8000系修繕工事の前に…。8000系の未修繕車について説明を。
〜修繕される前の東武8000系について〜


 東武8000系の大規模修繕工事の施工初年度となった1986年度修繕車のページで未修繕車について軽く触れていますが、東武8000系が修繕される前はどうだったのかっていうのも軽く説明させて貰います。

 と言っても現在では未修繕の編成はいなくなってしまい、今更資料を集めるのも厳しいので文章中心になってしまいますが、あらかじめご了承をお願い致します。

〜就役当時(要は“原型”の東武8000系ってどんな感じだった?〜

 今回未修繕車と表記をしていますが、未修繕と言うのは文字通り修繕工事を施工していない編成の事です。しかし製造時期から20年以上が経過していた為、修繕直前の姿となると既に原型時代の面影をあまり留めていない事もあるので、あえて原型車と呼ぶのを避けて未修繕車と表記しています。
 そこでここでは、昭和38年10月投入時の原型車から東武8000系を振り返り、末期の未修繕車両までの変化について軽〜くご紹介させてもらおうと思います。軽くと言いつつ長いと感じたら、それは8000系の歴史の長さだと思って頂ければ・・・(^^;)
 なお、資料を漁り文章だけは引張り出す事が出来ますが、流石に45年以上も前の写真を用意しろと言うのは難しいので以前走ったリバイバルカラー8108F等の画像を使用して説明します。極力おかしくならないように記述したつもりではありますが、やっぱり稚拙な紹介になってしまいました・・・。恐縮ですが、興味のある方はどうぞご覧下さい。

写真・・・は当然無いので文章で紹介する原型8000系

切り抜き雑ですいませんね…
 早速雑な切り抜き画像で恐縮ですが、こちらは2004年〜2005年に掛けて走ったリバイバルカラー編成(8108F)で撮影したものです。(2004年10月30日撮影)。
 一部加工をしてますが、技術が無いので面倒な所はそのままにしております・・・。 屋根上機器のパンタグラフですが、就役当初と違う下枠交差の為消しましたm(_ _)m

 【まず原型車と上の画像を踏まえ、当時の状態を箇条書きします】

〜 車 外 編 〜

?側扉窓ガラスの止め枠はHゴム(黒色)。
?車体側面の車番表示はペンキではなく打ち抜きの文字と数字で標記し、正面は番号表記は無し。
昔の車番標記
↑?リバイバル車ではご覧の様にペンキだったが実際は打ち抜きによる表記でした。
打ち抜き数字とは身近な車両では東京メトロ10000系等に採用されている金属文字の事です。

?先頭車のみ両側面に行き先サボ受け有。(一部後期車のクハ8100、8400では省略)
 側面には方向幕は無しで表示灯も戸閉め灯のみでした。尚正面の行き先、種別幕は当初からあったが手動操作となります。
?種別幕部分は、現在の一体型ではなく3列式表示でした。種別だけでなく列車番号表示も表示していたのが特徴です。
3列表示
↑?3000系更新車達は最後までこの姿でした。
●本線:正面のサボを使わずに準急列車だったら〔準| |急〕と表記する場合が多く、運行番号目的の使用はほとんど無かったと思われます?(普通の場合は種別部の標記は無し)
●東上線では種別はサボで表示し(準急サボ等)、3列表示の種別部については列車番号表示に使われていました。しかし列車番号については下2桁の表示までしかしなかったので、例えば3006列車の時に〔 |0‖6〕と表示しており、一応は使っていたようです。しかしそもそも下2桁のみの表示しか出来なかったり、更には複数列を手動で変更をするのも手間で次第に使われなくなったようです。ちなみにセイジクリームの新車が出た頃から種別表示は現在の表示方法に変わり、既存車についても順次取り替えられていきました。
●納入後や検査出場後の試運転表示に関しては本線、東上線とも種別部で表示していた。(〔試|運|転〕といった感じに)
●全体的に言えたのは3列表記で尚且つ手動だった為に、列車番号が変わっても表示を変えなかったり、意味不明な表記(通常列車なのに試の文字が出ていたり)のままで走行する事があったようです。

?ワイパーの形状が直線型でした。ちなみにウォッシャーは装備してません。
※1970年代になると現状の形状のワイパーになっていきました。

?当初は非冷房だったのでMGは容量の小さい物が吊られていました。
モハ8300:HG-533Irb(9kVA) クハ8600:HG-533Mrb(5.5kVA)

?非冷房時代は屋根上に1両につき7箇所の押し込み形通風器(ベンチレーター)があり車内との換気を行っていました。
?パンタグラフは菱形タイプでカーボン刷り板のPT-42Jで、配置は現在と同じでした。
パンタとベンチレーターのイメージ
↑?・?これは3000系保存車で撮影したものですが、8000系非冷房車からの流用も含め同じタイプです。
※クリックすると拡大表示します。

?先頭車の正面上部に表示灯が2つありました。(通過灯等に使用)
※その他池袋方の2両を締め切る大山対策車(後述)と呼ばれる車両では前2両の締め切りを知らせる為に紫色に点滅させていたようです。

?標識灯、前照灯、尾灯、戸閉め等の各表示灯が白熱灯(早い話が非LED)でした。

?正面行き先表示は白地に黒文字で書体も今とは異なるものでした。

外観としてはこんなものでしょうか。ちなみに製造年や製作会社ごとに異なる細かい点の相違点については後述します。屋根上の機器を省いているのでイメージしにくいかもしれませんがおおよそこんなもんかなと思います。
 あと、列車無線アンテナとかATS地上子が無いのでは?と思われた方もいると思いますが就役当時には列車無線やATS自体が導入されていませんでした(^^;)。なにせ就役当時は蒸気機関車と同じ鉄路を走っていた程です。主要線区でようやく自動閉塞化が推進されていた頃で、本線・東上線の北部ローカル区間に加え野田線でもタブレット閉塞が見られた時代です。


〜 車 内 編 〜

とりあえず、未修繕車であり尚且つ一番原型に近い車内の写真って事で8564Fのものを添付し、これと比較します。※なお頑張って座席の色だけ変えてみました(笑)これも雑な編集ですがご了承を(こちらもそのうち差し替えたいです)
自前画像を加工してます。

?座席のカバーの色がコロラドオレンジで乗車区分ライン等は無しの無地でした。(色は写真を見て塗ったので大体こんな感じかと^^;)
※当時はまだ優先席(シルバーシート)の色分けはありません。

?網棚の手前に掴み棒が横流しに取り付けられているが当時は未設置でした。
※要は2段になっている掴み棒の下段の方が無いという感じです。
?8000系は当初、車内に化粧鏡がありました。(古い記録によると乗客からはスリに対する防犯用に効果があったので良かったとの記述があります。)鏡配置超簡略図
※配置位置については、右の図を参照して下さい(クリックすると拡大します)。なおこの位置については鉄道ピクトリアル2008年1月増刊号(No.799)東武鉄道特集の中のP200(上田康晴様著)にある鏡のある車両を参考にさせて頂いております。
 なおこの車内の鏡も昭和55年(1980年)頃から取り外しが始まり広告枠へと交換されていったようです。
(通勤電車で車内に鏡がある車両と言えば今だと新京成電鉄の車両が有名でしょうか。)
?乗務員室は全室において奥行きが1,113mmと狭かった。(その後の標準が1,333mmなので220mm程狭い。)
※奥行きの違いで乗務員室背後の吊り手の数が変わったのかは不明です。
?当初は非冷房なので天井には首振り扇風機が取付。現在みたいに天井ダクトスペースが無い分、天井高は高かった事になります。(当初天井高は2,380mm。冷房化後は2,220mmで160mm程低い。)

 他にも時代の流れによる変化はありましたが、未修繕車と比較すると当初の特徴としてはこんなもんです。

 以上が就役当初の8000系の内外の状況を簡単に説明したものですが、正直資料も不足しておりイメージ画像やら簡略図やらでの説明となってしまいましたが少しでも45年前の姿をイメージして頂ければと思います。

 もしここが間違っている、他にはこんな違いもあったというのがあれば教えて頂けると幸いです。

〜就役後の変化について〜

 さて、ここからは就役後の変化を簡単に説明していきます。後々8000系の歴史のコーナーで各自もう少し踏み込んで説明していきたいと考えていますが、ここでは文章で簡単に説明させて頂きます。

1.昭和38年度〜昭和46年度まで(非冷房時代)

●昭和41年(1966年)
○TSP-ATS導入に伴う公開試験が昭和41年6月末〜9月末まで行われ、一部の8000系にATSの車上子等が先行で設置されました。

●昭和42年(1967年)
○昭和42年度製の8128F〜、8528F〜より台枠構造が変えられ、それまで台枠に外板を溶接する方式から台枠に外板を突きつけて隙間を無くしてから溶接するユニット構造になりました。これにより雨水浸入による外板の腐食防止を図っています。外観としては、車体の裾部にRが付き、逆に窓枠部分についてはユニットサッシとなった為に四隅のRが無くなり、また前面補強板の巻きつけ範囲が乗務員扉付近まで拡大している。

○昭和42年12月1日より東上線にて東武鉄道初の8両編成での運転が開始されました。なお急増する利用客に対応する為に上りホームのみ8両に対応させた為に下りホームは8両に対応していなかった為、これらの駅では後ろ2両(上り方)を締め切っての運転が行われています。つまり早くも一部の編成に締め切りスイッチの取付とそれに伴う配線工事が行われようです。なおこの措置は翌43年2月頃まで続きました。

●昭和43年(1968年)
○昭和43年4月1日より浅草〜新栃木、池袋〜志木にてTSP-ATSの使用が開始されました。これに先駆け8000系については全車にATS車上子等の取付を終えています。そして昭和43年度新製車からはATS装置等を設置済みで落成する事となります。

●昭和45年(1970年)
○昭和45年度製(8152F〜、8559F〜)より、新しい不燃化構造が採用されています。これは1968年に営団日比谷線にて東武2000系電車が火災により全焼する事故があった為です。当時最も基準が厳しかったA-A様式の車両が全焼してしまった為に当然内容の見直しが求められ、1969年5月15日付の火災対策基準で新A-A基準・A基準・B基準が誕生したものによります。
※当時はMF、BF、高圧ヒューズ箱が木製(!)だったが、これを見直しフェノール樹脂積層板や繊維強化プラスチック(FRP)に変更しています。
 また乗務員の居住性向上の為に、奥行きが1,113mmだった乗務員室の運転席部分のみ400mm広げられ1,513mmとなりました。これは現在の修繕車両の1,463mmよりも50mmですが広くなっています。なお貫通路部と運転助士部についてはそのままとした為に、運転席部のみ出っ張るという構造になりました。この時に運転席部の乗務員扉が125mm後退し、更に運転室仕切り扉が客室側に開くものから正面貫通路側へ開くものになりました。なおこれは同時期に車体更新されている3050系更新車にも採用されており、こちらに関しては引退する平成8年まで見られました。詳しい記載は無いのですが、乗務員室拡大により背面の吊り手は撤去されたと思われます。

●昭和46年(1971年)
○昭和46年度は既に登場していた8101F〜8114Fの4両固定を6両固定にする為に新たに中間車2両(サハ8700形、モハ8800形)が製造されました。この中間車のサハ8700形にて初めて妻引き戸が取り付けられ、6両編成だと3両+3両で車両が仕切られて冬場の保温等に効果を発揮しています。なおサハ8714、モハ8814については昭和47年度製となっておりこの2両のみは新幹線の0系電車を除けば国内初となるの下枠交差型PT-4801-A形パンタを取り付けて登場しています。これは同時に竣工する8156F以降の8000系への冷房取付が決定しており、既存の車両についても冷房更新を前提として落成した為です。(冷房化によるパンタ変更の理由は後述)

2.昭和47年度〜昭和50年度まで(冷房車登場)

●昭和47年(1972年)
○上記で記載したサハ8714とモハ8814が登場した後、昭和47年度以降は本格的に8000系の冷房化が推進されるようになりました。同年度の8156F〜、8563F〜は冷房装置が取付られ屋根上に集約分散形冷房装置(東芝製RPU-3002)が1両あたり4台搭載された。その為屋根上のスペース確保の為に大型の菱形パンタから小型の下枠交差型パンタPT-4801-A形が採用される事となった。性能は10,500kcalhと大容量となっています。なお車内においては天井がフラットになり160mm下がった。また冷房化に伴い、電動発電機(MG)は大容量の物が必要となり、モハ8300形はCLG-350D形(140kVA)、サハ8700、クハ8600についてはCLG-355形(75kVA)が吊られている。
 乗務員室の構造が見直され、運転席部のみ1,513mmとなっていた奥行きを全室1,333mmに統一され再びフラットとなりました。この寸法は現在でも88年度修繕車以前の車両で見られます。(と言っても今では86年度、87年度修繕車のみですが・・・)
○昭和47年12月18日より伊勢崎線で8両運転が開始されました。なお下りは回送扱いとしましたが、上りは浅草まで乗り入れ、今でも見られる下り方2両の締め切り扱いが始まりました。
○昭和47年12月26日に東上線でダイヤ改正が行われ、今度は東上線で普通列車による8両運転が開始されました。ここでかの有名な大山対策車が登場し、上り方2両の締め切り運転が始まっています。

●昭和48年(1973年)
○昭和48年度製以降(8159F〜)より6両固定のサハ8700形の電動空気圧縮機(CP)がC-2000NからHB-2000CA形に変更された。後ほど主流となるCPだが、取付位置が枕木方向(縦方向)に取付られている為に一見珍しいタイプに見えます。
 またこの年の新造車からは保安ブレーキが取り付けられました。これは昭和46年3月富士急行で発生したの踏み切りでのトラックと列車の接触により列車の空気元溜めが破損し、空制が使えなくなった為に列車が数キロ滑走した挙句脱線し17名が死亡するという痛ましい事故が発生した為で、これにより常用ブレーキ系統とは独立した非常用の保安ブレーキを設ける事が義務付けられました。
 8000系には当初手ブレーキが付いており、手動で制輪子を動かす事が出来たのですが、省令化により保安ブレーキ取付を進めていく過程で当然手ブレーキは廃止されています。また取付られていない編成については順次取り付けられる事になります。
○昭和48年度より非冷房車の冷房化工事が始まり、第一陣は8110Fで11月6日より東上線にて運用復帰しています。
 冷房化に際しては、MGはCLG-350D/CLG-355に交換され、保安ブレーキの取付、また乗務員室の間仕切りが新製冷房車と同じ奥行きが1,333mmに変更されたり、乗務員扉の位置の変更等が行われています。改造当初は大規模な改造があった事や西新井工場(津覇車輌)は当時旧型車の更新工事を行っており手一杯だった為にわざわざ兵庫のアルナ工機まで甲種輸送して改造しました。

●昭和49年(1974年)
○昭和49年度製(8164F〜、8564F〜)より塗装がセージクリーム1色になって登場しました。またCPがモハ8300形、クハ8600形もHB-2000CAに変更されています。なおモハ8300形は枕木方向に取り付けられているが、クハ8600形はレール方向(横向き)に取り付けられている。避雷器がカバー付きとなったり、屋根上の雨樋の形状が変更されたり、戸閉め保安装置の取付等細かい点での改良も行われている。

●昭和50年(1975年)
○昭和50年度は昭和49年のオイルショックの影響か、投入開始以来初の新造車両ゼロとなりました。しかも毎年20〜30両やっていた冷房車の更新はたったの6両のみと戦後最悪の厳しい経営状況を現しています。
 なお昭和50年12月20日より普通車全車に優先席が導入されました。なお当初は4・6両固定のクハ8100形と6両固定のクハ8400形、2両固定のクハ8600形の車端部に設定されている。なお掲示については車内と車体への優先席ステッカーの貼り付けのみでシルバーシートと言われる様な水色モケットへの張替えは行っていません。

3.昭和51年度〜昭和58年度まで(後期車登場)

●昭和51年(1976年)
○1年製造期間が空き、昭和51年度新製分より大幅に仕様が変更されています。まず大きな点は台車が鋳鋼製の中間リンクミンデン台車から鋼板溶接製スミライド式ミンデン台車(TRS-75M、TRS-75T形)へ変更されています。
 その他多々改良、見直しされた点があるので列挙します。
・床構造が変更されました。それまでは床鋼板に床材を貼り付けただけでしたが、今回からはステンレスキーストンプレートにユニテックスを充填し平らに仕上げ、その上から床材を貼る構造になり、これにより保温、防音性が向上しました。
・側窓ガラスが3mm普通ガラスから強化ガラス(安全ガラス)に変更されました。
・扉、妻引き戸の室内側は塗装されていたが今回からはステンレスヘアライン仕上げとし無塗装となりました。
・連結器が2両棒連結器から3両間棒連結器に変更されました。
・戸挟み防止ゴムを車外にも設置しました。
・乗客(マニア?)の車内への不法侵入防止の為に忍び錠が改良されました。
・今後の長編成化を睨み、車掌スイッチが改良されました(スプリングによる接点転換開閉方式で長編成運転時でも応答性の低下を防ぐ為です)。
・8200/8300/8700/8800の車端部にある放送装置の出力増幅器の形状が変更されました。(これも車掌スイッチ同様、長編成運転時でも出力が落ちない様に改良されたものかもしれません)
・クーラーキセ(冷房装置のカバー)の側面ルーバーの形状が長方形から六角形に変更されている。なおその後落成した8170F、8570Fからは冷房が低騒音タイプのRPU-3002A形に変更されている。今後冷房改造される非冷房編成についてもこのタイプの冷房を積む為に初期の編成や中期の編成のみに四角形ルーバーが見られます。

 以上の様に昭和51年度からは大幅に仕様が変更されています。安全とメンテナンスフリーの両方に重点を置いた意味では画期的な仕様変更と言えます。

●昭和52年(1977年)
○昭和52年1月31日に西新井工場を出場した6122Fより優先席のモケットがシルバーシートに合わせた水色に張り替えられました。順次他の編成も入場するごとに張り替えられていきます。
○昭和52年度製より東上線の長編成化に伴い、初の8両固定編成が誕生し新たにサハ8900形が登場しました。なおこの年の10月21日のダイヤ改正より大山駅のホーム延伸完成に伴い8両編成全車の停車が可能となり大山対策車の役目は終了となりますが、これに先駆けて投入されていた8173Fと8175F(あるいは8175Fと8177F)については一時中間のサハ8900形2両を抜き6両で運転されたと言われています。
 細かい点では主幹制御器(マスコン)の操作性の改良がされており、手前に6.9度傾けられています。他には前述した様に優先席のモケットの色がシルバーシートを示す水色に張られて登場しています。

●昭和53年(1978年)
○昭和53年4月1日より列車無線の使用が開始されました。なお第一期として本線の浅草〜館林と日光線全線で使用が開始された為、この時点で対応しているのはDRC、1800系、6000系の優等車のみです。列車無線の車上装置が搭載された車両は前面上部に棒型のアンテナが取り付けられており、通勤車については第二期工事な為、まだ取り付けられてはいません。
 この列車無線の取付を見越し、昭和53年度新製車(8183F〜)では準備工事としてアンテナ取付用の台座等が取り付けられています。
 その他にも細かい改良点があるので以下に示します。
・ラッシュ対策として荷棚の下に掴み棒が横流しに取り付けられました。
・森林公園区に配置された編成のクハ8100とクハ8400の側面サボ受けが省略されました。
・方向幕が白地に黒文字だったものから青地に白文字、種別幕も試運転なら赤地に白文字という現在のタイプに変更されています。ただ字体については現在(2010年)とは異なっています。
・圧縮空気のドレン(水抜き)の湿気を除去する除湿装置が取り付けられました。
・ATS装置がアナログ式から信頼性の高いデジタル式に変更されました。

●昭和54年(1979年)
○昭和54年10月1日より第二期の列車無線の使用が開始され、8000系を筆頭に通勤車にも列車無線アンテナが取り付けられました。なおこの年の5月より防護無線についても完成しており新たに取付られる編成については両方に対応したものとなります。なお使用を開始したのは先に導入された伊勢崎線館林までと日光線全線、大師線に加え、宇都宮線・伊勢崎線館林以北、鬼怒川線、桐生線です。
○昭和54年度の新造車では窓下の内帯の材質がアルミからステンレスへ変更し、戸袋内にあった下レールが省略されました。

●昭和55年(1980年)
○昭和55年度製造車(81103F〜)より扉の窓ガラス押さえが黒Hゴムからアルミ枠に変更され、窓ガラスの固定強度が向上し、Hゴムの様に劣化する恐れが解消されました。
 その他にもATS受信機については部品等の見直しを行い性能向上を図りました。また降雨・降雪時の空転対策の強化として、空転検出器の取付をそれまでのモハ8200形のみからモハ8500、8800にも取り付けられました。更に空転検出補助リレーの取付を行い空転時に自動で加速力を下げる様にしています。

●昭和56年(1981年)
○昭和56年度製(81107F〜、8571F〜)からはMGを整流子とブラシの無いBLMG(ブラシレス電動発電機)に変更し、整流不良等の故障防止やメンテナンスフリーが図られました。形式はモハ8300形がCLG-704(140kVA),サハ8700形とクハ8600形はCLG-703(75kVA)。BLMGについては昭和57年度〜昭和59年の冷房化までに冷房改造された車両についても採用しています。
 昭和56年6月17日から第3期列車無線使用開始となり、亀戸線・佐野線・小泉線で使用開始となった。ここまでドル箱路線の東上線の名前が出てこないが7月1日にようやく東上線・越生線も使用開始となり残すは野田線のみとなっています。(この2年後に廃止される熊谷線と貨物専用路線については未設置ですが省略します)

●昭和57年(1982年)
○昭和57年度製(81111F〜、8574F〜)からは運転士前面の防曇ガラスをサーライトガラス(熱線入り防曇ガラス)からエレクライトガラス(電熱防曇ガラス?)に変更されました。また側扉の脱線防止レールが短いものが2本だったタイプから長尺で1本のものに変更されています。

●昭和58年(1983年)
○昭和58年11月1日、野田線にも列車無線が導入されました。なお8000系の列車無線取付工事は昭和54年から始まっているものの完了するのは昭和60年まで掛かる事となります。※ちなみに野田線ではこの年の7月改正で8000系全車両が更新されたばかりの5050系に置き換えられているので11月の時点では既に野田線では走っていません。

 昭和58年導入分で8000系の製造は終了となります。

4.昭和59年度〜現在まで(製造終了後の変化について)

●昭和59年(1984年)
○昭和59年に森林公園区に在籍していた車両で荷棚前の掴み棒が無い編成については掴み棒を後付で取り付けています。本線側では修繕工事するまで取り付けられなかったようです。

●昭和60年(1985年)
○この年の9月に現在のジャスミンホワイトにロイヤルブルーとリフレッシュブルーを配した車体色が登場しました。これ以降に入場する編成についても順次塗り替えが進められ、昭和63年(1988年)には塗装変更は完了しました。
 この塗装変更に際しては、側面の表記が打ち抜き文字からただのペンキ表記となってしまった上に社名や形式表示が省略され、番号のみとなっています。

●昭和61年(1986年)
○この年より上部灯の撤去が始まりました。昭和63年には修繕した編成を含め全編成撤去されており、3000系列や5000系列についても同時に撤去されました。
○この年から白熱灯を使用していた戸閉め表示灯が寿命の長い発光ダイオード(LED)の物に交換されています。この年の春から始まった8000系の大規模修繕車(別ページにて紹介)でも当然採用されており、その流れで従来車も交換が始まっています。
○この年の7月頃より、車号表記が変更されています。前面については番号表記がありませんでしたが、正面に番号が表記されるようになりました。(ちなみに初年度修繕車両も修繕時期が重なった為に、当初は正面に番号はありませんでした。また昨年から始まった塗装変更時期と重なった為にセイジクリームの車両でも前面番号を印した車両が見られました。)

●昭和62年(1987年)
○この年の変化としては、パンタグラフの刷り板(集電板)がカーボンからブロイメット(金属)に変更されている。これは集電効果の向上の為です。
○森林公園区では列車種別をサボで表示していたが、この年の10月頃から種別幕で表示する様にした為、前面サボの撤去が実施された。本線については以前からサボは使わずに種別幕を使用していた為か、サボについてはそのままでした。


●昭和63年(1988年)以降については調査中ですm(_ _)m

●平成10年(1998年)
○新型列車無線の使用開始を控え、8000系の未修繕車でしばらく修繕工事入場予定が無い車両の行き先表示・種別表示幕のLED化と列車無線受信アンテナの形状変更、行き先・種別設定器のボタン式からタッチパネル式への変更工事が始まりました。なお1998年度新造の10030系からこれらの工事を施工して竣工している為、8000系未修繕車の改造時期についても1998年度頃からと言われているが正確な開始時期については調査中です。

●平成12年(2000年)
○この年の12月1日より東上線で東上運行管理所が設置された事に伴い、新型無線アンテナの使用が開始され、8000系の手動幕車は無くなり⇔表示の方向幕についても見納めとなりました。引き続き野田線や本線では対応の工事が進められています。

●平成14年(2002年)
○この年の11月に西新井工場を出場した8175F(修繕済み)より妻面の塗装が省略されました。これはその後全編成に普及し、2006年度には全編成この塗装となりました。


未修繕車の末期は随分と印象が変わりました
↑こちらは末期の未修繕車です。就役から40年が経過し、見た目は大分変わりました。塗装の変更は勿論の事、行き先・種別がLEDに交換されていたり、上部灯の撤去、アンテナ設置等が目立ちます。

 修繕後の変化については86年度修繕車(クリックすると移動)の項目をご覧下さい。


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