東武鉄道と8000系の歴史


▲8111Fのクリームリバイバルが終了という事で当時のクリーム8000系の雄姿を。
幌が荒ぶってますね〜。
(1975年頃東武東上線にて。これは成増駅…?)


東武8000系の歴史
私が東武8000系を本格的に追いかけられたのは2004年〜2016年頃です。
60年近くに渡る8000系の活躍ですがほんの一部に過ぎません。
それでも引っ張り出すと思い出がたくさん蘇ります。
そんな東武8000系の歴史を昭和時代から振り返る企画となります。


 このページは戦後から現代に至るまでの東武鉄道の歴史を東武8000系電車の活躍を中心にしつつ振り返るという企画となります。

はじめに

 東武8000系。と言えば結構鉄道ファンの間では有名な形式です。その一番の要因としては同一形式としては私鉄では最多両数の712両も製造された為というのが第一に挙げられます。これはほぼ同時期に日本国有鉄道(現JR)で3500両近くが製造された103系電車と境遇が似ており、その為東武8000系電車は私鉄の103系と呼ばれたりもしています。

 ところがその後、内外装のリフレッシュによる延命化工事(通称修繕工事)が長期に渡り施工された為に誕生から40年以上が経過しても712両のうち1両も廃車や譲渡による減少がなかった為に既に多数の廃車が出始めていた103系とは違う境遇を歩み始めていきました。
 戦前の車両を更新して50年、60年と使い続ける東武鉄道においては特段珍しい事では無いのですが、やはり多くの鉄道会社の車両を見ている鉄道ファンからすればこの余りの渋とさに呆れてしまう所もあったそうで、この車両が廃車される事は有り得ないないのではないかとまで言われた事もありました。

 そんなこんなで私みたいな若年層の鉄道ファンから見れば最早存在そのものがネタ扱いされてきた東武8000系も2008年1月より本格的な廃車が発生して以降は、順調に新型車両による置き換えが進み廃車が進んでいます。この様に一度廃車が始まるとあれよあれよと無くなっていくのも過去の東武電車達と全く同じ歩みを辿っているのですが、何せ私鉄一の大所帯な為に最後の時が訪れるまではまだ大分時間を要すると思われます。それでも最近では数を減らし、特に東武本線、東上本線等の幹線で既に見られなくなってきた為に、再度その存在が見直されて来ています。

 さて前置きが長くなりましたが、何だかんだで子供から老人まで、幅広い世代の東武ファンに根強い人気がある(と思われる)東武8000系。ではその誕生から現在に至るまでどういった歴史を歩んできたのか、気になりませんか?そんな東武8000系の歴史を調査して書きとめていこうとこの企画を開始しました。

 これを企画した当時はまだ大学生だったのですが、最初は古い書籍を手に入れるのにお金や手間等の労力が掛かって苦労しました。ですからまだまだ未完成ではありますが、とりあえず公開にこぎ着けられたのが何よりかなと思っております。
 いろいろと表現や文面に幼稚な面が見受けられます。誤字・脱字も何回かチェックして潰してはみましたがそれでも何かあればメールか掲示板にて報告頂けると幸いです。というか意味不明な箇所多すぎて1回じゃ直しきれなくて申し訳ございません。

 今現在も必ず過去となる日がやってきます。我々鉄道ファンはどうにも過去(古い車両)や未来(新型車両)、時事ネタに群がる習性があるのは当然ではありますが、こうして過去の歴史を調べるとかつて当たり前だった事が貴重となる日が必ずやってくると実感します。東武8000系だらけ、地方にいるのも東武8000系の顔と同じ東武3000系列ばかり。そして車体色はクリーム1色。正直こんなのが現代に広がるとしたら面白いと思う訳がありません。しかし今となってはあの頃が現代の鉄道ファンからすれば垂涎ものな時代に思えてしまうんですから全く不思議なものです。

 さて、企画するにあたって、どこから紹介しようかなと思ったのですが、やっぱり東武8000系の紹介をするのならそれ以前の車両の紹介や当時の状況を交えつつ紹介したいと思いますので太平洋戦争終戦後から紹介しようと思います。ちょっと古すぎやしないか?と今さらながら思いもしますが、不思議なもので現在当たり前な物を理解するのでしたらやはり過去やその歴史を調べるのがより理解度を深めるに必要と感じます。


注意事項とお願いについて


・この企画は尺だとか制限のある鉄道雑誌とかと違い個人で趣味でやっているので調べた事を長々と書いてます。また申し訳ございませんが文章ばかりです。

・様々な文献を読んで作ってますがどうしても本当の事が分からなかったりするので憶測で書いてる事があります。
間違いや補足、実際はこうだよとかあれば教えて頂けると非常にありがたいです…。

・見づらいのは承知です。見直しながら修正はしていきますがそれでも文章ばっかりなんでやっぱり見やすいものとは言えません。
 一方でこんな変な企画は誰でも興味を持って見て頂けるとも思ってませんが興味ある方には有益な情報(一般に広まっていない情報)を記載していける様に頑張ります。

・文章補完の為に各々の時代におけるの東武8000系の画像を探しています。特に未修繕時代ご提供して頂ける方いらっしゃいましたら是非ご連絡頂けると嬉しいです。

▲未修繕時代の8000系の画像を探しています…

1章 戦後から復興する東武鉄道(1945年〜1955年)

8000系情報無し
1.第二次世界大戦(太平洋戦争)終結
2.戦前から活躍する東武電車
3.戦後の東武鉄道の苦悩
4.救世主・6300系通勤車両就役
5.鉄道の復旧とロマンスカーの運転開始
6.戦後の大改番について
7.東上線で行楽特急・フライングトージョー号が運転開始
8.次第に復興を果たしていく東武鉄道
9.戦後初の自社設計車両・5700系特急電車誕生
10.スピードアップ化と戦後の復興

2章 東武8000系誕生まで(1955年〜1963年)

8000系情報無し
1.高度経済成長期の幕開けと東武鉄道の変化
2.東武本線都心乗り入れ構想
3.昭和30年初期の輸送力増強策と78系の増備
4.地下鉄2号線の規格決定へ
5.昭和33年以降の輸送改善と7300系の更新工事
6.地下鉄2号線工事開始とデラックスロマンスカー(DRC)の誕生
7.地下鉄2号線直通用2000系電車誕生
8.地下鉄直通開始までの様々な動き
9.伊勢崎線と地下鉄日比谷線相互直通運転開始
10.東武8000系登場までの東武鉄道の動き

3章 東武8000系誕生

東武8000系誕生 その1(東武8000系とあんまり関係無い内容だったり)
1.1960年代の通勤電車の技術革新
2.私鉄で相次いで高性能、高品質な車両が登場
3.国鉄101系電車の功罪

東武8000系誕生 その2
4.東武鉄道新型通勤車8000系製造までの経緯と検討、採用内容について
1:車体:20m両開き片側4扉車の採用とオールステンレスの検討
2:前面・運転台:高運転台の採用
3:車内:扉以外ほぼ完全無塗装化とした洗練された車内

東武8000系誕生 その3
4.東武鉄道新型通勤車8000系製造までの経緯と検討、採用内容について(続)
4:床下 故障の少なさ、簡素な構成により省メンテナンスを徹底した走行機器類
4-1.編成:コスト削減の為にMT比1:1の採用
4-2.ブレーキ:発電ブレーキの省略
4-3.ブレーキ:電磁直通ブレーキと合成制輪子の採用
4-4.電動機:高速域にも強い大出力電動機の採用
4-5.制御装置:超多段バーニア式カム軸制御の採用
4-6.台車:ミンデンドイツ式・空気バネ台車の採用

東武8000系誕生 その4
4.東武鉄道新型通勤車8000系製造までの経緯と検討、採用内容について(続)
4-7.故障に強い電動発電機と電動空気圧縮機を採用
5.8000系新型通勤車大量増備へ
6.あとがき


第4章:激動の昭和と東武8000系増備の歴史

4−1.急ピッチで進む輸送の改善 昭和40年までの動き
・西新井工場拡張工事完了、1700系白帯車のデラックス化
・日光線の観光輸送を改善すべく新・快速用車両6000系登場
・8000系通勤車就役による輸送改善状況
・日比谷線直通開始から2年後のダイヤ改正
・1964東京オリンピック開催と営団日比谷線の全通
・待望の32型電車更新車登場
・伊勢崎線に続き、東上線にも都心直通の動き


4−2.昭和40年代突入(昭和40年〜昭和42年)

・8000系2両固定編成誕生と6両編成運転の開始(東上線から)
・本線、東上線、野田線でのダイヤ改正ラッシュ(年に2回は当たり前ってぐらい改正しまくりです)
・(雑談)東武鉄道よりSLが引退。(約50年後に復活)
・春日部新電車区の誕生と営団日比谷線直通列車大増発
・東上線複線区画の拡大(川越市〜坂戸町から、やがて坂戸町〜高坂へ)
・輸送力増強5か年計画策定
・東上線8両運転開始

4−3.苦難の昭和40年代その2(昭和43年〜昭和45年)

 この頃になると東武の経営がどんどん厳しくなっていった時代でもあります。鉄道事業は赤字がどんどん拡大です。
 ちょうど国鉄の経営も深刻化してきていた時代ですが、この時代赤字が拡大しようが輸送状況の悪化が止まらない為に設備投資をし続けなければいけないという極めて苦しい時代でした。
 そして1969年12月クハ8139が大破した館林事故が起こってます。

 昭和43年07月 本線・野田線ダイヤ改正と野田線に七光台新電車区誕生
 昭和43年10月 東上線ダイヤ改正 複線は東松山まで延伸
 昭和44年08月 本線ダイヤ改正 太田〜伊勢崎6両化に伴い準急や通勤快速の桐生線・佐野線直通列車の消滅
 昭和44年09月 1800系新急行車両誕生
 昭和44年12月 館林事故について
 昭和45年11月 本線ダイヤ改正(北千住口地下鉄直通車増発とついに限界を超えた複線での1時間30本運転実施へ)
 等の内容を記載しています。

4−4.苦難と攻勢の昭和40年代その3(昭和46年〜昭和49年終わりまで)

 この項は鉄道事業赤字は更に拡大する苦難に置かれつつも攻勢を進める東武鉄道の奮闘ぶりがよく見られます。
 本線、東上本線の対応で苦慮している時に、これまた利用客が増え続ける野田線の対応もしないといけないという三重苦に悩まされる事になります。
 その為ますます戦前戦後生まれの旧型車両の助けが必要となる中で3000系更新車達の奮闘ぶりは8000系とは別でも特筆されます。

 昭和46年03月 東上線ダイヤ改正 森林公園検修区使用開始と種別再編(特急の誕生と一般急行の運転開始)
 昭和46年 32型更新完了と54型更新開始 日比谷線直通8両運転開始
 昭和46年12月 8000系初期編成の6両編成化実施
 昭和47年07月 8000系初の冷房車誕生
 昭和47年12月 東上線で普通の8両化に伴う大山対策車運用開始(実際は73年1月から)
 昭和48年11月 8000系初期車からの冷房改造開始
 昭和49年 オイルショックに伴う戦後最大の試練の年の開始とチョッパ制御試作車の登場(サヤ8001)
 昭和49年06月 セイジクリーム塗装車両の登場
 昭和49年07月 本線ついに北千住〜竹ノ塚の複々線使用開始と複々線ダイヤ改正実施+新越谷駅開業
 昭和49年08月 東上線朝霞台開業と森林公園開園に伴う改正(急行大増発)
 等の内容を記載しています。

第5章:昭和50年代・セイジクリームの時代

5-1.セイジクリームの時代1(昭和50年〜昭和53年終わりまで)

 昭和50年はオイルショック等の影響により設備投資が凍結された関係で大きな動きは発生していませんが、昭和51年になると8000系のマイナーチェンジが行われています。
 昭和52年になりついに野田線に8000系が投入されます。8両固定編成の8000系が出てきたのもこの頃ですが東上線に8両固定8000系を投入して4両固定や2両固定が本線、野田線に転属するといった動きも多く出ていきます。

 昭和51年 8000系マイナーチェンジ車の登場
 昭和51年07月 本線ダイヤ改正 曳舟駅亀戸線専用ホーム完成
 昭和51年11月 東上線8000系による東武初の10両運転開始
 昭和52年 8000系初の8両固定の誕生
 昭和52年08月 野田線ダイヤ改正 野田線で初の8000系運転開始
 昭和52年10月 東上線みずほ台改正 大山駅ホーム延伸による大山対策の終了による長編成化の加速
 昭和53年 8000系も列車無線対応開始
 昭和53年11月 本線ダイヤ改正 準急初の8両運転開始
 昭和53年12月 春日部らーめん誕生(!?)
 等の内容を記載しています。

5-2.セイジクリームの時代2(昭和54年〜昭和56年終わりまで)

 昭和54年から78型の更新工事が始まり、一方で73型は冷房化が出来ないという理由で8000系による代替え新造で廃車が始まっていきます。
 ますます東武の車両が近代化されていく事となります。

 昭和54年06月 78型更新 新5000系の登場(旧5000系は3070系に改番)
 昭和54年11月 東上線柳瀬川改正 小川町までの10両運転開始と小川町分断運転の拡大
 昭和55年08月 本線館林からの8両運転開始
 昭和55年12月 野田線8000系による大型6両編成運転開始
 昭和56年03月 東武動物公園駅の誕生(旧杉戸駅)と4月に78型の新更新5050系の誕生
 昭和56年11月 営団13号線直通9000系誕生と試作ステンレス車のお話(画像はないですよ…)
 等の内容を記載しています。

5-3.セイジクリームの時代3(昭和57年〜昭和59年終わりまで)

 1963年から開始された8000系の増備が1983年3月で完了します。全712両が揃い通勤通学輸送から本線東上線の行楽輸送へと益々活躍が激しくなる8000系ですが配置転換も多く行われました。
 そして野田線から8000系が一旦離脱へ…。将来8000系王国となる野田線七光台区ですが一旦8000系の活躍は終わりとなります。

 昭和57年07月 春日部検修区容量限界に伴い春日部駅横に留置線誕生
 昭和58年03月 東武8000系の増備完了
 昭和58年07月 野田線に5050系集約に伴い8000系が離脱へ
 昭和58年08月 営団有楽町線成増延伸に伴う東上線輸送変化と特急も小川町分断へ
 昭和58年11月 8000系の後継車両10000系登場
 昭和59年05月 78型転属に伴う8000系館林区配置へ
 昭和59年11月 78型転属に伴う8000系新栃木区配置へ(+その他の配置替えもあり)
 等の内容を記載しています。


第6章:バブル期の8000系(S59/1985~H3/1991)

6.バブル期の8000系(1)(昭和60年・昭和61年)

 昭和50年代が終わり昭和も60年代へ。この頃日本は未曽有のバブル景気により好景気を迎えていました。この流れに乗ってか東武鉄道も歴史上、最も動きが激しい時代だったのではないか?と思う程にいろんな事が起こりました。
 8000系で言えば昭和60(1985)年に3代目となる現行塗装が誕生し、昭和61(1986)年には修繕工事が開始され大きな転換期を迎える事になりました。

 昭和60年09月 本線ダイヤ改正。本線一般車の4両運用が消滅し全運用が6両以上の運転となりました。
 昭和60年09月 通勤車両の塗装変更へ。現代まで続くジャスミンホワイト+ロイヤル・リフレッシュブルーライン塗装が誕生。
 昭和60年10月 東上線、地下鉄直通前最後のダイヤ改正。国鉄埼京・川越線電化開業対策の運用増発も実施へ。
 昭和61年06月 東武8000系修繕工事開始へ。
 昭和61年08月 本線ダイヤ改正。東武鉄道の現代の要所となる南栗橋の誕生と本線初の準急10両編成運転開始。
 昭和61年10月 バブル期を象徴する野岩鉄道会津鬼怒川線開業と東武の相互直通運転開始。

 等の内容を記載しています。

6.バブル期の8000系(2)(昭和62年・昭和63年)

 1987年は8000系に小さいながらも一大変化と言える動きが起こった年でした。
 新塗装化が進み、上部灯の撤去が進み、正面に番号が記載されたりと様々な見た目をした8000系が発生(?)する事となりました。
 更にはこの年から修繕工事によりフロントマスクが6050系のスタイルが踏襲されるという衝撃的な変身も遂げる編成が誕生しまさにカオス。と言える状態でした。

 昭和62年05月〜8000系ら通勤車両の変化ぶりをまとめてみました。複雑すぎて全容は不明です。
 昭和62年07月 本線ダイヤ改正 浅草発の藤岡行きが誕生。また日光線の通勤快速の準急化により通勤快速が廃止へ等
 昭和62年08月 東上線ダイヤ改正 ついに有楽町線直通運転開始。和光市〜志木複々線化。日中急行の増発等いろいろ変化しました。
 昭和62年12月 野田線ダイヤ改正+今は亡き1819Fが就役。
 昭和63年01月 つい先日地下鉄運用から離脱した20000系が誕生したのがこの頃です。また新10000系と言われた10030系・10080系の誕生等
 昭和63年08月 本線ダイヤ改正 浅草発の藤岡行きが消滅(早)。メインは竹ノ塚〜草加複々線化完成と日中準急の増発等

 等の内容を記載しています。

6.バブル期の8000系(3)(平成元年・平成2年・平成3年)

 1989年になり昭和から平成と新たな元号が制定されました。
 平成に入り再度野田線に8000系の配置が復活しました。この頃になると3000系の置き換えが加速していった為です。
 東武の通勤車としては2000系を置き換える為に20000系が、3000系を置き換える為に10030系が増備され10030系で5000系なり8000系を動かして3000系を置き換えるという流れが加速しました。
 それ以上にこの頃は特急車両、急行車両の大改革が行われた時代として記録される時代でした。

 平成元年03月〜 野田線に8000系が再配置される。5月20日東武博物館開館。
 平成元年10月  東上線ダイヤ改正 特急みつみね・ながとろの池袋から直通運転の復活。小川町新1番線の増設等。
 平成2年06月  スペーシア就役と優等列車車両改革開始。この頃野田線に2編成目の8000系が配置される。
 平成2年09月〜 本線ダイヤ改正 業平橋の貨物ヤードに折り返し専用ホームを設置し押上駅と接続開始。10月には会津鉄道含めた3社直通運転開始。
 平成2年12月  野田線ダイヤ改正 3000系置き換えによる大型化推進と昼間の本数増加
 平成3年11月  野田線ダイヤ改正 2年連続の改正。柏〜新柏の複線化と更なる日中の運転本数増
 平成3年12月  本線・東上線ダイヤ改正 終電の大幅繰り下げ(現代に至る25時台までの運転開始)東上線は土曜日ダイヤが誕生。

 等の内容を記載しています。


トップページに戻る

Copyright (C) 2005〜 Green Park All Rights Reserved.
サイトの中に展示されている画像を転載とかしたい際はメールを送って頂ければ基本的にOKです。