東武8000系の歴史


第4章:激動の昭和と東武8000系増備の歴史
・8000系電車がいよいよ就役。昭和40年までの動きを振り返る

↑東武8000系が就役した当初の本線停車駅案内をまとめてみました。
昔は一部を除き浅草からほとんどの路線に直通列車が何かしら走っていたのです。
※拡大すると大きい画像で見れます。

 昭和30年末から昭和40年前半の情報はなかなか情報がなく調査も苦労している所です。
 本線の停車案内はいろいろと情報を手に入れては繋ぎ合わせて作成したものですが一部誤りは含まれていると思います。ご指摘があれば頂けると大変ありがたいです。

 8000系就役してまもなく6000系が誕生する訳ですが、当時の日光線は特急・急行の次の存在は休日に運転される臨時快速や朝・夕に通勤車で運転される快速が存在していましたがそれ以外ですと準快速という種別が設定されその次におなじみの準急が設定されていました。今まで疑問に思ってたのが、当時準快速があるというのは知ってたのですが、じゃあ快速ってなんだったんだ?と疑問に思ってました。当時の快速とは、朝・夕ラッシュ時に運転された通勤車による通勤快速の事でした。それ以外では休日のみ運転される東上線の行楽急行同等の臨時快速というのが運行されていました。
 当時存在した準快速とは日光への輸送の為に特急・急行の補完的存在として運行されており日光線のみの運転でした。なお使用車両が32型という事で日光まで2時間30分以上も掛かってしまう列車でした。
 当時は伊勢崎線側にも快速が毎日2往復運転されており、いずれも伊勢崎発着は変わりませんが多層建て列車となっているのが特徴で途中太田で赤城発着と連結される列車と館林で葛生発着と連結される列車が設定されていました。桐生線や佐野線にも快速が走っていたのです。


 さて、列車運行については以上で当時の通勤輸送の状況についてです。
 本線側は日比谷線直通もまだ開始されたばかりで北越谷までの乗り入れで4両編成でした。それでも昭和38年2月改正で乗り入れ先は東銀座まで到達しており、銀座・有楽町・日比谷まで徒歩圏内まで直通運転出来る所まで行ける様になった為沿線の開発が一気に進み始めていました。
 まだまだ小型車も本線輸送を担っており、大型車による4両編成や小型車による5両〜6両というのが運転されていたみたいです。(ここら辺の記録が未だによく把握できていません。)
 そこに8000系4両固定が加わり輸送力の増強に貢献していく事となります。

 本線とは別に東上線側ですが、日比谷線直通開始により利用者が増え始めていた本線と違いこちらは本線とは比較にならない程に利用者が増え続けていました。池袋と言えば山手線と接続する事もさることながら、営団地下鉄丸ノ内線の始発駅でもあり都心に近いアクセスの良さがあった為です。
 第2章でご紹介した様に朝ラッシュ時は2分30秒間隔で運行され東武初の大型車両による6両運転が開始されていました。特に池袋〜成増の利用者の多さは東武鉄道においては断トツであり近距離輸送に特化した8000系の誕生は大きな助けとなりました。
 8000系就役により73・78型の運用を置き換えて余裕が出来た73・78型を朝ラッシュ時に別の73・78型と連結して新たな大型6両編成の運用を増やして対応していく事となっていきます。この様に東上線は運転本数がこの時点で既に限界に来ていたので輸送力増強方法は増発ではなく既存編成の輸送量増強以外に無い状況となります。ここが本線との大きな違いであり、この為東上線側の長編成化が先に進んでいく事となっていきます。

7300系
▲8000系登場までの通勤輸送に最も特化した7300系(73型)です。旧6300系から7800系(78型)の車体に更新され誕生した車両です。
裏には8000系の姿も見えます。当時はラッシュ時のみに6両編成の運転が見られ日中は4両か2両での運転となっていました。

〜昭和38年11月・東武8000系就役〜
<昭和38年12月2日東上線大型6両運用増発・昭和39年1月12日本線ダイヤ改正>

 昭和38年10月に8106F(4両固定)が誕生してから、次々と8000系電車の4両固定編成が誕生し本線と東上線に配置されていきます。
 まず同年11月東上線に2編成(8106F,8112F)、本線に1編成(8101F)が就役し12月には東上線に5編成(8107F~8111F)、本線に4編成(8102F~8105F)が就役となりました。一気に12編成48両の投入となり今までは考えられない程の大量増備となっています。
 当時は特に東上線側の輸送状況が悪化の一途だった為、本線側に20両、東上線側に28両の振り分けとなり、翌昭和39年には残る3編成がそれぞれ8113F・14Fの8両が東上線、8115F4両が本線に配置、本線24両・東上線36両とやや東上線側優先となっているのが伺えます。繰り返ししますが、東上線側では既に朝ラッシュ時の本数が当時設定出来る限界に達していた為輸送力増強は本数増じゃなく編成毎の輸送力増強しか出来ませんでした。

 この為東上線では昭和38年12月2日より大型6両運用を朝ラッシュ時に5運用増やし池袋着7時30分〜8時30分の最混雑時間帯の11運用が大型6両編成による運用となりました。
 それまでは昭和38年2月26日から大型6両運転が開始されてはいますが車両数の問題からギリギリ2運用20個列車に限定した所から始まり、11月に8000系が2編成就役したおかげで11月からは4運用追加となり、更に11月末までに5編成の8000系が就役した事で更に5運用増やす事が可能となりました。
 8000系就役により73・78型の運用を置き換えて別の73・78型運用に増結し6両編成を組成するという流れです。73・78型の増結に加え、両開き扉の20m4両固定の8000系も勿論輸送力として抜群であり一気に東上線の輸送状況は改善する事となりました。

 しかし輸送量は引き続き増え続けるのは明白であり、この時点既に将来のラッシュ時間帯の全6両編成運転化が予想されていた為4両固定編成の8000系の増結車両の誕生も間違いないという状況となっていました。また昭和39年1月30日には沿線開発を主眼とした川越市〜坂戸町の複線化工事が着工され、今後更に東上線の輸送状況は悪化していく事となります…

 続いて本線側ですが、こちらは伊勢崎線・日光線の輸送改善だけでなく、野田線やその他ローカル線の輸送力も追い付かない状況になってきていた為にこちらも考慮に入れた輸送力増強が必要という事情がありました。

 そして8000系5編成20両が年末までに出揃い年が明けた昭和39年1月12日より本線・野田線でのダイヤ改正が行われました。

 この改正では、本線側では松原団地入居完了に伴う朝の輸送力増強が図られ11.4%輸送力が増えています。しかし日比谷線直通による沿線人口増は早くも加速しており8000系を投入してもなお前年の混雑率180%が200%近くに悪化していたそうです。
 また本線利用者は北千住から日比谷線直通を使う人が大半である為、日比谷線直通電車に人が集中する一方で地上車の浅草行きは日比谷線直通に乗り切れない人が仕方なく乗る位置づけの列車となっていたそうでここら辺も悩ましい状況だったのが伺えます。

 野田線側についてですが、前述の通り8000系投入により大型車(78型)8両が野田線に配置され輸送力増強を行いました。実は混雑率で言えば野田線の方が酷く大宮口が210%、柏口が200%となっていました。
 当時は大宮〜岩槻間は大型4両運用も可能なホーム長があったので岩槻〜大宮に新たに78型4両編成による列車も1本設定され、輸送力が約30%近くも増強されました。これにより大宮口は一気に混雑率が185%に落ち着きました(今でいえばこれでも凄い混雑ですが)。
 しかし柏口はホーム長の関係で大型車は2両編成までの運転しかできない為に小型車4両の運行が限界でした。そのため輸送力の増強は柏口ではわずか7.3%に留まり輸送量増加に輸送力増強が追い付かずに柏口は逆に混雑率が220%に悪化してしまいました。野田線はこんな感じでしばらくは大宮口が悪化し、大宮口改善したら今度は柏口・船橋口が悪化するのいたちごっこを繰り返す様になります。本当に大変な時代でした。

 1月12日のダイヤ改正で輸送力を増強しつつ既に前年から比べると混雑率の悪化に拍車が掛かっていた為、本線側では8115Fが3月中頃に就役するのを待ってから3月20日に運用変更を行う事となりました。
 これはラッシュ時に遅れの原因となっていた小型車を大型78型に置き換えるというもので、西新井電車区から78型6両を館林電車区に転属させています。これにより従来小型車で運用され遅延が目立った運用を78型4両編成に置き換えし状況改善を図るというものです。
 本線側では日比谷線直通に集中しやすい傾向もある一方で当然の事ながら地上線内で完結する利用者もいる訳でありここの遅延が悪化すると全体的な遅延を引き起こしてしまう為、地上運用の改善も逐次必要になっていました。

 またここで感じてきたのがすでに西新井電車区(竹ノ塚)では車両の留置の限界が近づいてきているのが明白だったという事です。
 転出車両を考慮しても大型車が10両分増え更に今後も車両数が増える事は明らかであり何とか車両を受け入れるスペースの確保という点も急務となりつつありました。

 こうして8000系15編成60両増備により本線・東上線はもちろんの事、野田線の輸送力増強も平行して進められていきました。

 就役当初の8000系は4両固定での運転のみな為、当然ですが単独編成での運転のみでした。それに伴い下り方クハ8400形の連結幌や上り方クハ8100形のジャンパ栓は準備工事の状況で運用が開始されており、これがオリジナルの姿と言われています。
←就役当時の8000系の姿です。見ての通り正面のクハにジャンパ栓が取り付けられていないのが見えます。
 これは4両固定のみで増結運用がない為でした。すなわちクハ8400形の幌も取り付けられていなかったのです。
 無線アンテナも無し、ATS装置も無し、これが8000系の最初の姿です。行先の"竹の塚"も風情を感じますね。

(日本鉄道車輛工業協会・車両技術1964年9月号表紙より)


〜西新井工場拡張工事完了、1700系白帯車のデラックス化〜
8000系通勤車の増備が始まり、通勤輸送の改善が少しずつ図られていきましたが、激増する通勤輸送に対応する為には車両の増備だけでなく、設備面でも強化が必要となります。昭和35年から行われてきた西新井工場の拡張工事は昭和38年11月になってようやく完成を迎えました。おおざっぱに改善箇所を述べますと、

・在籍車両800両の修繕が可能となった
・事務所等の新造、増築、運搬作業の機械化等人に優しい工場となった
・今まで屋外で行われていた旧型車両の更新工事の屋内作業化により天候に左右されにくくなった
・4両固定編成でも入場可(2000系や8000系に対応)

等となっています。

 西新井工場の拡張工事が完成した事で、旧型車両の更新工事が加速する事となります。特に8000系新通勤車が投入された事で戦前から活躍するデッカー32型電車等の更新が行われる事になりましたが、その更新工事は全て西新井工場内で行われます。これについては後述します。

 一方、白帯車と称され、DRC登場前の東武の花形特急車両として活躍している1700系(1710系)ロマンスカー合計2両6編成12両は国鉄日光線の157系やDRCと比較すると一歩劣る車両となっていました。特にDRC登場後は冷暖房の効果が劣るという乗客からの指摘が出てきていましたし昭和38年秋の改正ではDRCと料金での差を付ける様になるほど乗客からも乗り心地に差がある車両として見られていました。そもそも1700系の冷房装置といえば前述した国鉄日光線の電化開業によって突然準急列車にれっきとした特急車両である157系を投入し東武に強烈な攻勢を仕掛けてきたのがおおいに影響しており、東武鉄道側は急遽1700系の冷房改造に踏み切ったという事もあり、冷房車両として製造されなかった事が影響してしまい車体の構造上、熱効率がDRCに比べ悪いという事が明るみに出てしまったのです。

 これの対策としてはもはや客室を改造しなければならないという結論に達し、1700系の改造が行われました。先に言ってしまうと周知の通り白帯車はDRCと同じ車体・内装になり白帯車ではなくDRCと呼ばれる車両に変貌することになりますが、この時点での改造はあくまで外観は白帯車のままであり、客室窓のペアガラスと固定化、間仕切りの新設とマジックドア化、断熱材の更新、クーラーの移設・ヒーターの増強等、DRCに準じた内装に改造となりますがそれでも快適性は大分向上したと言えるのではないでしょうか。

 この様に東武は西新井工場の拡張の恩恵によりますます車体の更新工事等が活発に行われる事になっていき、新車の新造と平行して旧型車両を新車同様にもっていく工事が多々行われる様になりました。これによって東武鉄道の輸送の近代化はますます加速していく事になります。


〜日光線の観光輸送を改善すべく新・快速用車両6000系登場〜
6000系現役時代
▲6000系とは6050系の更新前の姿の車両であり6050系更新完了と共に姿を消した形式です。
ご覧の様に8000系の前面スタイルを踏襲した2扉ボックス座席の快適な長距離輸送車両として誕生しています。
貴重な6000系の原型車体6000系サイド

▲6050系更新の際に古い車体は一部は買い取られ保存されています。
(あんまり人様のお家を写すのは宜しくないでしょうが…)

 東武日光線と言えば昭和39年当時でも今と変わらず観光輸送に特化した路線であり、DRCや白帯の特急車両、青帯急行車両等が走る華やかな路線でありました。しかし一般車両に目を向けると戦前…すなわち日光線をはじめとした東武鉄道で全線電化が推進された時に製造された32型電車がメインでした。流石に特急車両たちとの格差が激しすぎると利用客からの新しい車両の要望も強く、冬場には雪も降る急こう配が続く山岳区間も走る事から全く新しい専用の車両が投入される事となりました。それが6000系電車です。その6000系電車が昭和39年春のダイヤ改正からの就役に伴い2両固定7編成14両が製造されました。(竣工日は全て昭和39年3月10日で、新栃木電車区へ配属となります)

 この列車の特徴を上げますと、

1.浅草⇔東武日光を新たな快速列車として2時間以内で走れる事(32型の普通車だと約3時間、準快速でも2時間30分以上掛かりました)

2.座席をクロスシートとした事(座席はリクライニングは無い固定4人掛けボックス座席、車端のみレール方向のシートとなっている)。長距離輸送に配慮し、車端部に1か所トイレを設置(垂れ流し)。

3.編成は1両20m長の2両固定で1M1Tの組成。

4.制動方式をHSC-Dとした。これは応答性がよく扱いやすい電磁直通ブレーキであり急こう配、降雪時でも安定した制動力を得られる発電制動併用とし、更に抑速ブレーキを備え32型に比べ安全性が格段に向上し、それにより速度を上げて走行する事が可能となった。

5.行き先方向幕装置を東武鉄道初(当時特許出願)の自動巻き取り式とし、上り側の運転台で操作が可能でこれにより2両編成6か所が同時に操作出来る装置を設けた。これは途中での増解結運転によって車両によって行先が変わる為に誤乗防止の為に設置された。(1両辺り前面と側面2か所の3か所で車内には設置されていません)

6.外観はツートンカラーでマルーンとベージュで1700系や5700系と同じ色調とした事。内装についても同様にサーバスアイボリーの壁にコロラドオレンジの腰掛モケットとDRCや8000系と同様の色・仕上げとしている。また座席のすわり心地の良さは一級品です。

 上の写真で雰囲気を少しでも感じて頂ければいいのですが、基本的には8000系を2扉の車両とした様な車両となっています。扉は片開き1,000mm幅となっています。一般車両としては当時の水準とすればきわめて豪華な仕様とはなっていますが、時代が時代なだけに冷房装置は設けられておらず、扇風機の設置と暖房用のヒーターが腰掛け下に設置されていますが、クロスシート部とロングシート部で2種類の性能の物が配置されています。

 走行装置については前章でもちょこっと触れてますが、8000系で採用されたTM63型主電動機と同じ物が採用されています。
 8000系と違うのは高速走行に配慮し弱め界磁率を20%の限界まで強化している事です。更に台車も似てる様で変更点があります。
 8000系と同様のミンデンドイツ式の空気バネ台車となっていますが、6000系の台車には軸バネにオイルダンパーが設置され上下振動の抑制を図っています。高速走行を考えてか8000系以上に乗り心地に配慮した台車となっています。
 また電動車が発電制動車となっているのでシングルブレーキシュー、付随車側は8000系と同じ抱き合わせ式ブレーキシューとなっています。日光線では最大で25‰の長い連続勾配運転がある為発電制動(抑速制動対応)を装備していますが、1Mのみなのでフルに発電制動をしても空気ブレーキのサポートも必要という考えに基づき、高摩擦係数の合成制輪子が採用されています。

 制御装置は発電制動に対応のものとなっているのでMMC-HTB10Dという制御装置が新たに開発されました。これはTM63電動機8個を制御しなおかつバーニア制御である8000系のVMC-HT−20Aよりも大型となっていますが、この新開発の制御装置1台で4個のTM63電動機を制御しておりかつバーニア制御ではありませんが8000系の制御装置より大型化となっています。発電制動が含まれるとどれだけ回路が複雑になるかという事です。
 また制御の特徴として直並列制御をおこなわずに直列制御と弱め界磁制御のみで速度制御をする永久直列制御を採用しています。これによって1Mながら8000系と同じTM63型電動機が採用出来た事と比較的制御装置の構成を簡素にしようと細心が払われています。
 直並列制御がないので、8000系と違って直並列の渡りがなく滑らかな加速が行われています。バーニア制御を採用していないので始動直後の抵抗短絡時のカックン感が若干感じられはしますが、あまり気になるレベルではないです。
 総合するとバーニア制御の8000系よりも乗り心地が良いのではと感じるほど。
 直並列制御を省略する理由としては一番はTM63主電動機を採用する為ですが、他にも1M4個モーターのみで発電ブレーキを常にフルに使うこの車両の特性から過電圧に対する対策(直並列制御にすると主電動機への電圧が高まる為)と、通過駅の多い快速として運行する為頻繁に停車はしないので直並列制御を採用しても電気料節約がわずか1.6%に過ぎない事も理由となっているとの事です。

 以上が東武6000系の概要となっています。


〜昭和39年5月31日 本線・野田線ダイヤ改正〜
<6000系快速の誕生・野田線輸送改善>
6000系快速運行開始
▲浅草駅2番線で出発を待つ6000系快速東武日光・鬼怒川公園行きです。
DRC増備で勢いに乗る日光線観光輸送が更に快適で便利になる時代がやってきました。

 昭和39年5月31日、本線全線、野田線でダイヤ改正が行われました。おおまかな概要としては、

1.6000系車両就役により準快速より上位種別となる快速が設定されました。それまでの快速は通勤快速として分別されます(種別表示は快速のままですが)。

2.日光線北鹿沼〜板荷間複線復旧に伴う特急・急行の速度アップ

3.野田線柏口の10分間隔運転の実施(豊四季方限定で従来は15分間隔でした)

4.荷物電車の新設、増設(一般車両と混同していたものを分離するという動き)

 快速列車は浅草を出て、北千住・春日部・杉戸・新大平下・栃木・新栃木・新鹿沼・下今市の8駅に停車し以北が各駅停車の俊足列車で浅草〜日光を最速114分の2時間以内で結ぶ種別となります。準快速が新大平下以北各駅停車であるのと比較すると俊足っぷりがまるで異なりこれによって特急や急行に乗れない人でも日光・鬼怒川へ気軽に行ける様になったのです。

 運転の頻度としては浅草から日光・鬼怒川へそれぞれで2往復ずつ合計4往復が設定されました。流石に6000系が7編成のみなので多くの快速の設定は出来ませんが非常に便利な列車が誕生しました。2023年現在で言うとスペーシアXを2編成使い1日4往復するのと似たようなイメージです。6000系はあわせて日光線系統の普通列車にも使用される事となりますが、快速列車の時間によって通過が発生する時間帯にはこれらの駅の利用客の補てん用の普通列車も設定されています。
 ちなみに6000系快速は一部座席指定が設定されました。指定料金は追加70円で急行券が100円と考えると急行よりちょっとだけ安いのですが、実は急行車両(青帯車)より乗り心地が良い電車ですし性能も良いのでまぁ妥当なのかな…?

 野田線については昭和30年初めに策定された野田線輸送力増強10か年計画で目標に掲げていた柏口の10分ヘッド運転がついに実現する事となりました。

 初石〜六実にタブレット閉塞から単線自動閉塞化による運転性向上と32型電車追加配置(6000系配置により新栃木電車区からの転属)によりラッシュ時の輸送力は従来より50%も増強されました。これによって柏口(豊四季方)の10分ヘッド運転、柏〜六実間での20分間隔運転が開始されました。(六実〜船橋は昭和37年に10分ヘッド化済み)

 車両増加に際しては野田電車区(野田市)の容量が限界にきている事もあり、六実に留置線を1本増設したほか、岩槻と川間に車両を留置する事で対応となりました。
 野田線野田電車区も本線西新井電車区同様に容量が限界にきており、こちらも将来の車両増加が既に見えていた状態で新たな電車区の設置が画策される様になりますが、もうしばらく先の話となります。

 野田線輸送の主力となっている32型電車ですが、戦前製の17m級で乗降口が1両に2か所(の両側)のみと増えれば有難い存在ではあれどなかなか扱いにくい車両であるのが実情です。そして更に頭を悩ませるのが戦前設計な為か、新たな電気配線がスペースなどの問題で困難な為に放送装置や扇風機ですら設置出来ないという点が悩みの種でした。
 という訳でこの32型電車を抜本的に改善する更新工事が西新井工場にて開始されようとしていたのがこの頃となります。
 野田線の輸送量増強は新型車両投入を回す余裕がないので既存車両を改造するという方針となります。


〜1964東京オリンピック開催と営団日比谷線の全通〜

 2020年に東京でオリンピックが開催されるはずだったのが新型コロナの影響で2021年に延期となったのが記憶に新しい2回目の東京オリンピックでしたが、改めて1964年の初代東京オリンピックとはどういうものだったんだろうと調べてみると、意外な事に本来は1940年に東京でオリンピックが開催される予定だったという事を知りました。
 中止の理由は年数を見てお気づきでしょうが、第二次世界大戦に差し掛かる時期という事でナチスドイツらと共に枢軸国側として戦争国家へ道を歩んでいた日本は国民もオリンピックの開催に反対をとなえ、結局中止となったようです。それから20年以上が経過した1964年に1940年大会の開催権を返上した日本がアジア初、そして有色人種国家における史上初のオリンピックの開催を実現する事となりました。(これらは1940年開催予定時から言われていた事で、まさに20年越しの夢実現となったと言えます。)

 さて1964東京オリンピックが開催された当時の状況はどうだったか振り返ってみますと、1964年10月10日の五輪開会が近づくに連れ、(この年10月1日東海道新幹線が開業)、海外から日本に来る外国人観光客が増え、国際的な観光地、日光への輸送を担う東武鉄道では特に土日の特急列車の予約が例年の輸送力の2倍まで跳ね上がるというとてつもない大フィーバーとなりました。オリンピック開会直前の9月30日にはドイツと旧ソ連の選手団等が特急列車を利用したそうです。また快速列車を2往復増発したそうです(6000系の編成数は7本のままなので6000系以外の53・58型などのクロスシート車を活用して増発したと思われます)。

 そして東海道新幹線、東京モノレールの開業に先立ち東武伊勢崎線と相互乗り入れをしている営団日比谷線の延伸工事もオリンピック直前となり更に急ピッチで進められ、3月25日には当東武直通側としては終点だった東銀座より中目黒側の霞ヶ関〜恵比寿間が部分開通し、7月22日には恵比寿〜中目黒が開通し、東急線側とつながっています。銀座総合駅や日比谷付近の建設が難工事になり最後まで残ったのが東銀座と霞ヶ関間となりました。これらがついに完成し全通開業日が1964年8月末に決まり、東武は39年6月に2000系電車を20両増備しました。これは運用されていた4両固定10編成を全編成6両化する為に中間車を増備したものです。既に輸送力不足が顕著となっていた日比谷線直通電車の増結が果たされ万全の体制で日比谷線全通を迎える事となりました。

〜昭和39年8月26日 本線ダイヤ改正(日比谷線全通による地下鉄直通車運用修正他)〜

 こうして1964年8月29日、営団日比谷線が全通開業し、東急東横線も相互直通に加わる事となりました。これに先だった8月26日に東武はダイヤ改正を実施しています。

【地下鉄直通】
改めて日比谷線直通開始時からの変遷をおさらいしますが、
昭和37年5月31日 相互直通開始時ダイヤ
日比谷線内ラッシュ時4分間隔 平常時5分間隔で東武直通は3本に1本の割合の為ラッシュ時12分間隔 日中15分間隔で運行。
昭和38年2月23日 東銀座延長ダイヤ改正
東武からの旅客の増加が凄まじい為朝ラッシュ時の直通割合を2本に1本に増やしラッシュ時の直通を8分間隔に増発。

 そして今回の全通ダイヤとなる訳ですが、今回からは日比谷線と東急東横線の相互直通運転も開始される為東急側も含めたダイヤに修正されています。
・ラッシュ時の運行を4分間隔→3分間隔、日中時間帯が5分間隔→4分間隔に増発。
・東急、東武共に直通は3本に1本の割合とする。東武側との相互直通はそれまで2本に1本の割合でしたがこれが減る事となりました。(ラッシュ時は8分間隔から9分間隔と減り、一方日中は15分間隔から12分間隔へ増発)
→6月26日の段階で地下鉄直通車は全編成6両固定になっていたので従前に比べたら輸送力増強とはなっていましたが…

【地上車】
・大袋〜杉戸 昼間のローカル列車20分間に増発(※従来は北越谷以北は日中30分に1本の運転だったそうです。少ない!)
→当時は草加松原団地の入居完了が落ち着いたかと思いきや今度は武里団地という新たなマンモス団地の入居も控えており北越谷以北の沿線開発も活発でした。
・当年9月にDRC1編成(1751F)の増備が予定されていたのでそれに対応したダイヤに改定。(東京オリンピック直前で外国人観光客輸送力増強が急務になっていた頃でした)
・休日ダイヤの設定。今までは平日も休日もそんなに利用に差が無かったらしいが、日比谷線開業の影響もあり、平日・休日での差が出てきた事と、乗り入れ先の営団と東急では休日ダイヤがあった為に設定される事となりました。どれくらい差があったかはわかりませんが・・・

 休日ダイヤについてですが当時の土曜日は平日と同じですのでご注意を。あくまで日曜日や祝日が休日ダイヤであり、土曜日ダイヤが設定されるのはしばらく後の事となります…。

 こうしてついに日比谷線は東銀座から都心を西に貫いて、中目黒まで到達し、更に利便性は増す事となりました。なお日比谷線と並行して建設が進められていた都営地下鉄線(都営1号線、現浅草線)は新橋までの開業はしておりましたが、軟弱地盤に悩まされ建設が進まずオリンピック開会前の全通は不可能となり、とりあえず新橋〜大門(東京モノレールのある浜松町駅接続)を単線限定で10月1日に開業させ、オリンピック期間中は工事を休工とする事となりました。

〜待望の32型電車更新車登場〜

元32型モハ3204号のモハ3505号保存車
群馬県前橋市の幼稚園に保存されているモハ3505号。元は32型電車と呼ばれた旧型車両の更新後の姿です。
なおこの3505号は32系電車の代名詞とも言える戦前の東武電車、ではなく、
戦後に運輸省規格形として昭和22年に製造され
東武鉄道に割り当てられたモハ5300形(当時の形式)の5302号だそうです。
その後昭和27年にモハ3200・3204号となり、
昭和41年に更新され最初はモハ3571号となりましたが、昭和46年にモハ3505号に改番されました。

 8000系電車の増備が進むも、広大な路線を持つ東武鉄道では、新車を増備してもそれは純増する乗客への対応とした増発分として使う以上、輸送力を維持する為には現存する車両も使い続けなければいけない状態なのは明白でした。しかし現存する旧型車両と言えば、戦前から活躍する車両や戦後の物資が不足する時代に製造された車両等であり、車体の長さが短く、片開きの扉が1両辺りわずか4個しか付いていないのがほとんどであり旅客の流動性が悪い為にラッシュ時の遅延は増大し、更に電動発電機等の性能不足やギリギリの設計が災いし、照明は暗く、放送機器の設置不可、扇風機の設置すら出来ない。と言ったように性能面の低さ以上に接客面の悪さが際立っていました。

 これに対応すべく拡張工事が完了した西新井工場内(津覇車輛施工)にて旧型車両の更新が開始され、新3500系更新車のモハ3500+クハ3600の2両固定編成が昭和39年12月についに竣工となり、業平橋でお披露目されました。この更新車両の特徴は新型車両として出たばかりの8000系電車と日比谷線直通用の車両として製造された2000系電車をミックスした様な新しい車体(要は8000系の20m4扉車を18m3扉車にした感じ)に乗せ替えられ、床下の主要機器は極力そのまま流用する事で改造費用を削減しつつ、近代的な車両に生まれ変わらせる事が出来ました。旧型車両と今回の更新車両の単純な比較は下の表を参照して頂ければ良いのですが、大きく変わったのは改造前よりも車体が若干ですが大きくなり収容数が増えた事、扉が両開き片側3扉の両側で6扉になった事で旅客の流動性が大きく改善された事です。これは非常に大きいです。

 モハ3500形は32型電車の他に上述した通り、戦後の運輸省規格車であるモハ5300形が種車となっていますが、クハ3600形、後に誕生する中間サハ3600形については32系以外に旧総武鉄道(野田線)からの転入車である車両だったり、大正時代に誕生した客車が元となった車両等様々な車両が含まれ、クハ220・230・240・250・290・400・410・420・450・470・550といった様々な形式から生まれています。これだけバラエティに富んでいると、床下の仕様も1両ごとに異なるといった有様で、番号の付け方も当初は末尾が台車の仕様等で決められていた為にペアを組んでいても末尾の番号が異なってしまいわかりにくい番号となってしまった模様です。

 こうして新しく誕生した3500系電車ですが、車体は完全に新しくなりつつも台車や制御装置は更新前の物を流用していますが、懸案事項となっていた客室設備の改良に伴い電動発電機については新しい物が設置され、これにより扇風機の取付、室内照明は白熱灯から蛍光灯に更新され、新しい車体に乗せ替えた事もあって雰囲気は一新されたと言って良いでしょう。

 また新型通勤車8000系の製造と平行して社内の西新井工場で旧型車両の更新工事も開始される事で、東武鉄道の通勤輸送はますます改善されてゆく事となります。32型電車終了後は54型電車等にも更新工事が及んでいきますが、それは後述します。


32系電車更新に伴う新旧比較(参考:交通東武より)
車両別旧型車両モハ旧型車両クハ更新モハ3500形更新クハ3600形
定員112名116名140名140名
自重40.2t29t37t28t
外形寸法長さ:16,582mm長さ:18,000mm
幅:2,740mm幅:2,850mm
高さ:4,080mm高さ:3,729mm高さ:4,200mm高さ:3,860mm
出入り口片開き4箇所両開き6箇所
室内電灯白熱灯20個蛍光灯12個
室内照度約30ルクス(※)約80〜100ルクス
扇風機なし5個取付
放送装置取付不可取付
便所一部車両有りなし
郵便室、荷物室一部車両有りなし
※どれくらい暗いかと言うと、倉庫とか非常階段の明るさ。


〜伊勢崎線に続き、東上線にも都心直通の動き
都営6号線の6000形車両。その後秩父鉄道や熊本電鉄に譲渡された車両が現在も活躍している。
↑都営6号線の新車であった6000形電車は相互直通に向けて東武鉄道の仕様を取り入れて製造されました。しかし、ご存知の通り都営6号線は東武鉄道との相互直通運転は行われず、ただその面影だけが残る事となりました。(画像は秩父鉄道に譲渡された都営6000形で秩父鉄道5000系です)

 東武本線側では昭和37年に営団日比谷線との相互直通運転が開始されていましたが、一方東上線側でも抜本的な輸送改善の施策として、地下鉄との相互乗り入れによる都心への直通運転が模索されていました。前々章辺りで東京の地下鉄の動きに付いてはいくらか触れましたが東上線の動きを再度見直してみますと、昭和37年8月8日に都市高速鉄道6号線計画として、西馬込方面から五反田、田町(三田)、日比谷(有楽町)、春日町、巣鴨、大和町(読み方はやまとちょうで現在の板橋本町駅に相当するようです)を経て、志村(現・高島平)方面へ至る路線が具体化しました。

 そもそも6号線は当初5号線(現・東西線)の支線として、大手町から志村方面に分岐する路線として計画されたもので、この時点では営団地下鉄が鉄道敷設免許を所有している状態でした。東京の地下鉄は営団と都営で協力し路線網拡大を進めていく中で、都営は田町(三田)から都営1号線と平行して泉岳寺まで走り、都営1号線と同じ規格(1,435mm軌道)で建設する事で馬込に建設予定だった車庫の共有化が図れる所に魅力を感じた為に5号線支線を6号線として独立させ建設したい狙いがあった模様です。

 そして今出た大和町(やまとちょう)から6号線が途中分岐して東武東上線と上板橋へ至るルートが東上線との接続を前提に答申されたのですが、上板橋の改良は非常に難しいという東武側の判断から昭和39年1月31日に答申の一部変更が行われ、上板橋接続から代わりに6号線の終端である志村から大和町(読み方はやまとまちで現在の和光市駅)で接続して相互直通運転を実施する事となりました。東武鉄道はこの動きに伴い、昭和39年4月10日に大和町(やまとまち)〜志村間の新線建設免許申請を提出し、これが昭和39年12月18日付をもって運輸大臣から免許されたのです。

(右上に続く)
 なお当時の6号線相互直通計画では、大和町(※以降全てやまとまちとします)から志村が東武が建設し、志村から泉岳寺までが東京都が建設し、泉岳寺から桐ヶ谷(池上線戸越銀座付近)を東急が建設し、大和町から東武東上線側は川越市へ、桐ヶ谷から東急池上線側はそこから旗の台を経由し、田園都市線(現大井町線)を経て長津田まで相互直通を行うという結構壮大な相互直通運転計画となりました。

 こうして6号線は日比谷線の3号線計画に続いての地下鉄と東武・東急との相互直通運転という事で車両規格の統一と都営が1号線と併用を計画していた1435mm軌道から1067mm軌道への変更という形で落ち着く事となりました。これによって馬込に新たに建設予定だった基地は1号線専用となり6号線専用の基地は高島平に建設される事となりました。この様に三田から1号線と6号線が平行して走るというのが当初の計画だったのです。(なんか一見無駄というか過剰設備な感じにも思えますが…)

 ちなみに東武と東急は日比谷線に続き直通運転に関係する間柄となった事で、東武東急協力体制というのが取られました。相互直通運転の件以外だと根津社長が東急の取締役に、五島社長が東武の取締役にそれぞれ就任したり池袋西口にあった東横百貨店ビルの賃借権を東武百貨店で譲り受けたりなんて事になったそうな。

 一方で都営と東急側ですが、1号線と6号線の併走計画が早速問題を引き起こしました。東急は泉岳寺から桐ヶ谷までの建設を請け負う事となったのですが、建設費用の捻出の面で余裕が無かったので早期の着工に対して及び腰だった一方で都営側は1号線の延伸工事を進め、京浜急行との相互直通運転を早急に開始しなければいけないという動きの違いが出ました。(当時の都営1号線は上述してますが、押上〜大門まで開業しており、大門〜三田〜泉岳寺間は建設途中でした)

 これでだいぶ都営と東急側でもめたみたいですが、結局緊急性の高い1号線の延伸工事が先に着工され、田町(三田)〜桐ヶ谷から先の建設は白紙となりました。都営の担当範囲である田町〜泉岳寺は建設しても良かったのではありますが、当初計画の車庫の共有さえあればこそ建設意義もあったでしょうが、泉岳寺から先の見通しがつかない以上は田町〜泉岳寺の建設は意味を成さなかったのです。都営はこのやり取りの影響で3年近くも建設が滞り、京急側との相互直通に大きな遅れが出てしまいました。(1968年になりようやく京急との相互直通開始がされる)

 一方で東武側は大和町〜志村の建設用地買収を順調に進め、1968年(昭和43年)の6号線一部区間先行開業の段階では6号線直通車両規格を制定したり、後述しますが、東武が当時開発していた新型ATSの試験結果を都営に貸与したり、また東武鉄道側でも都営で採用されてたIR(誘導無線)アンテナが8000系や2000系電車に一部取付られて試験される等、関係は良好だったと言えます。

近い将来相互乗り入れする東武鉄道との間に『6号線直通車両規格』を制定し、これに準拠して(車両を)設計した。また同東上線の現状と使用車両・運転習慣などを考慮に入れるとともに、東武鉄道側の要望を努めて取り入れた。(都営地下鉄6000形車両概要より)

 こうして東武東上線と都営6号線の相互は実現は時間の問題に思われました。しかし…
 結局ここまで準備が進んでいたにも関わらず東武と都営の相互直通も頓挫する事となりました。
 現在の視点で見てもこの相互直通運転は頓挫しても致し方なしであり、仕方なかったかなとは思いますがこの後の動きについてはちょっと時系列が飛びすぎるので昭和40年以降の動きを扱っていく後章にて説明させて頂く事とします。


〜激動の昭和40年代突入へ…〜

フライング東上号HMをつけて特急で活躍してた頃の8000系のリバイバル的な
↑就役当初は立派なHMを付けてフライング東上号として走る姿も見られました。(写真はリバイバル塗装による再現)

 とりあえずこのページでは昭和39年末までの動きを記載してみました。前回からで言えば1年〜2年程度の話だってのに大分まとめるのに苦労しました…。下手なんですね(汗)

 就役直後の8000系は4両固定編成で本線、東上線の近距離輸送や東上線の行楽優等列車として活躍していました。参考文献の中で昭和39年夏頃に撮影されたフライング東上号運用に入る8000系も記録されています。(イメージは上に貼った画像な感じです。HMの取付方も当時を再現されています。)記録を見て知ったのですが、実際のHMは急行文字となっていますが、上から白地のシールで特急と貼られて使用されていた模様です。特急のHMをシールで処理ってのが中途半端感満載ですね^^;)
 ちなみに前述の通り増結編成が出来るまでは下り方の連結幌はなかったのですが、このフライング東上のHMの取り付け金具って幌がないと付けられないのでは?と感じるかもしれません。実際は幌無しでもHMを引っ掛ける横金具が取り付け可能になっていました。(実際に画像記録で確認しています)

 いよいよ次から更なる激動待ち受ける昭和40年代に突入します。東武鉄道で言えば激増する通勤・通学輸送への対処、8000系は更なる増備が進む中で、大事故による事故廃車発生…(代替新造したので廃車カウントされてないですが)などなど。ヤバイ、これ本当いつ終わるんだ…。



2016年03月06日編集完了(まぁいじりだしたの2014年頃なんですが・・・)
2023年08月18日再編集
(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。)
●鉄道ジャーナル(鉄道ジャーナル社)
・1976年10月号 通巻116号 特集鉄道のサービスを考える 主力電車のサービスを採点する<2部>通勤車両編

●鉄道ピクトリアル(株式会社電気車研究会)
・1972年 3月臨時増刊号 通巻263 東武鉄道特集より
・1990年 12月臨時増刊号 通巻537号 特集 東武鉄道 東武鉄道車両履歴資料集より
●電氣車の科学(株式会社電気車研究会)
1963年12月号 通巻188号
・東武鉄道8000系新通勤車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長)
1964年6月号 通巻194号
・東武鉄道6000形電車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長)
19??年?月号 通巻???号
・都営地下鉄6号線用6000形車両の概要(前・後編) (吉田 崇氏/東京都交通局電車部 高速運転課長)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
・東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行) ●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧調査
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)
●ヤマケイ私鉄ハンドブック3(山と渓谷社)(昭和57年2月発行) 東武

※文中の写真は特記を除き、全て筆者が撮影したものです。(ほとんどないですが)




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