東武8000系の歴史

5-1.昭和50年代:セイジクリームの時代1

クリーム1色時代
昭和50年代はセイジクリームに8000系と同じ顔した車両だらけの時代となります。

 昭和40年代が終わってこれから昭和50年代に突入するのですが、現在の8000系の塗装が誕生したのが昭和60年でありセイジクリーム化が始まったのが昭和49年からという事は昭和50年代というのは丸々東武鉄道の通勤車がセイジクリーム1色だった時代なんだなぁという事です。
 また2000系以外の一般車両は見た目だけで言えばほぼ全てが8000系と同じスタイルの車両となります。本当にそんな時代があったんです。
 どこの路線にいっても、いるのはクリーム1色の車体で8000系と同じ顔をした車両ばかりなのです。
 
↓気になる方だけ見て下さい。有益な情報とは言えず個人的な思いが記載されているだけです。

 このセイジクリームの時代はとにかく地味な時代だったと思います。そんな時代に東武を追っかけた方々は本当に東武鉄道が好きな方々であり、この方々がいたおかげで現代にこうして貴重な記録が残っているのです。
 そういった方々に感謝と尊敬の念を込めて昭和50年代の東武鉄道と東武の通勤輸送を支え続けた8000系の記録をまとめていこうと思います。

〜昭和50年突入 本線、東上線共複々線化工事を着工などなど〜

 終始苦(49)と表現された程に経営的には苦しい昭和49年が終わり、時代は昭和50年代に突入しました。

 この年は前年までの支出増の清算をする年となりました。本線、東上線共に大きなダイヤ改正を行った事で輸送対策に目途がついた事もあってか、車両的には既に進めていた旧型車両(53・58型)の更新工事のみに控え、8000系他新車の新造は行わず冷房改造工事も昭和50年度の後ろの方で8108Fの6両が行われたのみとなりました。

 2020年現代コロナショックの年となっていますが、運行はしないといけないけど利用客大幅減により各社共大打撃を受けたようで設備投資計画についても不要不急なものは削減されるという動きが見られそうです。昭和50年もまさにそんな年だったと考えると想像しやすいかもしれません。厳密には違いもありますが。

 さてそんな状態ではありましたが、何もしない訳ではなく例え財務状況が厳しいから耐える事で済むなら良いのですが、現代と違い昭和の時代は人口は増え続けるから利用客が増え続けるという問題が待ち受けていました。
 結局止まる事が許されない時代なのです。ここが現代と違って苦しい所なんですよね。ただ現代も大きなモデルチェンジを迫られる意味では大変かもしれませんね。

 という訳で本線と東上線共に今後行わなければならない課題として線増(複々線化)工事の準備を進める事となりました。

<本線>竹ノ塚まで完成しましたが、これを北越谷まで完成させる複々線2期工事の着工。
<東上線>地下鉄8号線との相互直通に向けて和光市〜志木までを複々線化する為の用地買収。

 他に細かいのだと急行りょうもう1800系に自動販売機が設置され、これはDRCにも波及していく事となります。

 そしてこの年の夏には53・58型34両の更新工事が完了しました。これらも従来の3000系や3050系同様に18m車の2000系タイプで前面は8000系と同じ車体に載せ替えられましたが、性能違いや取付機器の違いにより3000系や3050系と連結しての運転が出来ない事から形式が4両固定はモハ5100+サハ5200+モハ5300+クハ5400、2両固定はモハ5500+クハ5600として5000系と称される事となりました。

 ブレーキが同じなんだから物理的に連結出来る気もするんですが、何か互換性が無い面があるんでしょうね。あるいは性能が違い過ぎるから…それはあるかも分かりませんね。
 5000系は合計34両が更新されましたが、ほとんどが53・58型時代からの所属であった26両(4両固定4本+2両固定5本)が新栃木に配置されて、一部春日部に配置され臨時列車用として活躍していた8両分は(4両固定2本)七光台に配置され野田線の輸送力増強用として活躍する事となりました。

 またこの年の変化として昭和50年12月20日より優先席(シルバーシート)が開始された事も忘れてはいけません。
 これは昭和49年3月に障がい者雇用促進法の一部が改正された事に伴い、各企業に就職しやすくなった事から障がい者の方が鉄道等の公共交通機関を利用しやすくなった事や道徳上お年寄りを大切にしましょうという事で当時の運輸省より優先席設置の要請があったものです。ちなみに国鉄では山手線や中央快速線で、都営では地下鉄やバスで既に優先席の設定が行われていたそうです。

 大手民鉄では連絡協議を重ね国鉄で既に使用されていた同じシンボルマークを使用する事となりました。このマーク見覚えありますか?何か最近じゃピクトグラム表示がメインとなって見かけなくなった気がします。

優先席シンボルマーク
↑普通車全編成の指定車両にこのシンボルマークが貼られました。なんていうか子供の頃は宇宙人みたいなマークって覚えてましたね。

 東武鉄道でも特急急行を除く電車や熊谷線のキハ2000含めて全編成に貼られる事となりましたが、基本は編成の両端先頭車の車端部に優先席が設定されました。
 ややこしいのが6両編成以上の長編成だと編成両端の車端に設定されるのですが、4両編成や2両編成の場合は4両だと上り方先頭車の車端のみで主に支線や増結用となる2両固定編成は下り方先頭車の車端のみとなりました。
 なお急行用としても走りますが6000系も一般電車として優先席が設定されました。だから2両固定*3本で6両や4両固定+2両固定+2両固定で8両とかになると編成中に3箇所の優先席があるといったイレギュラーな場合も出る訳ですね。
 まぁ現代で言いますと全車両に優先席、当時では無かった車椅子やベビーカースペースが設定されているのですから時代の流れで常に鉄道も変化していると感じる次第です。

 と言う訳で昭和50年というと特段8000系的に大きな話題も無く、あえて言えば優先席のシールが貼られたぐらいですかね。ちなみにシルバーシートって言うとあの青いシートを想像される方がいますがこの時点ではまだシートの張替えは行われていません。あくまで車内外にシールを貼っただけです。昭和52年より開始されたそうです。


〜昭和51年突入 東上線8000系による10両編成運転開始へ〜

 人口はどんどん増えるも都内には居住を建てる土地もなければ地価は高騰するばかりで増え続ける人口は郊外に広がっていく様になりました。この都心に人が住まず、都心を囲う様に郊外に人口が増え続ける事をドーナツ化現象って事で私が小学生の頃は習ってましたがこれも現代では薄れ都心回帰の流れは進んでいます。

 まぁそれはともかくとして、当時はドーナツ化現象は加速し続けそれに加え未開発地域を他に比べ抱えていた東上線は低経済成長下にあっても沿線人口増が予想を超えた程だったそうで、ますます遠距離利用者の増加に伴う通勤通学ラッシュへの備えが不可欠となっていました。
 既に朝ラッシュ時間帯の全列車8両化をしていた東上線において最早遠距離通勤電車の10両編成化をする以外に方法はなくなり、まずラッシュ時の準急列車6本を10両編成化する事となりました。またこの内1本は下板橋に留置し夕方出庫して池袋からの夜ラッシュ唯一の10両編成列車として運転されるという計画となっています。
 朝の10両化される準急も1運用だけ寄居始発ってのがあって森林公園で連結して10両で池袋に向かうというものです。この頃は寄居始発の準急もまだ走っていました。

〜昭和51年度増備・8000系マイナーチェンジ車登場〜

 1975年(昭和50年)は増備無しとなった8000系でしたが、1976年(昭和51年)より増備再開となりました。
 これは東上線では10両運転開始に伴う増備として6両固定3編成18両(8170F,8171F,8172F)、そして本線側は7月20日に迫ったダイヤ改正による増発用としての6両固定3編成と2両固定2編成(8167F,8168F,8169F,8569F,8570F)の合計22両で総数40両分となります。

 これに先立ち6月30日に業平橋駅構内にてアルナ工機製8167Fと富士重工製8168Fのレセプションが開かれたそうです。もう見慣れた8000系なのに何を今更報道公開する様な話なんだ?ってなりますが、この年より8000系はマイナーチェンジされて登場したからであり、後は東武じゃ昨年度は新車が増備出来なかったつまり2年ぶりの新車ってのもあったんでしょうかね。
 という訳で変更点をまとめてみます。(まぁここら辺はもういろんな文献によりほとんど周知の事実ですが…せっかくなんで。)

東武8000系 昭和51年製の変更点(新旧比較)
項目従来の車両今回の車両変更点・理由
台車
鋳鋼製・標準ミンデン台車
住友金属:FS-356,FS-056
東武形式:TRS-62M,TRS-62T
(揺枕):外揺枕式
(空気バネ形状)ベローズ形







鋼板溶接・S形ミンデン台車
住友金属:FS-396,FS-096
東武形式:TRS-75M,TRS-75T
(揺枕):ダイレクトマウント式
(空気バネ形状)ダイヤフラム形(φ520スミライド)
※ベローズ形は横方向に剛性を与えるため座屈やばね定数の温度変化などによるバラツキと改善点があったみたいですが、ダイヤフラム形で解消したみたいです。
1:鋳鋼製台車の製作困難と溶接技術の進歩の為。
→鋳鋼とは予め形成された部材であり、溶接組み立ては考慮されないものでありました。
しかしそれ本体を製造するのには溶接以上に高い技術と経験が必要となる為、熟練者の減少により製造スピードが追い付かない事が懸念されていました。
一方で溶接技術の進歩により溶接組み立てが主流化していったという流れで変更されたと思われます。
ちなみに台車枠の一部は引き続き鋳鋼が使われたそうです。

※実は既に鋳鋼製作困難の関係からモデルチェンジ直前の昭和49年度分より鋳鋼を6分割にて製作しそれを溶接にて組み立てた台車に変更されていたのですが、その対応でも限界に来ていた程だったとの事です。

2:乗り心地改善
→枕バネ形状を変更し、台車枠下部から上部に位置を変更した。
→軸バネを従来のコイルバネからエリゴバネに変更。
※エリゴバネは金属コイルばねをゴムで覆ったもので、
金属ばねに見られる振動の軽減に効果があるようです。

3.構造の簡略化による部品数減少と保守面で有利になり、軽量化も達成。
→軸距が短い分従来台車より全長が約100mm短縮された。
車体・ぎ装 床構造フラット鋼板に床シート張りSUSキーストンプレートにユニテックスを充填し平滑に仕上げ、その上に床シート張り保温・防音効果の向上の為。
※ユニテックスとは合成樹脂・合成ゴム類と各種骨材によって作られる軽量床詰材の事。
側窓ガラス3mm普通ガラス3mmセミ強化ガラス安全性向上(破損防止)の為
引戸類室内外共塗装処理室内をステンレスヘアライン仕上げの無塗装とする塗装省略による簡略化の為
引戸外部ゴム無戸挟防止指保護ゴム設置挟まれによる傷害事故防止の為
忍錠心棒付カム式箱錠式不法侵入防止
連結装置2両間棒連結器3両間棒連結器永久連結部増による作業簡略化と費用低減化
車掌スイッチ摺動による接点開閉方式スプリングによる接点転換開閉方式(早切装置付)電流遮断容量増加(長編成化対策)
ネジ類旧ネジISOネジ標準化

 ネジ類をISOネジに変更したいというのはメーカー側からの希望だったとの事ですが、現場サイドとしては複数の種類のネジとなると管理が大変になると反対もあったそうです。しかし当然世の中の動きで古い物を使い続けるとなると管理は楽でもコストの面で不利となってしまう為に結局はISOネジの採用となったとの事でした。
 またよく言われるのは台車の件ですよね。こうしてみると新しいS型ミンデン台車は細かい所で改良されている様に見えるのですが、意外にも乗り心地の差は全く感じられません。というか標準ミンデン台車の方が乗り心地が良いと言われるぐらいで確かに私も聞いた事があります。
 正直な所差が全然分からないのですが、やはり多くの部品部材が組み合わさって完成するものですから、コイルバネをエリゴバネにしても他の部分で良し悪しがあれば乗り心地の改善とまでは行かないのかもしれませんね。ここら辺は難しい所です。
 ただやはり初期の標準ミンデン台車が優秀な造りだったのかなと思うところはあります。

 これプラス、床下機器も変更されておりCPはHB-2000CAのままですが、配置が全て線路と平行方向になっておりまた元空気ダメが小型3本から大型2本に変更されています。それ以外にも屋根上の冷房機器カバーのルーバー部(排気ガラリ)の形状が四角から五角になったり、冷房装置が低騒音化されたりといろいろと改良されたり変更されたりしました。

 とまぁこんな感じで1年ストップした8000系の増備がまた再開しました。

〜昭和51年7月20日 本線ダイヤ改正(曳舟駅亀戸線専用ホームの完成)〜


 昭和51年7月20日に本線ダイヤ改正が実施されました。昭和49年の複々線後ダイヤ改正から約2年ぶりの改正となります。
 昭和40年9月のダイヤ改正でラッシュ時の運転本数が5分ヘッドに増発していた亀戸線ですが、実はこの改正までは曳舟駅では本線とホームを共有していました。
 というか今更気付いたんですが、現代の亀戸線はラッシュ時は5分ヘッドではなく7分ヘッドなんですよね。意外や意外、減らされているんです。これは半蔵門線直通が始まった2003年改正だそうです。

 いきなり亀戸線の話からスタートしましたが、本線でこのダイヤ改正からお馴染みの曳舟駅亀戸線専用ホーム5番線が使用開始となりました。
 これは前回ダイヤ改正で複々線化により竹ノ塚始発普通列車が3本増発され限界にあった北千住口の輸送状況改善につながった訳ではありますが、浅草駅が特殊な構造ゆえに既にラッシュ時の増発が不可能となっていました。
 という訳で前回改正で増発された3本がいずれも曳舟行きとなった訳です。そして今回更に北千住口を増発するのですが、今回増発分もやはり曳舟止まりとするしかありません。しかし5分間隔で走る亀戸線と本線の電車が共存するに辺り、これ以上曳舟止まりの電車を増やすのが困難となった為に、曳舟駅亀戸線専用ホームが誕生した。という流れです。

 さて、今回ダイヤ改正の変更点ですが、

1:平日朝ラッシュ時に6両編成の準急列車3本の増発(全て杉戸始発の曳舟行き)
→これにより竹ノ塚〜北千住間の朝ラッシュ時は緩行線26本(地下鉄17本・地上9本)、急行線11本(準急等)の最混雑時の1時間は合計37本体制にまで増発されてます。
2:平日4両編成で運転されていた2運用にそれぞれ2両編成増結して6両運転とする。
→これは休日ダイヤだと運用に余裕があるので6両で運転出来ていた列車だが、平日は運用に余裕が無い為に止む無く4両で運転されていたものを増結するという流れ。
(浅草6:23発伊勢崎行き全区間と東武宇都宮6:38発浅草行きの新栃木〜浅草間の2本です。いかにも4両じゃ足りないって感じの運用ですね。)
3:平日・休日共に夜ラッシュ時間帯に普通を準急に格上げし、準急を増発する。
→遠距離利用客が増えて速達性の高い準急に乗客が集中する流れが起きていた為。

 大きくはこの3つです。この平日ラッシュ時の増発と増結用に8000系が22両が増備され、春日部検修区では電留線が3本増設されました。
 また曳舟駅構内改良により亀戸線専用ホームが出来たのと同時に玉ノ井方に上りから下りへの渡り線が新設され、曳舟止まりがそのまま折り返せる様になりました。となると…それまでの曳舟止まりは業平橋方面まで行って折り返してたんですかね。

 こうして曳舟駅亀戸線専用ホームが完成し、亀戸線列車は回送等本線直通運転以外は専用ホームからの発着となりました。


〜昭和51年11月1日 東上線8000系による10両編成運転開始〜

 創立79周年記念日となった1976年(昭和51)年11月1日より東武鉄道初の10両編成運転が東上線で開始されました。昭和42年12月から8両運転が開始されてから9年。ついに編成が10両にまで伸びました。

 今回8000系6両3編成18両増備により2両編成や4両編成の運用を調整し、従来8両編成で運転していた池袋に7:52〜8:36の最混雑時間帯に到着する6本の準急が10両編成に増結される事となりました。一部はそのまま森林公園に折り返さずに下板橋に留置され、夕方だと1運用(池袋17:15発準急)が10両編成で運転されます。

 この10両編成運転を行う為に池袋から森林公園までの準急停車駅(ときわ台含む)のホーム延長工事が行われ各種工事が行われました。

1:ときわ台駅ではホームが狭い事からホーム中央付近に両側階段の地下歩道が新設され旅客誘導を円滑化する様に改良しました。
2:朝霞駅では複々線工事を見据えてなのか構内が広々していました。この10両化に伴い下り本線が全体的にカーブする配線となっていたので、ホーム直線側を通せる様に配線変えを実施。
3:下板橋留置線や森林公園検修区の留置線を一部10両編成に対応する為に延長工事実施。
4:成増、新河岸、霞ヶ関の各駅では分岐器の改良、曲線改良を実施。
5:坂戸駅(昭和51年坂戸町から改称)では越生線を含めた構内配線改良の実施。
6:板橋、練馬、朝霞、鶴瀬、高坂等の各変電所で増強工事の実施。
7:ホーム延伸に伴う信号機等の移設等。

 などなど様々な改良が行われました。

 こうして東上線で10両編成運転が開始されました。一方で平日朝ラッシュ時の普通は大半が6両編成のままとなっており、一部の最混雑時間帯の普通6運用だけが8両化されていました。まだまだ輸送改善が必要な状態であった事には変わりません。
 これを解決する為には大山駅の第14号踏切の地下道切り替え工事による大山駅ホーム延伸が必要となっており、この工事が進められていました。
 この大きな動きに付随して東上線では翌年には新駅の開業が控え、更にはオイルショックによりストップしていた東松山〜森林公園の複線化工事も予定され更なる輸送改善の動きがすぐそこまで迫っていました。
 今回はダイヤ改正ではなく10両運転化開始となっていますが、翌年には大きな白紙ダイヤ改正が実施される事となります。それはまた後程紹介となります。

〜昭和51年12月28日 優等列車料金改定と日光線・快速急行の誕生〜

 8000系と関係無い話題が時折入りますが、昭和51年12月28日に表題の通り優等列車の料金が改定されました。要は値上げです。
 これによって下記の様に運賃が改定されています。
昭和51年12月28日優等料金変更
それまで変更後
種別運行区間
列車
料金種別運行区間
列車
料金
特別急行
(特急)
伊勢崎線・日光線
DRC(けごん・きぬ)
650円(全区間)特別急行
(特急)
伊勢崎線・日光線
DRC(けごん・きぬ)
800円(全区間)
急行伊勢崎線りょうもう
(1800系使用)
60kmまで200円
60km超区間
350円
急行伊勢崎線りょうもう
(1800系使用)
60kmまで300円
60km超区間
500円
急行日光線だいや・おじか
(6000系、5700系使用)
200円(全区間)快速急行日光線だいや・おじか
臨時夜行列車・奥日光
(6000系・5700系使用)
300円(全区間)
(臨時)
座席指定
日光線方面の臨時列車
奥日光(夜行列車)
(6000系使用)
150円(全区間)座席指定列車の廃止
奥日光はこれ以降快速急行として運転

 こんな感じでそれまで急行は伊勢崎線と日光線で違いがあったんですがそれの差別化として急行と快速の中間的存在として快速急行が生まれ日光線急行は快速急行として走る事となりました。現代で言うと快速〇〇って方が上位に位置するのが常識になっている感じがありますが、まぁとにかく分かりやすさって意味でこうしたんでしょうね。こうして日光線にはしばらく快速急行という種別が走る事となります。
 またこの時に従来、夜行臨時の快速奥日光等で座席指定料金を徴収していた座席指定列車というのが廃止され快速急行に統一される事となりました。
 これ作って思ったんですが、いつの間にか大宮始発の臨時急行りゅうおうとか消滅してましたね(汗)※2年程で終わったそうです。

 運賃改定の件ですが、東武が値上げしたと言っても昭和51年に国鉄が大幅値上げをしていたので都内から日光で言えば東武が全然安い事に変わりはありませんでした。(運賃で言えば浅草〜東武日光が860円に対して国鉄の上野〜日光が1280円です。もう圧倒的です。だからDRCを使っても1680円で行けちゃうんですから勝負にならない状況でした。
 ちなみに上野から日光までグリーン車を使うとそれだけで3000円でした。運賃加えると4280円。DRC往復と国鉄グリーン車片道ですら圧倒的に東武が安いというね…。

 国鉄もこの昭和51年の運賃改定まで、物価は上がり生活はどんどん豊かになるのにロクに運賃値上げがされなかった事でこの頃になるとバーゲン価格と言われる程に安くなっていました。
 しかし昭和40年代に入り赤字額は年々膨大となり、昭和50年末には大規模なストライキ(スト権スト)が発生し大変な混乱を招いた事で更なる国鉄離れを招き、それまで練られていた再建計画も頓挫し本当はもっと値上げしないと無理な状態であっても国民への配慮からか値上げ率は大幅に抑えられたそうです。
 それでも昭和51年運賃改定では初乗り・入場料金が30円から60円と2倍になりました。
 この時程極端な大幅値上げを実施した例は後にも先にも見られないと思うんですが、それに留まらず国鉄はこれ以降、毎年の様に運賃改定が恒例となり国鉄分割民営化前までには消費増税による値上げ分を除いた現代の様な運賃体系が出来上がっていく事となります。
 上述した様に、国鉄運賃値上げ後は上野〜日光のグリーン車料金だけでDRC往復分の値段になる訳ですが裏を返せば値上げ前は逆に安価な設定だった為にそこそこの値段で高いサービスが受けられるからとグリーン車は好評だったらしいですがこれ以降は空席が目立つという事になったそうな。まぁ確かにバーゲンって言えたんでしょうね。

 と言う訳で国鉄もそうですが、私鉄も民間企業でありながら運賃改定は国の許可が必要って事でなかなか上がらない状態が続いたのでした。
 ようやく私鉄も国鉄の流れに乗って運賃値上げが認可されやすくなっていく訳ですが当然運賃値上げの認可には条件が必ず伴います。許可を出す側としても単純に赤字だからだけでは済まないのでより一層のサービス向上等も要望されています。
 これに対し、優等車両に対して乗り心地改善の為の改修等を行ったりと快適性居住性を向上させるという結果も出さないといけないという事となります。
 細かい所ではDRCとなった旧1700系の台車を改良し乗り心地の改善につなげたりとか、大きい所では急行りょうもう1800系を4両編成から6両編成に増結したりとかの動きにつながっていきます。

 なお新たに誕生した快速急行という種別ですが、これのヘッドマークは当初無かったのですが昭和52年4月より完成し使用開始となっています。
快速急行HMとか
↑この時新たに製作された快速急行だいやとおじかのHMに挟まれた快速奥日光のHMです。
奥日光も快速急行の時代はしっかりと上から快速急行のシールを被せた上でこのHMが使われていました。
たびじ号とか林間学校のHMとあの時代は様々なHMが掲出されていました。

 あと細かい所では昭和52年2月1日よりシルバーシート部分を張り替えた車両が登場しました。最初は6122号車だったようです。これ以降通勤車含めてシルバーシート部のシートはシルバー色(水色系という感じ)に張り替えられていきます。

〜東上線全線自動化達成と初の8両固定編成誕生へ〜

 昭和52年5月1日より東上線小川町〜寄居で単線自動化運転が開始され、ようやく東上線全線(越生線含む)がATSに対応する事となりました。小川町〜寄居間はこの時までタブレット閉塞だった…という訳です。想像もつかないですね。
 この時まで寄居駅では秩父鉄道に乗り入れている関係で信号保安設備の維持管理を秩父鉄道に委託していたそうですが、今回のATS化で自社による維持管理に変更となったとの事でした。

 この頃昭和52年度の8000系新造車が完成しました。
 今回から8000系初の8両固定編成が誕生し全5編成40両(8173F,8175F,8177F,8179F,8181F)が森林公園検修区に配置となります。8両固定編成は上り方からクハ8100+モハ8200+モハ8300+サハ8900+サハ8900+モハ8200+モハ8300+クハ8400という組成となっており新たにサハ8900形が誕生しています。これは4両固定編成を2本連結した場合のクハ8400+クハ8100をイメージして貰い、ここからクハに必要な設備を除いた純粋な中間付随車という形態としてサハ8900+サハ8900となっています。
 また今回の8両固定編成からは同じ編成内にモハ8200+モハ8300のユニットが2つ連結される事となったので番号のつけ方を上り方が8273+8373となり下り方を8274+8374とする事となり、クハ8100は8173ですが、クハ8400は8474という事で末尾の番号が合わないという事になりました。中間サハは8973と8974ですね。即ちクハ8100とクハ8400で空き番が出るので8174Fとかいう編成は存在しない事になります。

 なお昭和52年5月25日しゅん功分として8173F、8175F、8177Fの3編成がダイヤ改正に先立ち運転を開始するのですがこの頃はまだ8両固定編成の検修設備が整っていなかったという事で中間のサハ2両を抜いて、4M2Tの6両編成で運転されています。
 後述しますが6両固定3編成が本線へ転属するタイミングに先立ち8173Fと8175Fは早々に6両編成にされました。抜かれたサハ2両は森林公園区の特定の場所に固めて留置されていたそうです。流石にMT比が違うから単独運用に使われたんですかね?大山対策もしてなかったでしょうしそう考えるのが無難でしょうか。

 その後7月25日しゅん功分として8179Fと8181Fが落成しましたがこの編成は8両のままで8173F、8175F、8177Fは10両運転開始直前の10月19日、20日に8両編成に組成し直されたそうです。

〜昭和52年8月2日野田線ダイヤ改正〜
全線での6両運転開始と8000系による初の冷房車登場

 昭和49年7月改正で柏口の4両運転2本を6両編成にして以来、野田線では輸送改善がストップしていました。というか本線、東上線の状況が大変だったのでそちらを優先し野田線に手を出せない状態が続いていたというのが正解なのかもしれません。経営状態も宜しくなかったですしね。
 しかしこの3年の間に野田線ラッシュ時の輸送状況はとんでもなく悪化し、大宮口、柏口、船橋口全てで朝ラッシュ時間帯の混雑率が200%を超える程に悪化しました。
 特に柏口は常磐線複々線化による利便性増も手伝ってか驚愕の混雑率243%を記録していたそうです。本線、東上線だと200%を超える頃には輸送改善を行いその都度200%を割る様に対策していたのですが、そんな感じで両本線への対処に尽力していたら野田線が本線以上に大変な事になってしまうという事です。本当に当時の状況を想像すると頭が痛くなりますね。

 しかし柏口は当時まだ初石〜柏が単線となっており、これ以上本数を増やす事が出来ない状態だったので6両編成を増やすしか無かったのですがそうなると野田線全線での6両編成での運転が必要となりました。
 ちょうど大宮口の輸送状況も悪化していたので大宮〜七光台でも6両編成が運転出来る様に南桜井〜大宮のホーム延伸工事や各種設備改良、構内改良が行われる事となりました。(ちなみに東岩槻と川間は既に6両対応だったそうです)
 そして今回は柏口で6両編成運転を増やすのがメインとなっていますが3000系初の6両固定編成もこの時誕生しました。4両固定編成が32本いたのですが(3050系2編成含む)、このうち3000系4両固定8本を6両固定4本と2両固定4本に組み替えるという動きが発生しました。

 そして最後に8000系の投入です。ついに野田線に初めて8000系が投入される事となりました。
 流れとしては昭和52年度は8両固定5編成の8000系が新造されましたが、東上線輸送改善に必要な分は20両となっています。だから40両を森林公園区に投入した事で20両分の余剰が発生します。この時に昭和51年度に投入された8170F,8171F,8172Fの3編成と昭和49年度製造分の8566Fの新しい車両達20両が春日部区に転属となりました。
 そして更に春日部区から4両固定編成の8118F,8126F,8128F,8129F,8138Fの5編成が野田線七光台区に転属となったのです。つまり昭和52年度の40両で車両増となったのは東上線20両と野田線20両となります。

編成番号転属時期転属先転属理由
8172FS52(1977)/05/24森林公園→春日部東上線増備20両に対し40両を投入したので余剰分の20両を本線へ転属させる為。
8171FS52(1977)/06/04森林公園→春日部
8170FS52(1977)/06/07森林公園→春日部
8566FS52(1977)/06/09森林公園→春日部
8118FS52(1977)/06/03春日部→七光台目的は野田線への冷房車投入の為。4両固定5編成20両を七光台区へ転属させるにあたり、上述20両の玉突き転属が実施されました。
8126FS52(1977)/07/31春日部→七光台
8128FS52(1977)/07/31春日部→七光台
8129FS52(1977)/07/31春日部→七光台
8138FS52(1977)/07/31春日部→七光台

 何故野田線に8000系を投入となったかと言えば輸送力増強もありますが、冷房車を野田線にという意味合いが強かったと考えます。当時4両固定編成の冷房車はわずか6編成しかいなかったのですがその内の5編成を七光台区に集中投入しているからです。
 性能的に言えば3000系メインの運転曲線となっている所に8000系を投入してもノンビリ走るだけなので車両には優しいでしょうが過度に性能を抑える車両投入は効率的な話とは言えません。
 大型車なんだから輸送力増強に最適だという事もありますが、それなら大量にいる8000系非冷房車でも良いですし走行実績もある78型でも良いでしょうし新栃木区から5000系2両固定編成とか館林区から3050系を転属させて6両編成を増やすなりした方が運用面でも使いやすいはずだったと思います。
 しかし野田線に冷房車をという思いが優先され、効率的ではないですが野田線に8000系投入となったのです。冷房改造されたばかりの編成も投入されているので新車と同等な意味合いを持ちます。

 やはり度重なる運賃改定をしているにもかかわらず野田線は本線以上の混雑率の悪化といった感じに全くサービスの改善がされていないという事で利用者の心象も悪かったと想像出来ます。
 というか運賃改定するのにいつまでも悪い状況で放置するなとお上から怒られたのか社内で問題視されたのかは分かりませんが、とにもかくにも冷房車を投入しないといけない時代を迎えていたと言えます。

 と言っても今回改正のメインはとにかく輸送力アップが一番の目的なのですから6両運転の増発が最優先でした。ダイヤ改正と言いつつ時刻の変更はわずかで5000系(※後の3070系)2編成に続き、8000系5編成が4両でしか運転出来ないので運用固定編成となるので運用番号の変更がメインだったそうです。
 だから6両編成が可能で輸送力に特化した3000系と冷房車で快適な輸送を提供する8000系とでそれぞれの役割が違ったのも面白い所かなと思います。(8000系よりも3000系の方が輸送力に優れるっていう表現は本当に不思議な感じです。)

 この改正で大宮口ではラッシュ時3本が6両編成に柏口ではラッシュ時3本から6本に6両編成運転が増えて混雑率の緩和を図る事が出来ました。また8000系も大型4両編成なので輸送力の増強という意味でも効果が出ます。
 一方で船橋口は今回大きな変化は無しとなっていました。
 当然このまま放置していて無事で済むはずが無いのですが、船橋口は線路容量とか目立った車庫が六実にあったぐらいなので運用的に増発が困難となっていました。
 ですので次は大型車両による6両運転が必要となってきます。また柏口もこれ以上本数を増やす為にはいよいよ初石〜柏の複線化が必要となってきておりこれらの工事が今後進められていく事となります。

 という訳で久々に参考文献もあったので、配置表作成です。

8000系電車配置表(S52/1977年8月31日現在)
所属箇所8両固定編成6両固定編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
配置なし (冷房車)
8101F,8102F,8103F,8104F,8157F
8158F,8159F,8160F,8165F,8166F
8167F,8168F,8169F,8170F,8171F
8172F
6両固定16編成96両
4両固定13編成52両
2両固定32編成64両
合計212両
4両固定編成2両固定編成
(冷房車)
8116F

(非冷房車)
8117F,8127F,8130F,8131F,8132F
8139F,8140F,8144F,8145F,8146F
8147F,8153F
(冷房車)
8518F,8519F,8521F,8566F,8567F
8568F,8569F,8570F
(非冷房車)
8515F,8516F,8517F,8520F,8522F
8523F,8524F,8529F,8538F,8539F
8540F,8542F,8543F,8544F,8545F
8546F,8547F,8550F,8553F,8555F
8556F,8557F,8558F,8560F
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
8両固定編成6両固定編成合計
(冷房車)
8173F,8175F,8177F,8179F,8181F
(冷房車)
8105F,8106F,8108F,8109F,8110F
8111F,8112F,8113F,8114F,8156F
8161F,8162F,8163F,8164F
(非冷房車)
8107F
8両固定5編成40両
6両固定15編成90両
4両固定23編成92両
2両固定36編成72両
合計294両
4両固定編成2両固定編成
(非冷房車)
8115F,8119F,8120F,8121F,8122F
8123F,8124F,8125F,8133F,8134F
8135F,8136F,8137F,8141F,8142F
8143F,8148F,8149F,8150F,8151F
8152F,8154F,8155F
(冷房車)
8502F,8563F,8564F,8565F
(非冷房車)
8501F,8503F,8504F,8505F,8506F
8507F,8508F,8509F,8510F,8511F
8512F,8513F,8514F,8525F,8526F
8530F,8531F,8532F,8533F,8534F
8535F,8536F,8537F,8541F,8548F
8549F,8551F,8552F,8554F,8559F
8561F,8562F
野田線
七光台検修区
(七光台)
4両固定編成2両固定編成合計
(冷房車)
8118F,8126F,8128F,8129F,8138F
配置なし 4両固定5編成20両
合計20両

 今回から冷房車、非冷房車も記載してみました。
 そしていつの間にやら転属が滅茶苦茶行われていました。
 8115Fと8125Fと8513Fと8514Fと8537Fが森林公園に転属し、8144Fと8527Fと8539Fと8540Fと8547Fと8553Fと8558Fが春日部区配置になっています。
 転属時期と理由についてはこれだと根拠がある物もあれば、推測で記載している内容もありますが…

編成番号転属時期転属先転属理由(推測含む)
8125FS47(1972)/09/02春日部→森林公園3500系の野田線転属の為?
8513FS48(1973)/06/12春日部→森林公園大山対策車増備の為
8144FS49(1974)/06/03森林公園→春日部昭和49年7月改正本線増備用
昭和49年度増備28両は全て本線増備用でしたが、東上線へ冷房車12両を投入しこれの調整用として非冷房車12両を春日部区へ転属させる為の動き。
8540FS49(1974)/06/03森林公園→春日部
8547FS49(1974)/06/05森林公園→春日部
8553FS49(1974)/06/05森林公園→春日部
8558FS49(1974)/06/05森林公園→春日部
8537FS49(1974)/07/22春日部→森林公園8539Fと入れ替え。大山対策車に改造される。
8539FS49(1974)/07/22森林公園→春日部8537Fと入れ替え。
8527FS51(1976)/07/07森林公園→春日部昭和51年度増備分の調整?
(東上線は増備16両に対し18両が投入された為)
8514FS51(1976)/10/01春日部→森林公園10両化に伴う冷房改造中車両調整分?
(森林公園区の6両編成が冷房改造中)
8115FS51(1976)/10/13春日部→森林公園

 これだけ転属が多発していた理由としては冷房改造と冷房車両の配置調整が挙げられると考えられます。移動している車両達は全て非冷房車ですから冷房改造車が運用出来ない時の補填だったとか数の調整だったとかいろいろ考えられますね。大山対策車の入れ替えも起きているのも面白い所です。
 やはり意図的に野田線に冷房車を配置する時代ですから、当然冷房改造が行われる度に本線、東上線でその両数を調整していたというのは十分に考えられますし納得がいきます。
 だからこの後も頻繁に転属が発生していたと思います。細かい動きを全ては分かりませんが…記録がある時代の奴は憶測交えながら載せていこうとは思います。

〜昭和52年10月21日東上線白紙ダイヤ改正〜
<みずほ台駅開業・大山駅ホーム延伸・東松山〜森林公園間複線化>

 昭和52年10月21日に東上線で白紙ダイヤ改正が実施されました。昭和49年8月の朝霞台開業のダイヤ改正以来の改正となりますが、昭和51年11月から運転開始した10両編成列車の増発も実施されますが何より大きいのは大山駅のホーム延伸が完成した事により大山対策車という特殊扱いが解消した事による普通列車の8両編成列車が大幅に増えた事と言えそうです。
 また意外に昭和46年3月の森林公園駅開業当初から実に6年半も東松山〜森林公園間は単線区間のままとなっていました。
 東上線・越生線電車が所属する車両基地ですので当然大量の車両の入出庫があるにも関わらず単線区間を走らないといけないって事でダイヤ編成上のネックとなっていました。それが今回ようやく解消されます。
 しかし一方で東松山駅は中間駅に格下げとなってしまい広大な構内は2面4線から2面2線へと縮小整理されてしまう事になりました。また川越市駅でも8両編成増発に伴い更なる構内改良が行われています。

 今回改正ではいろいろと変わりました。
1:志木〜鶴瀬間にみずほ台駅が開業。(準急と普通のみが停車)
2:大山駅ホームの延伸(8両編成に対応)
→上り方2両締め切りという特殊運用終了。
3:東松山〜森林公園の複線化
→森林公園駅は構内配線改良と増発に対応すべく上りホームに副本線を新設し、2面4線となる。
→東松山駅は停留場に格下げに伴い、2面2線の相対式ホームとなり、信号扱い所や各分岐器、不要となる軌道を撤去。
4:越生線増発の実施
→ラッシュ時は15分間隔から12分間隔となり、日中も30分間隔から20分間隔と大きく増発されました。
5:越生線直通特急の廃止
→しかし休日運転されていた池袋始発の越生行き直通特急が廃止される事となりました。
6:ラッシュ時の増結、増発
→朝ラッシュ時最混雑時間帯の準急列車2本を10両編成化し、普通列車が一気に9本も8両編成に増強されました。
→夜ラッシュ時は準急3本を10両化し、普通列車は10本も8両編成化されました。また6両編成だった準急3本と急行1本が8両編成に増強され、20:00〜21:00の間の急行と準急が15分間隔だったのを10分間隔に増発しています。
7:急行列車の増発
→日中時間帯で遠距離利用客や森林公園利用者への対応として急行本数を増発しています。
8:荷物電車の廃止
→自動車運送への移行によりついに東上線から荷物電車が廃止されました。
9:特急列車の愛称変更(したと思われる)
→この改正からかは確信持てないのですが、翌昭和53年春には特急の名称が変更されていたのでそれならこの改正の時じゃないかなと推測している所もありです。ちょうど越生特急も廃止されましたし。
 ちちぶ→みつみね 森林→むさしの へと変更。森林って分かりやすいんですが地味な感じが強いので むさしの の方が良さそうではあります。

 それまでは上下合わせて14本運転されていた特急ですが越生特急が廃止されてからは上下10本に削減されています。まぁセイジクリーム1色のロングシート8000系で運転される味気ない特急はあまり乗車率が芳しくなかったみたいです。
昭和50年代の東上特急HM
↑昭和50年代のセイジクリームにこのHMの組み合わせが有名です。現代の交通安全HMの元ネタですね。
サボタイプに比べると見栄えも良いのですが、果たして何時から使い始められたのでしょうか?

東上線昭和52年10月改正

 という感じで大掛かりに変化しました。長編成化はますます進んでいきますがやはり大山駅のホーム延伸が完成したのが一番効果が大きかった様に思えます。この大山駅問題解決で東上線は一気に長編成化が加速していきラッシュ時の普通の大半が6両編成だったのを一気に8両編成に増強していきます。
 一方で荷物電車の廃止と越生線直通特急の廃止と鉄道マニア的には寂しい改正となっている所はありますね。

〜昭和53年度新造車36両投入 列車無線導入に伴う準備工事実施〜


 昭和53年(1978年)4月1日より列車無線1期工事が完成し列車無線の使用開始となりました。
 当初対応エリアは伊勢崎線の浅草〜館林と日光線杉戸〜東武日光までとなっていて、対応車両もDRC全編成と1800系全編成と6000系の一部編成(6編成だけ)のみとなっていました。
 列車無線とは今では当たり前の設備なので詳しくは書きませんが、それまで無理だった列車乗務員と指令室とが直接連絡が取れる様になった事ですね。細かい区分けとかは長くなるので割愛します。

 その動きもあってか昭和53年度増備の8000系からは列車無線準備工事が施された状態で完成しています。
 他でも細かい変化がありました。
 ラッシュ時の対策として網棚の下に掴み棒が増設されました。昭和の殺人ラッシュ時代にもかかわらず実はこの時まで網棚の下に掴み棒が無かったんです。
 現代ではスタンションポールや吊手の増設等がされていますがこれらが十分で無い時代は網棚先端や窓ガラスに手を押し付けて耐えていたんでしょう。大変だったろうなぁ…
 車両側の話だと電動空気圧縮機に除湿装置が設置されました。そして目立つ所だと正面の行先種別表示幕がそれまで白地に黒文字で表示されていたのが行先表示は青地に白文字、種別表示は赤地に白文字に変更されました。
 いずれの変更も従来車にも順次施工されていくのですが、幕については種別側だけ変更したり行先側だけ変更したりという事で過度期は様々な組み合わせが見られたそうです。
 また森林公園区に配置された車両のみは先頭車の側面サボ受けが省略されたとの事です。使ってなかったからなんでしょうかね。

 といった感じで一部省略してはいますが、昭和53年度増備車両として8両固定4編成(8183F,8185F,8187F,8189F)と4両固定1編成(8191F)の合計36両が増備されました。
 ただし純粋な増備数としては本線10両、野田線8両、東上線18両となるのでまた転属によって車両数の調整が行われています。特に8両固定4本32両が投入された東上線から14両が転属となります。

編成番号転属時期転属先転属理由
8565FS53(1978)/09/19森林公園→春日部森林公園区余剰増備分調整。
8141FS53(1978)/09/19森林公園→春日部
8115FS53(1978)/10/05森林公園→七光台本線から東上線へ転属して数年。今度は野田線へ飛ばされます。いずれも1年前に冷房改造済みでした。
8125FS53(1978)/10/05森林公園→七光台

 と言う感じで春日部区に8191Fと8141Fと8565Fの10両、七光台区に8115と8125Fの8両という形で配置される事となりました。
 これら増備車両を使ってのダイヤ改正と車両増結の動きは後述します。

〜昭和53年11月8日 東上線8000系18両増備による増結実施〜


 という訳で8両固定4編成が配置された東上線では11月8日より車両増結が行われました。着ぶくれによる混雑悪化が激しくなる冬場を迎えての対応です。
 今回はラッシュ時最混雑時間帯の普通で6両編成だった車両の8両化と最混雑時間帯後の急行の8両化や10両化が実施される事となりました。
 普通では上板橋始発の1本と成増始発の5本の計6本が8両編成に増強され、急行ではときわ台停車準急運行時間帯終了後の池袋8:54着と9:03着の急行をそれぞれ8両から10両編成に6両から8両編成に増強しています。(池袋9:00着に6両の急行…厳しいですよね)

 部分的にだけ見ると大きな変化に見えませんが全体で考えれば10両化は前述した急行運用のみですが、夕ラッシュ時の普通でも増結が実施された結果平日で上下97本もの列車が一気に6両から8両に増強されたのです。まさに大山駅ホーム延伸効果の大きさを表しています。

 しかし一方でラッシュ時最混雑時間帯の列車は全て10両なり8両に増強され特に準急は10両化が完了している状態なので今後の輸送力増強には普通の10両化が必要となってきていました。
 また首都圏でも他に比べると開発の余地がまだまだ残されていた東上線はますます利用客の増加が見込まれ更なる新駅の建設も進められていました。みずほ台開業時同様に新駅開業を控えた翌年に東上線はまたダイヤ改正を実施する事となります。
 営団有楽町の延伸までは輸送力増強との闘いがひたすら続くんですよね…。

〜昭和53年11月14日 本線・野田線ダイヤ改正〜
本線:準急初の8両運転開始と8両運転区間の拡大
野田線:初石〜柏複線完成による輸送力増強


 昭和53年度車両増備の所で本線10両、野田線8両の車両増備という事でこれらを活用してのダイヤ改正を実施する事となりました。
 東上線はダイヤ構成がシンプルなので増結をメインとして頻繁にダイヤ改正とは行きませんが本線側は朝と夜での利用状況が異なる事もあってか朝もそうですし夜ラッシュの変更も実施する事が多かったです。
 
 まず本線側の変更点ですが、
1:朝ラッシュ時で普通の8両化に続いて、初めて準急の8両運転を開始する。
→これは今まで杉戸始発だったのを幸手始発に変更し幸手から8両編成で運転する。
2:夕ラッシュ時の準急の増発の実施
→前回改正に引き続き夜ラッシュ時は速達性の高い準急に利用客が集中するので準急の本数を増やすもの。
3:浅草駅4番線ホーム客扱いの変更
→改正とちょっとそれますが、4番線は海側が降車専用5番線側を乗車専用としていました。しかしホームと車両の隙間が非常に大きい事から5番線側の乗車は2扉車に限定し4番線停車の2扉車以外は乗車も降車も4番線側から実施する。という扱いに改められたようです。

 幸手からの8両運転開始の為に幸手の各ホーム延伸と杉戸駅では上り本線限定でのホーム延伸、曳舟駅では既に上り本線は8両対応だったのですが実は折り返し電車専用の上り副1番線ホーム(4番線)が8両未対応だった為に延伸工事がそれぞれ実施されました。
 こうして今まで北春日部までだった8両編成運転が幸手から可能となりました。しかしこれまた微妙で間にポツンと挟まれた姫宮はこの時点で8両に対応していないのであくまで杉戸と幸手は上り準急だけが8両で運転出来るよ。という所に落ち着いています。
 しかし何度も言いますがお金に余裕がないので選択と集中で設備投資するのがこの時代では当たり前なんです。

 さて次に野田線側です。
 野田線は前回改正で柏口の混雑率が243%という東武最悪の状態にまで悪化していたのを6両編成を大量に増やした事で緩和したのですが、常磐線複々線化による沿線開発は留まらずに引き続き柏口は 相変わらず東武で最も混雑が酷い状態が続いていました。
 また船橋口は車両基地位置の関係から柏口を改善しない限り改善が出来ないという地理的不利から放置されたままとなっておりこちらも混雑率は再び200%超えに悪化していました。
 柏口の改善を行う為には最早複線化による抜本的改善が不可欠となったので工事が進められていましたがようやく初石〜柏の複線化が完成し柏口は運河〜柏の複線区間拡大となりました。大宮口側でいう岩槻〜大宮の様な増発が可能となったのです。

 という事で野田線の変更点は、
1:柏口で運河駅折り返し列車の設定による最混雑時間帯に6両編成2本が一気に増発。
→複線化効果で約5分ヘッドでの運転が可能となり混雑率は一気に50%近く改善されました。
2:船橋口で4両編成電車を6両編成に増強。
→最混雑時間帯に走る電車が全て6両編成となりました。これは野田線で唯一となっています。
3:6両運転拡大や本数増加に対し、編成組み替えを実施し3000系6両固定編成が更に1本増。
4:大型4両固定の8000系冷房車2編成が増備され合計4両固定7編成の8000系冷房車が走る事となりました。
5:6両編成の増加に伴い七光台検修区と岩槻で留置線が1本ずつ増設されています。

 ただ冷静に考えるとこの時点だと船橋口ラッシュ時には冷房車である8000系が走らないんだなという…。
 しかしいよいよラッシュ時全ての列車が3000系6両編成による運転となった船橋口ですが複線化等による増発が期待出来ない以上は6両編成化を優先する事で対応してきましたがこれが完了したとなると次は大型車による6両運転となっていきます。それはまだ少し先の話となりますがもう間近まで迫っていました。
 しかしこうして過去の状況を見ると高柳基地の意味は大きいと感じますよね…。

8000系電車配置表(S53/1978年11月現在)
所属箇所8両固定編成6両固定編成合計
東武本線
春日部検修区
(北春日部)
配置なし (冷房車)
8101F,8102F,8103F,8104F,8157F
8158F,8159F,8160F,8165F,8166F
8167F,8168F,8169F,8170F,8171F
8172F
6両固定16編成96両
4両固定15編成60両
2両固定33編成66両
合計222両
4両固定編成2両固定編成
(冷房車)
8116F,8117F,8127F,8130F,8131F
8132F,8191F


(非冷房車)
8139F,8140F,8141F,8144F,8145F
8146F,8147F,8153F
(冷房車)
8518F,8519F,8520F,8521F,8523F
8565F,8566F,8567F,8568F,8569F
8570F


(非冷房車)
8515F,8516F,8517F,8522F,8524F
8529F,8538F,8539F,8540F,8542F
8543F,8544F,8545F,8546F,8547F
8550F,8553F,8555F,8556F,8557F
8558F,8560F
東上本線
森林公園検修区
(森林公園)
8両固定編成6両固定編成合計
(冷房車)
8173F,8175F,8177F,8179F,8181F
8183F,8185F,8187F,8189F
(冷房車)
8105F,8106F,8108F,8109F,8110F
8111F,8112F,8113F,8114F,8156F
8161F,8162F,8163F,8164F

(非冷房車)
8107F
8両固定9編成72両
6両固定15編成90両
4両固定20編成80両
2両固定35編成70両
合計312両
4両固定編成2両固定編成
(冷房車)
8121F,8124F,8137F

(非冷房車)
8119F,8120F,8122F,8123F,8133F
8134F,8135F,8136F,8142F,8143F
8148F,8149F,8150F,8151F,8152F
8154F,8155F
(冷房車)
8501F,8502F,8513F,8563F,8564F

(非冷房車)
8503F,8504F,8505F,8506F,8507F
8508F,8509F,8510F,8511F,8512F
8514F,8525F,8526F,8530F,8531F
8532F,8533F,8534F,8535F,8536F
8537F,8541F,8548F,8549F,8551F
8552F,8554F,8559F,8561F,8562F
野田線
七光台検修区
(七光台)
4両固定編成2両固定編成合計
(冷房車)
8115F,8118F,8125F,8126F,8128F
8129F,8138F
配置なし 4両固定7編成28両
合計28両

〜春日部らーめん誕生でこの項をシメマス〜


 東武8000系の歴史というよりも東武の歴史みたいになってしまってますが、昭和53年12月6日は春日部駅野田線ホームに記念すべき春日部らーめんが誕生した日です。
 途中ホーム改良に伴う閉店とかを何度か繰り返していた気がしますがかれこれ40年以上も続いています。凄いですよね。アド街とかに出たら…と思ったら実際に出てて11位だったそうな。

 今後春日部の高架化によりどうなるか分かりませんが末永い活躍を期待するばかりです。

 という訳で思った以上に長くなり過ぎたので昭和50年代は昭和53年まで終わりましたので一旦ここで終わりにします。
 昭和54年以降は本線、東上線に加え野田線の輸送改善も一気に進んでいきます。そしてついに旧型車両の更新は78型に及んでいきます。
 一方で73型は一度更新されている事もありいよいよ8000系による置き換えが始まろうとしていました。


ご覧いただきましてありがとうございます。
何か間違いとかあればご指摘いただけると凄い有難いです。



2020年08月11日編集

(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)

参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。)
●とれいん(株式会社エリエイ)
2011年1月号 通巻433号
→東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏)
●鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション27 東武鉄道 1970〜1980
●鉄道ピクトリアル No:915 2016年3月号 特集東武8000系
→東武8000系のプロフィールは特に参考にさせて頂いております。
●鉄道ダイヤ情報2013年10月号 東武鉄道8000系電車あれこれ(花上嘉成氏著)
●ヤマケイ私鉄ハンドブック3 東武
●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行)
●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社)
●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧
●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング)




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