6.バブル期の8000系(3)<平成時代突入> 1989年1月7日に昭和天皇が崩御された事で約62年も続いた昭和の時代が終わりを告げ、新しい平成の時代に突入する事となりました。 既に昭和末期からタイトルにある様にバブル期に突入していた事もあり技術革新も大きく進んでいる時代でした。しかしまだまだ昭和が終わったばかりであり、平成の初期はまだまだ昭和の香りが色濃く残っていた時代と言えます。 まず第一に釣り掛け電車が各地に多数残っていた事もあり、8000系は1963年の誕生から既に25年が経過した1989年の時点ですら性能をフルに活かしたダイヤが設定される路線が存在しませんでした。 これは昭和時代は3000系列が野田線や地方に集約された後も78型や更新された5000系列が同居する事からそれらに併せたランカーブで運行されていたからです。 既に5000系列のほとんどが野田線へ集められたりしこの頃は東上線系統では5000系列は小川町以北(当時はまだ森林公園⇔寄居運転も多かった)と越生線での運行に限定されており、一見東上線はスピードアップが図れそうじゃないかって事ですが、列車は対応しても信号機や軌道等の改良まで対応しないといけませんでした。これが実現するのはもう少し後になります。 そして首都圏近郊の野田線では非冷房の3000系列がまだまだ多く残っていました。これらの置き換えが1986年(昭和61年)からようやく開始され、新車が入る度に5000系列を野田線に送り3000系の置き換えを行っていました。しかしいよいよ送り込める5000系列の数も残りわずかとなり、それらが野田線に集約されたらいよいよ8000系による置き換えが開始されようとしていました。 歴史の中で散々3000系(旧3500系)がいかに一時期は本線や東上線以上に悪化していた野田線の輸送力改善に貢献し続けてきたかは語りました。流石に平成に入って18m、3扉、非冷房、釣り掛け97kw電動機(最高速度90km/h)、自動ブレーキは限界を迎えていたと言わざるを得ないですが、これを東武はケチだの古い電車を大切にするだのという一言で片付けるのはやめましょう(汗) それはさておき、鉄道側もそうですが、駅で言えばまだ東武には自動改札機が存在しませんでした。驚きですよね。(一応大師線西新井⇔大師前のみ設置してはいました) 平成になってもまだまだ他の鉄道から遅れている東武鉄道でしたが、平成を迎え好景気も後押しし一気に更なる近代化が図られていくのがこの時代だったと言えそうです。 ![]() 平成に入り一番最初の8000系ネタとして1988年度に修繕工事を受けていたトップナンバー8101Fが野田線七光台区に配置される事となりました。
8101Fは修繕後半年ほど本線で活躍してから野田線へ転属となりました。昭和53(1983)年に野田線から8000系がいなくなってから随分経ったかと思いきや6年で8000系が野田線でまた走る様になりました。 8101Fはこれ以降2013年9月に廃車となるまでの約24年半野田線の主力として活躍していく事となります。野田線の8000系の活躍第二章の始まりは偶然なのかトップナンバー8101Fによるものとなりました。 春日部区と森林公園区の8000系トレードの詳細は不明です。 あえて理由を挙げるなら森林公園区の3編成全てがBLMG編成で春日部区からはDCMG編成が転属しているという点です。この年の10月にダイヤ改正を控える東上線ですが、増発の大多数は10000系列28両増備によるものですが、秩父線直通特急を池袋から直通運転を復活するという変化が起こります。 秩父線内では誘導障害の関係からBLMGは使用禁止となっている点が影響しているのかどうか…。確かに6両固定編成であり、DCMG編成というのは運用条件に合致はしていますが…。 ちなみに東上線森林公園検修区所属の8000系は修繕工事を受けている8108F,8111F,8112Fの3編成を除き未修繕の編成については正面のサボ受けが撤去されていましたが、春日部区から転属してきた8172Fと8192Fについては正面のサボ受けはしばらく撤去されなかったみたいです。この頃になると、特急のHM掲出もやらなくなり幕による表示のみとなっていました。 逆に森林公園区で撤去された編成が春日部区に転属するとサボを復旧したそうですが漏水対策でサボ撤去をしているのですから再度復旧をやらんでも良い気がしますが何かしら理由があるんでしょうね。 そういえば本線側では正面サボはあくまで残していましたが、当時では既に快速たびじのHM掲出は行わずにやはり東上線同様に種別幕のみによる表示が主流となっていたようです。 むしろこの時代はそれでもマシだったと言える程で、そのうち種別幕は東上線は単に特急、日光線臨時快速は単に快速という表示となってしまうのです… ![]() 1987年秋以降東上線では正面サボ受けの撤去が開始され種別表示を幕で行う為この様に幕に特急〇〇〇〇と表示される様になりました。 また本線側では10030系等のサボ受けが無い新車が増えると同様に種別幕でたびじ表示を行ったりしていた様です。 ただしいろんな記録を見るに林間学校やひまわり号でHMを掲出しているのもあるのでケースバイケースだった様です… ![]() 1989年5月20日に東武鉄道創立90周年事業として建設が進められていた東武博物館が開館しました。もう30年以上が経過するんですね。 現在では東武8000系コーナーも設けられましたので後世に8000系を伝える点でも重要な存在となるのではないでしょうか。 上の画像はすぐ上で紹介したばかりの8101Fが廃車された後の当該編成の機器を展示しているものです。 東武博物館は当時の段階で後世に伝えるべき歴史ある東武電車や電機の展示を行ってきました。また後程の話になりますが、その後5700系の復元化や8000系の動態保存車両所有と東武電車全体はもとより、東武8000系という形式にとっても非常に重要な役割を果たして頂いております。 開館当初はDRCと5700系が全車健在だったのでこれらの保存車がいないのが現在と大きく異なる所でした。(+8000系の床下機器展示も当然ありませんね) 目玉は今でも人気のトレインシミュレーターだったと思います。当時最新鋭の10030系のデザインで誕生しましたが、開館した1年後2年後に新型特急、新型急行車両が相次いで登場後したのもあってか平成3年になって8000系(8579F)を使用して再度シミュレーターの映像を撮影し直したそうです。 現在では8000系コーナーや機器が設置されている東武博物館、ぜひ多くの方に足を運んで頂きたく思います。(こんなご時世ですが…) 次に6月7日に平成最初の設備投資計画が発表されましたが、その内容で特に目を引いたのがDRCに代わる新型特急仮称100系電車新造でした。 ・新型特急100系2編成12両(101F,102F) ・2000系非冷房車置き換え用冷房車20000系4編成32両(21805F,21806F,21807F,21808F) ・地上用通勤車10000(10030)系38両 東上線配置(増備用):初の10両固定2編成20両(11031F,11032F)と 8両固定編成10両化増結用4編成8両他10000系10両化の為に中間8両新造 合計28両 野田線3000系代替用:6両固定1編成(11634F)+4両固定1編成(11438F)の合計10両→森林公園区配置 →これによって5000系の5501F,5502Fの4両が森林公園区から七光台区へ転属し、6両分は8109Fが1990年3月に七光台区に転属しました。 ※以上合計82両の車両を新造。 ![]() ▲当時の新特急開発プロジェクトの広告より(一部破れててすいません) それ以外にも様々な設備投資が行われていました。 ・大師線西新井〜大師前の高架化開始 ・伊勢崎線羽生〜川俣の利根川橋梁複線化工事着手 ・野田線 柏〜新柏の複線化と六実〜鎌ヶ谷(※現・新鎌ヶ谷付近までの1.3kmのみ)の複線化工事の実施 ・草加〜北越谷の高架複々線化工事を継続 新型特急についてはもう周知なので割愛しますが、まさに景気の良い時代に登場しただけあって予算度外視な当時の英知を結集したハイクオリティな車両が出来上がる事になります。 また草加〜北越谷の複々線化事業も全容が見えてきましたが、結局1997年に次のダイヤ改正を迎えるまで8年という長い期間を経ますがこの段階で既に新越谷に急行線ホームが設置される事が確定していました。 結局伊勢崎線の準急は1997年まで新越谷に停車しないのですが武蔵野線の発展の影響か昭和末期から急激に利用者が増えていた為に将来的に準急が停車可能な様にホーム建設をこの時点で計画はしたのですが1997年頃には既に1日平均10万近くの利用者がいるにも関わらず複々線化まで準急の停車が実施されなかった為に小型車メインで運転される緩行線の混雑はかなりのものだったそうです。 ちなみにこの時点で複々線終端の北越谷の引き上げ線は2線で計画されていました。その後3線に増えたのは周知のとおりですが、こういった当時の計画を眺めるのもなかなかに面白いものです。 <池袋発着の秩父線直通列車復活・小川町新1番線ホーム新設> ![]() 小川町駅の接続改善として駅舎側に新1番線が新設され全列車の対面乗換が実現しました。 1987年8月25日に有楽町線直通開始に伴う大規模改正以来2年ぶりのダイヤ改正が実施されました。 1988年6月には有楽町線直通が新木場まで延長されたぐらいで大きな変更はされてませんでしたが、引き続き利用者の増加が目立つ事からラッシュ時の輸送力増強をメインとした改正となりますがそれに加えて小川町以北の輸送改善も実施されています。 <ダイヤ改正変更点> 1.10000系列28両を増備してラッシュ時の増発を実施。 東上線初の10030系であり、東武鉄道初となる10両固定編成の新車として10030系:11031Fと11032Fの増備と既に在籍していた10000系8両固定編成4編成を10両編成化する為の中間車2両を4編成分8両新造し11803F〜11806Fの4編成を10両固定の編成に増強(11003F〜11006F化)が行われました。 10両固定編成が6編成も一気に増えた事で東上線では池袋〜小川町において終日の8割が10両編成で運転される事となりました。 平日朝夕ラッシュ時は7時30〜8時30分の最混雑時間帯に準急を1本増やし、それ以降の時間帯でも通勤急行1本、準急1本の増発が行われました。この結果池袋着10時までは通勤急行(8:53着以降は急行),普通、準急、普通…といった感じに運転形態のパターン化が図られました。特に池袋着8:30〜10:00着までは改正前と比較して運転本数が5本も増えて大幅な輸送改善となりました。 また最混雑時間帯の普通においても8両編成運転の列車が10両編成に増強されています。 2.朝下り通勤通学輸送改善 沿線に多数の高校、大学がある東上線では朝の下り輸送量が年々増え続けており対応しても追いつかない状況が続きます。当然今回のダイヤ改正でもその対応を行う事となります。 今回改正で池袋発6:30〜7:30の間で準急2本の増発を実施、それまでの10分〜15分間隔だった準急を7分30秒間隔に増発しています。ちなみに当時は急行の運転が7:30発まで設定されていないという…現代とは全く違うダイヤ構成となっていました。6時30分〜7時30分まで優等が準急しか設定されてないとは言え7分30秒間隔は現代よりも運転本数が多いのでした。 3.夜ラッシュ時の改善 おなじみの夜下りラッシュ時の輸送改善で今回も遠距離客の利便性向上として優等列車の増発、運転時間拡大を実施しています。 22時以降の輸送改善として普通1本を準急に変更し準急を1本増加する事で池袋発で準急か急行を10分間隔で23:00まで運転する。 これにより下り急行の最終を従来の池袋22:00発から23:00発に繰り下げる。(22:30発含め2本の増発) まだ終電拡大として池袋発の森林公園行きを23:45に8分繰り下げ、川越市行きを0:15発として15分繰り下げる。 4.小川町駅接続改善(新1番線ホーム増設による2面4線化)とそれに付随した小ネタ 池袋発の列車の最北は一部を除いて小川町駅となりますがそれまで2面3線だった関係上こ線橋を経由しての乗り換えをしないといけないケースがありましたが、今回駅舎側に新たに6両編成までが発着可能な新1番線ホームを新設し、それまで改札正面にあった旧1番線と2番線として、八高線側にある島式の旧2番、旧3番線がそれぞれ新3番線、新4番線に改められ、小川町駅での全列車の対面接続が可能となりました。 また今回改正で18時以降は池袋からの寄居行きの接続が森林公園となっていたのが21時以降までは小川町接続に延長運転されています。 なお今回改正まで寄居始発の最終上りだけは川越市まで直通の電車となっていました。それも今改正により小川町行きとなり、小川町での対面乗換で始発の川越市行き最終の普通と接続という形に改められました。珍列車の消滅というのはいつの時代も寂しいものです。 ちなみに最終上りの6両運用が消滅しても、当時休日に6両編成特急運転があった関係で池袋口で走る直通特急以外の6両編成列車が平日・休日共に存在しました。 【下り】平日:池袋5:05始発201レ普通森林公園行き →休日ダイヤの12レみつみね号だった列車が下板橋かに留置されて翌日運転されたものと思われます。 休日:池袋17:02発203レ普通森林公園行き →これは16:59着の4レながとろ号の折り返し運用です。なので休日は必ず6両運転となります。 ※12レみつみね号は池袋着が18:59の混雑時間帯となるので到着後下板橋へ回送され、翌平日201レで森林公園に帰る流れとなります。 【上り】平日:森林公園22:06始発3222レ準急池袋行き →前日が休日だと12レがあるので送り込みが不要ですが、平日の場合上りのこの列車が6両編成で運転されました。 休日:森林公園5:01始発1200レ急行池袋行き →休日の2本の直通特急の内片方は前日の平日3222レで送り込まれていますが、 もう1本の送り込みは休日ダイヤの森林公園始発列車を6両編成にする事で対応しました。池袋到着後一旦下板橋へ回送されました。 ※時間・列車番号は1989年10月24日改正より 5.休日の輸送改善<休日の秩父直通特急の小川町分断解消と停車駅変更> 平日ラッシュ時だけでなく休日も改善されています。 ・朝方の上りは急行、準急をいずれも15分間隔とし間に普通列車を走らせる事で比率を1:1としました。 ・下りは特急を1本増発した以外に急行2本、準急5本を増発し列車間隔の均等化を図りました。 ・夕方上りについても特急を1本、急行2本、準急5本を増発し優等列車の間隔を短縮し輸送改善を図っています。 そして今回改正より昭和58年改正で休日に運転されるみつみね号・ながとろ号の秩父鉄道線直通の両列車を小川町で乗換としていたのを池袋からそのまま直通運転に復活する事となりました。 停車駅も昭和54年改正で特急の小川町〜寄居を全駅停車としていたのを今回から久々に小川町〜寄居間を全駅通過に戻す事となりました。 この変化の理由もやはり西武秩父線側が関係していたとも言えそうですが、昭和44年に西武秩父線が秩父まで乗り入れる様になってからは秩父鉄道は対抗策として国鉄と東武の乗り入れを増やしていましたが、やはり…西武秩父線が圧倒的に優位だった事もあり、秩父鉄道もとうとう西武線との直通運転を開始したのがこの平成元年からでした。 という訳で東武側としても秩父線直通列車の利便性をそれまでより向上させる必要があったのですが、これでもなかなか好転する事はなかったそうです。 この2年数か月後には廃止される東武東上線の秩父鉄道線直通列車ですが、流石に最大のライバルというか圧倒的に有利な西武の乗り入れが実現した時点で先が見えていた…とも言えそうです。 なお池袋発着で6両編成運転に心配だったのかご丁寧にながとろ号とみつみね号の直前、直後に10両編成の急行列車を設定し森林公園までの旅客にはなるべく前後の急行を使う様にとアナウンスしていた模様でした。 秩父鉄道線の直通運転復活とはなりましたが、この頃は立派なHM掲出も行わなくなり(サボ受けも撤去されてしまったので)幕での表示のみとなっていました。
![]() 以上が平成元年の東上線ダイヤ改正まとめとなります。 まだまだ人口は増えラッシュが厳しい時代は続きます。それに対応すべく10000系、10030系が増えようが圧倒的に大多数を占める8000系が通勤輸送の主役として活躍していた時代でした。 ![]() 1990年はスペーシア誕生の年です。地味な東武の雰囲気を一気に変える存在となりました。 平成も2年目に突入です。この年から翌年は東武電車にとって激動の時代となったと言えます。 100系スペーシアが登場する事がその発端で、東武電車の主役として昭和35年から日光路を走り抜けて来たDRC全編成を老朽化により一気に置き換える事となったのです。 そしてDRCの機器を一部再利用しつつ伊勢崎線急行りょうもう号の新型車両を製造し1800系を置き換え、1800系を改造して快速と差別化が図れないのに追加料金が必要の為乗車率の芳しくない快速急行車両を置き換え、快速急行に使用していた6050系を5700系が担当していた波動輸送用に回す事で次々に優等列車の車両を置き換えるという大改革が行われる事となったのです。 ![]() 微妙に間違いがあったらすいませんが、大体こんな感じです。改めて振り返るとこの時期の動き凄いですよね…。 現代に置き換えてみると…100系を新型特急で置き換えて、100系を改造して200系置き換えて、200系は流石に全廃し251Fだけ1819Fみたいな波動用に残すんでしょうかね。 ただ現代では3両固定の500系が伊勢崎・日光系統関係無しに加え野田線でも活躍しているからもう考え方が違うって感じですね。(今や500系は夜行輸送も担当してますしね。当時は6050系が担当していた列車でした。) 8000系の歴史なんであまり優等列車に注目してもあれなので平成2年度の新車投入計画ですが、前年度も大量82両もの新車を製造しましたが本年は更に車両数は増えて92両もの新車が新造されました。 ちなみに伊勢崎線用新急行車両3編成18両も予定されておりにそれらに押し出される1800系の更新も予定されていますがこの中には含まれていません。これらはあくまで車体更新車なので…そう考えると平成2年度は100両以上もの車両が新車なり更新車になるという大盤振る舞いっぷり。景気良いですね。 新車・更新車の内訳ですが、 ・新型特急100系3編成18両 103F,104F,105F ・DRC3編成より車体更新車 6両固定3編成18両 (新200系:201F,202F,203F) ・1800系急行車両を内外装更新車 6両固定1編成6両 (新300系:301F) ・地下鉄日比谷線用20000系3編成24両 21809F,21810F,21811F ※ようやく半数が20000系に置き換え。9編成はまだ非冷房の2000系… ・本線輸送力増強用10030系6両固定3編成、4両固定1編成22両 11635F,11636F,11637F,11439F ・野田線3000系置き換え用10030系6両固定2編成、4両固定4編成28両 11638F,11639F,11439F,11440F,11441F,11442F →全て森林公園区に配置され、同区末端で運用されている5000系・5050系4両固定7編成28両を七光台区へ押し出し同区3000系28両を廃車するもの。 ※森林公園検修区より吊り掛け駆動車が消滅。 この年度で3000系置き換え用の5000系がついに球切れとなりました。すなわち来年度以降の野田線3000系の置き換えは必然的に8000系の順番となっていきます。 そんな中森林公園区に将来ムサシ編成で話題になる11634Fが1990/3/14に新製配置され、修繕済みだった8109Fが1990/3/20付で七光台検修区に転属する事となりました。野田線8000系2編成目が8109Fという訳です。
![]() 平成元年8101F、2年8109Fと1編成ずつ8000系が配置されました。当時の野田線では大当たり車両な2編成です。 以降両編成共に2013年に廃車されるまで野田線の主力として活躍し続ける事になります。 いったんここで当時の配置を見てみましょう。
東上線は相変わらず大量の未修繕8000系が支配しているという状況です。 新栃木区、館林区は特に動きなし…と言いつつ本年度から館林区は若い番号の編成が配置されている為修繕工事開始に伴う配置替えが発生していきます。 〜北千住重層化前のホーム大拡幅工事開始〜本線の高架複々線工事は既に新田駅から先綾瀬川付近までは高架化への切り替え目前の状況まで進んでいる状態でした。しかし蒲生から先は新越谷で武蔵野線をオーバーパスしないといけない関係上の5階建て相当の巨大な要塞とも言える躯体構築が必要となっていました。ここから先がまた大変な工事が続くという訳です。 一方複々線の始まりとなる伊勢崎線の拠点・北千住駅ですが、この時代は現代以上に混雑が酷かったにも関わらずホーム有効幅員が上りホームで9.4m、下りホームで8.4mしかありませんでした。 将来的に重層化される事になる北千住ですが、当然スペースがないので直上に鉄骨を建てて駅舎を建設するというやり方になる為に上空の建設工事の前に地上部分のレイアウトを将来を見越した配置にしなければなりません。またそれによって拡幅を行う事は単純に現状の混雑悪化への対策にもなります。 という訳で昭和60〜61年に上りホームを1.6m拡幅したのに比べ今回の改良では上りホームに限定すると一気に従来より4.6mもの拡幅を実施し最大幅9.4mから最大14mまでに拡幅、下りホーム幅も最大幅8.4mから10mへ1.6m拡幅する事となりました。 これだけ配置が変化すると下り本線の位置が完全に1線分JR側に逸れているので、上下副線の扱いがどうなったのかが気になったり。ちなみにこの大拡幅工事をわずか9か月で行ったとの事です。バブル期の建設業の底力…。 <営団に加え都営にも助けを求め業平橋駅ホーム増設と浅草線連絡通路を建設> 本線側では着々と高架複々線化工事、北千住駅大改良と設備改良を進める東武鉄道でした。 しかしまだまだ日本が元気な時代、人口も増えれば利用客も増え続け昭和時代同様にこまめな輸送改善を行わないとパンクしてしまう状況が続いていました。ちなみにJR山手線の11両化、JR武蔵野線の8両化が発表されたのもちょうどこの頃で6扉車や5扉車、ワイド扉車も検討、導入されるなど本当に首都圏の輸送状況は大変な有様でした。 そんな状態でしたが、前年東上線でダイヤ改正を行い本年は本線の出番となります。 1988年(S63年)11月より北千住駅の大混乱を見て共に頭を悩ませていた東武鉄道と営団地下鉄は浅草迂回ルートの特例乗車を開始したのですが、それだけでは到底追いつかず車両の増備、新車への置き換え(ついに営団は03系5扉車の導入も開始されていました)、北千住のホーム拡幅と併せても悪化の一途という訳ですから今回藁にもすがる思いで東武は都営にも助けを求める事となりました。 この為東武では都営押上駅に近い業平橋駅の旧貨物ヤードの空きを活用し2面3線10両対応のホームを新設し、従来の曳舟止まりの8・10両編成電車を全て業平橋まで延長運転しようという事になりました。 そしてこの新ホームの押上寄り(曳舟方)に押上駅乗換用の改札と地下連絡通路を設け業平橋を都営・京成押上駅との乗換駅とする事としたのです。 また営団の迂回特例乗車同様に今回の都営乗換に対しても迂回特例乗車制度が設定される事となりました。いかに当時の北千住が大変だったかという事です。ちなみにこれの迂回の内容がよく分からないのですが日比谷線と浅草線が接続している人形町か東銀座まで乗れる…って意味合いなんですかね? 銀座線の上野までの迂回と違ってこっちは魅力的に感じます。業平橋経由だと遠回りなのは確かですが、日比谷線もカーブが多く遠回りで遅いので東銀座まで行くなら浅草線だと結構足速いんですよね。もし東銀座まで乗れたらほぼ銀座まで行けるのでありがたい話です。 という感じで業平橋まで10両編成の運転区間が延長される事となりました。元々曳舟到着後に業平橋まで回送してから折り返しだったので曳舟の扱いの大変さを考えると現場としてもこの業平橋の新ホームまで延長は有難かったでしょう。業平橋には3線もあるので曳舟程慌てて降車確認をしないでもよかったでしょうし、後続列車の遅延防止にも役立ったでしょう。 さて、業平橋新ホームの件はここまでにしてダイヤ改正の内容をまとめます。 1.平日朝ラッシュ時最混雑時間帯の館林始発準急の10両化を初めて実施。 館林6:12発北千住7:33着と伊勢崎5:25発北千住7:51着の準急2本を館林から8両編成で運転していたのを今回より館林から10両編成で運転とする。(なお館林6:12発は改正前は浅草行きでしたが、今回の10両化に伴い業平橋止まりに変更) ※和戸〜館林では初の10両編成運転となる為、上りホームに限定してホーム延伸が実施されています。 2.最混雑時間帯前後の6両編成準急3本の8両化と上り準急の増設(6両編成3本) 既に最混雑時間帯の日光線準急は10両化が完了した為に、今回伊勢崎線側の準急の10両化を開始しました。 オフピーク通勤を推進する以上は東上線同様にラッシュ時最混雑時間帯前後の輸送増強も必要となります。 太田5:29発北千住7:24着浅草行き、太田7:04発北千住8:52着浅草行き、伊勢崎6:50発北千住9:04着浅草行きを8両に増強 南栗橋6:11発北千住7:06着業平橋行き、太田7:31発北千住9:12着浅草行き、南栗橋8:38発北千住9:27着浅草行きの3本の準急を新設。 8・10両を業平橋行きって書きましたが、6両編成の業平橋行きもありました。浅草の容量が足りない為仕方なく手前止まりとなります。 上記含め合計18本の業平橋行きが誕生し本線電車の曳舟行きは消滅となります。 3.下り準急の8両編成運転を開始(夜ラッシュ時間帯のみ) 朝の下り一部は8両編成で運転されますが、夜ラッシュの下り準急は運用の都合なのか、かたくなに6両編成での運転としてきましたがもうそうも言ってられなくなったのか南栗橋入庫の列車に限定して夜下りラッシュ時の準急8両運転が設定される事となりました。 全て業平橋始発で17:30,17:46,18:00,18:23,18:53,19:13発の全て準急南栗橋行きの6本。 4.その他細々と改良。 恒例の夜下りラッシュ時の普通の準急化が1本、早朝の準急増発、初列車の繰り上げ、北千住20時〜21時30分着の間で上り準急を4本増設、休日ダイヤの準急増設などなど。 5.急行、快速急行に定期乗車券で乗れるビジネスライナーを設定。 早朝深夜のりょうもう号と快速急行しもつけ号に本改正より定期乗車券に急行券なり座席指定券を購入すれば乗車出来るというのがビジネスライナーです。ちなみに今の東武特急は全列車定期券で出来ます…。 スペーシアの個室も4800円と今より高かった時代でそんなときもあったという訳です。まぁそもそも景気自体良い時代でしたからね。 5.伊勢崎線館林以北、佐野線・小泉線で一部増発。 6.日光線南栗橋以北、宇都宮線で一部増発。 一部端折りましたが、10030系22両増備や業平橋改良により朝のラッシュ輸送は大きく改善しました。 車両が増えた分は南栗橋の留置線を拡張し対応しています。この頃には開業当初の5線から12線まで留置線が増設されていました。(まだこの時代も留置線のみでした。) 〜1990(H2)年10月12日 会津鉄道:会津高原〜会津田島電化による3社直通運転開始〜![]() 野岩鉄道開業からちょうど4年後の1990年10月12日より会津鉄道が会津田島まで電化しました。 それに伴い東武・野岩・会津の3社直通運転により東京と南会津が1本に結ばれる事となりました。 南会津の中心地である田島町のはずれに位置する会津高原駅の大盛り上がりを見て、町の中心地まで直通運転を延ばそうと好景気の勢いもつけて会津鉄道が会津高原から会津鉄道の会津田島までの15.4kmの電化工事を完成させました。 これにより田島町の中心地にある会津田島駅まで浅草から東武電車が乗り入れられる様になりました。今回の新規開業に際しては会津鉄道用の6050系として200番61201Fを新造しました。 野岩鉄道同様に61201Fも東武が納入してから1か月後に会津鉄道へ譲渡しています。会津鉄道唯一の電車ですのでいろいろと手続きが大変なんでしょうかと思われます。 今回会津田島までの電車運転延長はそれまで会津高原まで運転していた列車をそのまま会津田島まで延長するという形態となります。一部の快速は勿論の事、快速急行おじか号2往復もふくまれます。 それまでは地味に会津高原での会津鉄道との接続が良かったり良くなかったりなんでこれは田島までの移動を考えると非常に便利になったのです。これは会津高原駅が2面1線のホームというのもあり、片方は会津鉄道ホームの為に非電化だった為に実質1面1線なのが運用上難しかったというのもありました。 例えばそれまで浅草10:10発の快速急行おじか会津高原行きの10分後に浅草10:20発の快速東武日光・会津高原行きが設定されています。そもそもこの快速急行の直後に同クオリティの快速を設定するのが微妙な感じなのですが… で、快速急行おじか号も当時は野岩線内も通過運転があったりで快速よりも足は速く会津高原に24分早く到着します。しかしそこで会津高原始発の会津鉄道列車を27分待たされます。後続の快速の接続を待ってから発車するからです…。 つまり会津田島までのそれまで有効本数1本だったのが2本共会津田島まで直通するので有効本数が単純に増えます。これなら快速急行を使う意味も出てくるってもんです。(ちなみに快速急行おじかは会津高原〜会津田島間は全駅通過で快速は各駅停車です。) その他にも1分接続もあれば20分以上も接続待ちがあったりとどうにも会津高原の接続が微妙だったので改めて時刻表眺めるとこの延長運転は良かったんじゃないかなと思います。 ちなみにこの直通運転に際して電化開業もさることながら駅舎の大改築というかもう完全に再度新築と言える程に会津田島駅はボロボロの駅舎から見事な駅舎に建て替えられました。 〜1990(H2)年12月19日 野田線ダイヤ改正+伊勢崎線一部改正〜【野田線関係】<日中時間帯の本数増加(春日部、柏口)> 上の方でも書きましたが、1990年度は10030系28両投入による東上線の5000系・5050系を置き替えてそれら全てを七光台区に転属させて同区の3000系28両を廃止する流れとなっていました。 着ぶくれによる冬場のラッシュ輸送悪化を見越して、19日に大型車を先行で16両投入し一部車両の大型車両化+冷房化を行いました。これだけでも大分ありがたい改善です。 ダイヤ改正の内容としては春日部駅での野田線と伊勢崎線の接続改善を行う為の増発が実施されました。 当時の野田線は日中時間帯は大宮口に併せたダイヤとなっていたので大宮〜岩槻は10分間隔、岩槻〜春日部は20分間隔となっていました。 しかし春日部で本線接続との時間調整を行う為、春日部〜柏間は時刻がバラバラだったんです。(15分〜25分の間隔で運転)しかも1時間にたった3本の運行。当時は清水公園や運河折り返しもラッシュ時のみの設定でたまに七光台⇔柏の区間列車がポツンといるだけでした。(ちなみに船橋⇔柏は日中15分間隔なのでまだ運転本数が多かったという…) という訳で10時〜15時の間で列車本数を増加し、大宮口をそれまでの10分間隔から7分30秒間隔に増発し、結果岩槻〜柏もやっと15分間隔の運転開始となったのです。これによって本線の日中10分間隔で運行される準急との接続改善を行っています。 平成に入っても野田線はまだまだ本数も少なく吊り掛け電車天国の不便な路線って感じでした。 【伊勢崎線関係】<高架複々線化工事に伴う配線変更とダイヤ変更> 本線側は越谷付近まで高架複々線工事が着手されていましたが、工事の影響に伴い越谷にあった下り副1番線を撤去しこれを替わりに複々線の高架躯体が完成していた松原団地駅に仮の下り退避線を現在の下り急行線の位置に設けて貨物や試運転列車の退避をここで行う様にダイヤを調整するという内容です。 松原団地、新田では高架化はほぼ完成し新駅舎も出来上がりつつありました。なのでいよいよ軌道や電気工事にも移れるという段階にまで来ていました。 既に平成元年末に日経平均株価が史上最高値である38915円を記録したのですが、既に翌平成2年から下落を続け1990年10月には20000円を下回りました。これ以降、下がっては上昇しつつもまた下降を繰り返し、2003年には7600円まで下がってます。※ちなみに2021年には30000円台まで回復し2021年8月現在でも28000円前後となっています。 長くなるので日経平均株価だけにしか触れてませんが、ちょっとつつけば泡の様にはじけるバブル経済がついにはじけた訳です。 バブルは吹き飛びましたが、相変わらず人口は鈍化しつつも増え続け、日本も経済成長自体は続けていました。 という訳で相変わらず首都圏の鉄道輸送状況はひっ迫しており鉄道会社からすれば厳しい状況は続いているという訳で、バブル期最後の平成3年の動きを見ていきます。 平成2年度終わる前なので時系列が分かりにくくなりますが、先に平成3年度の新車投入計画を記載しちゃいます。 ・100系 4編成24両(106F,107F,108F,109F)→日光線特急全編成スペーシア化とDRCの引退 ・20000系2編成16両(21812F,21813F) これで日比谷線直通用全20編成中13編成が20000系化されました。 ・10030系6両固定5編成(11640F,11641F,11642F,11643F,11644F)+4両固定5編成合(11444F,11445F,11446F,11447F,11448F)計50両 →配置は春日部区に22両、森林公園区に28両となります。 →野田線3000系代替用40両+東上線増発用10両 この年3000系が一気に全廃し野田線には3050系が残るのみに。 ・9000系1編成10両(9108F) ラッシュ時有楽町線直通増発用 ・200系更新車1編成6両(204F) と何と新車だけで100両の大台到達です。ここに200系への更新や8000系36両の修繕工事も加わります。熱い時代でした。 さて平成2年の時点でも記載し、90年12月の野田線のダイヤ改正でも触れてますが、この頃東上線に最後まで残った5000系(5101F,5102F)と5050系(5151F,5152F,5153F,5154F,5155F)の7編成は全て七光台区に転属しました。 これにより5000・5050・5070系の旧78型更新車162両全てが野田線七光台区に集約されました。しかし七光台区には60両の3000系・3050系と12両の2080系という総勢72両もの小型18m3扉+非冷房車が残っており、これらの置き換えが引き続き行われる事になっていましたが、5000系列全全てが配置された以上は次は8000系がその役割を担う事となります。柏〜新柏複線化に伴う運用増もあり平成3年度には一気に48両もの8000系が七光台区へ転属する事となります。 そしてやがては8000系で七光台区の5000系列を置き換え、それらが館林区と新栃木区末端で活躍する3050系・3070系を置き換えていくという流れに移行していくのです。 一方、東上線側では5000系列がいなくなった事により、それまでこれらが担当していた東上線の新型車両の輸送を8000系が行う事となりました。 昭和56年の9101Fまでは東上線には貨物輸送用の電機がいたのでこれで牽引が出来ていましたが、電機が消滅して以降の昭和62年9102Fからは5000系、5050系がその任務についており、寄居から分割して5000系や5050系の4両編成が牽引を行っていました。これが平成2年度納入の11639F以降は8000系が担当する事となりました。 鉄道ファンに掲載されていた当時の記事によれば8000系が新車の初牽引をした時の11639Fの半分3両を牽引したのは今話題の8150F(当時4両編成)だったそうですね。こうして8000系による東上線新車の牽引は2004年の51001Fまで担当する事となり、10030系以外では9000系、9050系といった新車達を8000系が牽引しました。 あ、1991年7月21日の優等列車の大変遷については上で紹介したので割愛で… そして本年2月1日より200系りょうもう号が就役しています。まさに30年前の出来事でした。30年後ついに始まった200系の廃車、いつまで生き残るかですね。 <柏〜新柏複線化完成による船橋口と柏口増発+大型冷房化推進> 野田線のJR乗換駅である主要口で唯一単線状態だった柏〜新柏2.9kmの複線化が完了し、大型冷房車の増備に伴い91年11月26日にダイヤ改正が実施されました。 この複線化完成で船橋口(柏⇔船橋)は全体的に本数の統一化を図り、ラッシュ時は柏口、新柏口両方で運行本数を同一にし途中の折り返し列車を減らす事が出来ました。それにより柏口新柏方は劇的に輸送力がアップし混雑率の大幅な緩和に成功しています。 他では前年のダイヤ改正に続きラッシュ時の小型非冷房車3000系の置き換えを行い、日中時間帯についてもの岩槻〜柏の1時間有効本数わずか3本だったのを4本に増発し15分間隔運転を開始しましたが、相変わらずそれじゃ本数が少なさ過ぎるって事で増発が行われています。 特に柏口の15分間隔という本数の少なさが改善され、柏口豊四季方では昼間も運河折り返しの列車を1時間辺り2本設定し1時間6本の運転となりました。 船橋口側についても柏〜新柏の複線化に加え、既に六実〜現新鎌ヶ谷までの複線化も完成させていたので日中1時間辺り2本を増やし、柏⇔船橋の1時間辺り10分間隔運転を実現しました。下記一覧表を見ると船橋口の終日運転本数が特に増えており大きな改善となったのが伺えます。 船橋口ではわずかに残った小型車の運行がなくなり全て大型冷房車で運転される事となりました。小型車は大宮⇔柏での限定運行となりますが、下記の一覧をみると小型車は休日ダイヤでは平日より運転本数が多く設定されており当時の運用設定がなかなかに複雑だった事が伺えます。こうして野田線の全車大型冷房化もあとわずかという所まで来ていました。 ![]() さてこのダイヤ改正に際して8000系が24両七光台へ転属しています。
この頃は10030系の投入に併せて車両数調整の動きや修繕工事に伴う8000系同士のトレードも発生しています。
冷房改造時代も車両調整がありましたが、修繕工事入場も長期に渡る為にそれに伴う配置替えも出たという感じでしょうか。 またこの頃より8000系で野田線の小型非冷房車を置き換えるという目的が出た頃から修繕工事と同時に4両固定と2両固定編成を同時に修繕し6両固定とする動きが始まりました。 野田線で運転する以上6両編成での運転となるので6両固定編成が理想なのですが、既に初期の6両固定編成の修繕工事が完了し、当時修繕工事の時期に差し掛かったのが4両編成と2両編成という縛りが出た為にこういう動きが出たのです。 最初に8115Fと8515Fを6両に改造する工事が行われ、8515Fは新たに8715と8815に中間車化され8115Fが6両固定編成に生まれ変わりました。当時は78型以来の中間車化改造だったのでそれなりに話題になったそうです。というかダイヤ改正前日に試運転が終わったという事でギリギリも良い所ですね。 これ以降も8000系の4両固定編成と2両固定編成の編成番号が同じ車両を選んで修繕工事を行い同様な6両固定化が実施されていきます。 ![]() 4両固定と2両固定を6両固定にした最初の編成8115Fです。それまでの中間2両を後から製造した初期編成達とは若干違いがあります。 右側は旧8515Fの中間車改造部ですが窓枠を新設した箇所のみ鋼体形状が異なるのでかろうじて区別がつきました。 <本線:終電時間の大幅延長と準急北春日部行きの登場> <東上線:土曜ダイヤの設定と平日朝ラッシュ時の増発実施> ![]() 東上線では9108F増備に伴う有楽町線直通増と本線では準急北春日部行きという特殊な列車が誕生しました。 準急の画像ですが、すいませんね。LED車で撮影した画像がかろうじて残っていたという…。 東上線では10030系スタイルにマイナーチェンジした9108F増備に伴う有楽町線直通の増発が実施され土曜ダイヤというものが誕生しました。 本線では最終準急の時間を大幅に繰り下げ、浅草発が従来より1時間以上も遅くなり特殊な準急北春日部行きが誕生しました。 この年のダイヤ改正は規模的には大きな物ではありませんが、やはり平成初期の混雑が最も激しい時代だったので昭和時代の様に1年でダイヤ改正を行わないといけないという状況にまた戻っていました。 また1987年(昭和62年)に法定労働時間がそれまでの週48時間(例:8時間×6日)から週40時間(例:8時間×5日)に減らされる規則が規定されてから徐々に完全週休2日制の流れが浸透してきた事で土曜日の輸送量が徐々に減っていく事となりました。 そこで東上線では平日ダイヤと休日ダイヤをミックスした様な土曜日ダイヤが誕生した事と本線では翌年に大規模な改正を控えている事から終電の延長に限定しての改正となりますが、この改正内容で月〜金運転列車と土曜日運転列車という分け方が登場しています。 【本線関係:平日終電の大幅繰り下げ】 前年の90年9月25日改正でダイヤ改正で浅草発の最終準急の15分繰り下げを実施しましたが、今回は大幅に繰り下げられ、なんと68分も繰り下げられる事となりました。従来の最終準急は浅草23:15発の準急南栗橋行きだったのが、浅草0:23発の準急北春日部行きが設定されました。 北春日部って準急が通過する駅なのでですが、この列車1本に限り北春日部に停車するという特殊な列車が誕生したのです。 ちなみに当時は春日部始発の上り準急が4本運転されていたのですが、これについては客扱いを北春日部始発にするという事はやりませんでした。 という感じで最終準急の運転時間が68分繰り下げられたんですが、最終時間が68分繰り下がった訳ではないのです。しかし今回改正でとうとう終電車の終点到着時間が25時台に突入する様になったという訳です。 一覧にしましたが発車時間の繰り下げはこれだけ実施され特に北越谷〜北春日部は終電が22分〜27分も繰り下がりました。今回終電間際に適用されている土曜や休日ダイヤでの終電時刻変更はほぼ発生していません。あくまで月〜金ダイヤの終電が大幅に繰り下げられました。 ![]() 特に北春日部までの終電繰り下げ幅が大きいですね。(浅草発+40分、北千住発+37)春日部市民大勝利? 【東上線関係】 1:平日朝上りラッシュ時の増発 ・通勤急行を1本新設:小川町5:56発池袋7:23着(ただし8両編成) ・志木7:55発池袋8:29着の普通を新設(10両編成) ・有楽町線直通を1本増設 森林公園7:08発和光市8:06着新木場行き ・普通1本を8両編成の10両化(成増7:45発池袋8:06着) →9108Fを増備と地上車10両増備にて対応 2:平日夜ラッシュ時の増発と伊勢崎線同様に終電の繰り下げ実施 ・17:00以降の池袋発下りで優等列車を大幅に増発する事となりました。この為に準急・急行の増発に加え、一部普通の準急・急行化を行う事で下記の様な改善を図りました。 ・0時台に準急を2本増発し更に終電時刻を大きく繰り下げました。 成増行き最終も0:45まで繰り下げており準急川越市行き0:44と普通成増行き0:45はコロナショックによる終電繰り上げに至るまで続く終電時刻となりました。 ![]() 特に20時台はそれまでの急行20分間隔から急行12分間隔まで本数が増やされており遠方利用者の利便性が大きく向上しています。 3:土曜ダイヤの設定 ・完全週休2日制が浸透してきた事から月〜金に比べて輸送量が減っている土曜日に対応したダイヤが設定されました。 内容としては、平日ダイヤと休日ダイヤをミックスした土曜日ダイヤが誕生しましたが、朝ラッシュ時上りは平日と同じ様に通勤急行が運転されつつ、下りは特急が8:00と9:00にむさしの号小川町行きが1本ずつ設定されるなど平日より本数が増えているのが変化点となっています。(またさだみね号じゃない点も平日と違いますね) また秩父鉄道に土曜日ダイヤが無いので秩父直通特急も設定されていません。 4:休日ダイヤの特急増発等 休日ダイヤの特急が増発されました。上りは変更無しですが、下りはむさしの号小川町行きが1本追加され、池袋の発車時間も変更され7時台は30分間隔、8時台は20分間隔で特急が設定されました。 また朝下りの急行始発は池袋7:15発だったのを今回改正で6:30の準急小川町行きを急行化し早朝のハイキング等の行楽客の利便性を向上しています。 ![]() 特急がたくさん運転されて羨ましい時代でした…(乗車率は微妙だったみたいですが) と今回改正で本線・東上線共に終電時間が大幅に繰り下げられましたが、2021年の繰り上げに至るまでの約30年間この25時台まで電車が運行される時代が続く事となります。 〜主力でありつつ旧型車を置き換える存在へ…〜183編成712両も製造された8000系でしたが、登場から25年以上も経ち、基本的に本線であろうが東上本線であろうが車両数が一番多いので主力であるのは間違いないのですが、主役は既に10000系列(特に10030系)へ移行しつつありました。 10000系が10030系に進化して投入が開始されてからは10030系の代わりに旧型車両の置き換えを行う為に本線から離脱し当時はまだローカル色が残る野田線へ転属する車両が出始めました。すなわち主役の座から落ちだしていました。 しかし未だに本線では吊掛5000系列が走れるダイヤで運転されていました。要は10030系は勿論の事、8000系ですら本気で走る路線がなかったのです。これもようやく東上線では平成5年のふじみの駅開業ダイヤで最高速度が100km/hに引き上げられて初めて通勤車が最高100km/hで走る路線が誕生し、8000系の性能をフルに活かす路線が誕生します。8000系就役からちょうど30年後なんですよね… という感じで今までの8000系はとにかく輸送力増強に特化し貢献し続けてきました。 平成4年(1992年)以降はやっとスピードアップに貢献する事となります。(まぁ78型と80型だけになった時にスピードアップ自体はしてるんですがそれは32/54型ベースから78型ベースになっただけなので) そして本線では主力としてスピードアップに貢献する一方で、ローカルの旧型車両を置き換える為の動きも本格化します。 置き換えとしてはまず野田線に残る非冷房18m3扉車の3000系を置き換え、次に2080系と3050系を置き換え、次に館林の3050系を置き換える為に七光台区から5000系・5050系を追い出し、次に新栃木区の3070系を置き換える為に、七光台区から引き続き5050系を追い出し東武の完全冷房化を達成する…というのが次に時代の話になります。
ご覧いただきありがとうございました。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップページに戻る サイトの中に展示されている画像を転載とかしたい際はメールを送って頂ければ基本的にOKです。 |
---|