5年足らずで264両まで増えてきましたね…。現代だと残る8000系が200両程度と思うと増えるのあっという間だなぁと感じますね。 昭和43年11月1日より、TSP-ATSの使用範囲が拡大し本線は新栃木〜東武日光、東上線は志木〜川越市までが使用開始となりました。これによって本線は浅草〜東武日光まで、東上線は池袋〜川越市がATS対応範囲となりました。この頃になると、車上装置については特急・急行・快速と8000系全車両が取り付け完了となり、残るは旧型車両となりました。今後昭和44年3月を目標に、本線では亀戸・大師線と伊勢崎線の杉戸〜館林と東上線では川越市〜東松山までの工事を進める事となっていました。(これらも昭和44年4月1日には使用開始)また昭和44年末までには旧型車両を含めた車両への車上装置取付に伴い更に範囲は拡大されていきます。 次に昭和44年の新型車両については総勢96両(本線68両、東上線28両)が発注される事となりました。 やたら本線側が多いのが気になりますが、その内訳については、今までとまた一味違い優等列車が数多く含まれているのが特筆されました。 1.DRC1編成6両(この頃既に通常期と繁忙期の輸送量の差が顕著な為、DRC4編成と白帯車だけでは需要に対応出来なくなっていた為) 2.伊勢崎線新急行1800型車・4両固定編成6編成24両。(国鉄両毛線の電化や東北線急行列車増発も相まって利用客の減少によるテコ入れの為) →伊勢崎線急行については、それまでの53・57型急行を1800型に置き換えつつ、更に1運用増発に対応。 3.本線8000系26両(増発・車種変更により旧型車6両を野田線へ玉突き転用)、地下鉄2000系12両(直通運用増発用) 4.東上線8000系28両(8両編成化拡大、車種の大型車両化、旧型車両8両をねん出し野田線へ転用) ついに伊勢崎線の急行に専用の新型車両が誕生する事となりました。既にこの時点で形式は1700、1720系に続く1800系と決められていました。 DRC1編成については昭和44年度に入る前の昭和44年3月21日より運転を開始し、この時日光線特急系統に大きな変化が出ました。それは特急の愛称が統一された事です。それまではけごん(華厳)、きぬ(鬼怒)に加え、たかはら、さち、ようめい、おじか、かわじ、きりふり 等々となっていました。そこに急行の愛称も混ざっていたのですが、これをこの時下記に統一しています。定期列車のみで臨時列車については別途愛称が用意されていくのはそれまでと変わらずですね。
またこのDRC5編成目の運転開始と同時に、東武カントリークラブおもちゃのまちゴルフ場の利用客の足として、3月21日〜6月8日までの休日毎に8000系4両編成による臨時快速列車が運転されたそうです。 宇都宮線国谷18:34→新栃木19:00の時刻で栃木・春日部・北千住に停車し、終点浅草には20:28着という列車でした。 <伊勢崎急行に1800系就役(9月)、太田以北ホーム延伸により伊勢崎線準急分割運転の消滅> 1年前に大きなダイヤ改正が行われたばかりの本線ですが、半年に1回ダイヤ改正しなくなっただけマシであり、1年おきなら毎年大きなダイヤ改正になりますが、今回のダイヤ改正も大がかりなものとなっています。という訳でこのダイヤ改正を行う為にどんな設備投資が行われたかをまとめていきます。 昭和のこの時代設備投資、新車投入、車両配置転換は絶え間なく行われており、その都度ダイヤ改正を行っていては現場の窮状に応えるが出来ない為、ダイヤ改正はまとめて行うが新ダイヤは更に段階的に行われる設備改良に対応したものとなっている点…が特筆されます。ダイヤ改正が行われたのは昭和44年8月1日でありますが、 1.伊勢崎線急行列車の新型化 9月20日 2.新造通勤電車2次増備による車両増結 11月1日 3.野田線新駅(東岩槻駅)設置に伴う改正 12月1日 とこれら3点の変化点が控えていた事を考慮したダイヤ改正となっています。(まぁ1.の場合は車両は劇的に新しくなるけど運転速度はそのままとなってます。足慣らしですね。) 順番が逆転しましたが、設備投資についてまとめていきますと、 4.新造車両56両の投入: ●8月改正時点:2000系12両(2117F、2118F)、8000系18両(8145F,8146F,8147F,8148F,8550F)+東上線8000系投入に伴う3500系2両と52型6両の計8両野田線へ転用 ●9月20日予定:伊勢崎線急行24両投入 ●11月予定:8000系8両(8555F,8556F,8557F,8558F)投入(午前混雑4運用増結用) 5.野田線七里〜岩槻複線化。 6.単線自動化(足利市〜太田、および太田〜細谷・三枚橋・竜舞の各区間) 7.ホーム延伸(伊勢崎線細谷〜伊勢崎) ※6両編成に対応。 8.下今市、東武日光信号機増設。 9.西新井、太田構内改良。 これによって変更された内容が、 1.朝ラッシュ時の北千住口において日比谷線直通運用1運用増発。(1本は特発予備用)また地上車も1運用増発。 2.北千住口において53型の運用2本を78型に置き換え、また新栃木電車区に一部78型を配置転換し車両の大型化を図る。これにより準急列車は全て大型20m4扉車両となった。 2.準急使用全列車の大型化に伴う運転速度の改定。(54型、32型の運転速度の廃止による平均速度の若干アップ) 3.昼間時の伊勢崎線準急列車の増発(それまで1時間あたり2本だったのを4本に倍増) →太田へのローカル列車の準急化と浅草⇔羽生準急の新設。 日中は日光・宇都宮線準急東武宇都宮行きを含めた1時間4本体制となり、S63(1988)年改正までこの体制が続く事になります。 4.伊勢崎線準急の佐野線・桐生線への併合分割列車の廃止と全列車の太田・伊勢崎への直通運転開始。 →太田〜伊勢崎のホーム延伸(6両編成対応)に伴いそれまで館林や太田で行っていた準急列車の分割併合を取りやめ、全列車太田・伊勢崎へ直通となりました。 この改正によって準急伊勢崎・赤城行きの多層建て列車が消滅し、太田で分割した8000系らの桐生線乗り入れが一旦無くなった模様。 他にも通勤快速も分割消滅により伊勢崎・赤城行き桐生線直通、伊勢崎・葛生行きの佐野線直通も消滅したと予想します。 5.西新井工場入替ルートの変更(西新井駅構内改良に伴い上り方からの入線が不可となったので一旦北千住や鐘ヶ淵まで回送してから折り返し入場するルートに変更。 →この方式は複々線化された後も同様に不可だった為に平成時代まで続いてますね。 6.野田線大宮口、柏口、船橋口において増発が行われた。(特に一部複線化完成に伴い大宮口は朝ラッシュ時2運用増設、春日部口も1運用増設に伴い12分ヘッド化となった) →大宮口の運用増や柏口、船橋口において3500系更新車運用の増により、春日部区から出庫し野田線ラッシュ時に救済的に運用されていた78型の野田線運用が終了となりました。 細かい所では伊勢崎線の通勤快速の一部が準急化する事で運転間隔の平準化が行われたり、伊勢崎始発の通勤快速については太田までを各駅停車扱いとしたりといった変更があったそうです。元のダイヤをよく知らないからあまり実感はありませんが… で、9月20日になりついに1800系新急行列車が就役しました。最初の運行区間は浅草⇔赤城8往復、浅草⇔葛生1往復の計9往復となっています。これによりそれまで伊勢崎線の急行運用に就いていた、53型・57型の青帯急行達はその座から降り、53型は一般車に改造され、57型は日光線多客時臨時列車として運用される事となりました。 57型についてはかの有名な(?)野田線大宮始発の日光方面急行としてこの年の秋から使われる事となりました。(ある意味黒歴史な大宮行きスカイツリートレインなど基本空気輸送として失敗していますが、東武さんは今もリバティで野田線有料列車の夢(?)を繋ぎ続けています。1800系投入によってその歴史は始まったのです。) 野田線の大宮急行誕生後の12月1日野田線は予定通り東岩槻駅開業に伴うダイヤ改正が行われ、東岩槻での行き違いを考慮したダイヤに改良されています。行き違いを効率よく行う事で全体的な所要時間短縮をはかりました。 この時に昼間時間帯の大宮駅は10分ヘッドのダイヤとなり、00、20、40発がそれぞれ柏行きか船橋行きとなり、10、30、50発が岩槻行きという整ったパターンダイヤに改善されたそうです。 また七光台区の3500系は86両にまで増え、全28運用中19運用を3500系更新車指定のダイヤとし最大本数が増やせない柏口、船橋口に優先的に配置する事で混雑緩和をはかりました。まさに3500系は野田線の救世主となっていた訳です。 最後に昭和44(1969)年12月時点での所属車両について振り返ってみます。この頃には電車総数が1000両を超えました。
昭和44年12月9日8:15分過ぎ。通勤ラッシュ時にその事故は発生しました。伊勢崎線館林〜多々良の309号踏切(警報付踏切)において、警報を無視し踏切内に入った大型クレーン車と伊勢崎発の浅草行き準急列車(8139F以下6両、列車番号は不明)が衝突、圧倒的に重い大型クレーン車に衝突したクハ8139は車体前面部大破し車体も“く”の字に曲がり脱線転覆。(2両目以降も脱線)電車の運転士1名と乗客の17歳の女子高校生の方1名が亡くなり、電車外では踏切待ちしていた自動車のドライバー3名と事故を起こした大型クレーン車の運転手と添乗者の2名の計5名が事故に巻き込まれ、合計7名もの命が失われました。電車側よりも車側にこれだけの被害が出た事が事故の凄まじさを物語ります。 とまぁここまでの情報は一般的によく知られている情報かと思います。これはよく聞かれるダンプによる無謀な踏切事故とはちょっと違うという点は触れておきたいですね。ちょうど昨年末にも京急にて似たような踏切事故が発生し、私個人としてはこの事故の事も思い出したものですが、痛ましい踏切事故は忘れない様に…という意味でもう少し踏み込んでいきたいと思います。 大型クレーン車は当時で1台6000万円もする高価な車両であり、運送会社も扱いは慎重になります。そして会社は信頼のおける無事故・無違反・経験豊富の優秀なドライバーに運転を任せました。まして添乗者も付けてこの方も同様に、無事故・無違反・経験豊富な優秀なドライバーでした。絶対に事故を起こしてはいけない車両だからこそ万全の体制を整えたのにも関わらず、事故を起こしてしまったどころか考えうる最悪の事故をも超えた事件に繋がってしまったのです…。しかし事故を超えた災害、事件というのは偶然起こるものでもなく、様々な要因が重なって起こるものです。 この事故を起こした大型クレーン車が時代も異なるのでどこまでのサイズだったかは不明ですが、公道を最高20km/hでしか走れなかったようです。この日9:00までに渡良瀬川に掛かる橋の工事現場で使う為に、当日午前2:00過ぎに会社を出発するという行程でした。自転車と同じ様な速度しか走れない車両を真夜中から6時間以上走らせていく…という所は特殊だったと思います。しかし当然時間に余裕を持たせた行程だったと思われますし、前日は仮眠もしっかり取り体調は問題無かった…というのは事故を起こした運送会社社長も自ら確認してました。事故現場到着が8:15過ぎで渡良瀬川に9:00までとなると、足が遅いのを考えると近い様で余裕は無かったと感じます。そしてこの309号踏切は決して広い踏切じゃなかった上に四方から道路が交わるという位置にあり、通勤時間帯は普通自動車でも混雑していたと考えられます。 事故で起きた踏切で大型クレーンの添乗者の方に誘導されたという証言もあり、考えられるのは時間に焦りがあった為になかなか踏切に入れない大型クレーンは添乗者の方が降りて、踏切を渡れる様に他の車の誘導を行いました。そして隙を見て、踏切に入れと合図を出し、踏切に大型クレーンが進入していきますが、ここでやはり交差する道路から来る自動車と鉢合わせになり身動きが取れなくなってしまい同時に踏切は鳴動…また車両の特性上最高速度が遅いという事から急加速、急発進も出来ずに抜け出せずにやってきた準急と衝突…と考えられます。ちなみに電車側は非常制動をどのタイミングで掛けたか不明ですが、見通しはそんなによく無い場所だったんでしょうか…。 とにもかくにも事故は起きてしまい、7名が死亡100名以上が怪我を負う大惨事となってしまいました。 館林事故直後にも一悶着が起こりました。館林電車区を中心とした電車運転士達による踏切徐行闘争が発生したのです。『乗務員と乗客の安全が確保されるまでいつでも踏切停車出来る体制(徐行運転)を取る。』というものでした。この闘争は次第に組合内で広がりを見せ、元から事故が多発していた伊勢崎線、日光線だけでなく東上本線側にまで及び、このストの影響により12月17日には最大63分の遅れと63本もの運休が発生した…との事です。 組合と会社側の団体交渉がようやく行われたのは12月20日となり、昭和45年度末までに無人踏切と警報機付き踏切計50か所を自動遮断機付きの第1種踏切に改造、200箇所にも及ぶ第4種踏切を警報機付き(第3種)踏切に改造するという対策を示し、ようやく闘争は落着きを見せました。しかし闘争中には草加駅で怒った利用客が駅務室になだれ込み、浅草駅では何と駅長がこれまた怒った乗客に蹴られる…と言った出来事もあったそうです。 事故で大破したクハ8139については翌45年3月にはナニワ工機にて代替新造された…ってのは有名な話というか細かい情報も余りないのですが、実はこの年の新造車から乗務員室の拡大とか今までの車両との変更が行われたのですが、クハ8139に関しては製造時期を前倒しした事もあり従来通りの仕様で落成したとの事です。また次位のモハ8239も脱線し損傷が激しかったのですが、こちらは何とか修復し再起する事が出来ました。事故を起こした309号踏切はその後道路側を立体交差化し、踏切廃止につなげています。 破損した電車4両分の修復費用、各種設備破損の修復費用、運休による収入減に加え事故に巻き込まれ死亡や怪我された方に対する補償費用等、東武鉄道が受け取る自賠責金額の差額を含め損害額は約3億5千万という膨大な額になったそうです。大変な金額であり、東武鉄道側はこれを全て事故を起こしたクレーン車の会社に請求をしました。通常ならクレーン会社ならそのまま逃げてしまうだろう…と思うかもしれませんが、事故を起こした運送会社の社長は、『これだけの事故を起こしてしまったんだから、それ相応のハラは出来ている。倒産はするが、全て支払う。』との事でした。万全の体制を取って実際に深夜2:00に事故を起こした車両の出発まで見送った当時34歳の社長は逃げませんでした。会社としてはやるべき事をやった。それでも事故は起きてしまうのか…と私も社会人でこの方とほぼ同じ年齢なだけに鉄としてではなくイチ社会人として非常に考えさせられる事故だったと感じます。ほとんど鉄道と脱線した内容ですが、車を運転する方全員にこの事故の事は忘れないで欲しいと思い長々と書き記しました。いつ自分が被害者、加害者になるかなんて誰にも分からないのです…。 悲惨な事故で昭和44(1969)年は終わりを迎え、昭和45(1970)年に突入します。昭和45年はいよいよ本線で複々線化の工事が開始される事と、東上線側では待望の新電車区の建設が進められ、大きな変化が控えていました。 昭和45年4月1日より宇都宮線と野田線の大宮〜七光台のATSが使用開始となりました。野田線については引き続き七光台〜船橋の工事が進められ、これも昭和45年10月1日使用開始となっています。東上線側では東松山〜武蔵嵐山までの設置が進められていました。なお昭和44年末までに目標としていた全車両への車上装置取付についてはこの時点でも95%となっておりこれについても引き続き進められていきますが、どうやら昭和46年頃まで掛かった模様。まぁ…設備投資が多すぎるからしょうがないですよね。 ところかわり昭和45年10月より日比谷線で全線ATO運転が開始されました。昭和45年にATO!?って驚きですが、そもそも昭和39年から初代開業区間の南千住〜人形町で既に試験運用されていたから本当驚きです。って事は東武2000系でもATO運転が行われたかというとそういう訳ではなく、営団3000系でもごく一部の編成にのみATO装置が設置され長期試験運転という形で開始されたにとどまります。まぁ時代考えたらとにかく凄いのですが。その後新型車両の置き換えが始まった頃に一旦終了となったようですが、2020年に入り、ついに日比谷線でも正式にATO運転が開始され、今度は東武電車も同様に対応しています。全く凄い時代になったもんですね… そして日比谷線はこの頃、ついにそれまでの6両編成から8両編成への増結が確定し、それに付随した工事を進めていくといった大きな変化点を迎えていました。 タイトルの通り昭和45(1970)年より東上線で平日も急行運転が開始され、しかも秩父鉄道線にも常時乗り入れるという変化が起こりました。 それまで最速…というか別にそこまで速い訳じゃないけど通過駅の多い最優等列車だった急行たまよど号が急行ちちぶ号に改称すると同時に毎休日どころか平日も毎日秩父線の終着三峰口まで乗り入れる列車が誕生しました。 また同時に従来の急行ながとろ号(期間限定で寄居止まりの急行あらかわ号)は毎休日に長瀞の一つ先の上長瀞駅まで運転する様に変更されました。 当時の停車案内イメージを見て下さい。 平日に走る急行ちちぶ号の停車駅は池袋を出ると、川越市・玉淀・寄居しか止まらないという飛ばしっぷりです。(注:速い訳ではない) 休日じゃないので高坂、武蔵嵐山を飛ばすのは分かるが、何故か東松山まで通過するのに玉淀には停車するという謎列車が誕生したのです。 どう考えても異様な列車の誕生に加え、突然の秩父への毎日直通運転開始。一体何が起こったんだ?と当時の時刻表を見た瞬間は不思議にしか思いませんでしたが、当然理由があります。 この前年の昭和44(1969)年10月14日に西武秩父線が開業し、都心から秩父が近くなる新ルートが開拓されたのです。(西武的には当時だとセメント輸送といった側面もありましたが) これには東武鉄道も焦りますし、それ以上に秩父鉄道が滅茶苦茶危機感を感じる新線開業となったのです。これが契機となり、秩父鉄道は自社線を使って貰おうと東武東上線との乗り入れの常時開始に加え、熊谷から国鉄との直通列車の運転を開始し、東上線から8000系、国鉄から115系等といった乗り入れ列車の運転が活発化する事となったのです。 その後は結局都心からの近道である西武秩父線が勝る事となったので平成に入ってからは西武電車が秩父鉄道と直通運転を行う様になったという事で、東武電車や国鉄・JRの電車が秩父線に営業運転で顔を出す事はなくなってしまいました…。(東武は早々に脱落する事になりますが、JRは2000年頃まで乗り入れがあった模様。) <朝ラッシュ時北千住口の輸送状況限界に伴う運用の抜本改善の実施> ▲昭和45年11月改正により複線での2分間隔運転ダイヤとなりました。 目に出来た資料はS48年7月改正版ですが、日比谷線直通車が全て8両化されたのと8000系8両編成運転が増えたのが違いぐらいで 本数はこんな感じでした。北千住口西新井駅の当時の詰め込みダイヤをご覧ください。 これだけ本数を詰め込んでいるので準急は北千住まで追い越しが出来ない平行ダイヤとなります。 1年前に大きなダイヤ改正が行われたばかりの本線ですが、今回も1年ぶりのダイヤ改正です。この改正では野田線は特段触れられずに本線メインの改正が行われました。 年々利用客が増え続ける日比谷線直通電車の比率を上げるべく2000系電車を更に2編成増備(2119F、2120F ついに2000系は全20編成が出揃いました。)、また同じく新型急行車両投入後に利用客が著しく増加した伊勢崎線急行の輸送改善にスポットを当てた改正となっています。 ●限界に達していた北千住口輸送改善(日比谷線直通運用の増発) この頃北千住口は既に朝ラッシュ時は複線の設備で1時間最大29本もの列車を運転し、更には特発予備列車を控えラッシュ輸送に全力を挙げていました。 それまでこの最混雑時間帯の29運用は地上運用、地下運用で分別すると地上15運用地下14運用と、地上運用の方が上回る状態となっていました。 60%以上もの乗客が北千住から日比谷線方面へ移動する為に、地下運用が少ないとなれば必然的に乗り換えが発生する各駅での混雑の悪化に拍車を掛け、特に地下鉄の始発電車が同一ホームから出る北千住は大変な状態となっていました。 また北千住だけなく、西新井、五反野、梅島といった駅の時点で乗車困難になる程の有様でありまさに輸送力は限界に達していた訳であります。 この窮地であっても本数は増やせず車両は大型化を完了しており、本線側はまだ8両運転に対応出来ていなかった事から車両運用を根本から見直す改正を迫られた訳です。 こうした状況で下記の変更が行われました。 1.それまでの朝ラッシュ時1時間辺り最大29本の列車の地上15、地下14の割合を地上13、地下17の1時間30本体制に変更・増発を実施しました。 →地下直通運用の大幅増とついにラッシュ時に限界となる1時間辺り30本運転(2分ヘッド)を行う事となりました。 2.輸送状況を見て運転されていた特発予備車の定期運用化とし常時竹ノ塚に待機する事。(もはや特発予備じゃない…) 3.最混雑時間帯に設定されていた通勤快速1本を準急化。(これにより通勤快速通過駅の本数増、混雑の均等化に役立てるもの) 4.通勤快速の北千住→浅草の各駅停車化。(従来は業平橋にのみ停車。準急の各駅停車化に続き、地上運用本数削減に伴う処置となります) 5.準急列車の車種変更(6000系→78型に変更。混雑200%超えの時代に2扉車ってもう考えただけで地獄ですよね。) 6.営団竹ノ塚検車区の配属車両増備に伴う朝ラッシュ時の営団車運用増。 →昭和46年に控えた日比谷線8両化に伴い千住検車区の拡張工事を行う為に、千住検車区所属の内7編成が竹ノ塚検車区へ転属となりました。これにより所属がそれまでの5編成から12編成と大幅に増えてこれがそのまま竹ノ塚から出庫時の東武線内の運用増に繋がるという事で、東武にとっては助け舟となりました。 意外にやればまだ出来るじゃないかって事ですが、しかし時代の荒波は容赦なく襲い掛かるもので、どれだけ輸送力を増やそうと輸送量は増えるばかり。また本数を線路容量や設備の限界まで増やすというのはちょっとの遅れですぐに破綻するという綱渡り状態となるのでした…。触れたばかりですが、日比谷線の8両化までこの状態で耐えなければいけませんでしたし、本線地上車も東上線に続き8両編成運転が迫られる事となっていきます。 ●伊勢崎線急行運用増発+その他 ・ラッシュ輸送に比べれば逼迫はしてませんが、車両運用の調整を行い、急行りょうもうの上り2運用下り1運用を増発する事となりました。 ・荷物電車については、自動車輸送が年々増加している事に伴い一部が廃止されました。11・14型の荷電の活躍の場がますます減る事となります。 こうして北千住口ラッシュ時の輸送改善をメインとした本改正は行われた訳ですが、ピーク時に地上運用車が2本減った事は少なからず乗客の混乱を引き起こす事にも繋がり、限界本数での運転も相まってラッシュ時の遅延がますます酷くなってしまったそうです。とにもかくにも輸送力が絶対的に不足しているのはいかんともしがたい状態であり、更に対策に迫られました。 ・旅客扱い要員の増員: 特に北千住駅営団A線には6両編成3つ扉の合計18扉に対し1か所辺り2名になる34名もの係員を配置。その他東武線小菅駅6名、五反野駅20名、梅島駅18名、西新井駅16名、竹ノ塚駅6名 の合計100名を配置。 ・北千住駅改札入場規制 改札口にホーム混雑状況を監視するテレビを配置し、入場規制ランプの点灯+ブザー鳴動によりホームへの入場規制を敷くもの。またこれら設備の増設と五反野駅と西新井駅にも同様の設備を設置していく。 ・特発予備列車の増発。 竹ノ塚に常時待機の特発車両を越谷駅にも待機させる事。 ・北千住上りホームの売店撤去と腰掛設備の撤去。 平成の時代はと車両から座席が消える車両も出ましたが、この時代の北千住駅はホームの腰掛、売店等上家の柱以外根こそぎ消しました。 ・北千住駅改札の乗降客分離。 今では本当に想像出来ないですが、殺人ラッシュの時代の改札は全てで人力対応でした。 ・さらなる時差通勤PR。 北千住7時30分着前、8時30分着後の列車の利用を促していきました。ただ今度はこれらの時間帯の列車も遅れだす事も想定しなければいけません。 ・指令体制の強化 指令員や信号扱い所配置員を増員し運転整理の強化と営団指令との連携強化をはかり、遅延拡大防止につとめていく事。 大体以上です。想像しただけで胸が苦しくなるほどの状態です。今の時代ではちょっと大きな遅延でもおきない限りこんなパニックにはならないでしょうが、この時代は毎日がコレでした… ちなみに地上運用削減の影響なのか春日部区から森林公園区へ昨年落成したばかりの8148Fと8558Fの6両が川越電車区へ転属したそうです(1970年8月頃)。 〜ついに東上線新電車区誕生と大改正へ〜昭和44年暮れより東上線では新電車基地の建設を進めていました。この頃になると東上線の所属車両数は321両を数え、それに対し川越電車区の留置能力はわずか68両。わずか20%の車両しか留置出来ない悲惨な状態で、止む無く各留置線他12駅の夜間停泊といった体制が取られていましたが、当然研修設備が一切ない駅に停泊となると、検査、清掃の面でも不利となります。というか20%しか留置出来ないんじゃ運用もそれだけ調整しないと頻繁に車両入替が発生したりとまともな運用が出来なかったんじゃないか…?と今さらながら不思議に感じてしまう所もあります。 それに加え、年々増え続ける人口は住む土地が埋まってしまった都心部から徐々に郊外へ膨れていきます。それは東上線で言えば東松山駅が数年前まで60分間隔だったのが20分間隔運転まで拡大した事からも明らかでした。という訳で東松山までの人口増はこの頃には既に自明の理となっていました。となれば新電車基地は東松山より北に建設するのは自然な事でした。 こうして東松山〜武蔵嵐山間に新たな電車基地が建設される事となりましたが、既に開業していた北春日部や七光台に習い、電車基地の建設と同時に駅も建設される事となりました。 ちょうど昭和42年(1967年)の明治100年記念事業として建設が進められていた国営武蔵丘陵森林公園への玄関口として森林公園駅として命名される事が確定していました。(武蔵丘陵森林公園が開園するのは昭和49年と大分先になってはしまいましたが…。 ちょっと脱線しましたが、ついに東上線念願の新電車基地は着工され、昭和45年(1970)年末には既に1期工事はほぼ完成が近付き、来る翌年昭和46年3月からの使用開始とそれに付随したダイヤ改正が計画されていました。車両の留置能力は最大550両(1期で320両)までを見込み、留置線は1期で8両編成32本256両まで可能となっており、川越電車区では無理だった8両編成電車対応の検査ピットのを3本も設置、運用される全編成が毎日洗浄、検査を行う事を前提した設備配置(検査・点検、洗浄、留置を1本で行える様な配線の工夫)であり、ピット構造は川越電車区と同様とし係員にも配慮したつくりとなっていました。 また電車基地と駅の完成に先立ち、東松山〜武蔵嵐山の単線自動化が完成し使用を開始しました。また同時期にはTSP-ATS地上設備の設置も完成していたと思われます。というかこの区間確かにローカル線区だったけどまだ自動閉塞じゃなかったんですね…。 昭和46年3月改正については昭和46年に入ってから触れたいと思いますが、列車種別も大きく変わりまさに東上線が大きく変わる直前だったと感じます。 〜苦難の時代へ〜昭和45年(1970年)は8000系の投入は控えめな24両となりました。この頃には既に鉄道・自動車部門とも、堅調な収入に対し、莫大過ぎる支出や経済成長に伴う社員の給与の増加といったとにかく支出面で苦しくなり赤字額は年々増加していくばかりでした。しかし本当に赤字を計上しても尚、莫大な投資を続けないといけないのです。 それが公共交通機関に与えられた社会的使命…とは言え、国鉄はもとより民鉄には本当に厳しい時代の幕開けとなっていました。昭和の時代の苦しみを乗り越え鉄道会社は現代の繁栄を築いたと言えます。 昭和45年度製8000系(8153F,8560F:春日部区配置 8152F,8154F,8155F,8559F,8561F,8562F:川越区配置)よりマイナーチェンジが行われました。 まず新しい不燃化構造が採用され、これは1968年に営団日比谷線にて東武2000系電車が火災により1両が全焼、1両が半焼する事故があった為です。 当時最も基準が厳しかったA-A様式の車両が全焼してしまった為に当然内容の見直しが求められ、1969年5月15日付の火災対策基準で新A-A基準・A基準・B基準が誕生したものによります。これによりそれまでMF、BF、高圧ヒューズ箱が木製だったのをフェノール樹脂積層板や繊維強化プラスチック(FRP)に変更し耐燃性を高めています。 次に乗務員の居住性向上の為に、奥行きが1,113mmだった乗務員室の運転席部分のみ400mm広げられ1,513mmとなりました。これは現在の修繕車両の1,463mmよりも50mmですが広くなっています。なお貫通路部と運転助士部についてはそのままとした為に、運転席部のみ出っ張るという構造になりました。 この時に運転席部の乗務員扉が125mm後退し、更に運転室仕切り扉が客室側に開くものから正面貫通路側へ開くものになりました。なおこれは同時期に車体更新されていく3050系更新車(旧54型)にも採用されており、こちらに関しては引退する平成8年まで見られたのでネットで探すと簡単に画像とか出てきます。 詳しい記載は無いのですが、3050系では乗務員室拡大により背面の吊り手は撤去されてるので同様だったと考えられます。
しかし8500系も気付けばあっというまに60編成超えてましたね。この時代までは身軽であり増結用として効果が大きかった2両固定の製造がどんどん進みましたが、もう既に時代は長編成化の流れは止められないので次第に2両固定編成の製造は鈍化していきます。(昭和48年度まで無し)そもそも赤字が深刻だったので車両投入自体が最少限に留めるという流れではありましたが…。 最後に毎度文章ばっかりで申し訳ないです。今まで掲載した分含め改良する予定…2020年05月編集完了 2020年7月一部改変 (今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m) 参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。) ●とれいん(株式会社エリエイ) 2011年1月号 通巻433号 →東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏) ●鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション27 東武鉄道 1970〜1980 ●鉄道ピクトリアル No:915 2016年3月号 特集東武8000系 ●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行) ●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社) ●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧 ●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング) ●サンデー毎日 1969年12月号(館林事故の記事があります。表紙は事故直後の原型を留めていない無残なクハ8139のカラー写真…) ●週刊新評 1970年8月号(館林事故後の徐行闘争について触れていました)
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