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第4章:激動の昭和と東武8000系増備の歴史 ・8000系電車がいよいよ就役。昭和40年までの動きを振り返る ![]() ↑東武8000系が就役した当初の本線停車駅案内をまとめてみました。 昔は一部を除き浅草からほとんどの路線に直通列車が何かしら走っていたのです。 ※拡大すると大きい画像で見れます。 昭和30年末から昭和40年前半の情報はなかなか情報がなく調査も苦労している所です。 本線の停車案内はいろいろと情報を手に入れては繋ぎ合わせて作成したものですが一部誤りは含まれていると思います。ご指摘があれば頂けると大変ありがたいです。 8000系就役してまもなく6000系が誕生する訳ですが、当時の日光線は特急・急行の次の存在は休日に運転される臨時快速や朝・夕に通勤車で運転される快速が存在していましたがそれ以外ですと準快速という種別が設定されその次におなじみの準急が設定されていました。今まで疑問に思ってたのが、当時準快速があるというのは知ってたのですが、じゃあ快速ってなんだったんだ?と疑問に思ってました。当時の快速とは、朝・夕ラッシュ時に運転された通勤車による通勤快速の事でした。それ以外では休日のみ運転される東上線の行楽急行同等の臨時快速というのが運行されていました。 当時存在した準快速とは日光への輸送の為に特急・急行の補完的存在として運行されており日光線のみの運転でした。なお使用車両が32型という事で日光まで2時間30分以上も掛かってしまう列車でした。 当時は伊勢崎線側にも快速が毎日2往復運転されており、いずれも伊勢崎発着は変わりませんが多層建て列車となっているのが特徴で途中太田で赤城発着と連結される列車と館林で葛生発着と連結される列車が設定されていました。桐生線や佐野線にも快速が走っていたのです。 さて、列車運行については以上で当時の通勤輸送の状況についてです。 本線側は日比谷線直通もまだ開始されたばかりで北越谷までの乗り入れで4両編成でした。それでも昭和38年2月改正で乗り入れ先は東銀座まで到達しており、銀座・有楽町・日比谷まで徒歩圏内まで直通運転出来る所まで行ける様になった為沿線の開発が一気に進み始めていました。 まだまだ小型車も本線輸送を担っており、大型車による4両編成や小型車による5両〜6両というのが運転されていたみたいです。(ここら辺の記録が未だによく把握できていません。) そこに8000系4両固定が加わり輸送力の増強に貢献していく事となります。 本線とは別に東上線側ですが、日比谷線直通開始により利用者が増え始めていた本線と違いこちらは本線とは比較にならない程に利用者が増え続けていました。池袋と言えば山手線と接続する事もさることながら、営団地下鉄丸ノ内線の始発駅でもあり都心に近いアクセスの良さがあった為です。 第2章でご紹介した様に朝ラッシュ時は2分30秒間隔で運行され東武初の大型車両による6両運転が開始されていました。特に池袋〜成増の利用者の多さは東武鉄道においては断トツであり近距離輸送に特化した8000系の誕生は大きな助けとなりました。 8000系就役により73・78型の運用を置き換えて余裕が出来た73・78型を朝ラッシュ時に別の73・78型と連結して新たな大型6両編成の運用を増やして対応していく事となっていきます。この様に東上線は運転本数がこの時点で既に限界に来ていたので輸送力増強方法は増発ではなく既存編成の輸送量増強以外に無い状況となります。ここが本線との大きな違いであり、この為東上線側の長編成化が先に進んでいく事となっていきます。 ![]() ▲8000系登場までの通勤輸送に最も特化した7300系(73型)です。旧6300系から7800系(78型)の車体に更新され誕生した車両です。 裏には8000系の姿も見えます。当時はラッシュ時のみに6両編成の運転が見られ日中は4両か2両での運転となっていました。 <昭和38年12月2日東上線大型6両運用増発・昭和39年1月12日本線ダイヤ改正> 昭和38年10月に8106F(4両固定)が誕生してから、次々と8000系電車の4両固定編成が誕生し本線と東上線に配置されていきます。 そして8000系5編成20両が年末までに出揃い年が明けた昭和39年1月12日より本線・野田線でのダイヤ改正が行われました。 1月12日のダイヤ改正で輸送力を増強しつつ既に前年から比べると混雑率の悪化に拍車が掛かっていた為、本線側では8115Fが3月中頃に就役するのを待ってから3月20日に運用変更を行う事となりました。 こうして8000系15編成60両増備により本線・東上線はもちろんの事、野田線の輸送力増強も平行して進められていきました。 就役当初の8000系は4両固定での運転のみな為、当然ですが単独編成での運転のみでした。それに伴い下り方クハ8400形の連結幌や上り方クハ8100形のジャンパ栓は準備工事の状況で運用が開始されており、これがオリジナルの姿と言われています。
等となっています。 西新井工場の拡張工事が完成した事で、旧型車両の更新工事が加速する事となります。特に8000系新通勤車が投入された事で戦前から活躍するデッカー32型電車等の更新が行われる事になりましたが、その更新工事は全て西新井工場内で行われます。これについては後述します。 一方、白帯車と称され、DRC登場前の東武の花形特急車両として活躍している1700系(1710系)ロマンスカー合計2両6編成12両は国鉄日光線の157系やDRCと比較すると一歩劣る車両となっていました。特にDRC登場後は冷暖房の効果が劣るという乗客からの指摘が出てきていましたし昭和38年秋の改正ではDRCと料金での差を付ける様になるほど乗客からも乗り心地に差がある車両として見られていました。そもそも1700系の冷房装置といえば前述した国鉄日光線の電化開業によって突然準急列車にれっきとした特急車両である157系を投入し東武に強烈な攻勢を仕掛けてきたのがおおいに影響しており、東武鉄道側は急遽1700系の冷房改造に踏み切ったという事もあり、冷房車両として製造されなかった事が影響してしまい車体の構造上、熱効率がDRCに比べ悪いという事が明るみに出てしまったのです。 これの対策としてはもはや客室を改造しなければならないという結論に達し、1700系の改造が行われました。先に言ってしまうと周知の通り白帯車はDRCと同じ車体・内装になり白帯車ではなくDRCと呼ばれる車両に変貌することになりますが、この時点での改造はあくまで外観は白帯車のままであり、客室窓のペアガラスと固定化、間仕切りの新設とマジックドア化、断熱材の更新、クーラーの移設・ヒーターの増強等、DRCに準じた内装に改造となりますがそれでも快適性は大分向上したと言えるのではないでしょうか。 この様に東武は西新井工場の拡張の恩恵によりますます車体の更新工事等が活発に行われる事になっていき、新車の新造と平行して旧型車両を新車同様にもっていく工事が多々行われる様になりました。これによって東武鉄道の輸送の近代化はますます加速していく事になります。 ![]() ▲6000系とは6050系の更新前の姿の車両であり6050系更新完了と共に姿を消した形式です。 ご覧の様に8000系の前面スタイルを踏襲した2扉ボックス座席の快適な長距離輸送車両として誕生しています。 ![]() ![]() (あんまり人様のお家を写すのは宜しくないでしょうが…) 東武日光線と言えば昭和39年当時でも今と変わらず観光輸送に特化した路線であり、DRCや白帯の特急車両、青帯急行車両等が走る華やかな路線でありました。しかし一般車両に目を向けると戦前…すなわち日光線をはじめとした東武鉄道で全線電化が推進された時に製造された32型電車がメインでした。流石に特急車両たちとの格差が激しすぎると利用客からの新しい車両の要望も強く、冬場には雪も降る急こう配が続く山岳区間も走る事から全く新しい専用の車両が投入される事となりました。それが6000系電車です。その6000系電車が昭和39年春のダイヤ改正からの就役に伴い2両固定7編成14両が製造されました。(竣工日は全て昭和39年3月10日で、新栃木電車区へ配属となります) この列車の特徴を上げますと、 1.浅草⇔東武日光を新たな快速列車として2時間以内で走れる事(32型の普通車だと約3時間、準快速でも2時間30分以上掛かりました) 2.座席をクロスシートとした事(座席はリクライニングは無い固定4人掛けボックス座席、車端のみレール方向のシートとなっている)。長距離輸送に配慮し、車端部に1か所トイレを設置(垂れ流し)。 3.編成は1両20m長の2両固定で1M1Tの組成。 4.制動方式をHSC-Dとした。これは応答性がよく扱いやすい電磁直通ブレーキであり急こう配、降雪時でも安定した制動力を得られる発電制動併用とし、更に抑速ブレーキを備え32型に比べ安全性が格段に向上し、それにより速度を上げて走行する事が可能となった。 5.行き先方向幕装置を東武鉄道初(当時特許出願)の自動巻き取り式とし、上り側の運転台で操作が可能でこれにより2両編成6か所が同時に操作出来る装置を設けた。これは途中での増解結運転によって車両によって行先が変わる為に誤乗防止の為に設置された。(1両辺り前面と側面2か所の3か所で車内には設置されていません) 6.外観はツートンカラーでマルーンとベージュで1700系や5700系と同じ色調とした事。内装についても同様にサーバスアイボリーの壁にコロラドオレンジの腰掛モケットとDRCや8000系と同様の色・仕上げとしている。また座席のすわり心地の良さは一級品です。 上の写真で雰囲気を少しでも感じて頂ければいいのですが、基本的には8000系を2扉の車両とした様な車両となっています。扉は片開き1,000mm幅となっています。一般車両としては当時の水準とすればきわめて豪華な仕様とはなっていますが、時代が時代なだけに冷房装置は設けられておらず、扇風機の設置と暖房用のヒーターが腰掛け下に設置されていますが、クロスシート部とロングシート部で2種類の性能の物が配置されています。
走行装置については前章でもちょこっと触れてますが、8000系で採用されたTM63型主電動機と同じ物が採用されています。 制御装置は発電制動に対応のものとなっているのでMMC-HTB10Dという制御装置が新たに開発されました。これはTM63電動機8個を制御しなおかつバーニア制御である8000系のVMC-HT−20Aよりも大型となっていますが、この新開発の制御装置1台で4個のTM63電動機を制御しておりかつバーニア制御ではありませんが8000系の制御装置より大型化となっています。発電制動が含まれるとどれだけ回路が複雑になるかという事です。 以上が東武6000系の概要となっています。
<6000系快速の誕生・野田線輸送改善> ![]() ▲浅草駅2番線で出発を待つ6000系快速東武日光・鬼怒川公園行きです。 DRC増備で勢いに乗る日光線観光輸送が更に快適で便利になる時代がやってきました。 昭和39年5月31日、本線全線、野田線でダイヤ改正が行われました。おおまかな概要としては、 1.6000系車両就役により準快速より上位種別となる快速が設定されました。それまでの快速は通勤快速として分別されます(種別表示は快速のままですが)。 2.日光線北鹿沼〜板荷間複線復旧に伴う特急・急行の速度アップ 3.野田線柏口の10分間隔運転の実施(豊四季方限定で従来は15分間隔でした) 4.荷物電車の新設、増設(一般車両と混同していたものを分離するという動き) 快速列車は浅草を出て、北千住・春日部・杉戸・新大平下・栃木・新栃木・新鹿沼・下今市の8駅に停車し以北が各駅停車の俊足列車で浅草〜日光を最速114分の2時間以内で結ぶ種別となります。準快速が新大平下以北各駅停車であるのと比較すると俊足っぷりがまるで異なりこれによって特急や急行に乗れない人でも日光・鬼怒川へ気軽に行ける様になったのです。 運転の頻度としては浅草から日光・鬼怒川へそれぞれで2往復ずつ合計4往復が設定されました。流石に6000系が7編成のみなので多くの快速の設定は出来ませんが非常に便利な列車が誕生しました。2023年現在で言うとスペーシアXを2編成使い1日4往復するのと似たようなイメージです。6000系はあわせて日光線系統の普通列車にも使用される事となりますが、快速列車の時間によって通過が発生する時間帯にはこれらの駅の利用客の補てん用の普通列車も設定されています。 初石〜六実にタブレット閉塞から単線自動閉塞化による運転性向上と32型電車追加配置(6000系配置により新栃木電車区からの転属)によりラッシュ時の輸送力は従来より50%も増強されました。これによって柏口(豊四季方)の10分ヘッド運転、柏〜六実間での20分間隔運転が開始されました。(六実〜船橋は昭和37年に10分ヘッド化済み) 車両増加に際しては野田電車区(野田市)の容量が限界にきている事もあり、六実に留置線を1本増設したほか、岩槻と川間に車両を留置する事で対応となりました。 野田線輸送の主力となっている32型電車ですが、戦前製の17m級で乗降口が1両に2か所(の両側)のみと増えれば有難い存在ではあれどなかなか扱いにくい車両であるのが実情です。そして更に頭を悩ませるのが戦前設計な為か、新たな電気配線がスペースなどの問題で困難な為に放送装置や扇風機ですら設置出来ないという点が悩みの種でした。 2020年に東京でオリンピックが開催されるはずだったのが新型コロナの影響で2021年に延期となったのが記憶に新しい2回目の東京オリンピックでしたが、改めて1964年の初代東京オリンピックとはどういうものだったんだろうと調べてみると、意外な事に本来は1940年に東京でオリンピックが開催される予定だったという事を知りました。 中止の理由は年数を見てお気づきでしょうが、第二次世界大戦に差し掛かる時期という事でナチスドイツらと共に枢軸国側として戦争国家へ道を歩んでいた日本は国民もオリンピックの開催に反対をとなえ、結局中止となったようです。それから20年以上が経過した1964年に1940年大会の開催権を返上した日本がアジア初、そして有色人種国家における史上初のオリンピックの開催を実現する事となりました。(これらは1940年開催予定時から言われていた事で、まさに20年越しの夢実現となったと言えます。) さて1964東京オリンピックが開催された当時の状況はどうだったか振り返ってみますと、1964年10月10日の五輪開会が近づくに連れ、(この年10月1日東海道新幹線が開業)、海外から日本に来る外国人観光客が増え、国際的な観光地、日光への輸送を担う東武鉄道では特に土日の特急列車の予約が例年の輸送力の2倍まで跳ね上がるというとてつもない大フィーバーとなりました。オリンピック開会直前の9月30日にはドイツと旧ソ連の選手団等が特急列車を利用したそうです。また快速列車を2往復増発したそうです(6000系の編成数は7本のままなので6000系以外の53・58型などのクロスシート車を活用して増発したと思われます)。 そして東海道新幹線、東京モノレールの開業に先立ち東武伊勢崎線と相互乗り入れをしている営団日比谷線の延伸工事もオリンピック直前となり更に急ピッチで進められ、3月25日には当東武直通側としては終点だった東銀座より中目黒側の霞ヶ関〜恵比寿間が部分開通し、7月22日には恵比寿〜中目黒が開通し、東急線側とつながっています。銀座総合駅や日比谷付近の建設が難工事になり最後まで残ったのが東銀座と霞ヶ関間となりました。これらがついに完成し全通開業日が1964年8月末に決まり、東武は39年6月に2000系電車を20両増備しました。これは運用されていた4両固定10編成を全編成6両化する為に中間車を増備したものです。既に輸送力不足が顕著となっていた日比谷線直通電車の増結が果たされ万全の体制で日比谷線全通を迎える事となりました。 こうして1964年8月29日、営団日比谷線が全通開業し、東急東横線も相互直通に加わる事となりました。これに先だった8月26日に東武はダイヤ改正を実施しています。 【地下鉄直通】 改めて日比谷線直通開始時からの変遷をおさらいしますが、 昭和37年5月31日 相互直通開始時ダイヤ 日比谷線内ラッシュ時4分間隔 平常時5分間隔で東武直通は3本に1本の割合の為ラッシュ時12分間隔 日中15分間隔で運行。 昭和38年2月23日 東銀座延長ダイヤ改正 東武からの旅客の増加が凄まじい為朝ラッシュ時の直通割合を2本に1本に増やしラッシュ時の直通を8分間隔に増発。 そして今回の全通ダイヤとなる訳ですが、今回からは日比谷線と東急東横線の相互直通運転も開始される為東急側も含めたダイヤに修正されています。 ・ラッシュ時の運行を4分間隔→3分間隔、日中時間帯が5分間隔→4分間隔に増発。 ・東急、東武共に直通は3本に1本の割合とする。東武側との相互直通はそれまで2本に1本の割合でしたがこれが減る事となりました。(ラッシュ時は8分間隔から9分間隔と減り、一方日中は15分間隔から12分間隔へ増発) →6月26日の段階で地下鉄直通車は全編成6両固定になっていたので従前に比べたら輸送力増強とはなっていましたが… 【地上車】 ・大袋〜杉戸 昼間のローカル列車20分間に増発(※従来は北越谷以北は日中30分に1本の運転だったそうです。少ない!) →当時は草加松原団地の入居完了が落ち着いたかと思いきや今度は武里団地という新たなマンモス団地の入居も控えており北越谷以北の沿線開発も活発でした。 ・当年9月にDRC1編成(1751F)の増備が予定されていたのでそれに対応したダイヤに改定。(東京オリンピック直前で外国人観光客輸送力増強が急務になっていた頃でした) ・休日ダイヤの設定。今までは平日も休日もそんなに利用に差が無かったらしいが、日比谷線開業の影響もあり、平日・休日での差が出てきた事と、乗り入れ先の営団と東急では休日ダイヤがあった為に設定される事となりました。どれくらい差があったかはわかりませんが・・・ 休日ダイヤについてですが当時の土曜日は平日と同じですのでご注意を。あくまで日曜日や祝日が休日ダイヤであり、土曜日ダイヤが設定されるのはしばらく後の事となります…。 こうしてついに日比谷線は東銀座から都心を西に貫いて、中目黒まで到達し、更に利便性は増す事となりました。なお日比谷線と並行して建設が進められていた都営地下鉄線(都営1号線、現浅草線)は新橋までの開業はしておりましたが、軟弱地盤に悩まされ建設が進まずオリンピック開会前の全通は不可能となり、とりあえず新橋〜大門(東京モノレールのある浜松町駅接続)を単線限定で10月1日に開業させ、オリンピック期間中は工事を休工とする事となりました。 ![]() 群馬県前橋市の幼稚園に保存されているモハ3505号。元は32型電車と呼ばれた旧型車両の更新後の姿です。 なおこの3505号は32系電車の代名詞とも言える戦前の東武電車、ではなく、 戦後に運輸省規格形として昭和22年に製造され 東武鉄道に割り当てられたモハ5300形(当時の形式)の5302号だそうです。 その後昭和27年にモハ3200・3204号となり、 昭和41年に更新され最初はモハ3571号となりましたが、昭和46年にモハ3505号に改番されました。 8000系電車の増備が進むも、広大な路線を持つ東武鉄道では、新車を増備してもそれは純増する乗客への対応とした増発分として使う以上、輸送力を維持する為には現存する車両も使い続けなければいけない状態なのは明白でした。しかし現存する旧型車両と言えば、戦前から活躍する車両や戦後の物資が不足する時代に製造された車両等であり、車体の長さが短く、片開きの扉が1両辺りわずか4個しか付いていないのがほとんどであり旅客の流動性が悪い為にラッシュ時の遅延は増大し、更に電動発電機等の性能不足やギリギリの設計が災いし、照明は暗く、放送機器の設置不可、扇風機の設置すら出来ない。と言ったように性能面の低さ以上に接客面の悪さが際立っていました。 これに対応すべく拡張工事が完了した西新井工場内(津覇車輛施工)にて旧型車両の更新が開始され、新3500系更新車のモハ3500+クハ3600の2両固定編成が昭和39年12月についに竣工となり、業平橋でお披露目されました。この更新車両の特徴は新型車両として出たばかりの8000系電車と日比谷線直通用の車両として製造された2000系電車をミックスした様な新しい車体(要は8000系の20m4扉車を18m3扉車にした感じ)に乗せ替えられ、床下の主要機器は極力そのまま流用する事で改造費用を削減しつつ、近代的な車両に生まれ変わらせる事が出来ました。旧型車両と今回の更新車両の単純な比較は下の表を参照して頂ければ良いのですが、大きく変わったのは改造前よりも車体が若干ですが大きくなり収容数が増えた事、扉が両開き片側3扉の両側で6扉になった事で旅客の流動性が大きく改善された事です。これは非常に大きいです。 モハ3500形は32型電車の他に上述した通り、戦後の運輸省規格車であるモハ5300形が種車となっていますが、クハ3600形、後に誕生する中間サハ3600形については32系以外に旧総武鉄道(野田線)からの転入車である車両だったり、大正時代に誕生した客車が元となった車両等様々な車両が含まれ、クハ220・230・240・250・290・400・410・420・450・470・550といった様々な形式から生まれています。これだけバラエティに富んでいると、床下の仕様も1両ごとに異なるといった有様で、番号の付け方も当初は末尾が台車の仕様等で決められていた為にペアを組んでいても末尾の番号が異なってしまいわかりにくい番号となってしまった模様です。 こうして新しく誕生した3500系電車ですが、車体は完全に新しくなりつつも台車や制御装置は更新前の物を流用していますが、懸案事項となっていた客室設備の改良に伴い電動発電機については新しい物が設置され、これにより扇風機の取付、室内照明は白熱灯から蛍光灯に更新され、新しい車体に乗せ替えた事もあって雰囲気は一新されたと言って良いでしょう。 また新型通勤車8000系の製造と平行して社内の西新井工場で旧型車両の更新工事も開始される事で、東武鉄道の通勤輸送はますます改善されてゆく事となります。32型電車終了後は54型電車等にも更新工事が及んでいきますが、それは後述します。
![]() ↑就役当初は立派なHMを付けてフライング東上号として走る姿も見られました。(写真はリバイバル塗装による再現) とりあえずこのページでは昭和39年末までの動きを記載してみました。前回からで言えば1年〜2年程度の話だってのに大分まとめるのに苦労しました…。下手なんですね(汗) 就役直後の8000系は4両固定編成で本線、東上線の近距離輸送や東上線の行楽優等列車として活躍していました。参考文献の中で昭和39年夏頃に撮影されたフライング東上号運用に入る8000系も記録されています。(イメージは上に貼った画像な感じです。HMの取付方も当時を再現されています。)記録を見て知ったのですが、実際のHMは急行文字となっていますが、上から白地のシールで特急と貼られて使用されていた模様です。特急のHMをシールで処理ってのが中途半端感満載ですね^^;) ちなみに前述の通り増結編成が出来るまでは下り方の連結幌はなかったのですが、このフライング東上のHMの取り付け金具って幌がないと付けられないのでは?と感じるかもしれません。実際は幌無しでもHMを引っ掛ける横金具が取り付け可能になっていました。(実際に画像記録で確認しています) いよいよ次から更なる激動待ち受ける昭和40年代に突入します。東武鉄道で言えば激増する通勤・通学輸送への対処、8000系は更なる増備が進む中で、大事故による事故廃車発生…(代替新造したので廃車カウントされてないですが)などなど。ヤバイ、これ本当いつ終わるんだ…。 2016年03月06日編集完了(まぁいじりだしたの2014年頃なんですが・・・) 2023年08月18日再編集 (今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m) 参考文献(※交通東武以外、全て購入。一部資料は国立国会図書館にて閲覧し有料プリント。) ●鉄道ジャーナル(鉄道ジャーナル社) ・1976年10月号 通巻116号 特集鉄道のサービスを考える 主力電車のサービスを採点する<2部>通勤車両編 ●鉄道ピクトリアル(株式会社電気車研究会) ・1972年 3月臨時増刊号 通巻263 東武鉄道特集より ・1990年 12月臨時増刊号 通巻537号 特集 東武鉄道 東武鉄道車両履歴資料集より ●電氣車の科学(株式会社電気車研究会) 1963年12月号 通巻188号 ・東武鉄道8000系新通勤車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長) 1964年6月号 通巻194号 ・東武鉄道6000形電車概説 (石橋 宏氏/東武鉄道車両課長) 19??年?月号 通巻???号 ・都営地下鉄6号線用6000形車両の概要(前・後編) (吉田 崇氏/東京都交通局電車部 高速運転課長) ●とれいん(株式会社エリエイ) 2011年1月号 通巻433号 ・東武8000系おくのふか道 (山賀一俊氏) ●モデルワム 東武鉄道8000系列ディティールUPガイド(目沼 弥十郎氏)(2008年1月発行) ●東武鉄道100年史(東武鉄道株式会社) ●交通東武各号(東武鉄道株式会社)※非売品 東武博物館図書室にて閲覧調査 ●【復刻版】私鉄の車両24 東武鉄道(ネコパブリッシング) ●ヤマケイ私鉄ハンドブック3(山と渓谷社)(昭和57年2月発行) 東武 ※文中の写真は特記を除き、全て筆者が撮影したものです。(ほとんどないですが) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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