東武8000系の歴史


第3章:東武8000系登場 その1

1.1960年代の通勤電車の技術革新

 近年の鉄道車両の製造は、通勤・近郊電車の標準仕様ガイドラインが制定されたり、各鉄道会社、メーカーが長年積み重ねてきた経験からより効率的な車両製造が考案され製造されるようなったと言えます。製造コストの削減や消費電力を低くしつつも、高性能な車両が当たり前となり、コストだけでなく環境や運行の面で非常に有利なやり方が確立されてきたと感じます。その反面、ほとんどの会社において会社間での違いが無くなり、画一的な車両ばかりが登場した事で面白みが失われてしまったとも言われます。

 これは技術的に成熟したというのが大きいと思います。更に極力同じ物を作ればそれだけ扱いは楽ですし、新たに設計するコストも削減されます。特に近年では地下鉄路線網が整備された結果、他の鉄道会社との相互直通運転が当たり前になりつつあります。そんな中、規格だけ合わせれば乗り入れは可能だと言う事で、ある路線では会社の車両によって車椅子スペース位置の違いやら、接客設備の違いが見られる様になってきました。流石に新車になれば共通の仕様を定めようという協定が結ばれてはいるようですが、個人的にこれはサービスの面で言えば利用者に優しくないなと感じています。だからこそ相互直通運転をするぐらいならいっその事、会社間で乗り入れだけの規格だけでなく、接客設備の仕様も統一をするべきとすら感じています。

 そしてある会社の設備が豪華なのにもう片方の会社は設備が質素というのが見受けられます。当然お金に余裕が無い会社の方が質素になるのは当然と思います。同じ運賃を払っているのに乗る車両によって設備が違うというのは如何なものかと思います。それならいっその事、相互の会社において全く同じ車両を製造してしまえばそれだけコストが下げられる、浮いたコストで設備をよくする事は可能だと思いますし、車両が全く同じであるなら特に緊急時には乗り入れ先でも取り扱いが楽になって一石二鳥の様に感じられます。

(右上へ続く)

 と言っても一見もっともらしく書いている話が実現しないんですから(グループ間の会社同士では実現している所もありますが)、理由はいろいろとあるんだと思います。それは知る人ぞ知るといった所でしょうか。

 ちょっと話が脱線してしまいましたが、一方で今回触れる1960年代の鉄道車両と言えば、各鉄道会社だけでなく、様々な車両製造会社が存在し、それぞれが独自のデザインや新たな技術を取り入れる姿が当たり前となり、個性的な車両が数多く誕生していました。これこそ鉄道ファンから見れば面白いのですが、逆に開発する側、導入する側からすれば設計等に多大な費用と時間が掛かり、一言大変だったというのが実情だったと言えます。

 更に1960年当時は現在と違い、軌道の状態が悪く、電力供給設備が少なかった事、検査等の施設も狭くて少なく、尚且つ検修設備自体も現在の様に機械化されておらず、多くの人手を割いて検修されていました。そんな悪条件にも関わらず、現代とは比較にならないスピードで利用者が増え続けてしまった事で、車両の新造ペースを急激に高めなければ輸送そのものが破綻してしまうといった状況に追い込まれてしまうという非常に苦しい時代だったでしょう。

 そんな中で、各鉄道会社やメーカーが様々な技術を開発し導入したのも最も効率的な方法が確立されていなかった事の裏返しと言えます。その為、新技術の開発にメーカー、国鉄、私鉄のいずれもが積極的になり、そのデータを得る為に様々な試験が行われました。1章では東武鉄道が初めて本格的に導入したカルダン駆動(直角カルダン駆動)、他には空気(摩擦)ブレーキから発電ブレーキへの移行、1M方式からMM’方式(全電動車方式)への移行、台車の改良や軽量化、車体の軽量化、車内設備の改良(リクライニングシート、扇風機、蛍光灯、洋式トイレ等)導入について触れました。

 そして昭和30年代の中盤から後半に掛けてはこれらに加え、電車の心臓部である制御装置や電動機の進化も見られました。

2.私鉄で相次いで高性能、高品質な車両が登場

 西の大手私鉄・阪急電鉄では新型車両・2000系(神戸線・宝塚線用)・2300系(京都線用)でトランジスタという半導体素子を多用した制御装置を開発し、制御装置の無接点による主制御回路の省メンテナンス化や回路そのものの簡素化を実現しました。制御装置に半導体が多用されたのはこれが初めてだったそうで、この電子技術の導入によって高度な定速運転が可能になった事から人工頭脳電車・オートカーと名付けられたこの車両は外観の美しいスタイルも相まって、これが鉄道友の会のローレル賞の最初の受賞車両となりました。

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 このローレル賞とは元々は、革新的な車両に対してはブルーリボン賞というのが制定されていたのですが、ブルーリボン賞は会員投票によりどうしても特急車両に票が集まり易い傾向にあった為に、特急型車両を製造しない会社でも革新的な車両が出たら評価したいという考えの下に誕生したものと言えます。この様に、技術の進化に伴いそれを評価しようという声も大きくなって来た時代というのもうかがえます。






今なお現役で走り続ける阪急2300系電車
↑制御装置の改良や方向幕取付等の改良をされてますが、今なお現役の阪急2300系電車。

昭和中期の名車・名鉄パノラマカー7000系
↑日本初の前面展望車の名鉄パノラマカー・7000系。
1961年に1次車が落成。
 良質な輸送を提供する事で、乗客確保に動いた会社もありました。なおこれは東武鉄道のDRCの様に豪華な特急を走らせるのとは別で、特別料金を取らずに通常運賃で乗車出来るという点が異なります。

 名古屋鉄道では、会社の命運を掛けた7000系パノラマカーを製造し、特別な料金を取らず(その後座席指定列車も登場)運賃のみで乗れる豪華な車両を登場させています。勿論冷暖房も完備です。この名鉄パノラマカーは第5回のブルーリボン賞受賞車両ですが、それまでのブルーリボン賞の得票率を塗り替える程の圧倒的な評価を得て受賞した事は今でも語り草となっています。

 更に西の京阪電鉄では1章でも触れたカルダン駆動の日本初の実用成功車として紹介された1800系にモノクロのテレビを設置しテレビカーとして就役させ、旅客サービスを向上させています。京阪の特急列車は特別料金は不要で、現在の8000系(エレガントサルーン)に至るまで特別料金不要でも豪華な輸送サービスを提供しているのが特筆されます。

 今挙げた私鉄においては国鉄、他私鉄への対抗や徐々に台頭しつつあった自動車への対抗が影響したと言われます。

 この様に旅客獲得に奔走した会社もあれば、増え続ける自社の旅客を如何に効率よく捌くかに力を注いだ会社もあります。

 限られた線路容量の中で如何に効率の良い運用をするかと言えば、加速度・減速度共に従来よりも高い性能を持った車両が開発されました。関西では、阪神電鉄のジェットカー、近畿日本鉄道のラビットカー、京阪電鉄のスーパーカーと呼ばれた各駅停車専用(各停以外に、比較的停車数が多い車両に充てられる)の車両が登場しました。これらは優等ばかりの運行形態の中でそれらの走行の妨げにならないように加速・減速共、従来の2倍以上の性能を有したもの(加速度4.0km/h/sとか、減速度で5.0km/h/s)が登場しました。

 所かわり関東では線路容量が足りなくなった結果、優等列車の本数を増やして各駅停車の本数を減らさざるを得なくなった小田急電鉄が2600形を誕生させています。小田急2600形は小田急初の全車両20m車で統一された車両で、線路容量を活かす為にラッシュ時の普通専用として極力乗客を詰められる様にと誕生した車両と言えます。特筆すべきはラッシュピーク時の電力を少しでも下げようと、直流直巻電動機+抵抗制御の組み合わせながらも電力回生制動を行うという方法が取られ、当時は主流では無かった回生制動を取り入れた画期的な車両です。

 小田急ではこの前の昭和35年に2400系HE車を登場させています。この車両ではそれまでのオールM車両で実現していた高性能な走りをMT比1:1で実現する為に、大出力の電動機を採用し、更にT車が入ってもそれまで同様の粘着力を得る為に、T車とM車で車体の長さを変えたり(M車を長くしT車を短くし、駆動輪の無いT車を軽くする方法)、三菱電機製の超多段バーニア制御(副抵抗を織り交ぜ抵抗制御の段数を増やす方式)が採用されました。これらはいずれも粘着力を高める為です。オールMが当たり前になりつつあった所にMT比1:1を再度取り入れた意味で画期的な車両であり、それを達成する為に様々な検討がなされた車両です。

 バーニア制御は後に営団3000系にも採用されています。三菱電機に続き、日立製作所でもバーニア制御が開発され、近鉄1600系等に採用され始めました。

 小田急2600形で挙げましたが、今とは違って電力の供給設備(変電所)が少ないにも関わらず、列車本数を極端に増やさなければならない私鉄において電力回生ブレーキの導入が始まったのがこの頃でした。それまでは摩擦ブレーキ(空気ブレーキ)か発電ブレーキ(逆回転の電気エネルギーを抵抗器で熱として外部に放出して制動力を得る方式)がメインでした。後者の発電ブレーキは電動機の特性を活かして考え出されたブレーキ方式で、強力なブレーキ力が得られるのですが、力行用の主抵抗器の何倍もの容量が必要になってしまい重量増に繋がったり、制御装置の回路が複雑化されてしまうといったデメリットがあります。また逆回転の電気エネルギーを抵抗器を介してジュール熱として外部に放出するので勿体無く感じられましたし、地下鉄においてはこの放熱によって地下全体の温度が上がってしまうという懸念もあったそうです。

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 そこで、ブレーキ時に発生した電力を架線に戻し再利用出来ないものかと考え出されたのが電力回生制動(回生ブレーキ)でした。これなら発電制動みたいに抵抗器からの大量の放熱を抑える事が可能となります。

 回生ブレーキは列車多い本数の路線であれば、そのまま別の電車が電力を消費してくれるのでとても効率的な方法と言えました。と言っても電力回生制動そのものは急勾配路線の抑速ブレーキ用として電機機関車を中心に戦前から使われていました。これらは発電ブレーキでは力行用の主抵抗器をはるかに上回る容量の抵抗器が必要となってしまい、それらが搭載出来ない電機機関車や路面電車用が取り入れざるを得なかった為です。

 回生ブレーキが常用ブレーキ用として初めて大型電車に採用されたのは先に紹介している京阪2000系スーパーカーでした。(なお、路面電車用も京阪電鉄が最初だったそうです。)京阪2000系では回生ブレーキを実現する為に、従来の直流直巻電動機から、直流複巻電動機が採用され、電力回生制動を実現しました。この複巻電動機を採用して回生制動を実現したのが他社では先ほど紹介した阪急2000・2300系、そして前章で紹介した東急7000系が挙げられます。同じ電気ブレーキであっても発電制動と回生制動では抵抗器の容量が桁違いに違うので、特に後者なら抵抗器がほぼ力行用の最小限に抑える事が可能となります。

 さて、説明が出来ないので難しい話は無しにしましてこの複巻電動機採用によって常用ブレーキとして回生制動が実用化された訳ですが、それでも複巻電動機が直巻電動機に比べて電動機そのものが大型化される事となったり、部品の交換周期が短くなる等メンテナンスが大変という理由で導入を見送った会社もありました。またいくら複巻電動機で回生制動が常用可能となったと言えど、回生制動は架線電圧の影響がある事から高速域でのブレーキが苦手な事、勿論発電制動同様に回転数が少なくなる低速域では効果が見られなくなる事(むしろ発電制動よりも低速域の電気ブレーキ失効速度が高かったようです)、カム軸制御との併用だった関係でその後登場する分巻界磁電流のみをチョッパ制御する界磁チョッパ制御と比較すると反応が悪かったりと、信頼性が低く、常用ブレーキとして使うのを躊躇うのが実情だったと言えます。その為、高速域での走行が少ない各駅停車専用の車両で導入が目立ったと言えます(勿論東急7000系や阪急2000・2300系の様に優等列車で走る車両もあります)。しかしラッシュ時に架線電圧が下がる時間帯においては効力を発揮したと推測されますので電力供給に余裕が無かった時代を考えると捨てがたい選択肢であったのに変わりはありません。なお回生ブレーキが使えなければ従来の車両同様、空気ブレーキによってブレーキ力を補完する事となります。

 以上の様に、各社は急増する通勤輸送、また他の私鉄への対抗もある中で如何に効率が良く、高品質な車両を、安く導入するかに尽力してきました。

 しかしそんな中、様々な検討を重ねるに重ねて導入した高性能電車だったはずが、当初の想定していた効果を得られない車両もいました。

 それは日本国有鉄道の101系電車です。

3.国鉄101系電車の功罪

国鉄通勤車の革命的存在101系。
中央線特別快速としても活躍していた101系電車。
しかし極度の部品統一化を急激に推し進めた結果運用面で致命的な欠陥を引き越した車両…
(欠陥は語弊がありますが、普通も特急もみんな同じにしようを現代ならまだしも当時やってしまったのが失敗でしたね)
※こちらの白黒ネガは購入しスキャンしたものです。

 昭和32年(1957年)、輸送力が限界に達していた国鉄の輸送を変える為に誕生し、最初に中央線用に製造された101系電車(登場時試作車は90形電車)は、更に輸送力を増やす為に従来車の2倍近い加速と減速が可能となる事を前提として開発された車両でした。特色としては、それまでの旧型国電と比較して駆動装置が釣り掛け式からカルダン式(中空軸平行カルダン)の採用、摩擦ブレーキよりも強力な発電ブレーキの採用、乗り降りがスムーズな両開き扉の採用、その他車体・台車等の軽量化や、長編成化をにらんでよりコスト削減が可能なMM'方式(2両のモーター車を永久連結し、1両に制御器・主抵抗器を載せ、1両にMG、CP等を分散して搭載する事でお互いを軽量化しトータルのコストを下げる)等が本格的に採用された革新的な車両と言え、またオレンジバーミリオンの鮮やかなカラーリングも相まって新時代を予感させる車両として登場しました。

 国鉄初の新性能電車の最初の投入路線となった中央線は通勤路線と言えど比較的駅間の距離が長い箇所も走る事から高速走行にも対応出来る様に定格速度が高い電動機が設計されました。こうして従来の吊り掛け車に採用されていたものより1/3以下の大幅な軽量化を達成した定格出力100KWのMT46A形電動機が誕生し、更に高速域に特化している分同じ主電動機が中・長距離車にも使えると、急行形・特急形にも採用され、その結果大量製造によってコストを下げる事が可能となりました(実際、101系で採用された物と同じMT46A形電動機が151系・153系と言った特急・急行形に採用されています。)

 しかし101系電車はこの電動機の特性によって大きな失敗を引き起こしてしまいました。それは高速域に特化した電動機の特性を活かしつつ、駅間の短い区間で使用される高加減速の通勤車として運行する為には、全電動車である事が必要とされたのです。ところが10両という長編成で走る中央線において10両オールMの車両を走らせる場合、地上の設備、要は架線設備や電力供給設備(変電所)の容量が全く追いつかずにこれらを改良する事に膨大なコストが掛かる事となってしまったのです。

 電車である以上、元の変電所の容量や架線設備との兼ね合いを考えて製造する必要があってしかるべきだったはずなのに何故見逃されてしまったでしょうか。やはり101系の試作車(モハ90形)が誕生した当時では大出力の電動機はまだ私鉄においてもほとんど量産されておらずどうしても高加速・高減速を実現する為には全電動車方式による高加速度と全電動車の全軸発電ブレーキによる高減速度の実現が最善と考えられた為と思われます。101系では国鉄で初めて採用された技術が多いのですが、この裏では私鉄の様々な試験に立会いデータを収集し、検討に検討を重ねた当時の国鉄開発陣の技術を総結集して開発されたものと言われます。

 それがゆえに私鉄の全電動車が当たり前と思い込んでしまったのでしょうか・・・。それに加え、中央線のみならず、国鉄では当時毎年数百万人もの利用者が増え続けており早期の高性能電車投入による輸送改善が必要だった事で新型電車を開発する事そのものが優先されてしまったのも影響していたのも影響してたんでしょう。またモハ90系による試験が20系特急電車(後の151系)の開発にも影響していた事も関係してるんでしょう。となると通勤形としての製造を軽視していたとも言えます。謎は深まるばかり・・・

 その後の101系については諸説の通りで、試作車のモハ90系で採用されていたMT46形主電動機の時点で既に多くの問題点が散見され、このままでは使えないと改良されたMT46A形主電動機が101系量産車やその後の中距離電車・特急電車に搭載された訳ですが、通勤型の101系においてはこの改良された電動機でも10Mどころか8Mで運転しても架線停電を引き起こしてしまったそうで、これは特に抵抗制御における直並列制御の直列から並列への渡りの際に限流値が瞬間的に上がる際によく発生したそうです。※当時はとにかく変電所の設置数が少なかった為に変電所から離れた遠方で送電の事故等が起きた際に迅速な送電遮断を行う為に電流増加、電圧降下に敏感に反応する措置(選択遮断だとか何とか)が取られていた事も影響していたそうです。

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 結局国鉄は101系電車を何とか走らせようと、モーターの限流値を下げる措置を行い、それに平行して乗客の数(重量)に応じて加速力・減速力を調整する応荷重装置の未使用化(これによって限流値が増えてしまう為)、変電所の選択遮断装置が反応する電流値の引き上げに加え、とうとう当初の構想であった全電動車方式を諦め、付随車を連結する事になり、大幅な性能ダウンを余儀なくされたのです。

 更に悲劇は続き、比較的駅間の長い距離を想定して製造された電動機が山手線の様な駅間が短い距離で走らせると電動機そのものの冷却が追いつかなくなってしまい、今度はモーターに過負荷が掛けられないからと下手に付随車の比率も上げられなくなってしまうという二重苦に悩まされてしまいました。8両だと4M4Tでの走行は不可と判断されてしまい、止むなく6M2Tという一見強力な編成に組まれても旧型国電からの性能アップは全く見られず、様々な制約に縛られた結果、逆に所要時間が増えてしまうという事態にまでなってしまったそうです。つまり無駄に電動車が多いだけの車両となってしまったのです。(Mが多いなら強力な発電ブレーキ使用で所要時間短縮出来るじゃないか?と思いますが、電動機への熱発生軽減の為に発電ブレーキの使用は制限されたそうで…)※その後変電所の改良・容量増が達成された頃になってようやく発電制動の使用等により旧型国電よりはスピードアップが実現したそうです。

 101系が当時の技術の結晶であった事は間違いないのですが、国鉄という巨大過ぎる組織において、一般車から1等特急車まで同じ電動機、制御器を採用する事で全体的なコストを下げてしまおうという考えが失敗してしまいました。

 これらを踏まえて、昭和35年頃から早くも101系に変わる新たな通勤車両の計画が始まりました。しかし国鉄の技術の結晶が失敗に終わってしまった事実は重く、次期通勤車に失敗は許されないと、様々な面から再度検討される事となり、電力回生ブレーキの試験等の結果も踏まえる事となった為に、新型車両の開発は更に遅れました。

 結局昭和37年になってようやく101系と比較して電動機の出力を高めて既存の施設の大幅な改良をせずとも全体的に性能に余裕を持たせた103系の試作車8両が完成し、1年の試験期間を経て103系電車の量産が開始されています。103系の最初の投入路線は山手線になりましたが、一番の目的は101系では難しいとされた4M4T(MT比1:1)での走行を可能にした点でしょう。

 人によっては101系から数年経過したのにも関わらず何故103系程度の改良に留まってしまったのかと思う人がいると思います。これは大きな間違いで、まず一つに101系はやはり検討に検討を重ねられただけあって、大きな変更をする必要の無い程に出来の良い車両だった事、そして103系電車の性能については当時の私鉄車両と比較すると劣っているではないかと評価されていますが、結局私鉄の何倍もの車両が走る国鉄において電車を大量に走らせる事が可能である為には、高速域の性能を犠牲にしてでもより少ない電機子電流で近距離輸送で十分に使える加減速性能を有した車両である事が必要とされ、それを両立した結果がMT55電動機を搭載した103系電車だったのです。

 103系って晩年には電気バカ食い電車と罵られていたものですが、当時の考えで言えば私鉄の車両達よりも少ない電力で私鉄の数倍もの輸送力を支えていたのですから、使用電力を必要最小限に抑えた省エネ車両だったとすら言えるのではないでしょうか。

 なお103系を開発している最中も当然の様に利用者の増加は待ってくれず、103系の量産車が誕生するまでの数年、そして103系が投入された後も既存の101系の増結の為にも増備され続け合計1500両以上が製造されましたが、その大半はその路線の運行状況に適さなかったと言われます。

 この様に、車両側だけではなく軌道・架線設備・変電所・検修所(車庫)の兼ね合いも考えなければ痛い目に合うというのを101系は国鉄は勿論の事、私鉄にも示したとも言えます。


<その2に続く>



2013年05月20日編集
(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)


※文中の写真は特記を除いて全て筆者が撮影したものです。




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