型車両4両固定編成を15編成という過去類を見ない程の大量増備です。製造会社も2000系やDRCまではナニワ工機と日本車輌の2社が担当していましたが、製造が追いつかないと汽車製造にも依頼する様になりました。

 この汽車製造株式会社(汽車會社)ですが、5700系や1700系の製造を行っているので東武と全く付き合いが無い訳ではありませんでしたが、しばらくはナニワ工機と日本車輌が設計を担当していた関係でしばらく東武電車の製造から離れていたようです。当時で言えば、汽車會社は日本車輌と並ぶ車両製造会社のトップランナーであり、本社は大阪で東京にも大きな工場を構えていました。

  製造会社3社についてそれぞれを紹介すると当時の大手で言えば間違いなく日本車輌と汽車會社が有名でした。(他では川崎車輌がありましたがここでは特に触れません。)

(右上に続く)

表:東武8000系昭和38年度製造分
編成番号竣工年月日製造会社
8101F1963年11月15日ナニワ工機
8102F1963年11月30日ナニワ工機
8103F1963年12月20日ナニワ工機
8104F1963年12月20日汽車・東京
8105F1963年12月20日汽車・東京
8106F1963年10月 7日日車・東京
8107F1963年11月15日日車・東京
8108F1963年11月15日日車・東京
8109F1963年11月30日日車・東京
8110F1963年11月30日日車・東京
8111F1963年11月30日日車・東京
8112F1963年10月30日ナニワ工機
8113F1964年 3月 9日日車・東京
8114F1964年 3月 9日日車・東京
8115F1964年 3月 9日ナニワ工機






 両社とも本社は名古屋、大阪と東京がメインではありませんでしたが、関東(埼玉と東京)にそれぞれ大きな工場を抱えており、東武以外の私鉄や国鉄、営団といった公社の車両の製造を担当していました。ナニワ工機は大阪・尼崎にある会社で京阪神急行電鉄(阪急)の子会社であり、その関係から阪急の車両の製造で有名であり、名車・オートカー等の製造も担当している会社でした。東京だと東急車輌と東京急行電鉄の関係と同じと言えます。

 東武は昭和28年に5700系でナニワ工機に車両の製造を依頼して以来はそれまでの汽車會社よりもナニワ工機への発注が増えました。わざわざ遠く離れた大阪で車両を製造していたのは阪急と東武で別の繋がりがあったそうだからです。実際この関係はナニワ工機が名称を変更したアルナ工機が車両製造を中止する2001年度(2002年頃)まで続きました。

 日本車輌は日本を代表する車両製造会社で今もなお現存していますが、工場は愛知県の豊川市へ移転しています。それまでの車両製造工場は東京支店とは言いますが、埼玉県の蕨市に工場を構えていました。ですのでナニワ工機とは違い東武鉄道とは近い場所にあった車両工場だったと言えます。

 汽車製造株式会社はその名の通りかつて日本で当たり前だった蒸気機関車の製造で有名だった民間では最古の鉄道車両製造会社で民間鉄道車両産業の草分けでした。後に合併される事となる川崎造船所(現・川崎重工)は明治11年創業ですが、鉄道車両製造を開始したのは明治39年でした。

 汽車會社は明治29年創業で本店は大阪(明治32年開業)で最寄りは今で言う桜島線の安治川口付近でした。東京支店の方はと言うと明治23年に創業していた正真正銘の日本最古の民間車両工場であった平岡工場(個人経営)を明治34年に合併し誕生して誕生したものです。後に汽車會社東京支店工場となる錦糸町工場に移転したのが汽車會社が設立した明治29年でした。場所はJR貨物越中島支線の旧小名木川駅付近に存在し、錦糸町工場の他に深川に分工場も構えていました。こちらはある意味亀戸線・亀戸駅から見れば東武線上と極めて近い車両工場であったと言えます。実際甲種輸送の際も一番短く輸送出来たものと思われます。
 経路は不明ですが、総武線が複々線化される前の亀戸駅は線路が平面交差していたので東武亀戸駅に難なく入線出来たでしょうから亀戸線経由で西新井まで輸送されたんだろうなと思います。かつて東京支店工場のあった場所は現在再開発されてマンション、ショッピングセンターが建っており、過去の姿を見る事は出来ません。

 これら3社によって8000系が15編成60両製造されました。しかし汽車會社の製造は初年度の1963年度のみで終わってしまいました。何だかんだで年間60両もの製造を行うのはこれが最初で最後となり、ナニワ工機と日本車両での製造で間に合うからだったと思われます。後年まで野田線で走っていた8104Fの8404号車にて汽車會社の銘版を見る事が出来ましたが、レアな編成だった事もあり余計に汽車會社製という珍しい面がピックアップされていたなぁと思い出します。

かつて汽車會社・東京製作所のあった場所。と汽車會社・東京製作所製の8104Fと8105F
↑かつて汽車會社東京支店工場のあった旧小名木川駅付近です。現在は再開発されてご覧の通り・・・
(ついでに変な画像ですが)汽車會社で製造された東武8000系は8104Fと8105Fの2編成のみでした。


【東武8000系甲種輸送時に脱線していた】
 8106編成の竣工後の動きについては、東武鉄道8000系ものがたりを参照されるとよく分かると思いますが、1963年10月5日と6日に日本車輌を出場した8106編成は、本線へ回送され当時の東武の新型電車恒例の業平橋での本社展示を済ませた後、東上線配置という事もあり秩父鉄道経由で川越電車区(川越市)に回送されました。試運転を行った後、実際就役したのは11月からだそうです。ただこの11月の頭から営業に投入されたのは一足先に配置された8106Fのみだったと思います。

 ちなみに2本目の到着は関西製1本目となるナニワ工機製の8112Fとなりますが、この編成は甲種輸送道中にちょっとした不幸に見舞われました。
 1963年10月23日に尼崎から甲種輸送中だった8112Fですが東海道線守山駅構内にて脱線するという事故に見舞われました。原因は牽引機関車が故障しブレーキを掛けた時に編成全体での制動力不均衡が起きた影響による浮き上がり脱線みたいです。
 なお編成全体が脱線した訳じゃなく8112F4両編成のうちクハ8412の後ろ台車の2軸が脱線したそうです。ちなみに当時の記録によると甲種輸送と言っても甲種輸送専用の列車ではなく貨物運用に連結されての運行でした。なので貨車に紛れて普通の電車をつなぐというのは現代とは異なる所ですね。まぁ東海道新幹線が出来る前ですから東海道線の線路もパンパンで甲種輸送専用のスジが引ける余裕はなかったんだろうなぁとは思います。
 8112Fはその後は無事に到着し10月30日竣工となっています。8106Fが輸送後すぐに引き渡しとなっているのを見ると、8112Fは数日間はメーカー立ち合いの上再検査があったのかどうか…(苦笑)
 結局この編成も8106Fと一緒に11月中には東上線で運用に入っているので脱線したとは言えそこまでのダメージはなかったみたいです。

 本線1本目は8101Fでこちらは8112Fに遅れる事約2週間後にナニワ工機を出場しこちらは無事トラブルもなく輸送され11月15日に竣工し、何とか11月中に営業入りしています。
 前述した3編成が11月中に運用入りし、続いて12月には一気に9編成が運用に入っています。

 就役当初の8000系は高い加減速、両開4扉の4両固定編成というまさに近距離のラッシュ輸送に最適な仕様となっていたので近距離輸送中心に充てられました。東上線では8000系投入によって73・78型の運用を置き換えた分、余剰になった73・78型による6両編成を増やす事が可能となりラッシュ時の輸送は劇的に改善されていく事となります。

(右上に続く)

 東上線側は既存車両達と共に輸送力増強を担う一方で本線側は本線の輸送力増強だけでなく8000系が配置された事で既存車両を野田線などの支線に送り込む事でローカル輸送の増強に貢献する事となりました。しかし当時の野田線はローカル輸送と呼ぶにはあまりにも利用者が増え本線顔負けの混雑率の酷い路線となっていました。

 更に8000系を今後増備するのと並行して戦前からの主力であるデッカー車・3210系を更新工事の計画が打ち出されていました。戦前どころか昭和初期から活躍していたこれらの電車は既に限界を迎えており、機能的にも17m・2扉車という輸送能力の衰えや新たな設備すら設置出来ない状態であり抜本的な改善が必要でした。そして6300系に続いての更新工事を行う事となったのです。こうして完成する3500系更新電車はやがて野田線に配置され野田線の輸送力増強に貢献していきます。


 ここで当時の交通東武に掲載されていた一文をご紹介します。

 今までの車両、技術革新の波に乗って、ややもすれば高性能デラックスに走り過ぎる雰囲気にあった。この車両はカメラに例えていえば、今までの車両がキヤノンやニコンであれば、この通勤車はペンカメラに相当する、といった考え方に立って設計した。(中略)経済的な通勤車の代表車としたいとの念願がこめられている。
(交通東武/昭和38年10月20日号(通巻396号)表紙より)

 キヤノンやニコンについては特に紹介するまでも無いですが、ペンカメラとは何ぞやというとペンタックスの事では無く、オリンパス・ペンの事です。最近ではデジタル一眼カメラ(マイクロフォーサーズ)でその名前が復活していますが、当時のペンは、安く質の良い物をというコンセプトを基に開発されたカメラでした。安かれ悪かれという考えでは決して無く、当時のカメラで言えば国産ではキヤノン、ニコンに、外国産の雄であるライカも加わった、それら大手に負けない物を安く提供しようという考えで作られたものです。

 東武8000系は第一に安く大量製造という面を重視した車両ではあります。しかしただ経済的なだけな車両なら簡単に作れますが、劇的な軽量化を果たし軌道への配慮や使用電力削減の達成、今後の計画を見越した上での電気ブレーキの省略による保守の簡略化、軽量化による運転への弊害を解消すべくバーニア制御の採用、電動機は故障のしにくい物の採用(主電動機点検蓋の廃止は本当に画期的だと思います)と、まさに安くしつつもこだわる所は多少高価でも質にこだわるというペンカメラを連想させる車両と言えるでしょう。

6.あとがき

 鉄道は、線路と電線があれば電車を走らせる事は可能と簡単に言いたいのですが、そうはいかずに車両・線路(軌道)・電気(変電、配電)等から成り、運転士、車掌、駅係員と今言った車両・線路・電気の各検査係員の“人間”が加わり成り立っています。これらは個々に機能している事は有り得ず、それぞれが役割を果たした上で鉄道運輸という大きなシステムを構成しており、鉄道の仕事はチームで行われています。そのいずれもが損なってはなりません。

 上でも触れましたが、鉄道車両は単に経済的だったり新機軸を取り入れたから良いという訳ではありません。8000系は今後の標準車両として既存の車両との性能差を極力無くし、総合的な判断で電気ブレーキ機能を省き保守の大幅な簡略化を果たしました。勿論電気ブレーキを無くす事のデメリットもあります。しかしこの判断によって保守が大幅に楽になり、急激な車両の増備にも現場がすぐに対応出来る状況に持っていく事が可能となったと言えます。
 最近では故障が目立つ様にもなりましたが、昭和の時代はとにかく故障しにくい強い車両でありました。電気ブレーキを省略しつつ既存の車両との連結を犠牲にしてでも電磁直通ブレーキ方式を採用し従来の自動ブレーキの車両と比較して格段に運転しやすく仕上げた事も見逃せません。これほどまでに会社が求めるものだけでなく、現場への配慮を最大限に行った点は評価されなくてはいけないと思います。

 8000系は1963年10月に4両1編成が誕生してから、1983年までに712両もの車両が製造されます。これは8000系が安くて、故障しにくく保守も運転もしやすい車両だったから、と言う方もいるでしょうが決してそれだけでは無いと思います。8000系が製造され続ける20年間、東武鉄道にとっては経営的に非常に苦しい苦難の時代を迎える事となります。現代と違い、どこまで輸送力を伸ばせば良いのか分からない先の見えない時代、利益なき拡大と言われ続けた昭和の鉄道業界の苦難を現しているのです。8000系の製造が打ち切られるのはそれまで純増のみで製造されていた8000系が7300系の置き換えが可能となってからです。ようやく先の見えない苦しい時代の出口が見えた頃になって8000系の増備が打ち切られたというのを忘れてはいけません。

 そう考えた時にただ安いってだけでは無く、運転しやすい保守のしやすいという点は昭和の後期まで東武鉄道という組織全体において非常にやり易く、会社の運営を助けたという事は間違いなさそうです。それだけの車両を昭和38年の段階で大元が完成していたのはこれだけの検討を重ねられたからだという所もご理解頂ければ幸いです。

 そんな東武鉄道を待ち受ける苦難の時代の動きについては次の4章以降で触れていきたいと思います。これまた長くなりそうですが・・・(もう少しサクサク進めて行きたいなぁ)

 またまた文章ばっかりになってしまいましたが、以上でこれまた長かった3章について終わりにしたいと思います。表現のおかしい場所等があったとは思いますが、ご覧頂きありがとうございました。

2013年07月02日編集
2023年08月15日再編集
(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)
※いつかいろいろと補填したいなぁと思ってます。いつか・・・


参考文献
●鉄道ピクトリアル(株式会社電気車研究会)
1972年3月・4月号 通巻262・264号
・汽車会社車両製作回顧〔上〕・〔下〕 (汽車製造株式会社大阪工場)
2003年1月号 通巻726号
・私鉄高性能車は何をもたらしかた (曽根 悟氏/工学院大学電気工学科教授)
・私鉄高性能車における技術の変遷 (真鍋 裕司氏/京都大学鉄道研究会OB)
・私鉄高性能電車 出現の意義 (中川浩一氏/茨城大学名誉教授)
・東武鉄道8000系ものがたり (花上嘉成氏/東武博物館館長)
・阪急電鉄2300系のあゆみ (篠原 丞氏/阪急鉄道同好会)
●電氣車の科学(株式会社電気車研究会)
1963年12月号 通巻188号
・東武鉄道8000系新通勤車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長)
1964年6月号 通巻194号
・東武鉄道6000形電車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長)
1964年12月号 通巻200号
・103系通勤形電車要説 (国鉄臨時車両設計事務所) ※以降1967年4月まで合計28回に分割掲載
・小田急電鉄大型通勤専用車2600系 (山村秀幸氏/小田急電鉄車両部長)
1972年8月号 通巻292号
・東武鉄道8000形通勤冷房車について (宮根 實氏/東武鉄道運転車両部車両課次長)
1976年8月号 通巻340号
・東武鉄道における踏切保安設備集中監視装置 (天川隆雄氏/東武鉄道鉄道事業局電気部管理課長、小林実氏/東武鉄道信号通信課)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
・東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武(東武鉄道株式会社)
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)

●ネット文献
・【URL】鉄道車輌用ころがり軸受と台車の戦前・戦後史
― 蒸気機関車、客貨車、内燃動車、電車、新幹線電車から現在まで 2010年7月8日公刊 (坂上茂樹氏/大阪市立大学教授)

他にもいろいろ読んだ気がしましたが忘れました(汗)
わかり次第追記する予定・・・

※文中の写真は特記を除き、全て筆者が撮影したものです。(ほとんどないですが)




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