東武8000系の歴史


第3章:東武8000系登場 その2

4.東武鉄道新型通勤車8000系製造までの経緯と検討、採用内容について

 8000系の製造までの他社の通勤車開発の事に触れた所で、ようやく本題に入ります。いろいろと資料を探したのですが、新型通勤車の設計段階での裏話は鉄道ピクトリアル2003年1月号の東武鉄道8000系ものがたり(花上嘉成氏著:P74〜)ぐらいでしか見てないので、この文献を参考に書かせて頂きます。

 早速ですが、この文献の中には新型車両設計時点での他社参考車両が東急だと6000系になっていました。すなわち78系シリーズに代わる新しい通勤電車の設計はおそらく昭和36年末頃から昭和37年始め頃から行われたと思われます。これは昭和36年末に7000系が誕生した前後に設計が開始されたと考えられるからです。となりますと、何だかんだで設計には1年近く掛かったのでしょうか。ちょうど2000系やDRCの増備があった頃とは言え、それなりに検討が重ねられたのは間違いなさそうです。

 既に前章の最後の辺りでも書きましたが、本線・東上線・野田線とも輸送力は限界に達して来ていました。また東武は総延長が長く、抱えている路線が多いのも頭が痛い所でした。これらの路線も単独路線だけで見れば大した乗客数ではなかったのですが、現状の設備・車両数では時間帯によっては混雑が激しく改善が望まれていました。これは国鉄にも同じ事が言えましたが、抱える路線が多ければ多い程に時代の流れで利用者が急激に増えすぎる為に旧型車両を使わざるを得なくなってしまいます。結局東武鉄道は新型車両は単純な増備用に製造し、既存の車両は使い続けなければいけなかったのが実情と言えました。

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 こんな状況の中で新型通勤車に求められたのは、激増する輸送に対応すべく為に第一原則としてイニシャルコストが安い点、そして既存設備に大きな影響を与えずに運行が可能である点(軽量化、省電力)、保守が楽で故障しにくい機器類(機器の簡素化)によってランニングコストを削減する点が重要視されたと思われます。後から取って付けた感もありますが、実際の所こんな感じだったんじゃないでしょうか。というかどこの車両も考える事は同じですね。

 なお先に触れておくと、新型車両は初年度から4両固定が15編成60両製造される事となります。当時で言えば凄まじい程の大量増備です。言いかえると、当時の20m*4両と言えば現在で言う10両固定編成と同じくらいの意味合いを持ちます。それを一気に15編成も増備すると言われると多いなぁと感じるのではないでしょうか。それまで78型が9年間で164両しか製造されなかった(これでも大分製造はしていますが)事に比べると単純に3年でカバー出来てしまう程の大量増備でした。

 これだけでも当時の東武はどれだけ輸送力の増強に追われていたかが伺えます。しかしだからと言って民間企業の東武は国鉄の様に債務で大量の車両を増備出来るといった訳は無く、信託等も含めあくまで自前で車両を用意しなければいけません。となれば東武8000系が一にも二にもまずはイニシャルコストを下げる必要があったというのは間違いありません。では、東武8000系はイニシャルコストをどの様に下げたのでしょうか。




【1】車体:20m両開き片側4扉車の採用とオールステンレスの検討

日本最初のオールステンレス車両・東急旧7000系
日本初のオールステンレス車両となった東急旧7000系。東武2000系と共に日比谷線の輸送も支えました。

 車体に関しては、20m4扉となっていますが、これは7800系列でずっと採用してきた方式なので特に変わった点ではありません。ですが扉は2000系同様の両開き開口1,300mmに拡大されています。私鉄で20m両開きの4扉車が誕生したのは関東で確か相鉄6000系に続く2例目だったと思われます。また2000系や相鉄6000系同様戸袋窓を廃止しスッキリした外観となっています。

 この車体に関しては2000系の延長上ではあったでしょうが、20mに大型化される事から編成重量を極力下げる為に様々な工夫が行われました。重量減は非常に大きな意味合いを持ちます。まず軌道への影響を抑える事で、線路の保守の軽減が図れます。ただ当時はばね下質量が重く軌道破壊が大きい吊り掛け電車王国だった訳ですから焼け石に水状態ではあったでしょうが将来の大量増備を思えば後々大きな要因になってきます。

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 また車両が増えるに当たって、使用電力量が当然増えてきます。電力使用量の増加はそのままコスト増につながり、更に高度経済成長期を向え電力料金そのものが上がっていた事も影響していました。単純に電気が増えるだけならまだしも増えれば次第に変電所の増設、増強も必要となるので、甘く考えていては痛い目を見ます。その為には車体の軽量化と床下機器等をバランスよく配置し、編成重量を減らす事が重要となりました。他でも使用電力を減らす事で、電力供給源である変電所の負担減、軽くなった分だけ軌道破壊を減らす事で保守の軽減といった面でも軽量化は非常に重要でありました。

 なお、重量減という所に着目していた訳ですが参考文献によれば、新型車両では実用化されつつあるオールステンレス車体を採用するのが得策という記述があったそうです。




 塗装費の軽減、〜(中略)〜、線路への影響を考慮すると、近年実用化されつつあるオールステンレスを採用するのが得策であるとしている。この記述には筆者も古い記録を調べてみて、改めて驚いたくらいである。(鉄道ピクトリアル2003年1月号 東武8000系ものがたり P76より)


 確かに意外な検討結果と言えます。検討した結果、一つの案としてオールステンレスを採用するってのが出るのもあったでしょうが、それを得策とした点、要はこれが一番利益に貢献すると判断した事です。ステンレス車体自体が当時まだ実用化されたばかりであり、イニシャルコストが必然的に高くなります。大量増備が必要なのが明白な新型通勤車に何故、高価なオールステンレス車体が得策とされたのでしょうか。

 オールステンレス車体は前章でも触れましたが、東急の次世代通勤車として日比谷線直通用にも製造された7000系がいました。ステンレスというのは耐食鋼で、一般的な鋼鉄と同じ鋼ですがクロムやニッケルを含有し、クロムによって錆びにくくなり、ニッケルによって不動態皮膜が改善され強化されます。特にこの場合強調されるのは錆びにくい点、すなわち外板に塗装仕上げが必要が無くなるいう点です。

 通常の鋼製車体ですと、鋼体そのものに錆止め塗料を塗布はしていますが、それだけではそのうち腐植してしまうので、必然的に塗装が必要となります。しかも鉄道車両の塗装には簡単に剥がれない様に、塗装そのものの強度というものが求められました。その為、1度の塗装工程はゆうに20回近くに及び、その上、パテ処理や塗料を塗る度に乾燥時間が必要といった事もあり、費用が掛かるわ、乾燥時間も含めて検査期間が長くなるわといった欠点がありました。しかもいくら塗装によって厚い塗膜を施したといっても、常に外部で晒され続け、高速で移動する為に常に大きな振動を受ける鉄道車体に施している為に一般的の外部塗装よりも早く劣化が始まるのが実情です。塗装の膜が剥がれてしまうと、その下にある車体の素地面、すなわち鉄(一応錆止めは塗布してるけど…)が晒される状態となり時間が経てば酸化によって強度が低下してしまうといった致命的な弊害が生じてしまうのです。

 その為に、鋼鉄の車体では錆た場合の保険として外板の厚みを厚めに取って余裕を持たせています。これは一般の構造物でもよく見られる手法で、鉄筋コンクリート造の建物では外部に接する面では必ず設計図面の値に更に余分に厚み(フカシ)を加え壁や柱を厚くする事が一般的となっています。(これは外部面よりも内部の鉄筋の方に配慮した方法ですが^^;)


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 ちょっと話が逸れましたが、その為に鋼鉄車体では必然的に従来よりも必要以上に車体が重くならざるを得ないといった事情がありました。そこで錆びにくく強固なステンレスを外板に採用すれば面倒な塗装が不要になるだけでなく、外板そのものを強度に必要な分だけ薄くする事が可能であり、車体を軽量化する事が可能となるのです。ステンレス鋼自体が軽いと勘違いされがちですが、普通鋼と比重は変わりません。はっきり言って重いのですが、こうした点で重量を軽くする事が出来る為にステンレス車体は軽量化が出来ると言われるのです。

 こんなに良いものだったら普通に採用すれば良いじゃないかと思いますよね。最近ではオールステンレスの車体が採用されない方が珍しい訳ですが(アルミ軽合金の台頭もありますけど)、冒頭で書いた様に当時も今も普通鋼に比べればイニシャルコストが高いって事が問題視されました。そこで当時は営団3000系等の様に、外板のみにステンレス鋼を採用しコストを極力下げて塗装の省略化と車体重量の軽減を実現したスキンステンレス(セミステンレス)車と呼ばれた車両が登場していました。なおスキンステンレス車体では東急車輌以外でも製造されており、日本車輌や川崎車輌・汽車会社(いずれも現在の川崎重工)等で製造されています。

 ただしスキンステンレス車体では、外板がステンレスでもその他の強度部材については一般的な鋼製車両同様、普通鋼を使用しています。その為、腐食の面では不利なままであった事に変わりませんでした。後々、とあるオールステンレス車とスキンステンレス車で命運が分かれた形式も出ており、大手私鉄にわずかに残るスキンステンレス車はそのうち見られなくなっていくでしょう。

 ※なお余談ですが、当時のオールステンレス車もオールステンレスといいつつ、製造の事情から普通鋼が使われていました。資料を見ると、当初のオールステンレス車体では全体の約35%に普通鋼が採用されており決して少ない比率とは言えませんでした。

 という訳で、塗装の省略と軽量化によるランニングコストを見ればオールステンレスが最も得策とされたのはある意味合理的な考えではありました。この時点で、どうやら新型車両ではイニシャルコスト以上に徹底的にランニングコストの面を下げようと検討された事が伺えます。さて、では結局何故新通勤車にオールステンレス車体が採用されなかったのでしょうか?

車体長20mのオールステンレス車体の実用化にはまだ時間が必要、もう少し待って欲しいとメーカー側から回答があった〜(中略)〜製造コストが開発費等を考慮すると相当跳ね上がる事から、まだ安価で塗装費と比較した結果、普通鋼車になったと考える。(鉄道ピクトリアル2003年1月号 東武8000系ものがたり P76より)

 参考文献ではこの様に触れられています。私の意見としてはこれの補足として以下の項目を付け加えたいと思います。

 オールステンレス車体の採用には致命的な落とし穴がありました。それは当時では製造している会社が限られるという点です。まぁ当時の日本だと東急車輛製造(現・総合車両製作所)だけですね。しかも東急車輛もアメリカ・バッド社の技術提携により製造が可能になったとは言え、ステンレス溶接技術のツールを使う事に慣れていなかったようで、1両製造するのにも大分時間が掛かっていたようです。ましてやそれらは18m車の場合であって、20m車となるとどうなってしまう?といった状態だったと推測されます。すなわち、東武が計画していた大量増備が可能だったかどうかと言う点でかなり不安があったのです。ぶっちゃけ無理だったでしょう。

 更に大人の事情も影響したと思われます。当時の東武鉄道と言えば、車両の設計や製造にはナニワ工機と日本車輌製造の両社の存在がありました(DRCや2000系もこの2社が担当したのか、最初に落成した時、その後の増備においては必ずこの2社が絡んでいました)。そしてこれら2社がオールステンレス車体を製造出来なかったのです。



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 それならスキンステンレスでも良かったのでは?って思うのですが、スキンステンレス採用なら外板の塗装省略とそれによる軽量化の実現こそ可能でしたが、従来の鋼製車両と同様だった為、腐食の面では不利でした。むしろ下手にステンレス材を使用した事で腐食した部分の交換の際のメンテナンスが大変という事があったのです。こういった面が、スキンステンレスが敬遠されてしまった理由だったのかもしれません。

 スキンステンレス導入で最大の効果を発揮するケースは新規開業路線における塗装施設の不要化が挙げられます。ですので既に塗装設備の整った東武鉄道においてはスキンステンレス車では正直メリットが弱いとも言えます。

 1962年に東急車輛製の南海6000系で初の20m片開き4扉車のオールステンレス車両を誕生させており、製造側に時間さえあれば何とかなったのかもしれませんが(でも東急車両製造や南海電鉄は頻繁に米・バッド社を訪れて設計を進めた等、相当苦労してこの車両を開発したそうです。)、何にしても大量増備が出来る20m4扉車という大原則を達成する為には普通鋼製車体に落ち着かざるを得なかったんでしょう。ちなみに南海6000系は同じ20m車ながら、非冷房でモハが34tという驚異的な軽量化を果たしています。


日本最初の20m車体のオールステンレス車両・南海6000系
日本初の20m級車体のオールステンレス車両となった南海6000系。
登場から50年経っても廃車ゼロだった形式です。(現在は流石に新車に置き換えられ半数以下に数を減らしています。)
大規模改修時も腐食がほとんど見られず改修コストを抑えたという裏話も。
東武鉄道が8000系設計時にオールステンレス車体が得策としたのが正しかった事を証明したと言えます。


 更に更に付け加えれば、ステンレス車体は事故に弱いという弱点もありました。

 勿論強度が低いという事はなく、むしろ普通鋼よりも硬度が高いので安全面では有利な様に思われます。ところが当時のステンレス車体で採用されていたコルゲート板を損傷した場合、これの補修に相当な日数がかかってしまう上に技術的に鉄道会社の内部だけでの補修が難しいという弱点があったそうです。その為、前述した南海電鉄では踏み切りが比較的少ない高野線系統(実際に乗ってみたら全然少なく無かったんですが…)にオールステンレス6000系を投入し、南海本線系統には従来通りの普通鋼製車体の車両を投入し続けたというケースもあります。

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 そう考えると、東武の路線事情からして踏切事故の多さを考えると下手すれば修理によるランニングコストの増大に繋がってしまうって事でステンレス車体自体が敬遠されたというのもあったかもしれません。

 現代の方でも十分に認識されていると思いますが、ステンレスはとにかく複雑な形状への加工や破損時の修復が大変って事で現代においても複雑な形状がする前面では普通鋼やFRPが使用されているのは有名な話でしょう。

 余談ですが、同じ時期に京王帝都電鉄でオールステンレスの3000系が誕生していますが、前面にFRP(繊維強化プラスチック)が採用され、オールステンレスではなくステンプラカーと呼ばれたりもしました。


元京王帝都(現京王電鉄)3000系。現在も上毛鉄道で走ってます。
日本の鉄道車両で3例目のオールステンレスカー(一部FRPですが)となった京王帝都電鉄3000系(画像は上毛電気鉄道700系)。
前面にFRPのカバーを掛け、レインボーカラー(7つの色)に塗装されたのは有名な話ですね。
ステンレス車両は塗装が不要な事で逆に銀色単一に仕上がっていましたが、その固定概念を早速吹き飛ばした車両でありました。
そういった面が評価されたのか、東急7000系が取れなかったローレル賞を受賞しています。


【2】前面・運転台:高運転台の採用

国鉄の高運転台車との比較
左が国鉄111系(クハ111‐1)、右が東武8000系の前面です。
うん、左の方がカッコイイですね。

 とまぁ車体についてはこんな経緯で車体は結局従来通りの普通鋼製車体に落ち着く事になりました。肝心の軽量化については、従来通り準張殻構造の車体が採用され、前述した様に戸袋窓を省略した2000系の車体を20m、4扉にした様なスタイルで登場しています。しかし前面は2000系と違い、運転台を従来より高くした高運転台としている点が特筆されます。

 これは前章でも紹介した様に、度重なる踏切での通行車両と列車との衝突事故の影響により乗務員や乗客を守る為に7800系列に前面補強工事を施工していましたが、新型車両では当初から補強の思想が取り入れられ、更に運転台床を箱型にしてその影響で運転席を高くしたものです。ちなみに踏切交通事故は8000系が誕生した昭和38年度に年間265件とピークを迎えていました。265/365ってほぼ毎日事故起きてた様なものですね…

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 3面折妻のシンプルな前面スタイルと言えますが、高運転台により前面窓は小さくなり、更に国鉄車でも高運転台の車両が1961年に153系から採用されていますが、これらの様なパノラミックウインドウにはしなかった為に厳つい顔つきに仕上がったと言えます。写真左が111系ですが何かこう端整な顔つきに仕上がっています。良いセンスですよね。

 なお床の高さは運転席側のみが上げられた為に、助士側の高さは従来通りの為に乗務員扉の位置を外部から見ると明らかに違いが分かります。

 高運転台が採用された為、低運転台の7800系列に設置されていた運転室背後の座席が省略されました。7800系では座りながらのかぶり付きが可能だったのでファン的には残念な部分かもしれませんね。なお座席が撤去された事に伴い、この部分に吊手が設けられています。



【3】車内:扉以外ほぼ完全無塗装化とした洗練された車内

 車内では床は2.3mm鋼板をベタ張りしたものに、アロンフロアを貼り付けた簡素な構造となっています。それでも78型の床が板張りだった事を考えると非常に進歩したと言えるでしょう。ちなみにモハの主電動機の点検蓋が省略されています。これは当時で言えばかなり思い切った判断だったと思います。

 室内は無塗装化を徹底しており、パイプ類は原則ステンレスで構成されています。当時だと国鉄の車両を見ると、パイプに鋼製+塗装仕上げといった箇所が見られるので後年になると腐食が目立っていたのですが、そういった意味でメンテナンスの手間を減らしつつ、美観に配慮した内装と言えます。2000系同様に天井はミルキーホワイト、壁にはサーバスアイボリーのアルミデコラを用いていずれも無塗装仕上げとしています。

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 ところが完全無塗装かと思いきや、側扉にはステンレスを採用したにも関わらず内側は塗装仕上げとしています。どうやら意匠面に配慮した結果こうなったようです(内張りのサーバスアイボリーに合わせたとか…)。何か勿体無い気がしますが、こういった細かい点からも当時の設計の本気度が伺えたりします。

 吊手ですが、前述した運転室背後以外ではレール方向へ座席の前のみに設置されているだけで、扉付近や方向には一切取り付けられていません。昔の鉄道は混雑の激しい割には吊手の数が少なく、その後小田急や東急では早い段階で枕木方向やドア前に増設される様になっていきましたが、東武は結局平成になるまでこの方式が続く事となります。





7800系と8000系の車内比較
左が7800系で右が8000系の車内です。見違える程進歩したと言えますね。
7800系までは写真の様に、運転助士側後部に座席が設けられており前面展望が可能となっていました。
※7800系の車内の写真はシュガートレイン様の撮影・ご提供です。無断転載はお止め下さい。

 その他の車内の設備についてですが、座席はオールロングシートで、7800系と比較して運転席背後の座席が廃止されている意外は大きく変化はありません。端部は4人掛けで中央は7人掛けとなっています。座席の幅なんですが、7人掛けが2,980mmなので一人辺りが425mm幅、最近の車両が450mm〜460mmとなっているので一人辺り30mm狭い計算になりますので現在では正直窮屈となっています。
 座面はコロラドオレンジのモケットを使用した2000系や1720系同様のデザインが採用されています。
 また座り心地は言葉通り柔らかくお尻が痛くならない様な座席で、7800系同様将来の長距離輸送への使用を考慮した奥行きの深い物となっています。将来的に長距離列車に使用される事になりますが、それを見越しての座席だったのでしょう。

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 昭和30年代後半ですので、当然冷房装置はありません。換気装置は屋根上に1両辺り7基の押し込み型ベンチレーターが設置され、車内には天井に首振り扇風機(AC220V、55W)が設置されていました。
 照明は40W交流蛍光灯が取り付けられています。いずれも当時の通勤車で言えば新車では当たり前で旧型車と比較すれば文句の付け様の無い設備です。
 暖房装置は腰掛(座席)の下に対流型電熱器(110V・750W)が14個(直列接続)設置しています。この暖房装置には78系等と比較して熱効率の向上と保守の容易さを狙った新型の物が採用されています。
 余談ですが、冷房装置と違って何で暖房装置は昔から当たり前の様にあったのかと言えば架線から取り入れた電気(直流1500V)を特に変換せずにそのまま通電し使用する事が出来たからです。(約110Vの機器を14個直列で繋ぐと約1500Vとなるので)

<その3に続く>


2013年05月20日編集
2023年08月10日一部修正
(今後改変する場合があります。というか意味不明な文章が各所で目立つのでちょくちょく改善しますm(_ _)m)


※文中の写真は特記を除いて全て筆者が撮影したものです。
貴重な画像を提供して下さったシュガートレイン様、ありがとうございますm(_ _)m



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