池袋〜成増の利用客が多すぎる東上線側へ8000系が優先的に投入されているのが伺えますが、この直後の昭和39年12月より翌年2月にかけて、8000系初の2両固定編成が8編成16両誕生しました。これらはまず全て東上線へ投入されていき、これによって4両編成と2両編成を繋げた8000系による6両編成運転が開始され、その分旧型車を本線へ転属させ本線の運転両数拡大に繋げます。 この2両固定編成は4両固定編成のTc+M+M+Tcの組成と比べ、Mc+Tcの1M1Tの編成となっており、新たにモハ8500形とクハ8600形の組成となったので8500系とも呼ばれます。上り方・下り方のいずれにも連結が可能となっています。また単独での走行も可能で走行性能は4両固定編成と同等になっています。これは当時では結構珍しい手法だったと思います。なぜならそれによってTM63モーターとVMC-HT-20制御装置がそのまま採用出来ないので、これに適したモーターと制御装置が必要となります。この為、新たにTM64モーターとVMC-HT-10制御装置が出てきます。このTM64モーターはTM63モーターと比較して加速時に甲高いモーター音をあげるのが特徴となっています。詳しい関係は知識不足なので割愛ですが、TM64モーターはTM63モーターと比較して性能を合わせる為に端子電圧が倍の750Vとなっています。この端子電圧の違いがあの甲高いモーター音に関係してるんだとかなんだとか。 東上線では1963年度に投入された8000系4両固定9編成によって、大型車による(73・78型使用)を使った6両編成運転を行っていましたが、昭和38年12月の時点で朝ラッシュ時に最大14運用が6両運転となっていました。そこに昭和40年1月16日以降より8501F・8502Fを使用した8000系による6両編成運転が開始され更に2運用増えました。 当時の東上線池袋口の7時〜9時の列車運用状況を見ると、 ・DK(32型等)6両編成4本 ・遠距離列車(ホーム長の関係で大型4両編成)5本 ・大型6両編成31本 ・近距離大型4両編成9本 だったそうです。(運用数と比較して、上下併せての本数と思われます。) ちなみに東上線の8000系は当初、上り方(池袋方)に8500系を連結していました。これは当時の写真を見ても明らかで、意図的に上り方に繋いでいます。何故かと言えば当時の東上線の車両基地であった川越電車区の構造の関係もあってでした。通常上り方から下り方へ車庫があるものですが、川越電車区の場合は、下り方から上り方へ車両が転線していたとの事で、この措置は森林公園区が出来るまでこの組成は続きました。今思えばいびつだったのかなと思いますが、後々この組成が役立つ時が来る時もあったりするんですよね。それについてはまた後ほど。 また身軽な2両固定編成は当時の輸送量を考えると日中の2両運転でも使えるので、当時の東武鉄道にとっては非常に使い勝手の良い車両だったと言えます。当初は日中に2両単独での準急による池袋行きも運転されている記録も見られ、今とはまさに世界が違うといったところですね。 という訳で、当時の配置表を再度おさらい。
また横道にそれますが、昭和40年3月に6000系が10編成20両増備されました。これは快速列車の運転拡大による増備であり、これをメインに昭和40年6月7日に本線側で一斉にダイヤ改正が実施される事となりました。 このダイヤ改正による変化は以下の通りです。 ・6000系電車増備によりそれまでの32型の準快速列車が消滅し、全て6000系快速列車に置き換えるもの。(それまでの上下4往復8運用から合計22運用へ拡大。) ・快速列車は原則下今市での分割併合の多層建て運用となる事。 ・準快速が停車していた新栃木以北の快速通過駅への対応として、区間運用列車の設定し、いずれも新栃木で宇都宮発着の浅草方面行き準急に接続させる。 ・性能で6000系に劣る57型青帯急行が一部快速に置き換えられ、青帯車を伊勢崎線急行列車の増発用に転用。(日光線青帯車の運用自体は残ります) ・宇都宮線にその年の4月1日に停留場として開業していた『おもちゃのまち駅』のそれまで従業員用に朝夕の通勤輸送用に4運用のみ停車していたのを、行き違い設備を設置し全列車旅客扱い駅にする事。 ・宇都宮線ではそれまで電動車1両付随車2両による3両編成としていたのを1M1Tの2両ペアによる運転に改められ、運転速度を向上する事。 ・上記により宇都宮線に78型電車でも運転する為、78型の運転速度の設定。 ・日光鬼怒川線に6000系による各駅停車列車も設置されるので新たな運転速度の設定。 ・特急ロマンスカーの上り列車に限り、北千住駅に停車させ日比谷線利用者の便を図る。 ・日光線から転用される青帯車は伊勢崎線の急行に転用され、それまで1400列車急行りょうもう号に館林で併結運転されていた葛生始発の1600列車急行からさわでしたが、新たに浅草まで単独で運転される事。(これにより朝の館林⇒浅草の急行が1運用増設) ・桐生線において休日休止列車が一部設定されていたが、太田の衛星都市化や赤城方面への観光客の増加により平日と同じ運用数に改められた事。 ・蒸気機関車の運用減。それまで運用されていた小泉線貨物列車も完全電機化され、伊勢崎線では木崎〜新伊勢崎の貨物運用が電機化される事。ただし一部貨物専用線が電化されていない事で館林〜木崎に蒸気機関車運用が残る事。 ※新伊勢崎〜伊勢崎間は国鉄高崎機関区からの蒸気乗り入れ運転があるので、引き続き蒸気運用が残る。 ・上記に関係し、館林駅構内の入れ替えは蒸気から電機へ置き換えられる事。 ・荷物電車運用をそれまでの伊勢崎線2運用、日光線1運用から伊勢崎線4運用、日光線2運用に増発し、旅客電車から荷物運用を切り離す事。ただし杉戸以南は旅客電車を利用した荷物輸送が一部残る。 ・6000系電車増備により準快速運用等がなくなる新栃木電車区32型電車を4両野田線へ転属し大宮口の輸送力増強にあてる事。 ・野田線の列車番号を本改正を機に、始発駅の発車時刻と運用番号によって設定される事。 おおよそ以上となっています。各地でいろんな改正が行われたんですね。かつての花形車両だった57型もこの頃から日光線から伊勢崎線への転用が始まった頃でもあります。 また東上線側でも大きな変化として、昭和40年5月17日に川越市〜坂戸町の複線化工事完成によりダイヤ改正が実施されました。 この複線化のによって、上り列車の増発は勿論の事、朝の池袋方面への上り列車の通勤輸送を最優先していた関係で下り列車は川越市発6時19分から7時9分までの50分間に1本も運転が出来ないという恐ろしい状態となっていたのが大きく改善され、川越市6時26分発、同41分発、同7時00分発が新たに設定され、下り方面の輸送力は3割も増強されました。 また坂戸町で接続する越生線の輸送改善も行われ、小型車両による4両運転が開始されます。これに伴いそれまで無人駅だった一本松、川角、武州長瀬、武州唐沢の4駅に駅員を配置し、各駅のホームを85mまで延長し駅舎を新築と装い新たに列車の増発も行われました。特にラッシュ後の8時〜11時は1時間に1本の運転にとどまっていたのが1時間に2本へと倍増される事となりました。越生線の輸送も同時に改善されたという訳ですね。 〜更に8000系を50両大増備へ〜さて昭和39年12月〜昭和40年1月に8500系8編成16両が増備され、これは東上線のみの配置となりましたが、攻勢(?)は続き、同じ年の昭和40年8月〜10月に掛け今度は一気に50両も増備されます。内訳は4両固定編成6本24両と2両固定編成13本26両です。2両固定編成はあっという間に21編成42両まで増えます。 今回増備される50両の内訳は本線が30両で東上線が20両と、結局年初に増備された2両固定8編成16両と今回を併せると結局は本線30両、東上線36両といった感じになります。 また更に細分化すると本線側30両のうち4両固定が3本12両、2両固定が9編成18両の30両となり、東上線側が4両固定3本12両、2両固定が4編成8両の20両となります。 先に本線側ですが、この増備によって2両固定編成が登場しますので東上線側同様に4両編成に2両編成を連結した6両編成の運転が開始されます。2両固定編成はラッシュ時の増結での活躍もそうですが、その身軽な形態を活かして、亀戸線や大師線といった2両編成で運転される路線での活躍や当時は伊勢崎まで大型6両編成が入れなかった為に、太田で分割され桐生線を2両編成で走ったりといった感じに走行区間が広範囲に渡る様になります。 そして6月7日に大改正を行ったばかりの本線で昭和40年第二次ダイヤ改正が9月18日頃に実施され、早速増備された8000系も活用されていきます。この増備された30両によって杉戸以南の輸送力増強が行われました。その概要を下記に記します。 ・9月18日より2運用増加(8000系4両固定編成使用) ・増備車両の到着を待ち、11月8日以降順次、ラッシュ時の北千住口5運用を4両編成から6両編成に増強。 ・上と同じく、ラッシュ時の北千住口3運用を2両編成から4両編成に増強。 ・本線8000系増備後に旧型車両を野田線へ順次転属し、船橋口、大宮口の輸送力増強にあてる。 ・亀戸線に新たに1運用を増設し、それまでのラッシュ時7分ヘッド運転を5分ヘッドに増発。 ・新鹿沼〜北鹿沼間の複線復旧により一部列車の発着時刻改善、所要時間短縮。 ・6月改正から更に蒸気機関車運用を電機に置き換えし、佐野線と葛生から先の貨物専用区間が最後の運用区間となり蒸気の引退が見えてきました。 これら輸送改善を行うにあたり、いくらか施設改良も実施されました。まず業平橋駅構内に今ではお馴染みの留置線が10本新設され、それまで西新井電車区に留置されていたDRCと白帯車の大半を留置する事となりました。これによりそれまで竹ノ塚から浅草への上り12運用と下り9運用の回送列車がなくなるので、ダイヤに余裕が出来る事と、特急車両の代わりに増え続ける一般車両の留置箇所が確保されました。しかしこれも一時的な延命措置程度にしかなりませんでしたが…。 次に浅草駅の1番線ホームが延伸され大型6両編成の停車が可能となりました。6両編成列車拡大には大きな意味を持つホーム延伸となります。 続いて東上線側です。こちらは運用をこれ以上増やせる状態ではなかったので、主に増備した20両増備を使っていき、10月11日に3個列車が大型6両編成へ、12月26日には更に7個列車が大型6両編成へと増強していきました。 しかし増やせど増やせど利用客の増える勢いも増すばかりで特に冬場は厚着による着膨れによりラッシュ時の混雑はより一層酷くなり8000系投入により何とか持ちこたえるといった状況でした。順次大型6両編成を増やしていき、小型6両編成も大型車両に置き換える事が当面の目標となっていました。
ちょっと小休止ですが、昭和41年4月〜9月までの毎日曜日とGWの祝日だった4月29日、5月3・5日に通勤車を使った臨時快速列車が運転されたそうです。(当時の土曜日は平日と同じ様なもんなので運転されてないですね) この列車には8000系と78型の4・6両編成が使用され、日光側だけでなく赤城方面にも運転されているのが特徴です。ちなみに停車駅は浅草・北千住・春日部・杉戸・加須・羽生・館林・足利市・太田・薮塚・新桐生・赤城だったそうです。今や特急列車すら停車する久喜は快速すら通過していたって訳です。 またこの頃、電車内の禁煙区間が拡大される事になり、東上線では9月1日より池袋〜川越市まで車内禁煙だったのが東松山まで拡大される事となりました。ちなみに本線側はまだ浅草〜北越谷までが禁煙区間であり、春日部とか杉戸辺りは普通に吸えたって訳ですね。となれば北千住口でもタバコの匂いが残る車両も結構いたんですかね…。 1966年(昭和41年)6月30日にて、東武鉄道開業時の1899年(明治32年)以来活躍し、最盛期はタンク式とテンダー式が合計60機(昭和21年、22年のみ)も稼働していた蒸気機関車が全て電機機関車に置き換えられ引退する事となりました。数字を見ての通り約67年の活躍に終止符が打たれる訳です。 これに先駆けた6月26日に蒸気機関車さよなら運転が行われました。更には館林機関区では撮影会も行われたそうで、当時では珍しいイベントだったのはではないかと思われます。 さよなら運転は最後まで営業運転を行っていた佐野線内で行われましたが、既に貨物列車の牽引のみになっていた蒸気の最後の花道として、旅客列車牽引というサプライズを実施する事となった訳ですが、 それに選ばれたのは54型電車4両でした。既に客車もいなかったので、お客さんを乗せる為にと、旅客電車を牽引する事になりました。当時の感覚でこの組成はどうだったのか現代の人間には想像もつかないですが、真新しい8000系は勿論NGで78系よりもより一層武骨なスタイルをしていた54型ならそれなりに様になったとは思われます。 ▼こちらのサイトにて貴重過ぎる当時の御写真が掲載されています。(トップページにリンクしてますので当該ページへはそこから移動してください) https://cedarben.blog.so-net.ne.jp/ 検索掛けるとこんな昔の写真を見れるのですから今のインターネットは凄いですね…。 そして今となってはC11形SL大樹が運転されているのですから、不思議な感じです。この引退イベントから実に51年が経過した2017年8月10日に東武鉄道上では再びSLが東武線上に復活し今に至ります。末永い活躍を期待するばかりです。 冒頭に書いた様に、各路線では年々利用者増え続けそれに対応して車両の増備が待った無しの状態となっていましたが、増える車両に対して本線・西新井電車区、東上線・川越電車区、野田線・野田電車区の3電車区では既に車両の留置がままならない状態となっていました。いずれも電車区以外の留置線や複数の駅への留置が常態化していました。 そんな中、先に工事が着工されたのが本線・西新井電車区に変わる新電車区で、これが春日部〜姫宮の間に建設されていました。この新電車区は320両もの車両数に対応した留置線を備え、将来は400両まで拡張が可能な土地を有し、更には東武鉄道初の毎日検査が対応可能なピットが検査庫に設置され、その他車輪転削盤、機械払場(分解点検)、自動洗浄機等も配備と万全の態勢が整う事となりました。この春日部新電車区が昭和41年9月より使用開始となるのでした。 またそれに伴い新たに電車区手前に北春日部駅が誕生し、営団日比谷線の直通運転区間をそれまでの北越谷止まりから北春日部まで延長される事となり、春日部市民にとっても日比谷線直通列車が身近な物となるものでした。これに伴うダイヤ改正を見越して車両の増備が行われる事となりました。(昭和41年5月〜10月まで増備分) 2000系:6両編成4本計24両増備(日比谷線直通電車の北越谷→北春日部間運転区間拡大と直通列車増発に伴う増備車) 6000系:2両編成5本計10両増備(日光線快速の6両編成運転数増と5700系青帯急行車の置き換えを行う為) ED5060形電機3両増備(前述した通り、蒸気機関車置き換えの為) ワラ1型20両、トラ1型20両増備(貨物輸送全線電化対応の為) そして8000系は合計36両が増備され、下記の様に本線・東上線へと振り分けられました。 (本線) 4両固定編成3本12両(8125F〜8127F)+2両固定編成3編成6両(8522F〜8524F) 18両 (東上線)4両固定編成3本12両(8122F〜8124F)+2両固定編成3編成6両(8525F〜8527F) 18両 特に日比谷線直通は北春日部延伸で大きな変化を迎える事となりますが、それは後程記載という事で。 東武では営団日比谷線乗り入れに伴い、ATCの試験運転は行われてたのですが、ATSは導入されていませんでした。しかし年々増え続ける車両と運転間隔の短縮化に伴い、信号機と電車の運転士の判断だけに任せた状態では重大な事故の発生が懸念された事から、機械的に危険区域に列車が侵入した場合、警報音を発生させ、自動的に列車緊急停止させる列車自動停止装置が行われる事となりました。ちなみに東武線上ではまだローカル線で(野田線も含む)単線自動閉塞化が完全導入はされていない状態だった頃でした。 ATS導入に伴う分科会は昭和37年12月より運転事故防止委員会として研究を始め、昭和39年9月には東上線の都営6号線相互直通に向けて、東武、東急、都営の3社による分科会が設けられ、都営は1号線で実績のあった1号型ATSを提案し、東急はB型(国鉄のATS-B型と類似)を主張するという状態でした。 そして6号線相互直通運転の話が進展した昭和40年2月より臨時建設課が発足し、その中でATSの仕様を話合う小委員会が設置されました。東武方式についてはまだ最終案を出していない状態だったので、早急に決める必要性が出た為で、依頼検討、研究を重ね、東武独自のATSを開発し、昭和41年2月より実車試験を開始するに至りました。 こうして昭和41年6月27日より本格的な試用試験を開始し、9月30日頃まで試験を行う予定となっているが、途中7月13・14日の2日に運輸省、陸運局、私鉄関係者を招待しての公開試験も実施されました。この試験用東武式ATSはTS型-ATSと呼ばれTS-ATSは変調式のATS-S型を多情報変調式に改良したものとなっていました。試験区間は本線が竹ノ塚〜草加の上り線(地上子24個、信号機11基)、東上線が中板橋〜東武練馬の上り線(地上子22個、信号機11基)、試験車両は本線でDRC1編成と8000系1編成、東上線側で8000系1編成の計3編成が選ばれました。 7月13・14日の公開試験は本線側で行われ、8000系4両固定編成を使用し行われ、良好な成績を収めました。また東上線側での試用試験の装置については東京都交通局にも貸与され、都営地下鉄線側でも試験される事となりました。逆に都営地下鉄側の装置も東武鉄道へ貸与されたか、2000系(モハ2101)と8000系(クハ8621)にIR無線型アンテナが取り付けられるといった事もありました。(時期は不明ですが、昭和40年代なのは間違いないですね。東上線の相互直通相手が6号線から13号線に変わるのは昭和47年頃です。) 〜春日部電車区誕生と日比谷線直通列車大増発〜昭和41年9月1日、当時では私鉄最大級の車両基地である春日部電車区が春日部〜姫宮間に誕生しました。これは昭和27年に建設され以降拡張を続けてきた西新井電車区の収容能力が追い付かなくなった事と、日本住宅公団による武里団地の誕生に伴う通勤輸送の増加への対策により北越谷以北の輸送力改善が急務となった事が重なったものです。また西新井電車区跡地については帝都高速度交通営団に譲渡し、ここに竹ノ塚検車区を設置する事により、竹ノ塚始発の営団車の運用増が実現し、朝ラッシュ時の東武線からの営団線直通列車の増発が実現する事となりました。日比谷線直通列車は春日部新電車区と同時に開業する北春日部駅始発とし、これにより武里団地の通勤輸送への対応と春日部市民の利便性向上も図られる事となりました。 今回のダイヤ改正による変化を下記に記します。 <日比谷線直通関係> ・朝ラッシュ時の日比谷線の運転間隔はそれまで3分ヘッドとなっていましたが、今回の改正より2分30秒ヘッドに増発する。 ・東武線からの直通列車をそれまでは3本に1本の割合(9分に1本)だったのを2本に1本の割合(5分に1本)へとほぼ倍増とする事。 ・これにより1時間当たりの最大本数はそれまでの7本から12本へと大幅に増加。 ・東急側は大きな変更無く変わらず9分に1本の間隔となっているので、東武から直通する列車は途中霞ヶ関折り返しの列車が3本誕生。 ・本改正より北越谷折り返しを北春日部折り返しまで拡大するが、北春日部始発はラッシュ時20分間隔、平常時36分間隔程度の本数となっている。 →日中の運転間隔としては、1時間辺り5本の12分間隔で運転され、竹ノ塚まで12分間隔、2運用が竹ノ塚止まりで北越谷までが12分と24分間隔の3本、更に2運用が北越谷止まりとなり北春日部まで36分間隔となっていました。 <本線地上線関係> ・今回増備する8000系18両を使用し、ラッシュ時の大型車6両編成運転を拡大する。(最混雑時は3コ列車を除き大型6両編成となる) ・通勤快速や準急等、一部小型車両による列車についても車種を変更(73、78系の大型車両化)を実施。 ・準急列車を浅草〜北千住間各駅停車とする。 それまではラッシュ時限定だった各駅停車措置を終日適用したもので、これもそもそもは日比谷線相互直通開始後、利用者の大半が日比谷線直通に流れた事が影響していました。今回は更に営団直通運用が倍増する事から北千住〜浅草の運用を減らす関係で準急の全停車という措置となりました。 これによって、2005年に消滅するまでの準急おなじみの停車駅となりました。ちなみにそれまでの停車駅は、浅草・業平橋・曳舟・北千住だったそうな。 <ローカル線関係> ●野田線 ・野田線へ本線より旧型車両を含む14両を転用し船橋口、大宮口、柏口それぞれの輸送力増強に充てる。 ・大宮口は4両編成1コ列車を新設し、最混雑時1時間7本体制とする。 ・柏口と船橋口は2両編成の列車を4両編成に増結する。 ・輸送力増に伴う大和田変電所の増強と藤の牛島〜清水公園間の単線自動閉塞化が行われました。 ※この段階で岩槻〜藤の牛島が単線自動閉塞化されていません。春日部もですか… ●日光線 ・6000系5編成10両増備に伴い、快速列車の6両編成運転を拡大。 ・性能の劣る57型青帯急行を6000系快速列車に置き換え、57型は完全に伊勢崎線急行用に転用される。 ・57型が日光線から消える事に伴い、スピードアップを行う。 ●伊勢崎線 ・57型青帯車6両と53型2両を改造し青帯車に格上げし、合計8両にて伊勢崎線急行列車の増発、既存列車への増結を行う。 ●宇都宮線 ・おもちゃのまち駅近辺の造成に伴う利用客増に対応すべく、4両編成1コ列車を新設する。 ●佐野線 ・渡瀬〜多田間の単線自動閉塞化が完成。 という感じで特に日比谷線直通がほぼ倍増されるという大きな改正となりました。またようやく電車区の手狭さから解放される事にもなり、 東武線内の営団運用も増やせたりと東武にとっては非常に画期的なダイヤ改正と言えますね。しかし北春日部始発がラッシュ時20分に1本かぁ。今じゃ考えられないですね。 一方東上線側では本線同様に18両増備した8000系を使用してのダイヤ改正が昭和41年11月28日に実施されました。 ・8000系4両固定編成3本、2両固定編成3本により旧型小型車両を8000系に置き換え。(東上線は既に朝ラッシュ時にこれ以上の増発が出来ない状態なので車両の大型化しか対応が出来ない。) ・郊外のベッドタウン化による利用者増に対応すべく川越市〜坂戸町間の昼間増発が実施された。(上下15運用) 冬場の着ぶくれ時期を迎え、小型車車両の20m4扉化の大型化を進めラッシュ対応に当たるというのが当時の流れだったそうです。
とにもかくにも輸送量の増加がとどまる事をしらない状況を考慮して、長期的な視点にたっての輸送力増強計画の策定が必要という事で、昭和42年度を初年度とした輸送力5か年計画を策定し運輸省へ提出するという事となりました。大きな所を列挙していくと、 <地下鉄直通関係> ・東上線と地下鉄6号線の相互直通運転に向けた建設と準備。 →昭和45年9月目途に志村〜大和町4.8kmの建設を進めていくが、それにあわせて東上線新電車区の設置と志木・川越市構内改良(折り返し設備の設置) ・本線と日比谷線相互直通の輸送力増強に対し、春日部電車区の収容力拡大をはかる拡張計画の策定。 <線路増設> ・本線北千住〜竹ノ塚の複々線化をはじめとして、その他6区間の複線化の推進。 →上で述べた様に、ラッシュ時の営団直通列車が5分に1本となっており、それ以外の中長距離電車がその間に入ると、日比谷線直通列車のこれ以上の増発が困難となる為に、早くも北千住〜竹ノ塚の複々線化の計画が策定されました。複々線化、複線化を実施する為には単純な工期・工費だけでなく、用地買収も必要となってくる。 <8両編成化> ・本線北千住口、東上線池袋口の通勤ラッシュ時の8両運転の推進。 →通勤輸送力増強の抜本的な対策としては、本線では複々線化、東上線では地下鉄直通運転がありますが、それらが完成する数年間の対策としてはこれ以上の本数増加が不可能な事から8両運転化による混雑緩和が必要となる為、特に緊急性の高い東上線は昭和42年11月、本線は昭和45年10月を目標にホーム延伸等の工事を進める。 東武はあくまで線増による輸送力増強が基本線で増結はそれまでのつなぎという考え方がありました。だからこそ早々に複々線化工事を実施するという英断が下せたのでしょう。 <野田線関係> ・単線自動化の推進(昭和42年5月に残った岩槻〜藤の牛島が自動化され、全線自動化完了となりました。) ・野田線については線増に加え、6両運転を実施すべく計画。 →その他といいつつ、この場合メインとなるのは発展めざましい野田線です。この頃にはほぼ4両編成での運転に増強されましたが、すぐに輸送力が追い付かなくなると早くも6両編成化が検討されています。 ・川間新電車区の設置 →手狭となった野田電車区の替わりとして、川間〜清水公園間の川間寄りに新たな電車区の建設が進められていました。 おおまかにはこんなところです。当然車両が増えたり本数増加に伴い、変電所の増設、信号機の増設とか細かい事も多数ありますが、割愛します。 ちなみについでですが、昭和42年4月15日に伊勢崎線大袋〜武里間にせんげん台駅が開業しました。上でも触れましたが、北越谷以北の輸送力大幅増の要因となった武里団地の最寄駅にもなり(武里団地自体が規模がデカいので、武里からせんげん台までの間にあるイメージです)、新たに準急が停車する駅として開業する事となりました。ちなみに当初は2面2線の駅で、副本線の設備は開業当初は設置されず、昭和43年7月改正にようやく使用開始となっています。またそれは後程。 〜昭和42年6月東上線の車両整備完了〜昭和42年度も8000系増備の手は休まらず4両固定8編成32両、2両固定11編成22両の54両が新造されました。 この年からは皆様ご存じ、台枠構造が変えられ、それまで台枠に外板を溶接する方式から台枠に外板を突きつけて隙間を無くしてから溶接するユニット構造になりました。これにより雨水浸入による外板の腐食防止を図っています。外観としては、車体の裾部にRが付き、逆に窓枠部分についてはユニットサッシとなり開口部は上部左右のRが無くなり□の開口となりました。 また8000系の生命線と言えるレジン制輪子ですが、問題が発生していました。当初から採用されていた物において車輪踏面にサークルクラックが発見されるようになり、やがてはフラットやグルービング(溝が出来るイメージ)が多発し出したそうです。これに対応すべく、レジン制輪子の改良品種のテストが昭和41年より開始された頃でもありました。この改良品種は昭和43年により採用され、車輪踏面の損傷は収まったようです。しかし今度は制輪子の摩耗が激しくなり、これの対応にせまられたとか…実はレジン制輪子は現在に至るまで幾度となく改良され続けているのです。
さてサブタイトルより横道にそれてましたが、この頃東上業務局では、所属車両の整備完了と銘打って沿線住人約1000名を招いて試乗会を開催しました。 趣旨としては、戦時に酷使され荒廃した旧型車両の更新と8000系の増備を平行して行った事で63型の73型化、32型電車の3500系更新化が完了した事で、車両整備完了しましたって所を沿線民に改めてアピールする為に行われた試乗会でした。この年、東上線ではいよいよ東武初の8両運転化も控えており、平行して坂戸町から先の複線化の推進(昭和42年は高坂まで)とさらなる新時代到来を予感させる状況にありましたが、そういう意味でまず戦前からの旧型車両を淘汰するというのは重要な意味を持っていた…と言えるでしょう。 ちなみに昭和42年6月時点での東上線の所属車両は、 ・8000系98両 ・73・78型108両 ・35型(3500系更新車)28両 ・52型 6両 ・54型 14両 ・11・14型 2両(荷物電車?) の合計256両となっています。荷電等に使われたと思われる11・14はともかく52・54型も旧型車両じゃないのか?という疑念を抱きつつもそれは現代の感覚であって、当時なら目覚ましい発展ぶりだったのです。その54型PR車もやがては更新されていきます。 といった感じでまず東上線は5月に8両の8000系投入と35型更新車を投入し、既に本数増加が厳しい中で大型車両化と旧型DK車の淘汰を行いました。冬場に投入する8000系は特に2両固定が多いですが、いよいよ目前とせまった8両運転の増結用に加え、引き続き小型車両の大型車両化への布石となっています。 前述の通り、東上線では昭和42年度は総勢30両の8000系が増備され、輸送力増強にあてられていきますが、昭和42年9月11日に坂戸町〜高坂の複線化完成によるダイヤ改正が実施され、26両の8000系を投入し引き続き旧型車両の置き換えが進められ朝ラッシュ時の輸送力が9%増強されました。 このダイヤ改正により昼間時間帯の増発も実施されました。 志木〜川越市間 15分間隔→10分間隔 川越市〜坂戸町間 30分間隔→20分間隔 坂戸町〜東松山間 60分間隔→30分間隔 東松山から先寄居まで 60分間隔据え置き この改正まで東松山を含む坂戸町以北は日中1時間間隔だったんですね。東松山以北はこの時点でもまだ1時間に1本の本数だったようです。坂戸町までは1時間3本までに増発され、人口増が郊外へとじわりじわりと拡大しているのが伺えます。ちなみにこの頃は昼間は小川町止まりはなく、寄居まで直通運転が当たり前でした。それまで日中の準急は30分間隔で運転され、池袋0分発は寄居行き、30分発は越生行きという感じでしたが、この改正で川越市〜坂戸町が20分間隔に増発されているので、越生準急の時間をずらし各駅停車坂戸町行きが増設されたと思われます。 余談ですが、この改正とほぼ同時期の昭和42年9月5〜8日の4日間に6000系6両編成を使用した東上線池袋発の秩父鉄道経由の本線・東武日光行きという団体列車が運転されています。 当時の記録によれば、池袋6:20発→寄居7:57着8:21発→(秩父鉄道線経由)→羽生9:12着9:40発→杉戸10:06着10:10発→東武日光11:32着という実に5時間にも及ぶ行程となっていました。この時代は自動車が一般的ではなかったのもあってか、総数1500名の申込みはすぐに満席となったそうです。 最近では回送で秩父線を8000系が通ったり、新型車両の甲種輸送列車が通過する以外は8506Fが広瀬川原でのイベントに参加するぐらいが東武と秩父の絡みとなっていますが、いつか秩父鉄道線を経由した東上線⇔本線のイベント列車とか運転されればと思いますね。 次に本線では5月に投入した12両を使って6月のダイヤ改正(内容控えてないので不明)の輸送力増強に充てられ、残り12両の投入しての輸送力増強ダイヤ改正が11月13日に実施されました。まぁこの頃は半年に1回ダイヤ改正なんて当たり前な状態でした。現代では全く考えられない大変な時代だったのです。 本改正により春日部区のローカル運用から2両編成での運転は浅草〜館林間は全て4両か6両編成となり、2両編成で運転されるのは亀戸線のみとなりました。そして8000系投入により車種変更が行われ、旧型車両については8両が野田電車区へ転属する事となりました。また東上線からも8000系投入に伴う旧型車6両が転属となり、合計14両もの車両が野田線に投入される事となりました。 この効果は大きく、船橋・柏・大宮口においてそれぞれ10%〜11%の輸送力増強が図られました。転用した14両のうち12両が4両編成増発用2本(大宮口1本と船橋口1本)と2両編成の4両化に2本と活用され、2両は予備車に充てられています。また柏口では1運用がそれまでの32型4両編成から78型4両編成に大型化が図られました。 ちなみにこの頃、東武大宮駅のホームが移設されました。実はそれまでの東武大宮駅は国鉄大宮駅の東北本線上り線ホームと同じ島式ホームを使っており、1面1線しか旅客用の線路がなく、他は当時まだ残っていた貨物運用に使われる側線4本があるに過ぎませんでした。この変則的な配置の為野田線ではまず最初に北大宮〜大宮公園が複線化されたのでした。貨物輸送の低迷もあり、側線を一部潰す事で今回のホーム移設が可能になり東武専用の1面2線の現在の形状に移転され、輸送力増強に対応していく大きな一歩となりました。またこれと同時期に大宮〜北大宮の複線化工事も開始されていきます。 また、野田電車区の容量限界に伴い、野田線用78型18両は春日部電車区に配置となり、日々春日部電車区より入出庫する事となりました。結局78型の野田線運用は3500系更新車の大量投入により次第に消えていく事となるのですが、その前ぶれ…とも言えます。また柏口の小運転列車の区間が野田市行きから清水公園行きに延長され、愛宕駅乗降客のサービス改善がはかられました。これと同時に愛宕駅は1面1線から2面2線に増設され行き違い可能な駅となったのです。 この改正により野田線はほとんどが4両編成運転となり、2両編成運用はごくわずかに残すのみとなりました。この時代の32型電車が4両で運用される姿もまたネット上で検索をかけると貴重な画像を見る事が出来ます。(鮮明なカラー写真まで残ってるのには驚きました。) 〜昭和42年12月 東上線8両運転開始〜前述の通り、東上線は昭和42年9月11日改正でラッシュ時の乗車効率の平均化をはかったが、昭和42年11月に8000系2両固定編成が3本が新たに入荷し、昭和42年12月1日に誠意工事を進めていた上りホーム8両延長が完了したので、冬場の着ぶくれによるさらなる混雑深刻化に対応すべく東武初の8両編成運転が8000系によって開始されました。既にラッシュ時の本数増加は不可で、8000系投入による大型化が進められていましたがそれでも足りないのでついに6両から8両への増結という輸送力増強策が開始されたのでした。今回対象となったのは、池袋着が8時前後となる最混雑時間帯の3コ列車(東松山6:34発・3002列車、東松山6:52発・3004列車、東松山7:10発・3006列車)でいずれも東松山始発の準急列車となっていました。 8両運転に際して、東松山・高坂・坂戸町・鶴ヶ島・霞ヶ関・川越市・川越・新河岸・上福岡・鶴瀬・志木・朝霞・大和町・成増の準急停車駅に加え、今回改正より準急(8両編成の列車限定)の停車駅となる、ときわ台駅の合計15駅の取り急ぎ上りホームが170mに延伸されました。下りについても工事は進めていきましたが、完成が翌昭和43年2月頃という事でした。こうしてみると、成増以北って当時はまだ結構駅数が少なかったんですよね。 ときわ台駅についてはこの日より将来地下鉄13号線の営団成増延伸が行われる時までラッシュ時限定で準急の停車駅となりました。これは当時既にラッシュ時の2分30秒ヘッド運転に対応すべくラッシュ時の全列車の平行ダイヤ化が実施されていた事(準急の追い越し運転が行われない事)やホームの狭さも重なり利用者の混雑が特に激しかった為、ときわ台駅に新たに8両編成に増強された準急列車限定で停車させる事に決めたというのものです。 下り列車のホーム延伸が未施工だったのですが、8両編成の電車に関しては池袋方に連結される後ろ2両締切措置の上客扱いをしないで営業列車として運転するという方法が取られました。(別に回送扱いでも良かった気もしますが…)当時、川越電車区の配置の事情で上り方に増結用の2両固定編成を連結という組成が普通だったので、今後出てくる大山対策車みたいな特殊な対応はせずにこの2両固定だけを締切すれば問題なく運行出来たと為です。となると8両編成の組成は2+4+2の変則編成だったのか、はたまた2+2+4だったのか、これについては分かってません。多分後者な気はします。 なにはともあれ、こうして東武初の8両編成運転が開始されました。8両に増強された3コ列車に関しては輸送力が30%も増強されたのでラッシュ時の投入効果は多大だったという事です。しかしこれも今後ますます悪化していく輸送人員の増加に対応していく為の小さな一歩に過ぎませんでした。 ちなみに当時の東上線の停車駅の状況を振り返ってみましょう。 ![]() この頃は既に特急(急行)フライング東上号がなくなっており、池袋8:35発の花形列車は急行たまよど号と名称が変更されていました。常時設定される優等列車は準急しか設定なかったんですよね。ちなみに準急は朝夕の混雑時は池袋〜成増間が通過、日中時は池袋〜志木間が通過となっており、前者が準急B、後者を準急Aと呼んでいたそうな。これは当時はまだまだ池袋〜成増間だけで東上線の全体輸送量の半数以上を占めていた時代だったのでこういう運行方法を取っていました。 急行が上福岡に停車し、最優等列車は川越を通過しているのが不思議な感じですね。現代では新たに川越特急なんて列車が設定されたもんですが、当時は川越市は全列車が停車していましたが、川越は通過してたんです。この状態は急行と特急の種別が再編された後もしばらく続いています。あと、玉淀が全列車停車なんですよね。今でこそ利用客の非常に少ない1面1線の寂しい駅となってしまいましたが、かつてはフライング東上号含め全列車が停車していたんですよね…。 記録を拾ってはまとめてみましたが、間違いがあるかもしれません。ちなみにながとろ号はシーズン限定で長瀞直通なので寄居止まりの場合はあらかわ号って名称で走ってたそうです。あと池袋6:00発の急行グリーン号東松山行きなんてのもありましたが、昭和40年ぐらいで消えてるみたいです。
やっと昭和42年まで終わった…。本当は昭和45年まで行ってから切ろうと思ったんですが、駄目です。全然進みません(汗) 最後に、いつも通り文章ばかりで恐縮です。(何か少しでも画像載せられないと思ったんですがいいの無かった・・・)
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
トップページに戻る サイトの中に展示されている画像を転載とかしたい際はメールを送って頂ければ基本的にOKです。 |