東武8000系の歴史


4−3.苦難と攻勢の昭和40年代 その3(昭和46年〜昭和49年末)

 昭和40年代もいよいよというかやっと後半に突入。こっからは記録が(比較的)少ないので一気に昭和49年終わりまで飛ばしていこうと思います。
 東上線は新電車基地完成を契機に大きく近代化され、本線も8両運転化や通勤車の冷房化そして関東私鉄初の複々線化と着実に近代化を歩んでいきます。一方で会社の経営はますます困窮を極め、東武8000系増備計画や車体色にまで影響は及ぶ事となっていきます。

〜昭和46年3月1日東上線ダイヤ改正 森林公園新電車基地使用開始〜

 昭和44年8月頃より東松山〜武蔵嵐山間で建設が進められていた東上線待望の新電車基地が完成する事となり、これの使用開始により狭すぎる川越電車区から所属車両が転属し、車両運用が大きく改善される事に合わせて東上線の大きなダイヤ改正が行われる事となりました。
 今回は車両増発だけでなく、ドーナツ化現象により郊外の人口増を見据えた遠距離利用客への配慮も強めた内容となっています。
 東上線はこの後も近代化は進みますが、やはりポイントとなるのはこの新電車基地完成の昭和46年3月改正と言えるでしょう。

1.東松山〜武蔵嵐山間に森林公園駅の完成。
2.森林公園検修区の完成と川越電車区配置だった東上線系統の所属車両を全て森林公園区配置とする。
→今回改正により電車区の名称が検修区に変更されています。(本線側の各電車区も全て検修区に変更)
3.東松山〜武蔵嵐山でTSP-ATS使用開始。
4.川越電車区跡地に川越工場の新設(完成は昭和46年4月1日)
→今後の車両増加を考慮し北側の森林公園区と機能を分散する為に旧川越電車区内に工場を新設するもの。
なお、東上線貨物の機関車と貨車の保守関係については引き続き川越検車区、川越電機乗務区等として川越市に残す。

 といった感じです。設備的には電車基地の新設・移転がメインとなるのでありますが、改正内容は種別変更も伴う大掛かりなものになりました。

1.優等列車の名称変更と停車駅の変更、一般用急行列車の運転開始と行楽特急の誕生、平日特急を1往復運転開始。

 従来、休日に運転される行楽急行以外は平日だと前年新設されたばかりの急行ちちぶ号1往復以外は準急のみとなっていたのを今回の改正から遠距離利用客の利便性向上として、新たに一般の急行を新設しそれまでの行楽急行や秩父鉄道直通急行の種別を特急に統一しました。

 急行の運転頻度は、平日は池袋基準の9:00〜17:00を1時間に1本、17:00〜20:00を30分に1本の体制とし、また朝ラッシュ時は通勤時間帯の急行として寄居7:16発池袋8:54着を1本運転。(上下合計27本)
 休日急行は池袋基準10:00〜20:00で1時間に1本運転する。(上下合計19本)
 行楽急行は全て特急に変更され、それまでと同じ時刻で合計上下14本運転。

 そんなこんなで新たに特急が誕生し、急行が一般化された事で停車駅の一覧も大きく変更されています。また昭和45年12月に大和町(やまとまち)駅は和光市駅に変更されています。
昭和46年3月改正

東上線特急
↑特急誕生当時はこのタイプのサボによる特急表示が行われました。
 2.特急・急行の設定と停車駅の変更。

 特急:池袋・志木・川越市・坂戸町・東松山・森林公園・小川町・寄居 (※坂戸町から先の越生線内は各駅停車)
 (秩父鉄道線内停車駅:寄居・波久礼(上長瀞行きのみ停車)・長瀞・上長瀞・皆野・秩父・御花畑・浦山口・白久・三峰口)
 急行:池袋・成増・志木・川越・川越市・坂戸町・東松山・東松山から先の各駅。
 準急:池袋・成増・成増から先の各駅。(通勤時間帯上り準急の一部のみときわ台に停車)

 昼間の優等列車運転本数は1時間辺り6本に対し、急行1:準急5の比率でした。(急行寄居行きに準急東松山行きや準急川越市行きが合わさったという感じだったと思われます。)
 特急は当初川越通過だったんですよね。急行の停車駅もまるで今の快速急行みたいです。
 しかし何故か今まで急行停車駅だった上福岡駅はこれ以降は準急と普通しか止まらない駅へと格下げされ、現代に至るまで急行が停車しない駅になってしまいました。

 また特急誕生と同時に新たな特急サボが誕生したと思われます。
 当初はまだ正面の受けに差し込む小型のサボタイプで登場しています。後々昭和52年に特急の名称再編が起こるのですが、その時以降に現代の交通安全HMの元祖となる特急HMが誕生したようです。

 昭和46年の段階では大きく特急の種別が変更される事はありませんでした。この翌年以降かと思われますが2本あったさだみね号が減らされ1本体制となり、代わりに森林公園行きの特急として森林号が誕生しています。

まとめますと、

ちちぶ号:池袋⇔三峰口(秩父線)
ながとろ号:池袋⇔上長瀞(秩父線)
さだみね号:池袋⇔小川町
森林号:池袋⇔森林公園
くろやま号・かまきた号:池袋⇔越生

等が運転されました。上下共7運用ずつの合計14運用でした。

3.8両編成運転列車増発。

 朝ラッシュ時:3運用を新たに8両編成とし、池袋着7:30〜8:45の準急列車9本が8両編成となる。
 夕ラッシュ時:池袋発17:20〜18:40の急行、準急列車9本が8両編成となる。(4運用増)

4.始発駅変更(運転区間拡大)

 上板橋発池袋行き2運用の始発駅を成増に変更。
 成増発池袋行き1運用の始発駅を志木に変更。
 
5.貨物列車のダイヤを一部改定する。(特段内容が無いのでこれは割愛します)

 以上が今回の改正の内容となっています。
 昭和43年10月改正から2年半経ってましたが、実は東上線はほとんど目立ったダイヤ改正をしてませんでした。というか出来なかったという感じですね。
 8000系の投入はそれまでも変わらず進んでいましたがやれる事は小型車両の置き換えぐらいであり前章でも触れた様に残るわずかな小型車も3500系更新車でしたが、8000系で更に置き換えては3500系を野田線へ転用させる…という動きしか取れなかったのです。
 しかし今回の改正により8両編成運転の拡大や運行本数の増加に繋げられました。やはり森林公園検修区の誕生により車両運用を根本から見直せた事や8両編成の扱いが楽になった事が大きいと感じさせられます。

 しかし今回改正で朝ラッシュ時2時間の通勤時の準急(ときわ台停車)は全て8両化されました。となれば必然的に次はその他全ての普通列車の8両化が必要となってきます。
 森林公園区移転に伴い8両編成の拡大に対する留置線の制約はなくなりましたが、都内の駅を8両化するのは用地の問題から難しいとされており特にホーム前後が踏切に挟まれている大山駅への対応が課題となっていました。


〜32型全車更新完了と54型電車更新開始〜


 大きな話題の合間の余談として…
 
 昭和46年2月にて32型全134両の3500系への更新が完了しました。これらのほとんどが既に野田線で運転されているのは前章で説明した通りですが、東上線にわずかに残る3500系更新車も8000系に置き換えられ、全てが野田線に集約されるのはあとわずかの事でした。
 そして32型の次は主に館林地区ローカルで活躍する54型となりました。(その他野田線等で運用)54型の更新は昭和48年末目標と約2年でに完了予定で新車投入と平行して小型車による輸送力改善も進んでいきます。

 この頃昭和46年3月15日、七光台検修区所属の3500系にTSP-ATSの車上装置の設置が完了し全車(一部除く)のATS車上装置の設置が完了したそうです。
 
8000系電車配置表(1971年4月頃)
所属箇所4両固定編成2両固定編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
8101F,8102F,8103F,8104F,8105F
8115F,8116F,8117F,8118F,8125F
8126F,8127F,8129F,8130F,8131F
8132F,8138F,8139F,8140F,8145F
8146F,8147F,8153F
8513F,8514F,8515F,8516F,8517F
8518F,8519F,8520F,8521F,8522F
8523F,8524F,8528F,8529F,8537F
8538F,8542F,8543F,8544F,8545F
8546F,8550F,8555F,8556F,8557F
8560F
4両固定23編成92両
2両固定26編成52両
合計144両
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
8106F,8107F,8108F,8109F,8110F
8111F,8112F,8113F,8114F,8119F
8120F,8121F,8122F,8123F,8124F
8128F,8133F,8134F,8135F,8136F
8137F,8141F,8142F,8143F,8144F
8148F,8149F,8150F,8151F,8152F
8154F,8155F
8501F,8502F,8503F,8504F,8505F
8506F,8507F,8508F,8509F,8510F
8511F,8512F,8525F,8526F,8527F
8530F,8531F,8532F,8533F,8534F
8535F,8536F,8539F,8540F,8541F
8547F,8548F,8549F,8551F,8552F
8553F,8554F,8558F,8559F,8561F
8562F
4両固定32編成128両
2両固定36編成72両
合計200両

 この年は鉄道・自動車部門の赤字の影響もあってか8000系の増備もほとんど行われませんでした。となれば輸送力が不足している線区に既存の車両を送り込む等のやり繰り以外に対処が出来ません。
 野田線みたいな小型車両が主力な場所でしたら更新車を送れば効果はあるのですが、既にラッシュ時に限界本数と大型車両化が完了していた本線や東上線となると73・78型の8000系化しか改善する方法が無いのですが(この時はまだ78型の更新の順番じゃなかった)、この8000系が増備出来ないという状態に陥っていました。
 となれば8000系の転用を行うしか方法が無い為にこの年から8000系の転属が始まったのです。
 結果的には一応8000系の増備は行われ、初期の4両固定編成の6両固定化に的を絞りここで6両固定化される編成を東上線へ送り、本線に代わりの4両固定編成を転属する…と言った動きが出て行ったり、冷房改造が始まると車両数調整とかで転属がどんどん発生していきます。
 

〜本線8両編成運転に向けての設備改良進み、ついに日比谷線8両運転開始〜


 昭和46年に入り本線での最初の大きな変化はこの年の5月31日より日比谷線直通列車の8両運転が開始される事に伴うのと、輸送力が限界に来ている地上側についても8両編成の準備をすべくホームの延伸工事が進められこれらがついに完成してきました。
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 この工事により北千住〜北春日部のホーム有効長が170m以上となり20m車の8両化に対応する事となりました。
 また北千住〜竹ノ塚についてはこの時複々線化の工事が進んでおり、仮設ホームにて対応する箇所も出ています。
 8両編成対応に伴い、折り返しの設備がある竹ノ塚、北越谷駅の配線改良、春日部検修区の収容線増設(収容力320両に拡張)・検査設備改良、西新井工場の検査設備改良といった設備改良も行われています。
 
 また昭和46年5月、6月に2000系20編成を8両化すべく増結2両が20編成分40両と日比谷線直通開始以来の大増備が行われました。
 これにより日比谷線直通運転開始された昭和37年5月31日からちょうど9年となる昭和46年5月31日の8両化開始から6月7日頃までに全20編成の8両化が完了し,営団3000系側も37編成が6両から8両化され1本は4両編成を2本繋げての8両化と合計38編成の8両編成が出そろい(ただしこのうち6編成は東武直通非対応)ました。
 これによって日比谷線直通列車の混雑は劇的に改善し混雑率が200%を下回るかという所まで改善されたのです。まぁ…これも利用者増によりまた元通りになっていく訳ですが…。
 開業からわずか9年で4両編成から倍の8両編成にする程に利用客激増となりましたが、この後10両編成にはならず(伸ばせず?)、結局8両編成のまま現代を迎えました。京急の18m12両化とか考えると、18m10両化もやれたらなと思うのですが、流石にこれ以上のホーム延長は営団側も限界だったんだろうと思われます。
 そして2020年になり日比谷線は20m車7両編成で運転という、当時では想像もつかない編成となりましたね。
 

〜昭和46年8月10日野田線ダイヤ改正(柏駅2面4線化)〜


 昭和46年8月10日に野田線のダイヤ改正が行われました。
 これは大宮口の大和田〜七里の複線化完成と柏口では国鉄常磐線複々線化に伴う柏駅構内改良により国鉄の旧ホームが撤去された事で、東武柏駅のホームの2面4線化が可能になりました。それに伴うラッシュ時の増発が可能となったのが大きな変更点です。

 常磐線の複々線化という事ですが東武としても恩恵が起こってホームの増設が実現したのです。常磐線と接続する貨物線については引き続き残ったままです。
 ちなみに裏話ですが、複々線化当初は実は柏に快速ホームが設置されなかったのです。これには当時の雑誌を見ても、乗降客が多い柏に快速を停車させないのは不可解だとか、柏に停車する常磐緩行線は千代田線直通もあってか10両編成ですが、快速は8両編成でしかも運転本数が少ない、そして営団と国鉄が複雑に交わる特殊な路線系統(特に運賃の面)が災いし北千住から結局上野行きを使う乗客が多数だったりと混乱を引き起こしたそうです。
 結局わずか1年後の昭和47年に地元負担の上、柏駅にも常磐線快速ホームが設置される事となりました。そういえば武蔵野線開業を翌年に控えて国鉄初の自動改札機を試験的に導入されたりこの頃の国鉄柏駅は不遇というか何というか今では考えられない扱いを受けていたなという印象を受けます。

 国鉄の話はここまでにして、大宮〜岩槻間の複線化も順調に進みいよいよ大宮公園〜大和田を残すのみとなりましたが、今回改正でラッシュ時輸送量ピーク1時間の運転本数が10本から11本に増発されています。
 柏口では柏の構内改良に伴い運河方面と六実・船橋方面のホームの分断化により柏口の本数が運河→柏がピーク1時間運転本数を6本から7本に六実→柏が4本から5本に増発されています。ただこの頃はまだ豊四季方面も増尾方面も両方共単線だったんですよね。
 
 この頃には野田線七光台区の3500系は120両もの大所帯となっており、大部分が更新車運用になりました。次の改正時には野田線に全134両の32型更新車が集まる事となります…。

 と言った感じで大宮口、柏口のラッシュ時の増発が行われたのですが、船橋口は何も変化がありませんでした。というか出来なかったというのが正しいんでしょうが、これが致命的となり船橋口だけが混雑率200%超えに悪化していってしまいます。
 しかし船橋口は諸設備の関係から複線化等が遅れてしまい本数が増やせない状態が続きます。対処方法は最早増結しかありませんでしたがその為にはホーム延伸工事が必要となってしまい、何にしても船橋口はしばらく地獄の殺人ラッシュ状態が続く事となるのです。
 

〜54型電車更新開始と3500系更新車の番号変更+1700系白帯ロマンスカーの引退〜


 8000系の話題はもう少しお待ちください(汗)
 
 昭和46年より54型電車の更新が開始され、3150系(4両固定編成)、3550系(2両固定)更新車と生まれ変わる事になりました。(現代では3050系と呼ばれるシリーズですね)
 しかし…3550系って3500系と被るのでは?と思われるでしょう。当初は奇跡的に被らなかったのですが、すぐに被る事が明白だったので3500系更新車の番号を変更する事になりました。
 32型更新車は当初2両固定編成でモハ3500形、クハ3600形で登場しましたが、その内4両固定編成化が行われ東武は現代に至るまでクモハの表記はしない為、この時にサハ3600形が新たに加わる事となりました。
 で、当初は車号番号の決め方が台車形式で分けるという不思議な事をやったので何が起こったかと言うと最初に完成した2両編成が
 モハ3503+クハ3670。…おお、確かに全然違う。じゃあ次に完成した2両編成はと言うと、
 モハ3581+クハ3605。…は???せめてモハ3503+クハ3605とか近い番号同士で連結しろよ!!と言いたくなりますが、そういう基準じゃないのでこんな有様でした。
 ※ちなみにモハ3503+クハ3670はその後中間にサハ3669とモハ3550を連結し4両編成になっています。という訳で4両固定であっても当然番号はバラバラでした。
 よくよく考えると4両固定化の時に3100・3200・3300・3400にしても良かったのではと思うのですが未更新車との番号被りを避けたかったのかなとも思えます。
 
 こうして3500系更新車は昭和46年12月、一斉に3000系(4両固定編成)と3500系(2両固定編成)に番号が変更されました。(現代では3000系と呼ばれるシリーズですね。)なお3050系と3550系は3000系、3500系番号改変前に誕生していますが、最初からキチンと番号を揃えて完成しています。
 
 昭和46年12月12日、特急車両を全てデラックス化(DRC化)にする事に伴い1700系白帯車のさよなら運転が行われました。浅草発のなんたい1号東武日光行きとして運転される同列車に鉄道友の会作成の特製HMが掲げられて日光路を駆け抜けました。さよなら運転後も14日まで運転した白帯車はデラックス化への更新工事が開始されます。
 

〜昭和46年12月より 8000系初期車6両固定化開始〜

 昭和46年(1971年)12月〜昭和47年(1972年)1月竣工でアルナ工機(旧ナニワ工機)よりサハ8701+モハ8801〜サハ8713+モハ8813の26両が誕生しました。
 この車両はクハ8101+モハ8201+モハ8301+クハ8401の中間に連結し、クハ8101+モハ8201+モハ8301+サハ8701+モハ8801+クハ8401といった感じに8000系初の6両固定編成化に伴う増備車でした。
 諸設備の関係で長編成化が遅れていたというのもありましたが、本線では6両編成、東上線では8両編成が当たり前になっていく中で2両固定編成の多さはいたずらに運転台が多く客室スペースを減らす状態となっていました。
 折しも、赤字の影響により車両増備が控えられていた為に既存車両の6両固定化で妥協しようという案が出たのかと思われますが、この年度は2000系の中間車に続き、8000系も中間車が増備という中間車大増備の年度となりました。

 増備数は8101F〜8113Fまでの13編成の4両編成を6両編成にする為に26両となり、純粋に8500系を連結するのと違い、モハ+クハと逆転したサハ+モハで製造されているのが特徴で、今回初めて誕生した中間サハとなる8700形とモハ8800形の貫通路部に両開きの扉が設置されました。
 これは列車走行時停車時に慣性の法則により車内を空気の塊が行ったり来たりする為に風が発生した様に感じられ、冬場の閑散区間では特にこの風が寒さを助長してしまうといった事に対する対策として貫通扉が設定されました。

 そもそもは昭和30年代の8000系新造時の話の時に触れましたが、戦後は混雑率200%超えが各私鉄で当たり前だったので特に小田急等の混雑率が激しい路線では貫通路の幅を広げ更にここにも乗客が入れる様に扉を設置しないという対応が当たり前となっていました。東武8000系も同様の構造で誕生したのですが、やはり就役直後からこの貫通扉が無いのは冬場や寒冷地を走行する時はは致命的だったみたいです。
 現代でも最初は貫通扉は1両おきだったり省略が当たり前でした。これも当然昭和から続く混雑への対処という意味合いもありましたが、簡素化という面も合わせていたみたいです。(東武では10030系から全車両に扉が設置されていますが)

 しかし2003年に韓国で発生した放火による地下鉄車両火災事故によって、現代版桜木町事故と言える大惨事が発生した為に省令が変更され全車両に貫通扉を設置する事が明確化されました。(防火扉や防火シャッターみたいな重要な位置付けとなった。)そんな事も将来起こりうる訳ですがこの時代はそんな扉など設置出来るか!!ってぐらいに貫通路ですら混雑時の重要なスペースだった訳です…。

 こうして8101F〜8113Fが6両固定化されました。この13編成までですと、本線5編成、東上線8編成の内訳ですが、この6両化と同時期に春日部区の8105F(6連)と森林公園区の8128F(4連)の入れ替えが発生したようで(19971年11月17日日付)、これが8000系初の転属となっています。
 これによって本線4編成、東上線9編成の比率で6両編成増結が行われたという事で、8両編成が拡大していた東上線側に優先的に6両固定編成を配置しようという動きがありました。

8000系電車配置表(1972年初冬頃)
所属箇所編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
6両固定編成6両固定4編成24両
4両固定19編成76両
2両固定26編成52両
合計152両
8101F,8102F,8103F,8104F
4両固定編成2両固定編成
8115F,8116F,8117F,8118F,8125F
8126F,8127F,8128F,8129F,8130F
8131F,8132F,8138F,8139F,8140F
8145F,8146F,8147F,8153F
8513F,8514F,8515F,8516F,8517F
8518F,8519F,8520F,8521F,8522F
8523F,8524F,8528F,8529F,8537F
8538F,8542F,8543F,8544F,8545F
8546F,8550F,8555F,8556F,8557F
8560F
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
6両固定編成合計
8105F,8106F,8107F,8108F,8109F,8110F,8111F,8112F,8113F 6両固定9編成54両
4両固定23編成92両
2両固定36編成72両
合計218両
4両固定編成2両固定編成
8114F,8119F,8120F,8121F,8122F
8123F,8124F,8133F,8134F,8135F
8136F,8137F,8141F,8142F,8143F
8144F,8149F,8148F,8150F,8151F
8152F,8154F,8155F
8501F,8502F,8503F,8504F,8505F
8506F,8507F,8508F,8509F,8510F
8511F,8512F,8525F,8526F,8527F
8530F,8531F,8532F,8533F,8534F
8535F,8536F,8539F,8540F,8541F
8547F,8548F,8549F,8551F,8552F
8553F,8554F,8558F,8559F,8561F
8562F

 しばらくは所属編成がよく分からなくなるので資料が残ってる年代までスルーする事になるかなと思います。

〜昭和47年3月15日 本線ダイヤ改正と東上線地下鉄6号線との直通運転断念について〜


 昭和47年3月15日、本線のダイヤ改正が行われましたがこれは車両を全てデラックス化(DRC化)にする事に伴い、1700系・1710系12両をDRCと同様の6両固定2編成に改造する工事が行われましたが、この時に改造される特急車の運用を担う為に、DRCを1編成増備していました。(昭和46年9月竣工の1771F)
 その後白帯車が引退した直後の12月15日よりDRC化が完了した1編成が運用開始し、残る1編成もDRC化が終わり、総勢8編成のDRCが出揃った事に伴う日光線特急列車増発のダイヤ改正実施となった訳です。
 また近い将来、日光線合戦場〜新鹿沼の最後まで残った単線区間の複線復旧工事も予定されていましたがそれはもう少し後の話です。


 昭和47年3月1日、都市交通審議会より運輸大臣に対し都市交通審議会答申第15号が提出されました。 
 昭和43年4月10日提出されていた、都市交通審議会答申第10号からの更新版であり、この中で地下鉄6号線(都営6号線、現都営三田線)の直通先が第10号の時は、東武東上線大和町(昭和47年の時点では和光市駅になっています)となっていましたが、今回の答申では、東上線へ直通せずに戸田・浦和・大宮方面へ延伸する様に変更されました。正式に東武東上線と都営6号線の直通運転が断念されたのです。

 結局都営6号線はその後東武から免許を引き継ぎ、西高島平に延伸していますが結局そこから先の埼玉県方面への延伸は未だされてませんし今後も予定はありません。
 昭和43年12月に巣鴨〜志村(翌年:高島平に変更)の運行が開始され、東武鉄道の要望を努めて取り入れた新車・6000形電車が運行を開始していた状態での直通運転解消となってしまいました。なお東武東上線の直通先はこの答申15号の中で新たに計画された地下鉄13号線となりました。
 13号線はそれまで成増まで延伸が予定されていた8号線を向原から練馬方面の西武鉄道に直通するものに固定され、13号線は向原と池袋の一部区間8号線と平行して走り向原〜成増までを13号線とし、成増から東上線に乗り入れ志木まで直通運転を行う。といった計画に改められたのです。

 東武側としても6号線だと都心まで遠回りになってしまいバイパス効果が低い事や、東武百貨店等がある池袋を通らない鉄道には魅力を見いだせないといった事から答申第10号の8号線計画に目を付けてこれを東武と直通する…といった計画に変更させたいと根回しをしたのではないのかなと考えられます。
 事実、根津社長はこの答申が提出される直前の昭和47年1月に埼玉県庁を訪れ和光市への6号線直通に伴う建設認可の取り下げについて協力を求めるという動きを取ったようです。既に6号線直通を断念していたのはもっと前だったと考えられるんですよね。
 
 しかも当時の状況を見ればこの決断も当然な結果でしょう。まず鉄道部門単独で考えれば赤字である状態や、それでもなお各線の混雑が年々悪化する事に伴う設備投資が避けられない情勢であり、高島平(前志村)〜和光市(前大和町)約4.0kmもの区間の新線建設をするのは余力が無ければそこまで効果も見込めない路線に投資をすると考える方が無理な状態だったのです。

 新たな計画ならば日比谷線直通同様に新線の建設がほとんど不要な事に加え、自社線内の複々線化に集中出来る事、そして東上線と近い位置で並走する地下鉄に直通可能という事で複々線化に近い効果が得られるのです。(ちなみに1968年12月に都営6号線の巣鴨〜志村(高島平)が開業後は東上線と近い駅では一部利用客が都営側に流れたそうです)

 結局この答申15号の計画にて現代に繋がる訳ですが、東武は本来の直通先である13号線より先に開業する8号線(現有楽町線)と相互直通運転する事となります。肝心の西武側は練馬の接続部の工事が遅延した関係で直通運転は東武に遅れて開始する事となっていきます。結果、東武東上線と西武池袋線は8号線・13号線両方と相互直通運転をする事となっていく訳ですね。

〜昭和47年7月11日より8000系初の冷房車が就役〜


 東武鉄道では昭和47年度を初年度とする鉄道部門第四次輸送力増強5か年計画が策定されました。サービス向上と快適輸送を両立すべく長編成化と通勤車の冷房化への試金石として、8000系初の新造当初からの6両固定編成となる8156F,8157F,8158Fの6両3編成18両が完成し7月11日からそれぞれ本線(8157F,8158F)と東上線(8156F)で運行開始となりました。

 それまで東武鉄道では特急列車や伊勢崎線急行列車の合計72両だけにとどまっていた冷房車ですが、ついに待望の通勤型の冷房車が誕生となりました。
 優等車両の場合、1台あたり4500kcalの性能を1両辺り5台か6台設置していましたが、通勤車の場合はラッシュ時の大混雑を考慮して性能の高い物が採用されました。
 1台あたり10,500kcalの性能を1両4台の42,000kcalを屋根上に搭載し天井内部に配した冷風ダクトを通じて車内全体に流すという集約分散方式となります。
 冷房装置は1台あたり約500kgの為、4台で2tの車両重量増になり、更に冷房化に際し補助電源装置の性能も大幅に強化された関係で大型化され1両辺り最大4t近く自重が重くなっています。
 この重量増により加速性能がそれまでより衰える事とはなりました(2.5km/h/s→2.23km/h/s)が、当時の状況を見れば分かる様に旧型車メインの運転速度が採用されており全く問題にはなり得なかったでしょう。
 また屋根上の冷房装置配置によりスペースの問題から集電装置(パンタグラフ)は菱形のPT-42Jから1800系で採用されていた下枠交差式のPT-4801に小型化されました。
 
   なお8156Fと同時に富士重工より竣工した8114Fの6両化用に製造された8714と8814についてもこれらと同様に下枠交差パンタで落成したのですが、当初編成に合わせ非冷房車で落成している為にこの車両唯一の組み合わせ(小型パンタ+非冷房)が誕生しています。この編成も冷房化され、違和感はなくなりますが非冷房と冷房の境目に誕生した異端車として有名な存在ではありました。

〜昭和47年秋、山岳夜行列車に8000系が起用された?〜

 昭和47年秋の行楽輸送列車が発表され、この中で特筆すべきが8000系が初めて山岳夜行・奥日光号に充当される事でした。
 昭和47年春の奥日光号は6000系と5700系のみで運転されたので何で今更8000系なんだ…という感じではありますが、それ以前も78型で運転される事もありました。そして6000系と5700系の場合は座席指定券100円が必要でした。
 しかし8000系(それ以前だと78型)の場合は座席整理券さえあれば乗車券のみで東武日光まで乗れるという事で今こんな事やれば鉄道マニア殺到案件ですが、そんな時代があった訳です。当時の運行予定を見ると、
 
                 
列車番号列車名・編成時刻運転順位・座席数
5061奥日光1号 6000系6両(座席指定)浅草0:10→東武日光2:501位495席(常時)
5063奥日光2号 6000系6両(座席指定)浅草0:30→東武日光3:102位495席(多客時)
5065奥日光3号 6000系6両(座席指定)浅草0:40→東武日光3:203位495席(多客時)
5081奥日光4号 8000系4両(整理券)浅草0:50→東武日光3:304位200席(多客時)
5083奥日光5号 8000系6両(整理券)浅草1:00→東武日光5:145位300席(多客時)
客扱い駅は浅草・東武日光のみ。運転期間:9月16日〜11月11日までの毎土曜日。及びその他祝日前日の○ヨで運転。
 
 だったみたいです。時代背景が大きく違えど、夜行列車が約10分おきに日光線を走る…熱い時代でしたね。
 というか…本当に8000系が運転される程に利用客がいたのかどうか…?ってぐらい運転順位は低かったみたいですね。
 

〜昭和47年11月野田線ダイヤ改正 船橋口ラッシュ対策として6両編成運転が開始される〜


 野田線は現在6両編成で運転されていますが、当時は小型18m車ではありましたが初めて6両編成での運転が開始されたのがこの昭和47年11月27日のダイヤ改正からでした。
 
 前回のダイヤ改正(昭和46年8月10日)では大宮口と柏口の輸送力増強が行われましたが、船橋口は何も対策が出来ずにダイヤは据え置きとなりました。
 その結果、柏口よりも輸送量が40%近く多いのに柏口と同等の輸送力に留まり混雑率は大宮口をも上回る220%という状態となってしまいました。
 複線化による本数増で対応する為には車両本数確保が必要となりましたがいかんせん車庫がある七光台から柏を挟んで遠く離れている船橋口という事もあり、輸送力を増強するには本数増加よりも編成数を延ばし輸送力を増やすと言った方法が取られる事となりました。
 そして昭和47年初冬から野田線の七光台〜船橋を限定とした6両編成化の為のホーム延伸工事が開始されたのです。
 
 ホーム延伸を筆頭とした各種設備改良完了と増強に対しては、本線系統への8000系投入や54型系統更新工事により3000系・3050系等の更新車12両が七光台区へ転用となり、ダイヤ改正という事となりました。
 これにより野田線初の6両編成運転が開始されましたが当時野田線最大の輸送量を誇る大宮口ではなく、大宮口と反対側の船橋口で開始された…というのが意外な所でした。しかし当時の輸送状況を考えるとそれは全く当然の事でした。
 
  
               
昭和47年当時の野田線各所輸送状況まとめ
項目大宮口
 (北大宮→大宮)
柏口
 (豊四季→柏)
船橋口
(新船橋→船橋)
輸送量(推定)10,417人6,673人8,645人
輸送力6,040人
ピーク時11本
3,920人
ピーク時8本
3,920人
ピーク時8本
乗車率173%170%221%
※改正前までの4両編成による運転の数字

 ここに船橋口8運用のうち6本、柏口の1本を6両編成に増強し、大宮口では岩槻始発の列車を七光台始発に延長しています。その結果船橋口では輸送力が約43%も大幅に増強され、一気に乗車率が150%近くにまで改善される事となりました。まぁ…これもその内再度悪化していく訳ですが。
 また配置車両としてはこの頃には3000系更新車全134両は七光台区に集結し、更に徐々に増えつつある3050系更新車も6両が配置されそれ以外が53型6両、52型4両、54型4両とこれら合計156両でこの難局に向かうといった状態でありました。
 
 こうして野田線で初の6両編成運転が開始されましたが、当然そのうち大宮口でも6両運転は開始されていきます。
 しかし慢性的な赤字状態により経営状況が悪化している為に選択と集中といった設備投資をしないといけないという当時の苦しい状況をよく表しているダイヤ改正と言えるでしょう。この時七光台駅に6両と4両で分割併合する為の設備が設置されました。
 
  

〜昭和47年12月18日より本線で8000系8両運転開始される〜


 日比谷線8両運転開始に伴い、本線地上車の8両化も睨んで北春日部〜北千住についてホーム有効長を170mに延伸していましたが、その後北千住〜業平橋の8両対応化と浅草駅での後ろ2両締切対応等準備が整った事から12月18日より本線地上車初の8000系・8両編成運転が開始されました。
 
 運用としては、杉戸または幸手始発の各駅停車(普通)浅草行きが北春日部で2両編成を後ろに繋ぎ浅草まで運転されるものでした。
 東上線側と違い準急列車ではなく普通列車で8両運転が開始された理由としては、北春日部に準急が停車しないという面もあるでしょうが、何より西新井、梅島、五反野といった北千住付近の駅での状況が限界に達していた事から普通列車の8両化を優先したと言えるでしょう。

 そして浅草駅ではついに1番線ホームでの8両入線と下り方2両締切が開始されました。
 8両編成の電車は浅草到着後は下りを回送列車として春日部区のある北春日部まで運転されたようです。
 東上線で初の8両運転が開始された時は上りホームのみ8両対応で運転が開始されたのですが、後ろの2両編成を締切扱いにして下りもしっかり運転されたのですがそれを考えると随分と対応に違いがあるといった印象です。東武がこの頃から運転途中での増解決を頻繁に行うのは避けていたというのもあるんでしょうか。
 
 とにかく複々線化完成までは輸送量増強の限界となる状態が続く本線ですが、日比谷線8両化に続き、地上車の8両編成化で対応していく事となります。
 

〜昭和47年12月東上線ダイヤ改正 普通列車の8両運転開始と大山対策車の誕生〜


 野田線、本線と変化があり最後に東上線です。東上線では昭和47年12月26日にダイヤ改正が行われました。
 これは池袋口の朝ラッシュ時は既に本数は増やせない上にピーク時に走る準急列車も全てが8両編成化されており輸送力を増やす為には間を走る普通列車の8両編成化が避けられない状態となってしまいました。
 これに対応する為に北池袋〜下赤塚のホーム8両延伸工事が行われましたが、途中大山駅のみはホームが踏切に挟まれた状態でありホーム延伸が早急に出来ない事から上り方前2両をドア締切にして運用される事となったのです。
 この特殊な締切装置が完成し8000系一部列車に設置された事で普通の8両編成運転が可能となりました。

 また普通列車の8両化に伴い今後8両運転の頻度が増す事を考慮し川越市構内改良が行われ、8両編成が折り返せる折り返し線の新設を行いました。これに伴い川越市駅構内にあった川越検車区、川越電機乗務区(貨物)が坂戸町へ移転(坂戸検車区、坂戸電機乗務区新設)する事となった為、貨物列車のダイヤが変更される事や一部細かい増発が行われる事によるダイヤ改正となりました。
 
 普通列車の8両運転は昭和48年1月31日から開始され、大山対策車の運転が開始されました。
 大山対策車とはそれまで東武で行われていた一部2両だけ締切というのは、8000系2両固定編成の端部に位置する2両だったのですが、今度の場合は8000系のクハ8100とモハ8200という完全に中間に位置する車両のみの扉を閉めっ放しにするといった特殊な条件の為に誕生しました。
 今でも東急大井町線九品仏駅とかでも今でもドアカットが見れますがそれと同じ様です。大山駅も踏切部のみは完全に何も無い状態ですが、踏切から先頭車までは簡易的なホームが設置されていました。
 仕組みとしては、専用の地上子と車両側に車上子が設置され、車掌スイッチと連動してはみ出した前2両の締切を行っていました。
 森林公園区の8000系の6両固定編成全編成と一部の4両固定、2両固定編成が大山対策車に選ばれ、6+2あるいは4+2+2で運行されました。川越電車区時代だったら池袋方の前2両が必ず2両固定編成だったのでこれよりも対策が楽だったのかもしれませんね。
 またこの時、特殊編成との識別の為に、上部灯レンズの色を紫色する事で相互確認や乗務員の識別を図ったそうです。

 こうして東上線は都心部では普通車の8両編成運転への障害をなくし今後のさらなる輸送力増強を行える体制を整えました。
 しかしこの大山対策車という方式は扱いが特殊な上に編成が限定される為に運用の縛りもあり、利用客への周知も難しいという事から余り拡大をさせる動きは見られませんでした。
 その為東武鉄道は地元と協議を重ね、地下道やこ道橋の新設による踏切の移設、廃止によるホーム延伸の道を模索する事となります。

〜日光線オール複線化と伊勢崎線急行増強へ 昭和48年7月24日本線ダイヤ改正〜

 戦前に軍の要請により複線化から単線化されていた日光線ですが、この時点でも合戦場〜新鹿沼が単線として残っていました。新鹿沼〜東武日光は早い段階で複線化復旧されたのですが、逆に下り方から複線化してたんですよね。
 で今回は残った16.9km区間を一気に複線化にするという大胆な複線化工事が実施されたのです。(ちなみに切り替え工事は一気に出来ないので3回に分けて行われています)
 これにより日光線は全線が複線化復旧となり、保安度の向上とスピードアップ、更にDRC1編成を増備し(1781F)、現代に至るまでの特急9編成体制が確立される事となりました。
 一方伊勢崎線側では急行りょうもうが4両固定2編成増備され(1817F、1818F)、毎時運転が行われる事となっていきます。

 そして8000系は今年度は前年から倍増以上の32両が増備される事となりました。前年度から誕生した8156F〜8158F同様に全てが冷房車となっています。今回も時代の流れに合わせ6両固定が5本の30両(8159F〜8163F)と東上線増結用の2両固定1編成(8563F)と長編成化の流れに合わせ6両固定編成が中心となっています。
 この内20両が森林公園区へ(8161F,8162F,8163F,8563Fで全て大山対策車)、12両が春日部区に配置(8159F,8160F)となりました。

 この頃はまだまだ鉄道・自動車部門の赤字が悪化しつつも、開発事業で黒字をねん出出来ていたので会社としてはかろうじて黒字を保ってはいました。
 当時の民衆感情からすると開発ばかりに金を掛けて鉄道に金を全然かけていないという反感がありましたが、それも仕方の無い事でした。というかそもそも鉄道事業自体は相変わらず成長しており好調だったのです。余りにも出費が多すぎたから赤字に陥るのです。
 と言う訳で、優等車両の増備が含まれる為例年に比べ車両数製造が増えたり、北千住〜竹ノ塚の複々線化工事もこんな状態であっても進められ更にはこの年に開業した国鉄・武蔵野線の東武鉄道との接続駅(本線、東上線両方)の建設・日光線の複線化・8000系初期車の冷房化・54型電車の更新・ATS区間の拡大・駅のこ線橋の建設、といった感じで様々な事が行われていました。
 しかし社会情勢による大ナタが振るわれる時はすぐそこまで来ていたのです。

 という訳で昭和48年7月24日本線ダイヤ改正が行われました。

1.日光線全線複線化の完成.
A:優等列車のスピードアップ(特急で約2分の時間短縮)
B:DRC1編成増備に伴う特急増発。(特に鬼怒川温泉発着のきぬ号が2.5往復も増発)
C:特急増発に伴い6000系快速列車を一部増発。(急行運用の削減に伴う代替え)

2.伊勢崎線急行りょうもう号増発(2編成増備に伴い5往復が増発され、毎時運転が可能になり輸送力は40%もアップ)
3.8000系増備に伴い朝ラッシュ時、更に2運用8両編成での運転を増やし、合計5運用が地上車8両編成として運転される。
4.日中時間帯の羽生発着の準急の停車駅を太田準急同様、杉戸以北各駅停車とする。(それまでは伊勢崎準急同様の久喜、加須のみの停車だった)
→利用客が増えていた鷲宮、花咲などの利用者への配慮としての処置だったそうです。

 北千住口の朝ラッシュ時最混雑時間帯の8両化もこれで限界となり(北春日部までしか8両対応していないので準急については6両編成のまま)、いよいよ複々線化による増発を待つ状態となりました。
 今回の改正で特筆すべきはやはり日光線複線化完全復活と1800系の増備によるりょうもう増発でしょう。当時もDRCとりょうもう増発の記念乗車券が発売される程でした。
 日中時間帯の羽生行きの準急はA準急停車駅だったんですね…。逆に太田行きは杉戸以北各駅停車だったというのがややこしいとこですが、とにかく伊勢崎行き以外はB準急停車駅になりました。

〜54型更新完了と8000系初期車の冷房化改造開始〜


 早いもので昭和46年3月から開始された54型PR車の更新工事がわずか2年9か月となる昭和48年12月で完了する事となりました。32型134両に続き68両の54型車があっという間に3050系、3550系に更新されたのです。
 この頃の3050系はかつての主力だった館林区に集中配置されていましたが、一部は野田線七光台区にも配置され野田線の輸送も支える事となりました。

冷房改造プレート
↑8103Fで撮影した冷房改造プレートです。
昭和49年8月24日にアルナ工機で改造されました。
 次に本題で8000系の話題ですが、既に8156F以降の新造車では冷房付で登場していたのですが昭和48年7月からは既存車両の冷房改造工事が始まりました。
 まずは昭和46年〜昭和47年に掛けて6両編成に改造された初期の編成が対象となり、春日部区では8101F、森林公園区では8110Fが対象となりました。なお冷房改造は津覇車輛では実績が無かった事や旧型車更新工事中だった事もあってかわざわざ遠く尼崎のアルナ工機まで輸送されて改造を受ける事となりました。

 こうして昭和48年11月6日8110Fが通勤車冷房改造第一号編成として東上線で活躍を始めました。その後12月18日に本線側では8101Fが運行を開始しています。ちなみに昭和48年、49年にアルナ工機で冷房化改造された編成の妻面には添付画像の様な別の銘版が付けられていましたのが特徴的です。

冷房プレート拡大。見えますかね?
↑プレート部分拡大です。かろうじて見えますかね?

〜本線複々線切り替え工事最盛期と戦後最大の試練の昭和49年の幕開け〜

 本線では着々と進んでいる北千住〜竹ノ塚複々線化工事も最盛期を迎え、いよいよ複々線にする為の線路切り替え工事が立て続けに予定されるまでに至りました。
 昭和48年12月10日に梅島駅新駅舎・ホーム切り替えに伴う線路切り替えが行われ、梅島駅は現代に至る縦列配置のホームに置き換わりました。ちなみにこの時の複々線化工事は下り線側から順次切り替えられており、現代で言うと竹ノ塚の連続立体交差化が下り線側から行われているのに通ずる所がありますね。昭和49年6月予定の複々線完成もあとわずかとなっていました。

 一方で昭和49年は昭和48年後半に発生した第4次中東戦争に関連してのオイルショックによる影響が懸念された年でもありました。
 ちょうどこれを書いてるいる時、世の中は新型コロナウイルスの影響で経済活動が一時的とは言え、業種によってはほぼ完全に停止する等重大な影響が出ており2020年5月現在今後の見通しがどうなるか分からない状態となっています。昭和49年はまさにそんな見通しの付かない状態で年明けを迎えた訳です。

オイルショックとは、石油原産のアラブ諸国とイスラエルとの戦争が勃発した時にイスラエルをアメリカが支援した為にアメリカやその同盟国相手への石油の輸出制限や原油価格の上昇(一気に70%アップし、最終的には何と1バレルの価格がそれまでの4倍まで跳ね上がりました。)という対抗措置を下す決定をしました。
 当然安価なアラブの石油に頼っていた世界中の国々は混乱しました。ガソリンや灯油等の不足に端を発し、経済活動への影響から物価が上がる事となってしまい日本でも経済成長率が戦後初のマイナスとななりました。
 既に高度経済成長と言える状態は終わってましたが、高度経済成長期の完全な終焉を迎えたのです。

 この当時、いろんな事業は凍結となり物価高の影響で消費は低迷する等、まぁ…今のコロナショックと似たような事が起こってます。すなわちこの時に起きた事と似たような事それ以上に酷い事が今後起こり得るって事です。ただ鉄道会社で言えば今のコロナショックを超える被害そして変化はそうそうないんでしょうけどね…。

 根津嘉一郎社長による年頭挨拶でも影響が大きすぎて今後が見通せない等そして何より懸案の鉄道運賃改定が見送りとなった事に対する懸念もあって、まさに戦後最大の試練年になるだろうと発言されています。
 そしてこのオイルショックにより省エネルギー型経済への大転換と述べられましたが、その後を見ればまさにその通りとなり、それは現代に至るまで影響を及ぼしています。

試練の年は見方を変えれば新しい時代の始まりと言える。こう言われました。
果たして、今回のコロナショック後、どんな変化が待っているでしょうか?必ず何かが変わる事は間違いないのでしょう。というか…東京オリンピックが果たしてどうなる事やら。

 という訳でこの項最後の年となる、これまた激動の昭和49年の開始です。

〜チョッパ制御試作電車登場〜

 オイルショックにより省エネルギー型経済への転換が叫ばれ始めましたが、東武鉄道も直前に書いた様に社長がその動きを察知しているほどでした。となれば行動は早かったです。
 この年の5月から当時主流だった抵抗制御よりも省エネとなる主回路チョッパ制御電車の誘導障害ならびに車両設計上の基礎資料を得る為に3050系に更新されて余剰となっていた旧54型のモハ5451号の車体を再利用しサヤ8000形8001号に改造し試験用チョッパ装置を取り付けて走行試験を行うこととなりました。

 チョッパ制御とはなんぞや?となりますが、現代では既に廃れた技術でありますが、平成初期までは新造されていた技術ですね。抵抗制御車では困難だった直巻電動機を用いての電力回生ブレーキが容易となる事、粘着性能が向上する事、力行時のエネルギー損失が低減する事、保守の低減につながる等良い事づくめでした。
 しかし簡単に説明してますが当時の技術では簡単じゃない事とか新しい技術なので導入コストが掛かるといった面で導入が遅れていました。
 それでも既に阪神電鉄7101形や営団6000系によって実現されていた技術でもありました。ちなみに国鉄でもこれ以前に101系、103系とかで試験されていましたし、この年にも再び103系で試験されていました。

 特に重要だったのが誘導障害の確認だったかもしれません。
 チョッパ装置や当時実用化されていたSIV(静止型の電圧変換装置)等の半導体装置によって電力生成される電流には高調波のノイズが発生する事でこれが誘導障害の原因となっていました。
 原理は分かる人にはわかるんでしょうがややこしいので割愛しますが、信号や踏切等の保安装置システムに不具合を起こすのです。信号や踏切が異常動作を起こせば即事故につながりかねませんので重大な懸念事項となっていました。
 これは半導体装置がより当たり前になった現代ではより一層大きな課題となっています。(当然対策はしっかりされているので大きな問題は起こしてはいませんが)

 さて話を改造車に戻しますが、モハ5451からサヤ8001に改造しこの車両には集電装置(回生ブレーキ用なのか補助電源用なのかは不明)、チョッパ装置と関連装置、切り替え装置(チョッパ制御⇔抵抗制御)、制動装置を設置します。
 この車両自体には主電動機は装荷しませんが、この車両を8000系4両固定編成の中間に組成し、クハ8100+モハ8200+サヤ8001+モハ8300+クハ8400の5両編成で試験をする事となります。サヤ8001が両側のモハ8200とモハ8300の直巻電動機をチョッパ制御するいう方式です。
 しかしサヤ8001も元が54型なのでそのままじゃ連結も出来なければ、総括制御も出来ないので8000系として走る為に各種改造されました。

1.客室内に各種試験機器を配置する為に座席、暖房、扇風機等は根こそぎ撤去しデッキと機器室とする。ただし客室灯は残す。(この車両、便所もあったみたいですね。また乗務員室関係もすべて撤去)
2.両端の連結器の変更。
3.元の台車(TRN-37)は更新車に流用されるので、台車をTRS-31に変更。(16型から流用したみたいです。)
4.電動発電機を8000系非冷房車と同じHG-533-Irbに変更し、電動空気圧縮機は撤去する。
5.機器室内床下には日立製作所製による、新設計の断路器、主可熔器、断流器、チョッパ装置、コンデンサー箱、転換装置、フィルターリアクトル(ブロア付)、主平滑リアクトル(ブロアー付)、ブレーキリアクトル(ブロア付)、誘導分路器、弱め界磁抵抗器ならびに同接触器、界磁直列抵抗ならび同接触器等が新設されました。小型車というのもありますが床下には納まりきらない為に室内にも配置しています。
6.総括制御用の引き通し回線の新設。
7.集電装置はそれまでのKH-137形式1基から8000系非冷房車と同じPT-42形式2基に変更する。
8.制動装置はAMA-RE空気制動から8000系と同じHSC空気制動に変更しブレーキシリンダーはそれまでの車体装荷式から台車装荷方式に変更。

 試験は昭和49年5月20日より開始され、編成は森林公園区の8124Fが選ばれたので東上線で試験が行われました。
 東上線以外で行われたかどうかは不明ですが、当初予定では東上線(池袋〜寄居)に加え、越生線(坂戸町〜越生)や本線の伊勢崎線(浅草〜伊勢崎)、日光線(杉戸〜東武日光)だったそうです。確か何かで西新井で撮影されたサヤ8001の記録があったと思うので本線にも行ったとは思うのですが、これは試験終了に伴い西新井工場で解体する為だったそうで本線を試験走行してはいないんですかね…。

 とにもかくにも、時代は省エネを追求する時代となり東武も省エネ電車の開発を行う事となりました。


〜電気料金改定による大幅支出増の衝撃〜


 昭和49年は電気料金が大きく変わった年であります。事の発端は当然オイルショックな訳ですが、電気料金が現代に至るまでの逓増料金(3段階料金)が昭和49年6月1日より採用されたのです。すなわち、電気の使用量を減らす省エネ対策として採用され、電気を少なく使えば今までよりも料金を下げます。
 しかしある一定の領域を超えて電気を使用した場合はより高い料金を取りますって奴ですね。我々一般市民だと3段階のうち2段階に突入する月もあるかと思いますが、この2段階目が高いので電気料金が一気に上がり、1段階目で抑えれば相対的に安くなる…といった訳です。
 ところがこの料金変更制度は鉄道会社にとっては致命的であり、どう足掻いても凄まじい電力を使う鉄道会社は必然的に電気料金が爆発的に跳ね上がってしまうのです。
 なんと東武鉄道においては料金改定前に比べ2倍になる事となりました。これによる支出増は年間12億円。
 例えば54型68両を2年9か月で全車3050系と3550系に更新するのに当時の金額でも約7億3千万円です。
 それをはるかに上回るんですから、もうひっくり返りそうな程の膨大な支出増です…。

 輸送力増強5か年計画の変更も検討と年頭に記載がありましたが、もうそれは避けようの無い状態となりました。翌昭和50年の設備投資大幅抑制がここに確定したのです。
そして同時期、新たなに入荷した8000系に衝撃が…

〜セイジクリーム誕生〜

ツートンカラーからセイジクリームへ
↑昭和49年度新造分より8000系の塗装が変更されました。(画像は本物ですが、イメージです。)

 昭和49年度分新造の8000系が入荷されました。
6両固定編成が3本(8164F〜8166F),増結用の2両固定編成が5本(8564F〜8568F)の合計28両です。16両(8165F,8166F,8567F,8568F)が本線春日部区、12両(8164F,8564F,8565F,8566F)が東上線森林公園区配置となります。長編成化の時代なんですが、意外に2両固定編成が多いんですよね。
 本線では6両の後ろに2両編成を連結しての8両運転の拡大と、東上線においては当然6両の後ろにつなげる2両という意味合いがありますが、大山対策車関連で4両編成と増結する2両+2両という組成もまた増える為の影響と言えるのでしょうか。

 で、問題は塗装色が変わった事で、それまでのロイヤルベージュとインターナショナルオレンジのツートンカラーからセイジクリーム1色に塗装変更となり、既存の通勤車(2000系、8000系、3000系更新車グループ、73・78型+旧型荷電+西新井工場のモハ1101)が全車これに塗り替えられる事となりました。

・視認性が悪く遠くからでも確認出来る視認性の良い色にする。(白黒画像だと本当にクリーム1色が良く写るんですよね。)
・今後首都圏の通勤車にふさわしいセンスある姿が見られるだろう。

 だそうです。なお、この23年後の1997年に発刊された東武鉄道100年史においてはこの時代クリーム1色の塗装が採用されたがコストダウンの為だったと書かれているので本音はそこです。(ここまでストレートには書いてませんが、苦しい経営時代の為の簡素化って表現をしています)
 何故細くても良いから帯を1本入れなかったかと思いますが、苦しい時代だったというのはもうここまでの記事で痛い程に分かるかと思うのでお察しください。

〜苦難から逆襲へ北千住〜竹ノ塚複々線完成と運賃改定〜

 昭和49年7月1日、北千住〜竹ノ塚の複々線の東京陸運局の審査を受け合格し、翌2日より新たな複々線の使用を開始し複線では限界の1時間30本運転を行っていた状況は大きく改善される事となりました。
 昭和43年頃から複々線工事の準備として西新井駅構内改良を進めましたが、本格的な工事自体は昭和44年の梅島付近立体交差工事の開始であり、わずか5年で複々線を完成させるというスピード工事となりました。現代では考えられないスピードです。こうしてついに関東私鉄初の複々線を完成させ北千住口の輸送を大きく改善させる事となります。

 なお複々線区間の運用については、外側が急行線、内側が緩行線となっており緩急が同一方向に走る方向別複々線となっており、内側を各駅停車の普通と貨物列車が走り、外側を準急以上の優等列車を走らせる方式となっています。貨物列車も通過列車ではありますが、低速走行の為に緩行線走行となっているのが特徴です。
 また上り線複々線区間は竹ノ塚駅は大分前から分岐する事でダンパー線を1線確保し、ここに普通列車1本を収納出来るスペースを確保する事で朝ラッシュ時にダイヤ乱れが発生しても竹ノ塚を通過する優等列車を支障させないといった措置も取られていました。

 昭和49年は私鉄、国鉄とも運賃が値上がりした年でありました。国鉄も大手私鉄もそうでしたが設備投資は膨大なのに国の政策が絡みなかなか運賃が値上げが認可されずにいたので慢性的な赤字を余儀なくされ、鉄道事業以外で赤字を解消しないといけずに私鉄の場合はその他事業があったから良かったのですが、国鉄はそうもいかない状態でした。
 しかしいかんせんオイルショックの影響は鉄道以外の開発部門にも影響を及ぼし、運賃値上げを許可せざるを得ないと国もようやく運賃値上げを認可した訳でした。

 東武だけの話に限定すれば運賃値上げは昭和49年7月20日と前回値上げの昭和45年10月以来3年9か月ぶりであったのですが、実は今回の運賃値上げ申請自体は2年も前の昭和47年であり社会情勢も大きく変わった段階での遅すぎる認可となったので運賃値上げを得てもなお赤字が残る計算となった訳でした。(審査委員会もこれを理解していたそうです)
 この値上げによって国鉄よりも全体的に運賃が高くなりましたが、国鉄もまた10月に運賃値上げ予定であり、この時にはまた東武と同等か若干東武が安い状態となっています。その後昭和50年代に入ってから国鉄は怒涛の値上げラッシュ…これと並行して私鉄も一気に現代の様な運賃へと上がっていきます。

〜本線、東上線相次いで国鉄武蔵野線との接続駅を完成させる〜
本線:昭和49年7月23日ダイヤ改正 新越谷駅開業 複々線活用による輸送力増強
東上線:昭和49年8月6日ダイヤ改正 朝霞台駅開業 森林公園開園による運行形態変更

 現代においては東武鉄道の中でも重要な役割を担う新越谷駅と朝霞台駅であり利用客も上位に位置する主力駅となっています。
 これら2駅の開業が昭和49年であり南越谷駅と接続する新越谷駅が7月23日のダイヤ改正より北朝霞駅と接続する朝霞台駅が8月6日のダイヤ改正より開業となりました。

 <本線側>

 ・新越谷駅の開業(停車は普通のみで準急は通過)
 ・朝ラッシュ時の北千住口増発4本(竹ノ塚始発普通曳舟行き3本、羽生始発準急浅草行き1本)
 →急行線8本 緩行線26本の合計1時間34本体制。
 ・朝ラッシュ時の北越谷〜北春日部1本増発(6両編成普通)
・日光線特急を上下1本ずつ新栃木駅に停車させる。(朝9:27発浅草行き、夜21:16発東武日光行き)
 ・複々線化に伴う北千住〜竹ノ塚運転速度改定。(特急列車で30秒程度の短縮)
 ・急行りょうもう号新運転速度採用(ずっと53・57型時代のままで運転されていたが、1800系就役から約5年となりようやく運転速度改定となった)
 →浅草〜杉戸については最高速度を95km/hから105km/hにアップし、日光線急行列車と同等となり表定速度が最大で14km/hも改善された。
 ※ただしこの速度アップは浅草〜杉戸に限定で、杉戸以北は最高速度95km/hのままでした。

 <本線以外>

 ・野田線柏口朝ラッシュ時6両編成列車2本増加に伴う輸送力増強。
 ・宇都宮線朝ラッシュ時1運用増発に伴う輸送力増強。
 
 今回改正では地上車の8両編成増発は行われていません。理由としては、終点の浅草の容量が限界に達している為でまた今回の改正で増発となった6両編成普通も曳舟が終点となっています。今後本線地上で8両編成を増やす為には曳舟駅の構内改良が必須という状況となりました。(現代と違い当時の千住貨物駅付近は貨物メインのヤードだった為に旅客電車の北千住折り返しを増やすという選択にはならなかったようです。)

 とにもかくにもやっと本線側は複線で1時間30本運転という限界ギリギリの運転から解放される事となり、複々線により1時間に34本もの列車を走らせる事が出来ました。日比谷線や東上線が1時間最大27本(約2分15秒ヘッド)ですからね…。本線がどれだけ無理な運行をやっていたかが伺えますね。
 改めて見てみると、当初ラッシュ時は緩行線メイン(26本)で一部(8本)が急行線を走るといった感じだったんですね。
 また1800系もようやく運転速度改定で本領発揮する事なりましたが杉戸以北の伊勢崎線については軌道の問題等があって速度アップは据え置きとなっていました。


 <東上線側>

 ・朝霞台駅の開業(停車は普通・準急のみで急行は通過)
 ・昭和49年7月22日開園の国営武蔵丘陵森林公園利用客に対応する為の輸送改善
 1:平日休日共に9時〜17時に急行を20分間隔で運行する。
 2:休日の4両編成越生線直通特急3本のうち2本を8両編成の特急森林号・森林公園行きに変更。
 3:上り不定期急行の設定、下り準急増発等含め、森林公園行きの増発を行った。
 ・急行20分間隔化に伴い、従来の日中1時間辺り急行1本準急5本運転から急行3本準急3本の運行体系に変更する。
 →急行と準急が10分間隔で1時間6本運転される間に12本の成増行き、志木行き、川越市行き等を組み合わせて運転する。

 ・急行、特急の停車駅変更。
 特急:池袋・志木・川越・川越市・坂戸町・東松山・森林公園・小川町・寄居 (※坂戸町から先の越生線内は各駅停車)
 急行:池袋・成増・志木・川越から先各駅停車。
 準急:池袋・成増から先各駅停車。
 この改正より特急の停車駅に川越が追加されました。そして急行が川越から先各駅停車に変更されています。

昭和49年8月改正東上線

 ・8両編成運転の拡大。
 朝ラッシュ時の普通列車を更に5運用8両編成とし、ラッシュ時8本の普通が8両編成となりました。
 通勤時間帯の急行列車を6編成から8両編成へ増結。
 ・午後ラッシュ時の運転本数増加と8両編成列車の増発
 準急を3本増発し、それまで池袋を10分間隔で発車していた急行・準急が8分間隔となった。
 またそれまで9本だった8両編成列車を6本増結し15本が8両編成運転となった。

 ・列車速度の適正化による所要時間短縮。
 →運行車両が73型・78型と8000系のみとなった為(荷物電車の11・14型除く)、線路・信号等の改良を行い運転速度の改定を行なった。

 東上線はこのダイヤ改正で更に現代型の運行形態となりました。私が東武を本格的に追いかけ始めた頃には急行15分間隔、準急15分間隔の間に7分30秒間隔で普通が運転するダイヤとなっていましたが、まさにそれを彷彿とさせるダイヤ構成となりました。これも今後益々東上線の遠距離利用客が増える事を見越してのダイヤ改正となっています。
 しかし遠距離客が増える事を見越しているというのは言い換えればこれでラッシュ時間帯の8両化が達成され、いよいよそれに代わる輸送力改善の方法が必要となる事を意味しついに東武鉄道初の10両編成運転を行わないといけない事を意味していました。
 本線側と違い、地下鉄建設も丸の内線の救済として新規に建設されていた有楽町線(8号線)の池袋〜銀座一丁目の開業は間近でしたが池袋から向原を経由しての成増までの建設はまだ始まったばかりでした。その為、東武は自前で輸送力増強をするしか乗り切る道がありませんでした。

 こうして国鉄武蔵野線接続開業に伴うダイヤ改正が本線・東上線共行われましたが、冒頭でも書いた様に現代で実に15万人以上の乗降客を誇る主力駅となった両駅の発展ぶりを考えるとまことに意義の大きい新駅完成とダイヤ改正だったと感じさせられます。
 本線は複々線の完成、東上線は現代型の運行形態への移行と苦しかった昭和40年代も最後になってようやく明るい話題となったかなとも思いますが、本線が改善されれば野田線が悪化するといった感じに輸送力改善の苦難はまだまだ、まだまだ続きます。

 

〜昭和40年代の終わり〜


あぁ、疲れた。やっと昭和40年代が終わった…。昭和50年代。何があるかと思えば、まず昭和50年は昭和49年の不景気の影響をモロに受け、8000系は増備無しとなっていますし冷房改造もわずかに留まる程に設備投資は抑制された所からスタートですが、一方で1年間を置いて増備された8000系からは大きくマイナーチェンジされた事と東上線10両化に伴いいよいよ8両固定編成が誕生する事ですかね。まぁそれ以外も当然いろいろあります。それは次の章でまた触れていきましょう…。先はまだ長い…。


ご覧いただきありがとうございます。
何か間違いとかあればご指摘いただけると凄い有難いです。




2020年05月24日編集
2020年7月、8月改変
(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
→東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション27 東武鉄道 1970〜1980
●鉄道ピクトリアル No:915 2016年3月号 特集東武8000系
→特に東武8000系のプロフィールを参照にさせて頂いてます。
●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)



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